「思考」をめぐる観念2009年03月16日 12時23分29秒

最近、何人かの方々と、「思考とは何か?」みたいな話をやり取りする機会があった。

「思考」――それは何なのか、どこから来るのか?――20代のときから、私はそのことをずっと探求してきた。おおよその自分なりの結論が出たのは、10年ほど前で、それ以来、いわゆる「自分の思考」で、悩むことは少なくなった。

私がたどり着いた結論のいくつかを書いてみると、

1思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるもので、いわゆる個人的な「私の思考」というものはない。

個人的思考はないにもかかわらず、人が言葉を使うときは、言葉の制限上、「自分の思考」「私の考え」「私は――だと思う」というように表現せざるをえない。さもないと、すべての文章のあとに、「という思考が飛んできた」というふうに付け加える必要が出てくる――「思考とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるもので、いわゆる個人的な「私の思考」というものはない」『という思考が飛んできた』――というふうに。

思考というものが、常時あるものでもないことは、特別に瞑想等の訓練をしていない人でも調べれば、簡単にわかることである。そもそも個人的「私・自分=エゴ」とは、〇〇という思考がやってきて、それを「私物化する」とき、そのたびに創造されるものだ。それが、哲学者デカルトの有名な言葉、「我思う、ゆえに我あり」の意味だと、私はそう理解している。

逆にいえば、「我思わず(思考がなければ)、我なし」ということである。では、思考の「私」でない「私」とは何か? 思考がないときの私とは何か? そのたった一つの源泉とは何か? これを探求することが、スピリチャルな最後の探求ではないかと、私は思っている

2どんな思考・観念も、真実ではない。

インドのアドバイタ哲学(非二元論)の先生、敬愛するラメッシ・バルセカールは、どんな人も今ここで、「I AM=私は存在する」(この場合の「私」は、個人的「私」のことではない)以外のことを、真実として知りえないと言っている。このことも、調べてみれば、簡単にわかることだ。人は無数の思考・観念をいだき、色々なことを知っていると思っているが、さて、一つひとつの思考・観念を調べてみれば、人は今ここで、「I AM=私は存在する」以外、他の人や記憶の助けを借りずに、どんなことも確実に知ることはできないということに気づく。他のすべてはそうかもしれず、そうではないかもしれず、すべては不確定である。

3どんな思考・観念も正しくもなければ、間違っているわけでもない。

私たちがいだくどんな観念、思考も、正しくもなければ、間違っているわけでもない。だったら、飛んでくる思考を表現することを仕事としている、私も含めて多くの物書き・作家は何をしているかといえば、「無知」を披露しているだけ(笑)、本当は――それをあたかも、「正しい」かのように自分で思い込み、他人にも思わせるのが、作家・物書き、その他いわゆる知識人・教師の仕事である――だから、読み手・読者は、どんな人、どんな作家、学者、教師・導師の言うこと・書くことも、たとえその人たちがどれほど権威があり、どれほど人気とカリスマがあっても、鵜呑みに信じてはいけない、というのが、言葉・思考・観念に関わるときの原則である。

鵜呑みに信じずに、自分の中で検証・実証した結果、受け入れた観念・思考なら、役に立つことはたくさんある。「思考・観念」については、私は、常に、「信じるより」も、「調べる、検証する、実証する」ことをお勧めする。私も、調べた結果、観念や思考を捨てたり、変えたりすることはよくある。

次回も、引き続き、「思考」をめぐる観念について書く予定です。

*現在発売中の「Star People vol 28号――特集――スピリチュアルなお金の視点」(ナチュラルスピリット発行)に、「お金についての『私の』観念・思考」が掲載されています。

「思考」をめぐる観念(2)2009年03月28日 10時16分07秒

まずは、先日いただいたご質問、「思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるものという考えにいたったのは、なぜですか」に対してお答えしてみよう。

私が20代の半ばに最初にスピリチュアルな本を読んだときに(クリシュナムルティとオショーの本)、「すべては一つである」であるという観念を知り、学校のテキスト以外で最初に読んだスピリチュアル系の本だったにもかかわらず、なぜか私は、そのことを確信し、そこに人生の希望を見出した(が、そういった観念を教えてくれた以外に、クリシュナムルティとオショーの本は、ほとんど私には役立たなかったようだ)。

それから前にもたびたびご紹介したが、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」の中に出ていた「宇宙はただ一種類のものからできている」という考えに私は非常に影響を受けた。

もし「すべては一つである」であれば、当然、「宇宙はただ一種類のものからできている」わけで、さらに単純な論理として、「私たちが認識するあらゆる物体・思考・感情は、ただ一つのものからできている」と言えるのである。

私には、思考や感情は突然飛んでくるように感じられるので、「物体・思考・感情はただ一つのものからできている」を、表現上、「思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるもの」としたが、言っていることは同じことである。

観念として、こういうことを信じることはそれほど難しいことではなく、たぶん、クリシュナムルティやラマナ・マナルシ等のインド系アドバイタ哲学の本を数冊読めばいいだけのことである。

問題は、「観念を信じる」ことから、どうやってそれを自分の中で検証し、本当に認識していくかということで、これにはたいてい時間が長くかかるものである(個人差はあると思うが)――たいてい、5年、10年、20年、50年、あるいは(もし転生を信じるとすれば)何生も――ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカールの「存在するすべては意識である」の考え、その他瞑想、読書、思索、そして人間関係や仕事の問題等々、人生のあらゆることが、「すべては一つである」を検証するために、私には役に立ってきた――ハーディングの実験は、「すべては一つである」を直接見ることができる簡単な実験なので、特にお勧めしている。(http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/experiment/experiments.html

ついでに言えば、「すべては一つである」は、「すべては同じ」、ではない。すべては一つでありながら、現象としてはすべては異なっていることが、世界の多様な美しさである。肉体(物)、感情、思考は、(どれほど親しい関係でも)お互いに異なるものだし、違っていることが自然である。だから、もし人が、感情や思考のレベルで何かや誰かと一体感を感じようと「努める」とすれば、かえってストレスがたまるだろうと思う。

さらに言えば、「すべては一つである」は、スピリチュアルな世界ではよく語られてはいるが、私たちのエゴは、「すべては一つである」を嫌っている、本当は(笑)――エゴのそういった抵抗を理解することも、「すべては一つである」への認識に進むために役に立つはずである

最後に、「思考」をめぐって、スピリチュアルな世界にある主な二つの傾向について言及してみよう。

一つは、少数派の修行・悟り派で、「思考がない状態」をあたかも最高の境地(悟り)として、瞑想・修行で、その境地を目ざしている人たちだ。この人たちにとっては、「思考がわく状態」は、「よくない低い状態」だとされているようである。

しかし、人が人間界で生きて生活しているかぎり、様々な思考・感情が生まれるのは当然のことで、人は日々、仕事をして、他人と関わる中で、色々なことを考え・感じざるをえない。考え、感じ、実践し、失敗し・成功することの中でしか、仕事やコミュニケーション能力は身につかない。(インドあたりで他人のお布施で生活する修行僧になるのでなければ)、日本のような国で働いて生活するとしたら、考えることは必須なことである。私が思うに、「考えること、思考がある」ことが悪いわけではなく、「考えること、思考があること」が、自分にストレスを与えることが問題なのである。

他方で、「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰する人たちがいて(こちらは多数派)、この信仰にとっては、思考は、パワーの源泉であるゆえに、それは強化すべきもので、自分が望む特定の思考は繰り返されるべきものであるとされる。

私が、「思考が現実を創造する」に関して到達して結論は、「思考は現実を創造する」ことに関わる多数の要素の一つであるが、それは絶対的なものではないということだ。たぶん多くの人が経験する事実として、もし人が、Aということを自然にたくさん考える(Aという思考が自然にたくさん飛んでくる)としたら、Aということを一度も考えたことがない人よりも、Aということが起こる可能性はずっと高くなる、とは言えるだろうと思う。

たとえば、

「私は、金持ち(野球選手、音楽家、作家、公務員等々)になる」、あるいは、「私は子供をたくさんもつ、楽器を弾ける、外国で暮らす、怠けて暮らす」(その他なんでもいいが)と、自然に繰り返し思ってきた人は、そう思わない人により、そうなる可能性がはるかに高いはずである。

が、人生には、ほとんど考えたことがないようなことでも、起こることは多々ある。

「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰すると、当然の結果として、個人的「私=自我=エゴ」が非常に強化される。だから、「自分の思考が現実を創造する」は、エゴイストになる修行のための観念であると、私はそう理解している。

以上、二回にわたって思考をめぐる私の観念(飛んできた観念)を披露してみたが、こういった方面に関心のある方は、またそれぞれ考えていただければ、と思う。

[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年4月19日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

参考図書

クリシュナムルティとオショー(多数出版されています)
「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「あるがままに」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット)
「覚醒の炎」プンジャジ(ナチュラルスピリット)
「アイアムザット」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット)
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス(地湧社)
「ポケットの中のダイアモンド」ガンガジ(徳間書店)
「人をめぐる冒険」髙木悠鼓 (マホロバアート)