才能(gift)による「ワクワク」とは?2009年02月06日 17時30分26秒

前回に引き続いて、才能(gift)に関連することについて書いてみよう。

このブログを読まれている皆さんも、今から20年ほど前に最初に出版された「バシャール」(Voice発行)という本を読んだことがある方は多いかもしれない。


その頃、バシャールのメッセージ、「ワクワクすることをやりなさい」「ワクワクすることは実現する」は、圧倒的共感をもってニューエイジ・スピリチャルな世界に広まった。

私も当時その本にかなりの影響を受けた一人であるが、しかし、「ワクワク」に触発された一部の人たちの言動は、奇妙に感じることがあった。

何かをする・しない・やめる理由・言い訳に、いちいち「ワクワク」をもってくる。

たとえば:

ワクワクしないから、仕事を3日でやめました。
ワクワクしないから、離婚します。
ワクワクしないから、明日の約束、キャンセルします。
ワクワクすることを探しに、セミナーに参加します。
ワクワクするから、〇〇へ旅行に行きます。

このように、「ワクワク」は、まるで、「ワクワク」と言えば、何でもゆるされるような、あるいは、「ワクワク」しなければ、何もするべきでないような意味合いをもち、何年間か、ニューエイジ・スピリチュアルな世界で流行語や合言葉のように人々の間でささやかれた。その一方、スピリチャルな世界に興味がないか、一定の距離をおく人たちのヒンシュクをおおいに買ったものだ。

私なんかは、「おいおい、『ワクワク』は神の命令か!?」と、ちょっとつっこみを入れたくなったこともよくあった。

いや確かに、あらゆる事は神の意志だから、当然「ワクワク」も神の命令ではあるにちがいないが、「ワクワク」のあまりの「軽さ」に、驚くことが多々あった。

私は、バシャールは、前回話題にした才能(gift)がもたらす「ワクワク」について語っているのだと、そう理解している。しかし、当時(現在はどういう読まれ方をしているのかは、よく知らないが)、「ワクワク」を単なる感情的高揚と誤解した人たちが多かったのではないかと思う。

感情的高揚とは、こんなものだ。

たとえば:
宝くじに当たって、うれしい。
恋人ができて、うれしい。
入学試験に受かって、うれしい。
子供が生まれて、うれしい。
ボーナスがたくさんでて、うれしい。
好きなサッカーチームが勝って、うれしい。
日本選手が金メダルをとって、うれしい。
株でお金が儲かって、うれしい。
人に誉められて、うれしい。
等々。

感情的高揚の特徴とは、一時的で、外側の出来事や他人に大きく依存し、そして、熱気はすぐに冷める。感情的高揚を「ワクワク」だと誤解して、それだけを求めれば、どこに行っても、何をしても満たされず、すぐに飽きてしまうことであろう。


それに対して、才能(gift)がもたらす「ワクワク」は、飛び上がって喜んだりするものではなく、かなり静かな喜びで、しかも特別にワクワクしないときでさえ、続けることができるものだ。

そして、それが、才能(gift)であれば、それにともなう多くの苦痛(苦労)にも耐えられる――反対にいえば、苦痛(苦労)に耐えられないようなら、継続できないようなら、それはその人の才能(gift)ではないと、一般的に言うことができる。

古典的で「重い」表現で言えば、「継続は力なり」「忍耐は実現への鍵」なのである。


先日、ある中年の人気小説家の方が、母校の学生たちに講演している映像をちょっと見ていた。彼は学生に向かって次のような主旨のことを言っていた。

「小説家になるのに、特別な才能はいりません。ただ、毎日小説を書けばいいだけです。10年間、毎日、小説を書き続けることができれば、その人は小説家として食っていけます」と。

彼は、「小説家になるのに、特別な才能はいらない」と言っているが、もし人が、10年間、毎日、小説を書き続けることができれば、それは、才能(gift)である。才能(gift)があるからこそ、10年間、毎日、小説を書き続けることができるのだ。

私が思うに、才能(gift)とは、けっこう多くの「犠牲」を要求するもので、ある種傲慢で利己的で、人が才能(gift)を使うというより、本当は、才能(gift)が、人を媒体として使うというほうが、正確なのかもしれない。