好き嫌いと善悪2008年02月19日 11時37分15秒

(前回のコラムに、コメントを送っていただきました皆様、ありがとうございました)

今回も前回に引き続き、思考と言葉の問題を考えてみたい。

私は、常々、人と会話をしているとき、人には、自分の好き嫌い、他人の好き嫌いを、善悪と解釈する傾向があると感じてきた。

たとえば、Aさんが、「私は、犬は好きだけど、ネコは嫌いだ」みたいなことを、言ったとしよう。Aさんは、動物の好き嫌いを軽い気持ちで言ったと思っている。ところが、話を聞いている人の中に、ネコがすごく好きなBさんがいて、しかもその人が非常に感情的に反応する人だとすると、Bさんは、「ネコは嫌い」というAさんの発言を、心の中でどう拡大解釈していくかというと、たいていは、

「ネコは嫌い」→「ネコは悪い」→「ネコを好きな人は悪い」と、Aさんは言っているのだと感じられて、Bさんは気分が悪くなる。極端な場合は、Aさんの発言を、「Aさんは、ネコ好きな自分の存在を否定している」という解釈にまで発展するときもある。

すると今度は、「ネコが嫌いだというAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんは、悪い」と、Bさんはある種の怒りと分離感を感じるというふうに、続いていく。こうした思考と感情の流れは、ほとんど無意識に行われる。

さらに自分の好き嫌いを述べる側も、それをあたかも自分の好き嫌いではなく、善悪に転化して語るのもよく見聞した。今の犬・ネコの例でいえば、「ネコよりも犬が、どれだけすぐれているか」というような論を展開して、自分が犬を好きなことは「正しい」のだと印象づけようとするとき、そこには自分の好き嫌いを善悪に転化しようという無意識の試みがある。

もちろん、事が動物の好き嫌い程度の話であれば、たいていの場合は、笑い合って話し合うことができ、今書いたような拡大解釈する人はそれほど多くはないだろうが、さあ、発言や言葉が、政治、宗教、自分の根幹的な価値観、自分の過去のトラウマ、人間関係、自分の家族、自分の好きなアイドル、自分が師事している教えや先生に触れる話題になってくると、私たちは、今述べたような、言葉と発言の拡大解釈をする傾向がある。程度の差はあれ、誰でも無意識で、心の中ではやることだと思うし、私が感じるに、マスコミやネット上の多くの論争は、自分を好き嫌いを善悪に転化して、みな思考上の戦争している感がある――思考上の論争は、多くの人たちの娯楽でもある。

好き嫌い――それは、遺伝や生まれ育った家庭教育環境、文化的時代的環境によって、それぞれ違って形成され、実にある種、動物的なものであり、きわめて個人的なものだ。

そして、人の発言、思考、言葉、表現は、多くが、こういった自分の個人的な好き嫌いもとづいている。あえていうと、自分の肉体的心理的生存に快適なこと=好き、自分の肉体的心理的生存に不快なこと・脅威なこと=嫌い、という反応が脳に組み込まれていると、私は感じている。

ではなぜ、人は、自分の好き嫌いを善悪に転化しようとするかといえば、それはおそらく、好き嫌いの場合は、「好き」と「嫌い」は平等で、個人的なものであるのに、善悪に転化されると、一般化されて「偉くなる」感じがあり、さらに「善」が、「悪」よりも「上」で、「正しい」とされているからである。

人は、誰もが善の立場、正しい立場に所属したいと思っている。それゆえ、本来は平等である、「好き」と「嫌い」を、善悪に転化して、自分の好きなこと=善いこと=正しいこと、自分の嫌いなこと=悪いこと=間違っていることだと、自分の中で思い込み、他人にも同意してもらいたい。さらに、「正しい」立場とは、強い立場であり、悪いと自分が思う人を批判できる立場でもある。

私たちが、誰かの発言や言葉を不快(=嫌い)に感じたとしよう。人の発言や言葉を聞いて、一瞬不快に思う場合があることは、誰にも避けられないことである。が、その言葉や発言に長い間、巻き込まれて気分が害されるとすれば、私たちは他人と自分の好き嫌いを善悪に転化して、「私が嫌いなあんな発言や言葉を言うやつは、悪いやつだ、けしからん」と、勝手に心の中で相手との間で、善悪の戦争を始めている。

というより、本当は、相手と戦争しているというより、相手の発言を「信じてしまった自分」と「それを否定する自分」との戦いというのが、事の核心である。

前回も書いたように、言葉や思考は、それを信じる人たちにしか有効ではない。他人の言葉に強く反応するとき、私たちはすでに自分でそれを信じていて、自分で信じてしまっているゆえに、自分からその信仰を追い出そうとして、戦うのである。

戦争――それは、いつも自分から始まるものであり、自分の中で、戦争が終われば、私たちは、平和である。

最後に、言葉と思考、好き嫌い、善悪について、私が発見したことをまとめれば、

他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人にしか当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無関係――自分がそれと関係を築くまでは。

逆にも言ってみよう。

自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にしか当てはまらない――他人がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無意味――他人がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無関係――他人がそれと関係を築くまでは。

さらに言えば、

自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にも当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無関係――自分がそれと関係を築くまでは。


参考図書

「善悪中毒」 東郷潤著 リベルタ出版
「善」のために「悪」と戦うことが、かえって害を増加させる、人間の善悪中毒について、イラストを交えてユニークに語る。