スピリチュアル的観念の誤用・誤解2010年10月04日 22時04分57秒

この間、いただいた質問に関連して、スピリチュアルな教えを学んでいる人たちが非常に多く経験する、「スピリチュアル的観念の誤用・誤解」について書いてみたい。

今、読んでいるAdayashantiというアメリカ人の禅(系)の先生の本に、こういう話が書かれている。

彼が、「自分に対して真実で、正直でありなさい」ということを講話の中で強調すると、ほとんど毎回、講話が終わったあとで、誰かが自分のところへやって来て、「先生、今日の『自分に対して真実で、正直である』というあの話のことなんですけど、講話の休み時間に友人が私のところへ来て、これからは、君に正直になることにしたと言って、今までその友人が私に対して思っていた不愉快なことを、全部ぶちまけたのです」みたいなことを打ち明けるという。

彼は、「自分に対して真実で、正直である」は、そういう意味ではまったくないのに、多くの人は、「自分が考えることや意見を、正直に他人に言うことだ」と、そう誤解していると書いている。

「自分に対して真実で、正直である」とは、スピリチュアルな人たちがよく言う「自分をありのままに受け入れる」とほぼ同じ意味であり、やはり多くの人たちが、「自分をありのままに受け入れる」=「自分が考えていることや意見を、正直に他人に言うこと、あるいは他人に一切気を使わず、自分の好き勝手に振舞うこと」、そして「他人をありのままに受け入れる」=「他人のすることに対して、決してNOを言わないこと」と、誤解・誤用している。

「自分をありのままに受け入れる」は、「自分が考えていることや意見を、正直に他人に言うこと、あるいは他人に一切気を使わず、自分の好き勝手に振舞うこと」ではないし、「他人をありのままに受け入れる」は、「他人のすることに対して、決してNOを言わないこと」ではない。そう誤解・誤用して、自ら苦境を招いてしまった人たちをよく見たことがある。

それから、Adayashantiが強調しているもう一つのことは、スピリチュアルな絶対的観念や神秘体験・覚醒体験を、「自分のエゴをおおい隠すために使ってはいけない」ということである。

スピリチュアルな絶対的観念とは、「すべては一つである」とか「すべては神の意志」「個人的行為者は誰もいない」とか、そういった観念のことである。

私たちのエゴは、自分の中の優越感・劣等感・嫉妬等を見ないために、「すべては一つである」「すべては神の意志」という観念を使う傾向があり、そうしている間はおそらく、「すべては一つである」とか「すべては神の意志」という観念は、その人に役立つというより、むしろ混乱をもたらすかもしれないと思う。

もし自分の中にこの世的な、あるいはスピリチュアル的な意味で、優越感・劣等感・嫉妬等があるなら、それを一つ一つ正直に見ることが、Adayashantiがいう「自分に対して真実で、正直である」という意味である(と、私はそう理解している)。

優越感・劣等感・嫉妬等を抑圧せず、隠さず、戦わず、ただ見る。これはスピリチュアル的には非常にいい修行だ。自分が一体この世の物事、あの世の物事のどんなことに優越感・劣等感・嫉妬等いだいているのか――そういったことを正直に見ていると、人は思いがけない状況で、自分の中に優越感・劣等感・嫉妬を発見して驚くことがある。

それから、Adayashantiは、何かの神秘体験・覚醒体験を経験した人が、そういう経験をしたというだけで、舞い上がってしまって、「自分は他の人が経験しないことを経験したんだ、どうだ偉いだろう!」みたいになってしまうことも、強く警告している。彼自身、若い頃、強い覚醒体験をしたあと、しばらく、「自分は他の人が経験しないことを経験したんだ、どうだ偉いだろう!」的エゴが出てきたと告白している。彼はその自分のエゴ的反応を「Superiority Man=優越男」と名づけ、最初はそれを排除しようとして戦ったが無駄だとわかったので、ただそれを眺めていたそうである。

人のエゴはしぶといものだ。そもそも私たちのエゴは、「すべては一つである」とか「すべては神の意志」という考えを本当は好まない。エゴはいつだって、「他人より、ほんの少しでも偉い・正しい存在になりたい」。が、ラメッシ、ダグラス、そして、Adayashantiも警告するように、スピリチュアルな究極の真理には、エゴが喜ぶものは何もないのである。

私たちのエゴは、「すべては一つである」、「すべては神の意志」とか、「他人や自分、現実をありのままに受け入れる」という高尚な観念を、「それ、なんか素敵な観念みたい!」(笑)と思い間違えて採用するわけであるが、実際、それは途方もなく、エゴにとっては、高尚で、ハードルが高い観念だ――採用するのは簡単だが、それを生きるのは困難だという意味である。

私の経験・観察によれば、スピリチュアル的観念の誤用・誤解は、エゴが、自分が信じる観念と自分のエゴ的現実のギャップを見ないで、たとえて言えば、「素敵な観念のベッド」の上でのん気に眠っている状態から起こるのである――しかし、幸いなことには、いずれどこからとも、魔の手か(幸運の手か)がやって来て、私たちの眠りを覚ましにやって来るものである。

[イベント]
2010 年10月17日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)
詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

または
*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html





知識の分量と配分2010年10月23日 09時32分13秒

私が20代の頃に非常に影響を受けた神秘思想家に、20世紀前半のロシアで活躍したグルジェフという人がいる。グルジェフ本人の本は読みにくいので、弟子だったウスペンスキーの本を通じて、主に学んだものである。

グルジェフの様々な言葉は非常に含蓄が深い――ものすごく重要なことを言っているのはなんとなくわかったが、でも20代の私には、それを理解するだけの人生経験というものがなかった。

彼の言葉の中で、知識について言及していることが面白い。(この場合は、「知識」とは、たくさんの物事を知る意味の知識ではなく、どちらかというと、「理解」という意味に近い「知識」である)

以下、「奇跡を求めて」(P・D・ウスペンスキー著 平河出版社発行)の本から、簡単にまとめてみると、

* 知識とは、物質である。

* 知識は、少数の人に配分されれば、有効で役に立つが、多数の人に分ければ、役に立たないどころか、有害かもしれない。

* 知識は、多数の人のものになることはできないゆえに、その分配は不平等なものだが、だからといって、それを受け取らない人が、困ったり、みじめになったりするわけではない。なぜなら、多数の人は、知識を別に欲しがっていないからである。

以上のような言葉を最初に読んだ頃は、「いったいどういうこと?」と考えても理解できなかったので、そのままほっておいたが、のちに出版の仕事をするようになってから、このグルジェフの言葉を私なりに納得できたように思っている。

知識の形態は、本に限らないが、わかりやすいので、本を例に説明してみよう。

たとえば、ある本の知識の総分量が、仮に100だとしよう。その本を読んだ人にその知識が役に立つ適正レベルの分量が1だとすると、その本の知識を受け取れる人は100人だということになる。だから、本を100冊作って、100人に売れば、それが一番適正で正しい売り方だ。しかし、現実には、商業出版の場合は、本当に本を読む人(知識を受け取れる人)の最低でも数倍は、本を印刷するのが普通である。

本をたくさん印刷しても知識の分量は増えないので、本がたくさん印刷されればされるほど、知識は役に立たないレベルまで薄まるか、あるいは、実際には本を読まない人の比率が増えるか、である。

グルジェフが言っていることは、もし知識100を100人に1ずつ分配するのが適正なときに、それを仮に200人の人に0.5ずつ分けるとすれば、その知識は役に立たないだろう、ということだ。

このことが私たちの一人一人にどう関係しているかというと、私たちは広告等につられて、自分に役に立たないムダな本をたくさん買わされている(笑)ということである――とはいえ、ある時点では、知識を受け取れなくても、3年後、5年後には受け取れる場合もあるので、買った時点でムダだと思った本が、必ずしもそうでない場合もある。商業出版ビジネスは、ムダに本を買ってくれる人がいないと、成立しないので、ムダに本を買ってくれるお客さんは、出版界にはありがたい存在なのである。

グルジェフは、自分の本は3回読んでから、判断するように弟子に言ったと伝えられている。私も、人は本を3回以上読むまでは、その本の本当の読者(=その本の知識を配分してもらえる人)にはなれないだろうと思っている。そう考えてみると、一生の間に、自分が本当の読者になれる本の数は、非常に少ないことに気づく。

さて、本年、出版界は、電子書籍出版の話題で持ちきりであるが、そのメリットの一つは、少数部数から出版できることであろう。極端な話、1冊から出版できるし、素人でも誰でも簡単に出版できる。仮に出版した本が非常に少数の人にしか売れないとしても、グルジェフの考えによれば、その知識は濃く分配されるので、知識の配分という観点では、大変によいことになる。万一、多数に売れたら、知識は薄くなっても、小額の経費でお金が儲かるので、ビジネスとしても、けっこうなことである。

私自身は、(まだ電子書籍機器で本を読んだことがないので)、現時点では紙の本に愛着がある。しかし、作った紙の本を大量に廃棄処分せざるをえない出版界の現状を見ると、これからは、電子書籍出版がしだいに主流になることは避けられないだろうと予想する。でも、それによって逆に、紙の本が「貴重品」になれば、紙の本で、今よりもはるかに濃く知識を配分でき、しかも知識も長持ちするのではないか、とも思っている。