ポジティブ・シンキング--その表と裏(3)2010年12月16日 17時15分16秒

今回は、「ポジティブ・シンキング」がスピリチュアルと絡むと、どういう危険性があるのかに触れてみたい。

たとえば、誰かが「私は悟った人である」とか、「私には特別な霊的能力がある」というポジティブ・エゴを作り、そこに多大な投資をし、また多くの人から積極的に肯定的投影をかき集めるとき、それはかなり危険なことになる可能性がある。

宗教では、こういった肯定的投影を、偶像(アイドル)禁止として戒めてきたにもかかわらず、伝統宗教から現代の各種宗教・スピリチュアルな世界で、その戒めが守られたことはまずほとんどない。信者や生徒の信仰が、霊的教師に与える危険な影響について、前にもご紹介したアメリカの禅(系)の先生、Adayashantiは、こう述べている。

「今こうして、私は霊的教師で、それは、人々が大きなパワーを与えてくれる役割です。しかしながら、私がそれをどう見るかと言えば、真実は、他人が私に与えてくれるパワー以外、私はまったくパワーをもっていないということです。すべてのパワーは、生徒たちの手の中にあります。そして、人々がそのことを知ることはよいことです。私がずっと経験してきたことは、人々が私にあまりにパワーや権威を与えすぎたりするとき、私は自分が超現実的泡の中に住んでいるように感じ始めるということです。人々が他人にパワーを与えることに内在するものは、投影です。誰かが私にあまりにたくさんのパワーを与えるとき、彼らは、『私が彼らとは違う何かである』ということを投影したのです。そして、私は、それが超現実的環境だと気づくのです。だから私は、それをできるだけ避けることにしています。なぜならそれには、非現実的感覚があるからです」(The End of Your World より)

Adayashantiのこれらの言葉の中で、 「私はまったくパワーをもっていない」、「誰かが私にあまりにたくさんのパワーを与えるとき、彼らは、『私が彼らとは違う何かである』ということを投影したのです」という部分は、特に注目に値する。

私たちが誰かをアイドル化するとき、それが芸能人であれスピリチュアルな教師であれ、それが意味することは、「分離の線引き」ということである。つまり、

「あなたは悟っているけど、私は悟っていない」
「あなたはスゴイけど、私はスゴくない」
「あなたはかっこいいけど、私はかっこよくない」
「あなたは美しいけど、私は美しくない」
「あなたは金持ちだけど、私は貧しい」
「あなたには霊能力があるけど、私にはない」
「あなたは才能があるけれど、私にはない」等々。

肯定的投影とは、一見すると、誰かに愛情を与える肯定的行為のように思えるが、実は「私」と「あなた」の間の「分離の線引き」であることがほとんどである――「崇拝と過剰な賞賛=分離と否定」であることを、特にスピリチュアルな道にいる人は、心に深く深く留めておくべきであろうと思う。

スピリチュアルが本当に目指すところは、「ポジティブ・シンキング」を超えたところ、人間的成功を超えたところにある。私たちの本質は、ポジティブでもネガティブでもなく、あるがままで普通で自然だ。固定的な「ポジティブ・シンキング」に(もちろん、固定的「ネガティブ・シンキング」にも)縛られなければ、私たちは必要に応じて、ポジティブにもネガティブにも、自由になることができる――現実に対して、ネガティブな見方(これ、何か変かも、ダメかも、みたいな直感、あるいは、自分の言動が間違っていたかもしれないという理解)が、ときに必要なことだってある。

そして、自分をあるがまで普通に見なせば、スピリチュアルな先生も含めて、自分以外のあらゆる人もあるがままで普通で、「あらゆる人を本質的に自分と平等の存在(それがキリスト教でいうところの、brother=同胞の概念)であると見なし、かつお互いの人間的違いや才能の違いを楽しむ」ことができるようになるのである。

[お礼]

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