広島訪問―平和について2013年04月06日 07時59分28秒

先日、ワークショップのために、広島市を訪れた。広島の街を歩くのは初めてなので、ワークショップのついでに、グルメと観光も楽しんできた。

宿泊ホテルの近くに平和記念公園があり、朝、広大な敷地の中を散歩して、心地よかった。平和記念資料館にも立ち寄り、広島市と原爆投下の歴史もざっと知った。昭和20年とは違って、現代では狂気の沙汰と思えるほどの数の核兵器が、地球上に埋っている。万一どこかの気が狂った政治家かテロリストが、一回でも核兵器のボタンを押せば、それは使った国でさえ滅びる全地球の終りを意味している。ある意味では、核兵器とは、「実際は使えない子供のオモチャ」のようなもので、幼稚なマインドだけが、それを保持していることを誇るんだなあと、記念館をまわりながら、そんな印象をもった。

広島では外国人観光客も非常に目につく。原爆ドーム、宮島などで、各国の観光ツアーや個人で旅行している外国の人たちをたくさん見かけた。「ヒロシマ」は平和国家日本のブランドであり、そのブランドを見ようと、大勢の人たちが訪れるのだ。

広島にかぎらず、日本の地方の街はどこも観光と旅にピッタリである――街は清潔、インフラは整備されている、何を食べてもおいしい、人は親切、そして、安全・平和である――世界の中でも観光と旅にこれほどピッタリの国はないと、私はいつも日本を称賛している。そういう意味において、私も安倍首相と同じくらい愛国的だ。日本政府がお金を出して、世界中の有能な若者たちを大量に日本に留学・遊学させ、日本の素晴らしさを体感してもらえば、防衛力強化よりも、日本の平和にはるかに貢献するのではないかと思っている。

さて、先日のワークショップで、ある方が、「平和というと、何か、事なかれ主義のようなイメージがあって、あまりその言葉にいい印象をもっていないのですが、平和とは本当はどういう意味ですか?」という趣旨のご質問をされた。

平和を、事なかれ主義や何事にも受け身で関わらないと解釈するのは、まったくの誤解だ。現象的な意味で言えば、平和とは、必要なことに関わりながら、起こることに対して、できるかぎり平静でいることである。

それから本質的な意味で言えば、太古の昔から、「刀もそれを切ることができず、火もそれを燃やすことができず、水もそれを沈めることができないもの」(現代なら、原爆やピストルもそれを破壊することができない、と付け加えるべきだろう)と言われてきた、私たちの本質の絶対的平和である。

「平和」という言葉は、しばしば、「平和への願い」「平和への祈り」という形で使われ、広島でも時々それを目にした。もちろん、この言葉がこの地で使われる意味合いを私は理解しているが、しかし本当は、平和とは、願ったり、祈ったり、あるいは守ったりするものではなく、一人ひとりがそれを今ここに発見して、生きて・実践するものだ。

賢者の方々が世界(の平和)への貢献について、共通して言うことがある。それは、「自分とは何かを発見すれば、自分は世界であることがわかり、それが世界(の平和)への最大の貢献である」というものである。

私はこの言葉をいつも胸に刻んでいる。

[伝言]
ニサルガダッタ・マハラジのPrior to Consciousness(意識以前)は、出版時期は未定ですが、ナチュラルスピリット社より刊行予定です。Robert Adamsの情報については、下記の公式サイトに出ています。http://www.robertadamsinfinityinstitute.org/

[お知らせ]
*2013年4月28日(日曜日)「私とは本当に何かを見る会」(東京)
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html




コメント

_ もも ― 2013年04月15日 13時08分51秒

高木さん 伝言ありがとうございます。
Prior to Consciousnessとはどのような内容の本ですか?
アイアムザットに比べて何か特徴がありますか?

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