マハラジとラメッシとダグラス2010年07月10日 17時05分24秒

皆様、暑中お見舞い申し上げます。半年間、当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。

2月にラメッシの新刊、「誰がかまうもんか?!」(ナチュラルスピリット発行)が出版されて、たくさんの方々にお読みいただいたようで、訳者として大変うれしく思っている。

今、また、ラメッシやその師である(ニサルガッタ・)マハラジ、その他関連本を読んだり、翻訳したりしている。

マハラジには、私はもちろんお会いしたことはないが、ラメッシの本やその他の本から、彼がどんな人だったのか時々想像してみることがある。

マハラジは、子供のように喜怒哀楽の豊かな人で、純粋に怒ったり、喜んだり、悲しんだり、それでいて、心優しく、慈悲深い人――そんなイメージが浮かびあがる。

ラメッシがマハラジの前に出現する前に、マハラジが愛した弟子の一人に、オーストラリア人の通称「Sailor Bob(船乗りボブ)」という人がいて、彼の本の中に、次のようなマハラジの心温まるエピソードがつづられている。

船乗りボブがオーストラリアへ帰ると告げたとき、マハラジは自らお別れ会を企画し、ボブのために食べ物と飲み物を特注し、彼のロフトでささやかなパーティを開いた。会の最後に、ボブが、「では、これでお別れです」と言うと、マハラジはボブを抱きしめて、泣き、ボブも感極まって泣いたという。

マハラジは死後数十年たった今でこそ、20世紀のインドが生んだ最大の賢者の一人とされるようになり、「アイ・アム・ザット――私は在る」(ナチュラルスピリット発行)は探求者たちにバイブルのように読まれるようにはなったが、彼が生きていた当時は、彼の教えはあまりに反伝統的宗教的で、ほとんどのインド人には受け入れ難いものだった。彼のところに話を聞きにくる少数の人たちでさえ、ほとんどの人たちにとって彼の教えは理解し難いものだった。

ラメッシがマハラジについて書いた話を読んでいると、自分の教えがこんなにシンプルだというのに、どうしてみんながそれを理解しないのか、マハラジが困惑している様子がうかがえる。

ラメッシの本に書かれている、ある日のセッションでの質問者とのやりとりは、そのマハラジの困惑がよくあらわれている。要約すると、以下のようなやりとりだ。

質問者:私たちはある修行をしばらくやりましたが、進歩が感じられません。私たちはどうすべきなのでしょうか?

マハラジ:あらゆる努力の目的は、今、人がここで所有していない何かを得ることである。あなた方が達成しようと思っていることは何なのか?

質問者:私たちはあなたのようになりたいのです――つまり、悟りたいのです。

それを聞くと、マハラジはベッドから起き上がって(彼はガンを患っていた)、笑った。

マハラジ:ほら、そこが、あなた方が誤解しているところなんだ。あなたは、自分のことを何かを達成しなければいけない一個の実体で、あなたが思っている私のような実体になることができると考えている。その考えこそ、「束縛」である。一個の実体との一体化をやめること、それ以外に自由はない。あなたは自分を一個の実体で、私のことも一個の実体で、お互いに分離していると見ている。しかし私は、まさに私が自分自身を見るようにあなたを見ている。あなたは私の本質だ。一個の対象物体が、その物体のために解放を求める。これは冗談ではないだろうか? そもそも、対象物体が自由意志をもったり、独立した存在をもったり、束縛されたり、解放されたり、そんなことが可能だろうか?

シンプルな教えなのに、人間マインドにはものすごく困難に感じられるのは、マハラジも指摘しているように、人間マインドは、「自分は一個の分離した個体」という観念に取り付かれていることと、もう一つは、今の対話の最初にも出てくるように、「何か価値あるものは、自分の努力によって達成される」という観念のせいだ。

そういった誤解された観念から、「人が悟る」、あるいは「悟った特別な人がいる」というさらなる誤解が生まれ、この対話の最初にあるように、「あなたのように悟りたい」という発言になるわけである。スピリチュアルな世界で、「悟り」とか「悟った人」という観念を高尚に祭り上げるのは、愚かしい習慣だと私は思っている。

マハラジ、ラメッシ、そしてダグラス(ハーディング)は、「悟った人」「悟りを達成する」「悟りは価値ある達成」という観念をあらゆる機会に明確に否定している。

ダグラスは悟りについてこう語っている。

「仏陀が悟ったとき、それは必然的にあらゆる生きとしいける物の悟りを意味したのです。あらゆる生きとしいける物の悟りを巻き込むことなし、仏陀は悟ることができませんでした。ですから、ジャンとかダグラスではなく、『ただ一つのもの』だけが、悟っているのです」

マハラジは、「ただ一つのものしかない」ことを、「理解することがすべて」と教え、

ラメッシは、「ただ一つのものの意志(=神の意志)しかないこと」を、「受け入れることがすべて」と教え、

そして、ダグラスは、「ただ一つのもの」を「見ることがすべて」と教える。

(ちなみに、マハラジは、イギリスからの訪問者には、イギリスへ帰ったら、ダグラス・ハーディングに会いに行くように勧めていたという。さらに、私はマハラジの本を、ダグラスの自宅の本棚で初めて見たので、なんか不思議なご縁を感じるのである)。

で、「ただ一つのもの」を見て、理解したら、どうするか……

あとはラメッシの言うように、「何でも自分の好きなことをやりなさない。これ以上のどんな自由をあなたは望むのですか?」ということで、人は何をすることも、しないことも(自由意志がないというのに)自由だ。

瞑想のような修行を続けるのも、どんな世俗的目標を設定することも、どんな仕事をすることも、なんなら、この世が提供するあらゆる種類の快楽を楽しむのも、自由だ。

これ以上シンプルで、(自由意志がないというのに)自由な教えは、私が探したかぎりではなかったので、まあこうして機会あるごとにご縁がある方々にご紹介しているわけである。

参考図書

「誰がかまうもんか?!」ラメッシ・バルセカール(ナチュラルスピリット発行)
「スターピープル33号――特集――人は恩寵なしには生きられないのか!?」(ナチュラルスピリット発行
「アイ・アム・ザット――私は在る」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット発行)
「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート発行)
「顔があるもの顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート発行)
「私とは本当に何かを見る」(ダグラス・ハーディングの教えと実験とインターヴューが掲載されている――この小冊子は市販されていませんので、ご希望の方は下記へ)
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html)