シンプルな数学的解決法2011年12月15日 09時26分31秒

今年は本をあまり読まないというか、読めない年だった。いろいろ忙しかったせいもあるし、読みたい本が見つからなかったせいもあるし、読み始めても、なぜか数ページで読み飽きるということも多かった。

そこで、本を読む代わりに何かをしようと思い、突然、「そうだ、数学をやろう」と思い立った。(前にも書いたことがあるが)、小学中学高校生のとき、私は算数・数学が大好きだった。あのときの情熱が何だったのか、もう一度体験してみたいと思ったのである。

幸い、今は大人向けの数学再学習書がたくさん出ているので、数か月前にその中の一冊を買って、中学1年の数学から始め、現在は高校受験の問題を時々解いている。

数学の問題は、一見複雑に見える。しかし、複雑に見えるものを、シンプルなプロセスや要素に分解して、それをまた組み立てるというところに、数学の楽しさがある。少なくても、私にとってはそれが楽しい。自分が出した答えが間違っているときでも、解説を読めば、どこでどう間違えたのか、理解できる。

子供の頃、私が算数・数学が好きだったのも、たぶんこの単純明快さがその理由で、それに比べて、大嫌いだったのが国語だ。「次の小説を読み、主人公○○の心情はどれか、A BCDの中からもっとも適切なものを選べ?」みたいな問題が、どうしても苦手だった。自分の答えが間違っていたとき、先生の解説を聞いても、解説書を読んでも、どう考えても、なぜ自分が選んだ答えが間違っていたのか、わからないことがほとんどだった(あとで、大学を卒業してかなりたった頃、「国語入試問題必勝法」という小説(清水義範著)を読んで、これを高校時代に読むことができたらよかったのにと思ったものだ)。

大学に入ってからは、数学をぱったりとやめてしまったし、数学についてよく言われるように、確かに、「数学ができないからといって、人生で困ることは何もなかった」。それでも、10代の頃に算数・数学を勉強したおかげで、複雑に見えることをシンプルに考える習慣がついたことはよかったことだと思っている。

スピリチュアルを学び始めた20代後半頃、学んだスピリチャルな知識は実際はあまり役にたたず、むしろ私は数学的に物事を考えることが多かった。

「数学的に考える」というと難しく聞こえるが、実際は非常にシンプルだ。解決すべき問題や状況が起こったとき、その問題や状況に関わる要素と可能な選択肢を書き出してから、自分にできる行動を考えることである。そうすると、ほとんどの場合、ある特定の問題や状況に対して、自分が具体的にできることは非常に限られていることがわかる。せいぜい2つか3つの選択肢しかないことがほとんどで、選択が少なければ少ないほど人は迷わずにすむ。

それから、それらの選択肢の中から、選ぶ基準、つまり、何を優先するのかの基準を列挙する――自分の喜び(自分の好み)、義務、自分の(金銭的)利益、(関係者)全体の利益など。そうやって考えていくと、たいてい(時には答えが決定されるまで長い時間がかかるかもしれないが)、その状況での正しい「答え」にたどり着くというわけである。選択肢と優先規準を書き出す方法は、住宅選びとか職場選びなどにも簡単に応用できることである

それから、20代の頃よくリストアップしたことは、「自分が欲しいもの」とそれに対する熱意の度合いと努力する能力についてだ。たとえば、何かが欲しいとして、「自分はそれを100%欲しいのだろうか?」「それを手に入れるために努力する能力が自分にあるのだろうか?」と問いかけてみる。

こう問いかけると、ほとんどのもの(こと)を、自分は100%の情熱で欲しいわけではなく、それを欲しがっている理由は、「なんとなく」とか、「それが価値があるとみんなが言っているから」といった、どうでもいいような理由であり、またほとんどのことに対して、努力する能力が自分にはないこともわかった。

努力する能力がないことを理解すれば、100のうち90のことを簡単に「あきらめる」ことができ、本当に欲しいもの10のために頑張ることができる。20代の頃に私が身につけた一つの能力が、「あきらめる」という能力だった。簡単に「あきらめる」。後悔せずに「あきらめる」。そして、万一何かに対して100%の情熱があれば、そのために努力する能力はすでに自分に内在していることにも気づいた。つまり、100%の情熱=努力する能力、なのである。

「シンプルに考える」というのは、別の言い方をすれば、悩む時間、心配する時間をなるべく減らすということでもある。このことはまったくスピリチュアル以前のことで、どちらかといえば、ビジネス関係の本に書いてあることが多い。

*悩まずに、具体的に考える・行動する。
*心配せずに、(必要な)気遣いをする。

悩むことと考えることの違い、心配することと気遣うことの違いが明確にならないかぎり、その混同の上にどれほどスピリチュアルな知識・観念を積み上げても、かえって混乱がひどくなるばかりである。だから、相互矛盾するような様々なスピリチュアルな知識・観念で混乱してしまったときには(そういう人たちはけっこうたくさんいるように感じるし、スピリチュアルを学んでいるたいていの人たちが、ある程度は経験することでもあろう)、学んできたスピリチュアルな知識を一度全部わきにおいて、シンプルに数学的に考えてみることを私はいつも勧めている。

もちろん人生そのものは、いつだって数学や論理を超えているし、予期せぬこと、一度も考えてみたことがないこと、どう論理的に考えても奇妙な不思議なことが起こるのも、人生である。論理と不思議という組み合わせ、私はそれをとても愛している。

[お礼]
一年間、ブログをお読みいただいた皆様、コメントをお寄せいただきました皆様、そして、お会いした皆様、ご縁に感謝いたします。またマホロバアートの読者の皆様には、長い間のご支援とご愛顧に心からお礼を申し上げます。そして、時代は、いよいよ(何が「いよいよ」なんだか、私にもよくわからないですが)2012へ◰◰◰

それでは、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は1月下旬から再開する予定です。