お笑いの癒しと暴力2007年10月08日 10時52分36秒

最近時々テレビでお笑い系の番組を見ることがある。以前は、「よーくこんなもん見て、笑えるなあ」と思っていたのが、最近奇妙に中毒することがある。もっとも、今でもお笑い芸人の言葉に全然笑えないのは同じなのだが。

ただひたすら笑いもせず、まじめに言葉を聞いて、彼らのパフォーマンスを見ている。そしてやっぱり思うのだ。「よーくこんなもんで笑えるなあ」と。それなのに、なぜか「エンタの神様」を時々見ている自分がいる。

すごく小心で、いい人である(私が受ける印象でいうと)、にしおかすみこが、「あたしだよ」とゴーマンに叫ぶその落差が楽しかったり、小島よしおの、「そんなの関係ねえ、オッパッピー」が始まると、自分のやることや言うことや書くことや考えることが間違っても、「そうだ、そうだ、そんなの関係ねえ」と後悔が簡単に消えたり、柳原可奈子の特異な言葉の芸に驚いたりする。

なぜお笑い番組を自分がこんなにもまじめに見ているのか……たぶん、言葉があまりにも「無意味」なのが、いいのかもしれないなあ、と思ってみたりもする。

無意味に癒しあり、というところだ。

一方で、私は、お笑いはある種の暴力も内在しているとも感じる。お笑い芸人が二人組みの場合は、たいてい、片方が相方をバカにしたり、ときにはなぐったり、たたいたりするのが、お笑いの定番である。(たたいたりする行為を、私自身はあまり愉快には感じないが。)

そして、テレビのいわゆるバラエティ番組と称するものも、その多くがお笑い系の司会者が、参加者をネタに笑いをとることで成立している。笑われたほうも、とっても楽しそうだ。

まあ、テレビ番組そのものは、別にたわいもないものだし、どうってことはないが、ただ、テレビというメディアの影響力を考えてみると、見る側に判断力が欠ける場合、笑って他人をバカにすれば(暴力をふるえば)、それは許され、カッコイイことだという、メッセージとして受け取る場合だってある。

テレビに出る人、そしてお笑い芸人は、今、多くの子供たち、若者の憧れでもある。子供にかぎらず、人は自分が憧れるものの、マネをしたくなるものだ。

子供同士で、ふざけて、「このバカ」となぐるのが、カッコイイと思う子供たちがいても不思議ではない。が、それが、イジメと紙一重だったりもする。

そして、もしぶたれた側の子供が、「何するんだよ」と抗議でもすれば、「お前は、お笑い(=冗談=遊び)も通じないバカなのか」とさらにバカにされ、揶揄され、イジメられる可能性もあるだろう。

大人の世界にも、自分の意地悪やストレスを笑いの中に入れて、特定の他人にぶつける人たちは、たくさんいるし、私だってやったことがある。言葉と笑いによるビミョウな暴力。

子供たちの場合でも、大人たちの場合でも、からかうこと、相手をバカにして笑うことには、ある種の人間的愛情がからんだりする場合もあるので、ややこしいのだと思う。


さて、笑いに関していえば、私の脳は、言葉の言い間違え、書き間違え、聞き間違いの笑い話が一番反応する。

今年ネットや雑誌で読んで私が笑ったものは、

「回答案です」(正)を、「怪盗アンデス」(誤)と変換ミスのまま送信されたメールの話。

「これからも頑張って、趣味の[お琴=オコト]をたしなんでください」(正)と読むべき、新婦宛の祝電を、結婚披露宴で、司会者が、「これからも頑張って、趣味の[男=オトコ]をたしなんでください」(誤)と読み間違えた話(オコトとオトコは、カタカナでは確かにまぎらわしい。)

「私、おち[こん]でる」(正)を、校正ミスで、「私、おち[んこ]でる」(誤)と印刷された少女漫画のセリフなど。
 
以上、一人で爆笑しました。