アスペルガー症候群――共感能力の違い2010年06月10日 12時01分48秒

アスペルガー症候群という名前の病気がある。どういう病気か簡単に言ってしまうと、脳に障害があるせいで、他人とコミュニケーションをとるのが困難になるという病気だ。しかし、ある特定の分野ではかなりの能力があるため、多くの人は普通に社会生活を送っている。アスペルガー症候群の人は、幸か不幸か、対人関係にエネルギーを使わない(使えない)分だけ、自分の得意分野に一点集中して、エネルギーを投資しているとも言え、―点豪華主義の脳をもっているわけである。

最近、マスコミでもこの病気を取り上げることが多くなり、病気の認知度があがり、また企業の中でも、アスペルガー症候群の人たちの特殊な能力を、仕事に生かそうという動きもあるらしい。

医学的にはアスペルガー症候群ではない人でも、他人の気持ちがほとんど理解できないアスペルガー症候群的な人たちは多くいて、昨年のブログで言及した、達成マインドは発達しているのに、理解マインドが発達していない人の中にも、アスペルガー症候群的な人たちはたくさんいる。

アスペルガー症候群やアスペルガー症候群的な人な一般的な特徴は、

*特定のことに対する抜群の記憶と能力。
*それ以外のこと、他人に対する無関心、無理解。
*世の中で言うところのKY(空気を読まない・読めない)
*他人の心を想像・理解する共感能力の欠如。(共感能力はないけど、反社会的でもなければ、他人や世の中を憎んだりしているわけでもない。内面は、心優しい人が多い)

共感能力――つまり、他人の心を想像したり、理解したり、自分を他人の立場に置いて考える能力が、他の動物にはない人間の大きな特徴の一つだと言われている。

人間の社会では、人は一般的共感能力があるという前提で集団が運営されているので、他人と関わるあらゆる場面で人は、「こう言えば、この人はこう感じるはずだから、これは言わないでおこう」とか、「今、この状況で自分がこういう言動をするのはまずい」とか、「あの人は言葉ではああ言っているけど、本当はこう思っているに違いない」というような、他人の心を類推する作業をやるように暗黙に求められている(本当は、みんな面倒くさいとは思っているけど)。

ところが、脳の障害のためにこういった類推作業をしないというか、できないのが、アスペルガー症候群も含めた自閉症の人たちで、彼らは、共感能力が前提となっている社会の中での人間関係に困難を覚えている。

以前見たあるアメリカ映画で、アスペルガー症候群らしい天才学者が、酒場で、女性に一目ぼれして、いきなりその女性に、「僕とsexしませんか?」(正確なセリフではないかもしれないが、だいたいこんな表現)と言って、女性にびんたされ、呆然する場面があった。

彼は、自分がなぜ女性の気分を害したのか、まったく理解できない。彼にしてみれば、悪意があるわけでもなく、からかっているわけでもなく、相手の女性を魅力的に感じ、純粋にそうしたいと思ったから、単純に相手に尋ねただけのことだ。しかし、世の中の一般常識では、アメリカでも日本でも、初対面の女性に向かって、いや、初対面ではなくても、「僕とsexしませんか?」は、たとえ、丁寧に尋ねてもまずい……はず。

自我が形成される前の子供たちは、みな多かれ少なかれ、自分の感じたままを大人に言ったりするものである――「嫌い」「臭い」「あれ、欲しい」とか、「ヤダー」「あっちへ行って」とか――大人が言えば、ヒンシュクを買うような言葉でも、子供が言えば、ほほえましく聞こえたりもする。

普通の子供は、成長するにつれて、他人の気持ち・行動を少しずつ想像・理解・予測できるようになり(自分がこう言えば、こう行動すれば、相手はこう感じるだろう、こういう反応をするだろうみたいな)、また言葉は、それが使われる文脈・状況に応じて意味が変わることも理解するようになる。

以前読んだ自閉症関係の本にこういう話が書いてあった。

「ご飯を食べに行こう」と誘われて、その場合の「ご飯」は「白米」ではなく、「食事全般」の意味であることを理解できなかったとか、

ホテルの部屋で、
「お客様の声をお聞かせください」というアンケート用紙の文字を見て、
実際に声を出して叫んでみたりとか、

私は読みながら笑ってしまったのだが、実際の場面では、そういったいわばコミュニケーションの断絶は深刻な問題となる可能性がある。

実は、この共感能力は障害がない普通の人々でも、非常に個人差がある――いつも過剰に他人の気持ち・感情を想像・理解しようとする人(一般的に女性が多い)から、まったく想像・理解できない・しない人(一般的には男性が多い)まで――それは、一人一人の人間の脳は、それぞれ得意と不得意があり、一人一人まったく違ういわばある種のコンピュータ・システムのようなものだからだ。

私たちが対人関係で感じるストレスとは、この人間コンピュータ・システムの共感能力の違いに由来していることが多く、それは、要約するとほとんど、「どうしてあなたは(あの人は)、私が感じるように、私が気を使うように、私が行動するように、感じたり、気を使ったり、行動してくれないのか?」みたいな不満となる。

その「どうして?」の答えは、実に簡単だ――単純に、その人の現在のシステムでは「そうすることができない」、というものである(将来は、そうすることを学ぶかもしれないが)

そして、その不満への対応も簡単である――あきらめるか、あるいは、どうしても相手に理解してもらうことが必要なときには、相手(のコンピュータ・システム)が理解できる言語、説明、表現を工夫するか、である。工夫しだいでは、コミュニケーションがうまくいくかもしれない。

まあ、アスペルガー症候群や自閉症ではないとしても、対人コミュニケーションは誰にとっても決して簡単な分野ではない。そして、対人コミュニケーションは、いつも絶対的に正しい対応というか正解というものはなく、いつも学びの連続である。学び続けるうちに、しだいに、「どうしてあなたは(あの人は)……」的な愚痴が減り、理解と工夫が増え、さらに進化すれば、それぞれユニークで不思議な人間マシン(自分のものも、他人のものも)の多様さを楽しみ、驚く余裕さえもつようになれるかもしれない。

参考図書

「ひとりひとりこころを育てる」メル・レヴィーン著(ソフトバンククリエイティブ)
一人一人の子供(と大人も)は脳の機能にそれぞれ特徴と違いがあり、そのせいで学校(や職場で)能力を発揮できなかったり、落ちこぼれていくことを、たくさんの事例から説明している。人間コンピュータの脳の機能を解説したかなり専門的な本であり、教育関係の仕事をしている人や小中高の子供を持つ人にお勧めしたい。

「ぼくには数字が風景に見える」ダニエル・タメット著(講談社)
抜群の暗記力と語学力をもつアスペルガー症候群の著者が、自分の半生を語った本。

「動物感覚」テンプル・グランディン著 (日本放送出版協会)
人間の気持ちは理解できないが、動物の気持ちは理解できるという人が書いた本。著者は、家畜の立場にたって、家畜をどうしたら苦しめずに飼育できるかを研究し、それをアドバイスする仕事をしている。

「自閉っ子、こういう風にできてます! 」 ニキ・リンコ著(花風社)
自閉症で翻訳家として活躍する著者が、自閉症の人はどんなふうに世界を見て、感じるのかを語った本。





問題をめぐるシンプルな論理――問題は答えである2010年06月27日 16時49分21秒


今年の3月から、「シンプル道コンサルティング」(詳細については、シンプル堂サイトへhttp://www.simple-dou.com/CCP.html)なるものを開業した。コンサルティングといっても、別に大げさなものではないし、私が個々の方の問題や悩みに対する具体的答えを知っているというわけでもない。来た方と楽しく雑談しながら、「すべては神の意志である」、「問題は答えである」、「問題と戦うのをやめて、人生を楽しむ」などのいくつかのシンプルな基本をお伝えし、さらにもし必要なら、役に立ちそうな本をご紹介している。

たいていの人は、自分自身や自分の人生にたくさんの問題があると思い、それが悩みでストレスである――自分自身の性格や健康、人間関係、仕事やお金のことなど。

そういった諸々を問題だと見なし、何とか矯正・改善しなければと、奮闘・格闘すると、自分の期待とは反対に、たいてい問題はもっとひどくなるのが一般的傾向である。

問題と格闘すると、なぜ問題は大きくなるかといえば……

自分の人生の中のある要素(自分の性格でも、自分の体でも、自分の家族、その他の誰かや何かでも、問題と呼びうる何であれ)を見て、「あなたが、私の問題だ」とか、「あなたのせいで、私は悩んでいる」と思ったり、言ったりするとしよう。

すると、問題のほうでも、こう思うのだ。「わかりました。私はあなたの問題です。あなたがそう決めたので、私はこれからますますあなたの問題として、大きく成長しましょう」(笑)。

問題と戦うことそのものが、問題の力を容認し、問題にさらなるパワーを与える――このシンプルな理屈がわかれば、あらゆることを問題だと見なすことをやめる=つまり、問題で悩むことをやめる――ただし、こう書くと、「問題と見なさない=問題を無視する」という誤解が生じるかもしれないので、念のために書いておけば、私が言わんとしていることは、「問題を無視する」という意味ではない。

たとえば、私自身のことであるが、実は子供の頃からものすごく小心で心配症な性格だ。私の父親がそうなので、たぶんこれは遺伝である。どういう類の心配症かというと、たとえば、出かけるとき、電気やガスを止めたかどうか、部屋の鍵をかけたかどうか、約束の時間に間に合うかどうかみたいなことが、ものすごくしつこいほど気になる性分だ。鍵をしめたかどうか気になって、歩き出したあとでも、戻って確認したりするほどである。あるとき、こういった自分の性格を滑稽に感じて、調べたら、こういうのはある種の強迫性の病気だということがわかった(他にも、たとえば、極度の清潔好きで、何度も何度も手をしつこく洗ってしまう人なども、強迫性の病気に入るらしい)。

そう理解した後でも、小心で心配症な性格は変わらないが、今は別に気にもならなくなったし、たぶん、こういう性格には半面のよいところもある――私の父親を見て気づいたことだが、細かいところに気づくので、何をしてもミスが少ない。

そして、私自身に関しては、小心で心配症な性格ゆえに、かえって必要に応じて大胆にもなれる感じがしている。だから、私にとっては、小心・心配症という問題=大胆さ・勇気という答え、でもある。問題だと思うものと戦うのをやめれば、それは自分の人生から消えてしまうか、あるいは、自分の味方になってくれるかもしれない。