The Thunder of Silence(4)2022年12月02日 16時13分44秒

[イベント]

オンライン「非二元の探究―ニサルガダッタ・マハラジの教え」

2022年12月11日(日曜日)午前9時から午前11時 受付終了しました



オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時


ジョエル・ゴールドスミスはThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の中で、「カルマの法則」というタイトルの章だけでなく、あらゆる箇所で折に触れて、新約聖書の言葉、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」ガラテヤ人への手紙6章7)というカルマの法則に触れている。

そして彼は、モーセがヘブライ人たちに与えた「十戒」、ユダヤ教的「カルマの法則」と、イエス・キリストによる「神の愛と恩寵」の教えの違いを歴史的背景も踏まえて、非常にていねいに説明している。

ジョエル・ゴールドスミスがカルマの法則について言っていることをまとめると:

1人間の人生には確かに「カルマの法則」がある。

2「カルマの法則」とは、神が人を罰したり、報酬を与えたりという意味ではなく、善い行為にしろ、悪い行為にしろ、自分がした行為の結果が戻って来るということである。したがって、一部のキリスト教徒たちが信じている「神が人を罰するとか、人に報酬を与える」とか、「神が復讐する」という観念は間違いである。

3「カルマの法則」は、ボールを壁に投げたら、それが自分に向かって戻って来ることに似ている。

4しかし、人は「カルマの法則」を超えて、「神の恩寵」の元に入ることができる。

5「カルマの法則」を超えるためには:
*まず、「カルマの法則」を理解し、遵守すること。
*神(神霊)に目覚めること。
*キリストのメッセージ、山上の垂訓を生きること、つまり、人も自分も許し、何事においても、批判と非難と善悪判断を控えること。

上記の2について、ジョエル・ゴールドスミスの言い方と、たとえば、インド系非二元のアドバイタ、特にラメッシ・バルセカールの表現は多少異なる感じがある。ラメッシは、「カルマの法則」も含めて、「起こることすべては神の意志」であり、それに対して、ジョエル・ゴールドスミスは、段階を踏んでいるというか、人が自分に起こったことに、善悪判断をしているかぎり、それは「カルマの法則」のレベルであり、善悪判断をしなくなれば、それは「神の恩寵」の領域に入る、みたいな感じだ。

ラメッシの言うことも、ジョエル・ゴールドスミスの言うことも、同じところへ行き着くはずであるが、表現はかなり違う印象を与える。このあたりの説明は、ラメッシのように、「すべては神の意志」とシンプルに言うほうがなんかわかりやすいし、起こったことを過去の自分の善い行為にしろ、悪い行為にしろ、結びつけるのも、なんだか面倒だし(笑)……と最近は特にそう思う。そもそもラメッシの教えには、「行為者は存在しない」わけで、だから、許す人も許される人も、許すべき行為すらなく、「許す」という観念すらない。

本日は、これ以上自分の言葉をまとめる気力がわかないので、昨年『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本が翻訳出版されたロバート・アダムスの別の本、『Karma &Compassion(カルマと慈悲)』から、彼がカルマについて言及していることを紹介してみよう。

[あなたはカルマの犠牲になる必要はありません。あなたの本質はどんなカルマよりも強力です。あなたの本質はこの世界の法則の支配下にはありません。(つまり、カルマは愛の行為によってバランスを取ることができるという意味です)。

あなたの本質は純粋で、それは苦しみの見かけを超越しています。カルマを理解している人が、誰かの苦しみを見るとき、「それは彼らのカルマのせいだ」とは言わないものです。彼らは慈悲をもち、助けます。そこに希望があるのです。カルマよりも強力なものが2つあります。「慈悲と許し」です。

たとえば、誰かが苦しんでいるのをあなたが見るとします。あなたはその人があまり好きではありません。でもその人の苦しみをあなたは見ます。これはすべてそのようにあらかじめ配置され、これはあなたのカルマでもあるのです。あなたはその人が苦しんでいるのを見ます。

あなたは彼らの苦しみを見て、こんなことを言うかもしれません。「私はカルマの法則を理解している。彼に起こったことは、彼が自分で作り出したのだ。私がカルマの法則を理解したことは、何と幸運なことだろうか」。そう言って、あなたはその場面から歩き去ってしまいます。

これはスピリチュアルな探求者の初心者の態度です。あなたは本当には理解していないのです。あなたは自分に起こることにしか関心がありません。だから、歩き去るのです。しかし、ある日、あなたが同じような状況に陥って、苦しんでいても、誰もあなたを気遣ってくれません。誰もあなたを助けてくれません。

おそらくあなたは「それはあなたのカルマだ」と言う宗教や家族の中にいるかもしれませんが、そこには慈悲がありません。そして、どうして誰も自分のことを気遣ってくれないのか、と疑問に思い始めるのです。ついにあなたは「あらゆる人は慈悲に値する」ことを学びます。しかし、このことは人があなたを傷つけることをゆるす、ということを意味しているわけではありません。ただあなたが物事に慈悲深く、優しく対処するという意味です。慈悲はカルマよりも強大です。

あなたはカルマの法則があると理解しています。そして、助けます。あなたは(苦しんでいる人を)助けるために、何ができるか見ます。人の苦しみを和らげるために、あなたはできるかぎりのことを
します。これが神聖であるということです。ここで2つのことが起こりました。あなたは他人のカルマを助け、そして自分自身のカルマも変えたのです]


以上の言葉は、「カルマの法則」から「神の恩寵」へを、ロバート・アダムス流にシンプルに語ったものだと、私はそう理解している。


カルマについて以前書いたブログ


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*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)









The Thunder of Silence(5)2022年12月09日 06時50分14秒

[イベント]

オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
↑上記の会は受付終了しました

2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時


イエス・キリストの教えの中でもっとも重要だとされている山上の垂訓、正直に言えば、私は今でもこのメッセージが苦手だ。

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」、「下着を取られたら、上着も与えよ」、何度読んでも、とうてい今の自分には無理無理無理!と感じる。山上の垂訓は、これはもう、スズメバチの巣を踏んで襲われたとき、「私があなた方の家を壊したのが悪かったのです。どうぞ好きなだけ、私の足を刺してもいいですよ」と微笑みながら言ったラマナ・マハルシのレベルである。

ただ、ジョエル・ゴールドスミスのおかげで、イエス・キリストがこのメッセージにこめた真意は理解できた(と思う)ので、いつかは神の恩寵によって、このメッセージの実践レベルが初級→中級→上級→超上級(イエス・キリストやラマナ・マハルシレベル)へと進化する希望はある。

ジョエル・ゴールドスミス自身も、理解のない未熟な状態で、山上の垂訓を実践してはいけない、と警告している。

そもそも、キリスト教的な「許せ、人を愛せ」という熱いメッセージそのものが私は苦手だ。だからこそ、「――せよ」という道徳的戒律を一切教えに入れない先生である、ダグラス・ハーディングやニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールが好きなのだと思う。

ダグラス・ハーディングは、他者への慈悲や愛情を人為的に育成するワークや修行はどこか不自然なところがあると考えていた。そして、他者への慈悲や愛情は、自分とは何かを見るそのヴィジョンの結果、自然に生まれるものだと強調した。

ラメッシ・バルセカールは、人が他者に慈悲や愛情を示すことができるかどうかは、その人のプログラミングと神の意志にかかっていると考えていたし、ニサルガダッタ・マハラジは自分のサットサンで宗教的戒律や道徳の話題を避けていた。

つまり、彼らの教えと考えは、「慈悲とか愛情とか許しの感情は、湧くときは湧く。湧かないときは、湧かない」、こういったものは、人の意志でコントロールできない、ということである。私にはこういった考えのほうが、自分にははるかになじむ。それにこういう教えのほうが、「自分は慈悲深い人間である」とか、「許すことができる人間である」というようなさらなるプライドをいだかずにすむ気がする。

前回紹介したロバート・アダムスは、どちらかと言えば、愛情と慈悲を積極的に育成することを勧める立場に立っている。その理由は昨年、『ハートの静寂』の紹介のときに説明したように、彼はインド系アドバイタや非二元系の教えにはまっている人たちが、知的理解に満足して、自分の快適さだけに留まる人が多いのを見てきたからだと思う。

彼の言う「慈悲と許しはカルマよりも強力である」はたぶん本当のことだ。だから自分の(悪い)カルマを解消するためにも、できるかぎり許したほうがいいし、慈悲をもったほうがいいのは確かである……そうできるときには。

長い人生の間には、思い出せば、慈悲や許しの感情をもったほうがいい状況で、そういった感情とそれにもとづく行為が、どうしても出てこなかったときがあった。たぶん、それによって悪いカルマがさらに蓄積されたかもしれないが、人はその時々の自分のレベルの「許しや慈悲」を生きるしかないし、「慈悲のない、許しのない自分」を悲しみをもって受容するしかないのだと思う。

それが現在まで「許しや慈悲」に関して、私が到達した理解である。


今回で、ジョエル・ゴールドスミスのThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)(本の実際のタイトルは変更の可能性があります)の紹介を終わりにします。本書は、モーセの教えから始まって、それがイエス・キリストの教えに生まれ変わり、さらにそれがキリスト教の教会の教えになって現代に至るまでの、ユダヤ教・キリスト教の変遷(と堕落)もとてもよく説明されていて、歴史の勉強にもなります。ぜひ多くの皆さんに読んでいただければ、うれしく思います(出版時期、タイトル、価格が決まりましたら改めてお知らせします)。


「存在する唯一の力は、神との意識的融合であり、スピリチュアルなパワーの本質を理解することにあります。私たちがその理解をもつとき、神とともにあるものは多数派になるのです」
                         The Thunder of Silence(はじめに)より



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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








イエス・キリストのこと2022年12月24日 10時11分06秒

ここ数年間、ジョエル・ゴールドスミスの本の翻訳出版のため、聖書(新約&旧約聖書)を読むことが多かった。最近は、もうキリストの教えでお腹いっぱい(笑)で、かなり限界に近い(でもまだジョエル・ゴールドスミスの本の最終編集作業が残っているので、もう少し頑張らないと、です)。

イエス・キリストについて、長い間、私は一つのことが気になっていた。なぜ彼は磔を逃げなかったのか? ということだ。つまり、私が思った疑問は、イエス・キリストほどの霊能力、予知能力があれば、自分が磔にされる危険性はあらかじめ察知できただろうに、なぜ逃げなかったのだろうか? 彼を愛するマグダラのマリアと二人で遠くへ逃げて、暖かい家庭でも作ったほうがよかったのではないか(笑)……イエス・キリストについての物語を読むたびに、時々そういったどうでもいい疑問が心に浮かんだものだ。

昔読んだミステリーだったと思うが、イエス・キリストとマグダラのマリアが実は結婚していて、子孫が現在まで生き残っているというヨーロッパに伝わる伝説を織り込んだ話があった。イエスとマリアが一緒になって子孫を作ったという話は、私だけでなく、多くの人たちも考えたことだったのだと知った。

しかし、「イエス・キリストが磔で死ぬ」、この悲劇の物語がなければ、イエス・キリストの教えはこれほど世界に広まらなかったことだろうし、イエス自身も自分が磔で死ぬ意義を悟って、「神様、わかりました。仕方ありませんね」という感じだったのだろう。

イエスの磔をめぐる物語の登場人物で、私には特にピラトとユダが興味深い。その理由は、この二人はどこの世界にもどこの時代にも、そしてたぶん、どこの組織にも見かける平凡な人たちだからだ。ピラトは古代ローマ帝国からユダヤ属州に派遣された行政長官で、「面倒なことにかかわりたくない、責任はとりたくない」という小心な役人というイメージだ。保守的ユダヤ教徒から、「『神の王国』とか言いまわっているイエスという男がいるから、逮捕しろ」と訴えられて、「宗教的もめごとなんて、ああ、面倒!」と思いながら、保守派の圧力に押されて、イエスを逮捕する。

もちろん、イエスの弁明、「『私の王国』はこの世のものではない」をピラトが理解できるはずもなく、「『王国』などと言う人間は、国家に反逆的な人間で、危険人物である」と、結局はイエスの磔を決める。そのときでさえ、自分が責任を取るのが嫌で、ユダヤの大衆に、「お前たちは、この男をどうしたいのか?」と尋ねる始末だ。「いいですか、磔を決めたのは、私ではなく、皆さんが望んだことですからね。それをよく覚えていてくださいね」みたいな感じで、小心で臆病な役人の典型である。実際、彼はイエス・キリストの奇跡の能力を聞いて、あとで自分に天罰がくだるのを恐れたのかもしれない。

もう一人の人物、ユダはイエスの側近だったが、イエスの教えをまったく理解せず、自分を、他の弟子やイエスと比較して嫉妬に苦しみ、しかも、『王国』とか言い出すイエスにしだいに疑心暗鬼を募らせ、ついにイエスをお金で「売る」ことを決心する。嫉妬心と疑心暗鬼がタイアップするユダの内面は、前にも紹介した、太宰治(若い頃の私の愛読作家の一人)の小説、『駆け込み訴え』によく描かれている。

ピラトとユダ
――あまりにその思考と行動が平凡で、むしろ親近感さえわく――ああ、こういうタイプの人、よくいるいるみたいな、ああ、自分にもこういう思考や感情あるかも、みたいな。

イエス・キリスト――二千年間、その誕生日が世界中で祝われるスーパー・ヒーロー。もしイエス・キリストが蘇って、2千年後の地球を見たら、きっと驚愕することだろう。自分の生誕の地は平和どころか常に紛争の地であり、キリスト教徒同士が戦争でお互いを殺し合い、仏教の国(日本)でも、自分の誕生日がケーキを食べながら祝われ、そして、キリスト教の宗教教団が信者から金集めに奔走し、そこの信者の多くが苦しんでいる。聖なるキリストという名前を使い、金集め集団と化しているのを見たら、鞭をもって乗り込み、怒りまくるかも……イエスは気性の激しい人だったようで、新約聖書に、イエスが寺院から商人を鞭で追い出したエピソードが確かあった。

そんなこんなクリスマスの季節に、過去に読んだイエス・キリストについての話を色々と思い出した。

それでは皆様、イエス・キリストの教えに無知でも、ケーキを平和に食べるくらいはイエスもゆるしてくださると思うので、楽しいクリスマス、そして、楽しい年末年始をお過ごしください。一年間、このブログを読んでいただいた皆様、そして様々なご支援をしてくださったすべての皆様に感謝を捧げます。来年は1月の終わり頃からブログを再開する予定です。


[新刊発売]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)