ラメッシの教え(2)存在するすべては意識である2014年10月23日 15時25分10秒

 ラメッシの教えは常に、前回説明した「起こることはすべて神の意志である」 ともう一つの「存在するすべては意識である」という双子の観念を中心に説明されている。

 Consciouness Speaks では、「存在するすべては意識である。もしこれが完全に深く直観的に理解されるなら、そのときには、あなたはこれ以上読む必要がない。本書を置いて、残りの人生を楽しく続けてください」という英語版編集者の言葉から始まっている。まさにそういうことだ。「存在するすべては意識である」が直観的に理解されれば、もうどんな修行もワークも本もグルも教師も必要ない。

意識という言葉は、「神」と置き換えることも可能で、そうすると、「存在するすべては神である」ともなる。論理的に考えれば、すべては神なら、すべては神の意志であることは自明で、だから最初の観念「起こることはすべて神の意志である」となるわけである。

「すべて」とは本当にすべてだ。目で見えるもの、五感で認識できるものも、目に見えないもの(思考、感情なども)、自分の好きなもの(人)も、嫌いなもの(人)も、好ましい状況も好ましくない状況も、全部である。現象世界すべてが分離のない一つの意識でできていて、それが分離しているように見えるために、そこから様々なドラマが生まれ、そのため人間としての私たちは起こることに苦しんだり、喜んだりしているわけであるが、実はすべて意識としての「私」の創造である。

このことに関連して、ダグラス・ハーディングが現実創造について尋ねられたとき、何と答えたか紹介してみよう。

質問:あなたは、自分が自分自身の現実を創造し、それに責任を負っていると思いますか?
ダグラス・ハーディング:はい。しかし、問題は、私たちが誰に言及しているのかを見ることです。ダグラス・ハーディングは現実を創造していません。ダグラスは一枚の絵です。

ダグラスは鏡の中のイメージです。彼はある種薄っぺらです。彼は見かけです、彼は現象です。そのまわりに、あなた方がエゴと呼ぶものが集まっています。私の自己イメージは、あのイメージのまわりで成長します。

しかし、私が自分自身の現実を創造すると本気で言うとき、それが本当に意味することは、本当の本当の私、私の本質が現実を創造する、と言っているのです。本当の本当の私が、世界全体のショーに責任を負っているのです。

ですから、問題は、あなたが言及しているのはどっちの「あなた」か、ということです。私は、鏡の中のあの男、すなわち、小さいダグラスは何かを創造しているとは、思いません。彼は一枚の絵です。彼は薄っぺらです。彼はまた実体がありません:彼に触れることはできません。

私はあの絵と一体化し、あの絵を連れて来て、ここへ置きましたが、それは間違っていました。あれはここには所属していません。あれは向こうに所属しています。ダグラスは、創造のような何かに、その他の何のことにも、何の責任ももっていません。

なぜなら、彼は意識していないからです。私とあなたの中の意識は、唯一の一なる意識であり、それがすべての現実を創造し、すべての現実に責任をもっています。私は、「このことを信じるな」と、言います。あなたはそれを自分でテストすべきだと思います。非常によい質問です!
  (1992年シドニー・ワークショップより)

すべては神(意識)である「私」の創造である。しかし、ダグラスもよく言うように、神の「私」の意志と人間の「私」の意志はしばしば対立する。つまり、物事が人としての自分が望むように起きないとか、何か不快で苦痛な状況があるとか、そういうことは日常茶飯事である。そのとき、自分の意志や自分の信念・思考の正しさを主張し続ければ、人は苦しみ続けることになる。なぜなら神は全体で、一人の人間はそのちっぽけな部分にしかすぎないからだ。部分の意志が全体の意志に戦いを挑んでも、絶対に勝てないのである。非常に論理的な話なのだが、人間の理性(エゴ)はなかなか納得しない。

Consciouness Speaks の中で、ラメッシは、師のマハラジの言葉もたびたび紹介していて、マハラジは率直な人なので、訪問者が「すべては神の意志であることを、私は受け入れることができません」と言うと、「ああ、君はできないのか。だったら、苦しんでいなさい」(笑)と言ったそうである。

さて、ここのところ時々、母と一緒に「水戸黄門」を見ていた。そして 毎回、印籠が出てくる最後の「これを見よ!」の場面で、私は思うのだ――「神の意志」は、黄門様の印籠に似ているかもと。それを前にしたら、誰も彼もがそれにひれ伏さなければならない絶対権威。しかも、「神の意志」を説いているラメッシやダグラスは、私が子供の頃からいだいていた老賢人のイメージ にまさにピッタリの人だ――ただし、テレビの黄門様と違って、彼らは目に見える印籠を出したりはしないし、彼らが言う「これを見よ!」  の「これ」(権威)の方向は、テレビで見るのとは反対方向(つまり自分の外側ではなく、自分の内側)である。