8月に父を想う ― 2026年08月17日 08時28分26秒
2026年10月1日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
8月はお墓詣りをしたりするせいか、あるいは8月が戦争と結びつくせいか、父のことをよく思い出す。そして、今年は五木寛之さんの『大河の一滴 最終章』(幻冬舎)を読んだおかげで、父についての一つの謎が解消した。
それは終戦のときの話で、中国に派兵されていた父が日本に帰国できたのは終戦から2年以上あとのことで、しかも東南アジアの国々を経るという遠回りで帰国したという話だ。その話を父から聞いたとき、「どうしてそんなに時間がかかったのか?」と疑問に思ったものの、父に訊きそびれた。
『大河の一滴 最終章』の中で五木さんは書いている。
「敗戦後の北朝鮮で、零下20度の冬を迎えてもなお一向に引き揚げが実現しなかったのは、当時の日本国の政治的配慮でもありました。
〈そうでなくても敗戦の混乱のなかで、国民全体が困窮しているのに、これ以上、多くの復員軍人、引揚者を迎え入れる余裕はない。しばらくは現地で待機させるしかないだろう)という発言をした有力政治家の名前を、ぼくは今も忘れることはできません。〉」
「有力政治家の名前を、ぼくは今も忘れることはできません」に五木さんの強い感情を私は感じる。もし引き揚げがもっと早く実現していたら、五木さんの母親は日本で治療を受けたり、少なくとも当時の北朝鮮よりもよい生活環境の中で療養できたかもしれないという無念。五木さんは別のところで、戦争の終結をいち早く知った現地にいた軍の幹部や政治家はさっさと帰国した話も書いている。「自分たちは棄民(捨てられた民)」だったのだ」と。
だから、父の場合も、国策で中国大陸か東南アジアのどこかに長々と留めおかれ、それで帰国にあんなに時間がかかったのだ。父は体が丈夫でよかったけれど、ひ弱な人だったら、途中で死んでいたかもしれない。
そして、ようやく家族の元に戻った父が見た風景は、米軍の空襲によって焼野原になった故郷だった。故郷の駅に降り立ったときに見たその風景が一番ショックだったと父はよく語っていた。幸い父の家族は米軍の空襲で誰も死なず、父は戦後ひたすら家族のために働き続けた。
父は、最近よく耳にする戦争のトラウマによる心身症(Psychosomatic disease:PSD)を発症しなかったが(←戦争PSDを発症すると、お酒を飲んで暴れるとか、家族に暴力を振るうなどの行動が起こる)、それでも根は非常に心優しい人なので、中国で自分たちがしたことに対する罪悪感を心の奥底に持ち続けていた(と私は感じていた)。
今年のお盆は、少々感傷的になって、父の遺影に向かって、生きているときに言えたらよかった言葉をつぶやいた。「お父さん、ありがとうございます。お父さんが無事戦争から帰ってきて、戦後頑張って働いてくれたおかげで、今日、お母さんと私たちは豊かに暮らしています」
親への感謝はいつも遅すぎてしまうものである。
コメント
_ 新道 ― 2026年08月19日 04時56分00秒
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頭のない方法の対照である体のない方法については井上ひさしが吉里吉里人の中で書いていました。
吉里吉里国の独立戦争でら下を失った男が頭を失った女性の体と高度治療で結合され,自分の体を見て興奮するといったことが書かれていました,。
最近の生成AIと同じく頭だけだとホットになるのでクールになるには頭がない方法が必要ということだったのかと井上先輩の卓見にも感心しているこの頃です。