「苦痛」について(1)――「Love & Pain」2012年10月16日 10時44分02秒

ここ数か月、一冊の本を非常にていねいに読んでいた。最近、仕事に関係する本以外、ほとんど本を読まなくなっているので、こんなに丁寧に読むのは、私としては珍しいことだ。ノートにメモまで書いて読んでいる。

その本とは、「なまけ者のさとり方」の著者であるタデウス・ゴラス(Thaddeus Golas)の遺作「Love & Pain」(愛と苦痛)(2008年発行)である。「なまけ者のさとり方」をご存じの方は多いと思うし、本ブログの読者の皆さんの中にもあの本のファンの方もいることだろう。1970年代初頭に発行されて以来のロングセラーで、今でも世界的に読まれている本である。

私は長い間、著者は怠け者なので、本はあれ一冊で、彼はそれ以後文章を書いたりは一切していないのだと思いこんでいた。ところが、そうではないことが、数年前にネットの情報で知った。ほとんど公に発表しなかったとはいえ、意外なことに彼はたくさんの文章を書きためていたのだ(現在、「自伝」も含めて、「なまけ者のさとり方」以外に3冊が英語版で発行されている)。

なぜ彼の生前(1924年生まれ―1997年死亡)に、「なまけ者のさとり方」以後の本が出なかったのだろうか? 普通、最初の本がたくさん売れれば、次の本はどこの出版社でも簡単に出してくれそうである。しかも(自伝によれば)、タデウス・ゴラスは長年アメリカの出版界で仕事をしていたので、出版界に知り合い・知己も多かったらしいし、「Love & Pain」の原稿自体は1980年代の半ばには完成していたという。それにもかかわらず、生きている間に2冊目の本を出してくれる出版社を、彼は見つけることができなかったのだ。

その理由は――おそらく、「Love & Pain」は、英語でいうところの非常にdemanding(読者に多くを要求する本)で、読者を選ぶ本だからだ。誰にも読める本というわけではなく、多くの人にとっては読みごこちがいい本では決してない。「なまけ者のさとり方」の内容を踏襲しているとはいえ、スタイル、雰囲気が全然違うのである。著者自身、書いているのが少々憂鬱になってきて、書くことをやめようかと思ったと告白さえしている。

多くの人たちに愛されている「なまけ者のさとり方」でさえ、実は非常に難解な本である(と、私はそう思っている)。「Love & Pain」はさらに難解で、おまけに「なまけ者のさとり方」にはあったあの温かみのある雰囲気が一切抜け落ちて、物理学の本のような感じでさえある。しかも本の主要なテーマの一つが、local reality(人間界)における「苦痛」についてである。

なので、「なまけ者のさとり方」のファンの人たちが、「Love & Pain」の本を読むと、同じ著者が書いたとは信じられないと、ショックを受けるという。アメリカの大手出版社の編集者は、「Love & Pain」の原稿を読んで泣き出し、結局出版契約が破棄になったというエピソードまで、「Love & Pain」の編集者の序文に書かれている。一般に「喜びと至福志向」の本を好むスピリチュアル系の人たち向けの本で、テーマが「苦痛」では売れないだろうと、アメリカの大手出版社が出版しない決断をしたのも、当然かもしれない。

私は、彼の自伝「The Lazy Man’s Life-The Life and Times of Thaddues Golas (怠け者の人生―タデウス・ゴラスの人生と時代)」も同時に読みながら、なぜ彼が、「愛による救済」から、ほとんど「苦痛による救済」ともとれるメッセージへ移行したのか、それを考えてみた。

想像するに、「なまけ者のさとり方」の出版以後に、彼が味わった数々の苦痛の経験が、彼をして、「苦痛」について研究し、「Love & Pain」を書くことへ駆り立てたのではないかと思う。local reality(人間界)では、愛はきまぐれである。しかし「苦痛」は現実である。だから、苦痛についてよりよく理解するほうが、いたずらに愛を唱えるよりも、local reality(人間界)を生きるうえでは役に立つだろう、と彼はこんなふうに考えるようになったようだ。

彼が、「苦痛」について書いていることをいくつか紹介してみると、

*「local reality(人間界)においては、苦痛は必須であり、どんなことをしてもそれを避けることはできない。そのことを理解すれば、人は無駄な試みをしなくなる」

*「私は、自分が常に至福の状態にいないことで、自分を批判するのをやめた。また自分が苦痛に出会うからといって、それは必ずしも自分が愚かであるという意味ではない」

*「システムの強さとは、苦痛に耐える能力である」。

*「苦痛に耐えることは、システムの維持に役立ち、反対に過度の快楽や喜びの追求は、システムの崩壊を早める」

*「local reality(人間界)においては、お互いが違うことが苦痛であり、同意(一致)が愛である」

*「暴力とは、お互いの違いの苦痛に耐えられない人たちの瞬間的満足(喜び)である」

過度の快楽や喜びの追求が、人間システムの崩壊を導くことは、アルコール、SEX、ドラッグ、食べ物、暴力においてはよく知られているが、無害とされている「喜び(快楽)」追求(たとえば、運動などの喜びやスピリチュアル的な意味での至福や喜び、あるいはゲームや映像、さらには人間関係の喜び)でさえ、過度に追求されれば、おそらくそれらは反転して、多大な苦痛になる可能性を秘めている。

現代は、社会全体が、ある意味では喜び(快楽)追求(苦痛忌避)社会であり、社会はたくさんの喜び(快楽・娯楽)と苦痛逃避手段を提供しているので、私たちはそれらを利用しないでいるほうが難しい。娯楽や快楽を適度に楽しむなら、人生のスパイスであろうが、もし今ここにある苦痛から常に逃避するために、喜びが追求されれば、それは有害になるだろう――タデウス・ゴラスが「Love & Pain」の中で結論として言っていることは、こういうことのようである。彼は頭痛がするときでさえ、自分にこう言い聞かせたそうである。「パワーとは、自分のシステムを変えることなく、苦痛に耐える意欲である」

「苦痛」が好きな人はほとんどいないと思うし、私の人間マシンも苦痛にはとても弱い。だから、なおさら「Love & Pain」は、心に響く読書となった。そして、ちょうど苦痛に耐える意味を考えていた日に、買い物しているお店ですべって転んでしまい、苦痛に耐えて歩く破目に……とんだ苦痛修行(苦笑)


「Love & Pain」の一部やその他タデウス・ゴラスの文章が、下記のサイトで読めます。

http://www.thaddeusgolas.com/