お知らせ ― 2023年02月01日 14時47分03秒
[お知らせ]
都合で、もうしばらくブログをお休みします。
[新刊情報]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年3月5日(日曜日)午前9時から午前11時
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
「アジャシャンティ」(3)―輪廻転生 ― 2012年04月08日 08時56分35秒
今回は、「輪廻転生」についてである。
実は、「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」本体価格1900円 ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の本の中で、輪廻転生はまったくテーマではないし、アジャシャンティもこの輪廻転生について話すことにほとんど関心がない。にもかかわらず、本の最後に収録されているインタヴューで、インタヴュアー(原書出版社の代表兼編集者で、アジャシャンティの長年の友人かつ生徒)が、何とかこの話題を引き出し、それに対して、アジャシャンティも長年の信頼関係のよしみで、ではまあ、仕方なくという感じで、輪廻転生を思い出したときの話を語っている。
実は、「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその『あと』のプロセス」本体価格1900円 ISBN978-4-86451-038-7 C0010ナチュラルスピリット発行)の本の中で、輪廻転生はまったくテーマではないし、アジャシャンティもこの輪廻転生について話すことにほとんど関心がない。にもかかわらず、本の最後に収録されているインタヴューで、インタヴュアー(原書出版社の代表兼編集者で、アジャシャンティの長年の友人かつ生徒)が、何とかこの話題を引き出し、それに対して、アジャシャンティも長年の信頼関係のよしみで、ではまあ、仕方なくという感じで、輪廻転生を思い出したときの話を語っている。
いわゆるスピリチュアルと名のつく教えのどこか――それらがどれほど違う種類と内容の教えであっても――に関わっているほとんどの人たちが共通して関心をもっていることが、この輪廻転生とカルマという話題である。なんとなくの印象でいうと、21世紀になってから、スピリチュアル系タレント(っていうのか)の人たちが、テレビ番組で「過去生(前世)」の話を軽く語りだしてから、「過去生(前世)」はかなり日常語になった感があり、スピリチュアルな業界にいたっては、輪廻転生はもはや常識でさえある。
だから、私が「輪廻転生は真実ではない」と言うと、よく驚かれてしまう。私は、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール、ダグラス・ハーディングなど、輪廻転生を明確に否定するどちらかといえば少数派の教えの系譜にいる。輪廻転生の否定を、ニサルガダッタ・マハラジほど、シンプルに簡単に説明した人はいないので、まずはその説明を最初に紹介してみたい。
ラメッシ・バルセカールの処女作、「The Pointers From Nisargadatta Maharaj――ニサルガダッタ・マハラジの教え」という本の「There Can’t be Re-birth--輪廻転生(生まれ変わり)はありえない」で、マハラジは、輪廻転生はありえないと明言し、伝統的ヒンズー教の修行僧をショックに陥れている。
マハラジの説明を要約すれば、
「生まれたもの、対象的に生まれた肉体は、やがては『死に』、そのあと、分解し、完全に崩壊する。生命力は、肉体を離れ、外側の空気と混じる。感覚のある生き物の対象的部分は破壊され、同じ肉体として生まれ変わることは決してない。そして、対象物ではない意識はまったく『物』ではないので、それゆえ、非対象的な何かとしての意識は、『生まれる』ことも、『死ぬ』ことも、『生まれ変わる』こともできない。これらは、疑う余地のない事実ではないだろうか?」
つまり、マハラジの問いは、「そもそも輪廻転生すべき(生まれ変わるべき)何か実体が、ありますか?」という問いである。
では、アジャシャンティの説明はどうかといえば、彼は自分がある時期、過去生をたくさん思い出した時の話をし、「それは、朝目覚めて、『わお!自分が50もの過去生を同時に思い出した夢を見た』というようなものであり、そういった経験は夢の性質をもち、目覚めとは本質的には無関係である。しかし、もし誰かが私に尋ねれば、過去生と多くの人々が呼ぶようなものを自分が経験したことは事実なので、それを否定はできない」と、そう説明をしている。さらに、彼は、過去生とは実は過去ではなく、自分にとっては同時生のようなものであった、と語っている。
私自身も過去生(と当時はそう思っていた)のようなものをたくさん思い出した時期がある――スピリチュアルな探求を始めてまもない頃の20代の後半のことで、しばらくはこの教義にはまっていた。のちに、ダグラス・ハーディング、ニサルガダッタ・マハラジ、ラメッシ・バルセカールなどの教えと出会って、輪廻転生の教義は捨て去ってしまったし、その時期以後はめったにそういう類の映像を見ることもなくなった――アジャシャンティも言うように、そういう映像やイメージは、霊的目覚めとかスピリチュアルな本質とは無関係であるが、それでも、あの映像は何だったのか時々考えたみたことがある。
本当のところ今でもよくはわからないが、なんとなく感じたことを想像的に書くと、それは宇宙映画館で映画を見るようなものではないか、ということである。その映画館には、過去・現在・未来のあらゆる生き物によって見られている(今、目の前で見ている現世映画も含めて)映画が常に「同時」上映されているとしよう。理論的には人はどの映画も見ることができるが、しかし、私たちがDVDレンタルショップで映画のDVDを借りるときのように、実際は膨大な数の映画から、人はほんのわずかな映画にしか心惹かれないし、理解することができない。
人々が過去生とか未来生とか呼んでいる映像は、たとえて言えば、シリーズで続いている映画のようなものだ。自分は、今見ている現世映画であれこれのセリフや感情・思考を与えられた主役をやっている。で、現世映画の主役である自分が宇宙映画館で別の映画を見て、なぜかその物語にとても親近感を感じ、その主役や登場人物、物語のあらすじをとてもよく知っている気がしたとしよう。それも当然で、自分が見たその映画は、自分が出ている現世映画のシリーズの前作(次回作という場合もある)だったのである。
シリーズの前作なので、当然内容にも詳しいというわけである。しかし、自分とシリーズ前作の映画の主役やその他登場人物はまったく無関係で、別人であり、映画は一回一回、全部俳優を入れ替えて新たに作られている。つまり、自分が前作に出演したわけではないのである。ただ同じシリーズなので、似たような場面があり、似たようなセリフや感情・思考が自分に割り振られているというわけだ。がそれは、「過去生の自分」でも、「自分の過去生」でもないし、以上私が書いた想像話も、映画の中でまた映画を見るというような話である。
もちろん、輪廻転生を真実なものとする教えや意見もたくさんあり、現在では科学的に調査・研究もされているそうである。なので、もしこのテーマにご興味がある人たちがいれば、最終的には誰の意見も考えも(私がここで書いた考えも含めて)も鵜呑みに信じず、自分で探求し考え抜くことをお勧めする。
輪廻転生――スピリチュアル系の人々がこの教義を好きなのは、たぶんそれを信じることがロマンチックに感じられるからなんだろうと思う。私の愛聴歌手の一人、サラエボ出身のヤドランカという歌手が日本語で歌った「信じているの」という歌は、まさに「生まれ変わり」を「信じる」ことをロマンチックに唄った歌で、その中にこういうフレーズがある。
「今度 生まれ変わるときにも あなたと会いたい どこかの街で たとえ姿変わっていても わかるのよ 二人の愛は永久(とわ)のもの♪♪♪♪」
すでに亡くなった親しい縁のあった人たちを思い出す感傷的な夜に、このフレーズを聴くと、私でも涙がでる。最近では、(1、2月は忙しくてほとんど悲しむ余裕がなかった)父のことを思い出して(つまり、完全映画モードの変性状態になって)、時々この歌を聴いている。
ブッククラブ回(スピリチュアルブック専門書店)
http://www.bookclubkai.jp/index.html
(下記サイトに本の目次が掲載されています)
シンプル堂サイト
http://www.simple-dou.com/CCP035.html
[イベント]
2012年4月15日(日)午後
2012年4月29日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。
ブログ休止 ― 2011年03月15日 08時06分08秒
皆様へ、しばらくの間(1-2ヶ月程度)ブログを休止します。
「日本人が知らない幸福」 ― 2010年04月06日 06時14分17秒
「日本人が知らない幸福」(武永賢著 新潮新書)という本を、タイトルにちょっと引かれて読んでみた。著者(日本に帰化したベトナム難民の方)はいったい日本人が知らないどんな幸福を知っているのかと……
読み始めてすぐ納得した――うーん、確かに今の日本人の多くはこういう幸福を知らないかもしれないと。
最初に書いてある話は、水の話だ。そのままでも飲める水で夏にシャワーを浴びるたびに、著者は感謝と幸福の念を禁じえないという。それから、著者にしてみれば、おいしい水道水があるのに、わざわざミネラルウォーターを買う日本人を信じられない気持ちで眺める。
なぜ著者が日本人から見ればそんなたわいもないことに幸福を感じられるかというと、ベトナムでの貧しかった子供時代、それからベトナム戦争が終わったあとの一家がたどったそれこそ波乱万丈の生きるか死ぬかの日々のせいなのだ。
著者はそういった経験についてはほんの少ししか触れていないが、泥水をすすり、弾丸をくぐりぬけた経験があるからこそ、彼は日本に落ち着いてからの日々を天国での暮らしのように感じるのであろう。そんな経験をしている日本人は今の日本では(戦争体験者以外)ほとんどいないので、確かに著者は幸いにも「日本人が知らない幸福を知る」ことができるのである。
私が思うに、人間界の幸福は、比較にもとづいている。不幸を経験するからこそ幸福を感じられ、貧しさを経験するからこそ豊かさが感じられる。同様に孤独だからゆえに、恋愛や人間関係が楽しく感じられ、失敗の苦痛があるから、成功の喜びがある。夏に経験する気温20度と春に経験する気温20度が、人間の感覚では同じ温度に感じられないのもそういうわけである。(私の感覚では、夏の気温20度は寒く、春の気温20度は暖かい)
「日本人が知らない幸福」を読んで面白いと思ったのは、著者の運命が、なぜか物事が「失敗した」あとに好転するという展開だ。カトリック教徒でもある著者は、たぶん、私が前に聖書の話のところで書いた、「求めよ、さらば与えられん」と「求めるな、さらば与えられん」の矛盾と調和を、知識としてではなく、体で体得しているようである。
著者は、何か人生で壁にぶつかったときは、「できないことは、できない」と自分に言い聞かせるという。成功した人たちがよく言う、「どんなときにも、できると信じれば、できる」、ではないところが、著者のユニークなところだ。
「できないことは、できない」という達観というか諦念は、私もよくつぶやくまじない言葉である……
さらに、
できないときは、できない。
できることは、できる。
できるときは、できる。
ないものは、ない。
あるものは、ある。
で、
今日できることをやる。
今日やるべきことをやる。
今日あるものを楽しむ。
今日やるべきことをやる。
今日あるものを楽しむ。
で、今晩も湯船を満杯にして、私も贅沢で幸福な入浴を楽しんだのである。
[イベント]
2010 年4月18日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。
*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
または
*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html
「思考」をめぐる観念(2) ― 2009年03月28日 10時16分07秒
まずは、先日いただいたご質問、「思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるものという考えにいたったのは、なぜですか」に対してお答えしてみよう。
私が20代の半ばに最初にスピリチュアルな本を読んだときに(クリシュナムルティとオショーの本)、「すべては一つである」であるという観念を知り、学校のテキスト以外で最初に読んだスピリチュアル系の本だったにもかかわらず、なぜか私は、そのことを確信し、そこに人生の希望を見出した(が、そういった観念を教えてくれた以外に、クリシュナムルティとオショーの本は、ほとんど私には役立たなかったようだ)。
それから前にもたびたびご紹介したが、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」の中に出ていた「宇宙はただ一種類のものからできている」という考えに私は非常に影響を受けた。
もし「すべては一つである」であれば、当然、「宇宙はただ一種類のものからできている」わけで、さらに単純な論理として、「私たちが認識するあらゆる物体・思考・感情は、ただ一つのものからできている」と言えるのである。
私には、思考や感情は突然飛んでくるように感じられるので、「物体・思考・感情はただ一つのものからできている」を、表現上、「思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるもの」としたが、言っていることは同じことである。
観念として、こういうことを信じることはそれほど難しいことではなく、たぶん、クリシュナムルティやラマナ・マナルシ等のインド系アドバイタ哲学の本を数冊読めばいいだけのことである。
問題は、「観念を信じる」ことから、どうやってそれを自分の中で検証し、本当に認識していくかということで、これにはたいてい時間が長くかかるものである(個人差はあると思うが)――たいてい、5年、10年、20年、50年、あるいは(もし転生を信じるとすれば)何生も――ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカールの「存在するすべては意識である」の考え、その他瞑想、読書、思索、そして人間関係や仕事の問題等々、人生のあらゆることが、「すべては一つである」を検証するために、私には役に立ってきた――ハーディングの実験は、「すべては一つである」を直接見ることができる簡単な実験なので、特にお勧めしている。(http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/experiment/experiments.html)
ついでに言えば、「すべては一つである」は、「すべては同じ」、ではない。すべては一つでありながら、現象としてはすべては異なっていることが、世界の多様な美しさである。肉体(物)、感情、思考は、(どれほど親しい関係でも)お互いに異なるものだし、違っていることが自然である。だから、もし人が、感情や思考のレベルで何かや誰かと一体感を感じようと「努める」とすれば、かえってストレスがたまるだろうと思う。
さらに言えば、「すべては一つである」は、スピリチュアルな世界ではよく語られてはいるが、私たちのエゴは、「すべては一つである」を嫌っている、本当は(笑)――エゴのそういった抵抗を理解することも、「すべては一つである」への認識に進むために役に立つはずである
最後に、「思考」をめぐって、スピリチュアルな世界にある主な二つの傾向について言及してみよう。
一つは、少数派の修行・悟り派で、「思考がない状態」をあたかも最高の境地(悟り)として、瞑想・修行で、その境地を目ざしている人たちだ。この人たちにとっては、「思考がわく状態」は、「よくない低い状態」だとされているようである。
しかし、人が人間界で生きて生活しているかぎり、様々な思考・感情が生まれるのは当然のことで、人は日々、仕事をして、他人と関わる中で、色々なことを考え・感じざるをえない。考え、感じ、実践し、失敗し・成功することの中でしか、仕事やコミュニケーション能力は身につかない。(インドあたりで他人のお布施で生活する修行僧になるのでなければ)、日本のような国で働いて生活するとしたら、考えることは必須なことである。私が思うに、「考えること、思考がある」ことが悪いわけではなく、「考えること、思考があること」が、自分にストレスを与えることが問題なのである。
他方で、「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰する人たちがいて(こちらは多数派)、この信仰にとっては、思考は、パワーの源泉であるゆえに、それは強化すべきもので、自分が望む特定の思考は繰り返されるべきものであるとされる。
私が、「思考が現実を創造する」に関して到達して結論は、「思考は現実を創造する」ことに関わる多数の要素の一つであるが、それは絶対的なものではないということだ。たぶん多くの人が経験する事実として、もし人が、Aということを自然にたくさん考える(Aという思考が自然にたくさん飛んでくる)としたら、Aということを一度も考えたことがない人よりも、Aということが起こる可能性はずっと高くなる、とは言えるだろうと思う。
たとえば、
「私は、金持ち(野球選手、音楽家、作家、公務員等々)になる」、あるいは、「私は子供をたくさんもつ、楽器を弾ける、外国で暮らす、怠けて暮らす」(その他なんでもいいが)と、自然に繰り返し思ってきた人は、そう思わない人により、そうなる可能性がはるかに高いはずである。
が、人生には、ほとんど考えたことがないようなことでも、起こることは多々ある。
「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰すると、当然の結果として、個人的「私=自我=エゴ」が非常に強化される。だから、「自分の思考が現実を創造する」は、エゴイストになる修行のための観念であると、私はそう理解している。
以上、二回にわたって思考をめぐる私の観念(飛んできた観念)を披露してみたが、こういった方面に関心のある方は、またそれぞれ考えていただければ、と思う。
[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年4月19日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
参考図書
クリシュナムルティとオショー(多数出版されています)
「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「あるがままに」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット)
「覚醒の炎」プンジャジ(ナチュラルスピリット)
「アイアムザット」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット)
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス(地湧社)
「ポケットの中のダイアモンド」ガンガジ(徳間書店)
「人をめぐる冒険」髙木悠鼓 (マホロバアート)
私が20代の半ばに最初にスピリチュアルな本を読んだときに(クリシュナムルティとオショーの本)、「すべては一つである」であるという観念を知り、学校のテキスト以外で最初に読んだスピリチュアル系の本だったにもかかわらず、なぜか私は、そのことを確信し、そこに人生の希望を見出した(が、そういった観念を教えてくれた以外に、クリシュナムルティとオショーの本は、ほとんど私には役立たなかったようだ)。
それから前にもたびたびご紹介したが、タデウス・ゴラスの「なまけ者のさとり方」の中に出ていた「宇宙はただ一種類のものからできている」という考えに私は非常に影響を受けた。
もし「すべては一つである」であれば、当然、「宇宙はただ一種類のものからできている」わけで、さらに単純な論理として、「私たちが認識するあらゆる物体・思考・感情は、ただ一つのものからできている」と言えるのである。
私には、思考や感情は突然飛んでくるように感じられるので、「物体・思考・感情はただ一つのものからできている」を、表現上、「思考・観念とは、すべてに共通するたった一つの源泉から飛んでくるもの」としたが、言っていることは同じことである。
観念として、こういうことを信じることはそれほど難しいことではなく、たぶん、クリシュナムルティやラマナ・マナルシ等のインド系アドバイタ哲学の本を数冊読めばいいだけのことである。
問題は、「観念を信じる」ことから、どうやってそれを自分の中で検証し、本当に認識していくかということで、これにはたいてい時間が長くかかるものである(個人差はあると思うが)――たいてい、5年、10年、20年、50年、あるいは(もし転生を信じるとすれば)何生も――ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカールの「存在するすべては意識である」の考え、その他瞑想、読書、思索、そして人間関係や仕事の問題等々、人生のあらゆることが、「すべては一つである」を検証するために、私には役に立ってきた――ハーディングの実験は、「すべては一つである」を直接見ることができる簡単な実験なので、特にお勧めしている。(http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/experiment/experiments.html)
ついでに言えば、「すべては一つである」は、「すべては同じ」、ではない。すべては一つでありながら、現象としてはすべては異なっていることが、世界の多様な美しさである。肉体(物)、感情、思考は、(どれほど親しい関係でも)お互いに異なるものだし、違っていることが自然である。だから、もし人が、感情や思考のレベルで何かや誰かと一体感を感じようと「努める」とすれば、かえってストレスがたまるだろうと思う。
さらに言えば、「すべては一つである」は、スピリチュアルな世界ではよく語られてはいるが、私たちのエゴは、「すべては一つである」を嫌っている、本当は(笑)――エゴのそういった抵抗を理解することも、「すべては一つである」への認識に進むために役に立つはずである
最後に、「思考」をめぐって、スピリチュアルな世界にある主な二つの傾向について言及してみよう。
一つは、少数派の修行・悟り派で、「思考がない状態」をあたかも最高の境地(悟り)として、瞑想・修行で、その境地を目ざしている人たちだ。この人たちにとっては、「思考がわく状態」は、「よくない低い状態」だとされているようである。
しかし、人が人間界で生きて生活しているかぎり、様々な思考・感情が生まれるのは当然のことで、人は日々、仕事をして、他人と関わる中で、色々なことを考え・感じざるをえない。考え、感じ、実践し、失敗し・成功することの中でしか、仕事やコミュニケーション能力は身につかない。(インドあたりで他人のお布施で生活する修行僧になるのでなければ)、日本のような国で働いて生活するとしたら、考えることは必須なことである。私が思うに、「考えること、思考がある」ことが悪いわけではなく、「考えること、思考があること」が、自分にストレスを与えることが問題なのである。
他方で、「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰する人たちがいて(こちらは多数派)、この信仰にとっては、思考は、パワーの源泉であるゆえに、それは強化すべきもので、自分が望む特定の思考は繰り返されるべきものであるとされる。
私が、「思考が現実を創造する」に関して到達して結論は、「思考は現実を創造する」ことに関わる多数の要素の一つであるが、それは絶対的なものではないということだ。たぶん多くの人が経験する事実として、もし人が、Aということを自然にたくさん考える(Aという思考が自然にたくさん飛んでくる)としたら、Aということを一度も考えたことがない人よりも、Aということが起こる可能性はずっと高くなる、とは言えるだろうと思う。
たとえば、
「私は、金持ち(野球選手、音楽家、作家、公務員等々)になる」、あるいは、「私は子供をたくさんもつ、楽器を弾ける、外国で暮らす、怠けて暮らす」(その他なんでもいいが)と、自然に繰り返し思ってきた人は、そう思わない人により、そうなる可能性がはるかに高いはずである。
が、人生には、ほとんど考えたことがないようなことでも、起こることは多々ある。
「自分の思考が現実を創造する」を絶対的に信仰すると、当然の結果として、個人的「私=自我=エゴ」が非常に強化される。だから、「自分の思考が現実を創造する」は、エゴイストになる修行のための観念であると、私はそう理解している。
以上、二回にわたって思考をめぐる私の観念(飛んできた観念)を披露してみたが、こういった方面に関心のある方は、またそれぞれ考えていただければ、と思う。
[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年4月19日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
参考図書
クリシュナムルティとオショー(多数出版されています)
「今ここに、死と不死を見る」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「顔があるもの 顔がないもの」ダグラス・ハーディング(マホロバアート)
「あるがままに」ラマナ・マハリシ(ナチュラルスピリット)
「覚醒の炎」プンジャジ(ナチュラルスピリット)
「アイアムザット」ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット)
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス(地湧社)
「ポケットの中のダイアモンド」ガンガジ(徳間書店)
「人をめぐる冒険」髙木悠鼓 (マホロバアート)
「わかる・わからない」ということ ― 2008年06月06日 10時53分28秒
もうかなり前に、テレビである短いドキュメンタリー番組を見たことがある。それは、日本での恵まれた地位と名誉と収入を捨てて、東南アジアのある国で無料の医療奉仕をしている、ある日本人医師を追ったドキュメンタリーであった。その医師は本当に楽しそうにその国で無料の医療奉仕をやっていて、時々、お金と医療器具が必要なときだけ、日本に帰国して、短期的にあちこちの病院で働くという生活を送っていた。
彼にとっては、日本での恵まれた境遇を捨てて、東南アジアで無料奉仕をするのは、人生の非常に自然な流れ(私の観念でいえば、「進化」)なのであるが、ところが、その彼を取材し、ドキュメンタリーを作っている人たちは、「なぜ彼のような恵まれた境遇にいた人が、それを捨てて東南アジアで医療奉仕をやっているのか、理解できない」というような主旨のコメントや質問を発するのだ。その医師のほうも、そういう質問をされても、相手に納得させる言葉を言うことができない。
つい先日は、今度は、有名な元サッカー選手が世界中を旅したドキュメンタリー番組を少し見ていたが、ここでもまた多くの人たちが、なぜ彼のような名声のあるサッカー選手が、それを捨てて、地球の旅人になったのか、不思議がり、彼のことを「謎の男」みたいにとらえている。
名声や富のある一流の医者やサッカー選手になりたいといえば、ほとんどの人がそれを理解し、賞賛する。でも、それらを達成したあと、その恵まれた(と思われている)生活を捨てて、もっと楽しくワクワクする人生を送っている人たちのことは、不思議で理解できないという。
でも言葉を越えてわかる人たちには、わかるのだ。少なくとも私には、この二人の生き方や言葉は不思議でもなんでもなく、非常にわかりやすかった。
人間同士における理解・わかる・わからないの問題――それは別の言葉でいえば、コミュニケーション・ギャップということである。子供の頃からそれをよく実感してきた私は、大人になってからは、人と人とが、「言葉が通じない、理解できない」とは、おそらく言葉以前の問題なのかもしれないと、なんとなくぼんやりと感じ、その答えを求めて20代から、精神世界、宗教、心理学の本を読みあさった。
20代のときに読んだ本で、そういったコミュニケーション・ギャップの理解について一番役に立った本は、このブログで何度か紹介している「なまけ者のさとり方](タデウス・ゴラス著)と、もう一冊「奇蹟を求めて」(P.D.ウスペンスキー著)という本の2冊で、この2冊のおかげで、人々がお互いの言葉や生き方、考え方を理解できないのは、お互いのエネルギーの質量の違いによるものなので、それは仕方のないことなのだと、私はおおまかに理解した。
それから私は、実際に様々な精神世界や宗教関係の教えや先生たちに接したり、そういう世界に関心をもつ人たちともたくさん出会ったが、こちらは、世俗の世界よりも、「理解」に関しては、もっと混乱が多いように感じている。
精神世界や宗教に興味をもつ人たちは、本やセミナー等を通じて、様々な教えや観念を知り、もし気に入れば信じる。ところが、また別の観念や別の先生・教えに出会うと、そちらのほうが気に入り、また信じる。人はある観念を知り、信じ、疑い、また別の観念を知り、信じ、疑いといったふうに、様々に矛盾している観念に対して、そういうことを繰り返していくうちに、何が正しいのか、何を信じるべきなのか、何をすべきなのか、だんだんわけがわからなくなってくる場合が起こる。極端な場合は、その混乱から、うつ病のようになってしまう人たちもいる。
私自身がそういったことで極度に混乱した時期があり、10年ほど前、その自分自身の混乱を救うために書かれた本が、「人をめぐる冒険」という本である。
この本の中で、展開した、「動物・人間・神」という観念と、それに基づく霊的(精神的)進化論は、霊的世界におけるコミュニケーション・ギャップや現象世界を理解するうえで、私自身にとっては非常に役に立ち、なかなかの傑作だと、書いた本人は満足していたのだが、当初の私の予想に反して(!?)、この本は超絶的に売れない本となった。それでも中には、すごく面白いと言ってくださった超少数の人たちもいて、私の中の「作家魂」(なんか、わけのわからないものですが)を喜ばせた。
まあ本は売れなかったとはいえ、そこはどんなときにも、「転んでもタダでは起きない」私は、この本が売れなかったおかげで、本(言葉・観念)を、読む・知る・信じる・理解することをめぐるコミュニケーション・ギャップに関して、また新たに研究する機会に恵まれた。「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論を、もっと自分に役立つように、もっと詳細に検討しては、それをいろいろなことに当てはめて考えてみた。いや、本当は、研究というより、本を書いたあとの「修行の日々」というほうがふさわしい。
あれから10年、その研究・修行のほうは、大筋では終わり、あとは本にまとめるだけなのだが、これがどういうわけか、完成のめどがたたない。本という形にするだけのエネルギーがなかなか、天から降りてこないのだ。いつ本が出るか出ないかは、天のみぞ知るという感じ……である。
さて、あらゆることに関する「わかる・わからない」という問題――そもそも、多くの人たちにとっては、「わからない」ことは、まったく問題ではない。また最高の叡智も、「わからない」ことなので、そこまで進化した人たちも、「わからない」ことは、まったく問題ではない。「わからないこと」が気になる、その途上にいる私のような者たちだけが、愚かにも「わからない」ことと格闘しているのである。
よって、思考を紡いだり、言葉・観念を表現したり、本を書いたりする行為、また、それらを読んだり・理解したりする行為とは、「半分知っている者」たちのリーラ(宇宙の戯れ)、ときには、もっと多くの誤解・無知・混乱を生む可能性のあるリーラなのだと、私自身はいつもその限界をかみしめる。
半分知った者が、全知であろうと奮闘する愚者のリーラ……神以外の誰も止められないリーラ
それでも、願わくば……
半分知っている者同士の出会いから、創造的な理解が生まれますように……
[イベント]
そんなこんなの状態で、「人をめぐる冒険」の続編の本は、当分出そうにはありませんが、「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論の最新版を、ご興味ある方にご報告してもいいかと思いたち、下記の会を企画しました。
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
参考図書
「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著 平河出版社発行
20世紀前半に活躍したロシアの神秘思想家、グルジェフの教えと言葉を、彼の高弟だったウスペンスキーがまとめた本。他のどんな本にも書いてない興味深い観念が記述されてあるが、読んで理解するだけでも、相当な努力が必要。グルジェフ自身が書いた本としては、「ベルゼバブの孫への話」(平河出版社発行)があり、こちらはさらに読むのがもっと困難な本で、「超超超努力」を要する本。
「バカの壁」養老孟司著 新潮社発行
5年ほど前の大ベストセラーであり、本書の中で、著者は、人は自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまう(=「バカの壁」を作る)というテーマで、自らの様々な体験と観察から、「わかることの困難」を語っている。
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著 地湧社発行
「人をめぐる冒険」高木悠鼓著 マホロバアート発行
彼にとっては、日本での恵まれた境遇を捨てて、東南アジアで無料奉仕をするのは、人生の非常に自然な流れ(私の観念でいえば、「進化」)なのであるが、ところが、その彼を取材し、ドキュメンタリーを作っている人たちは、「なぜ彼のような恵まれた境遇にいた人が、それを捨てて東南アジアで医療奉仕をやっているのか、理解できない」というような主旨のコメントや質問を発するのだ。その医師のほうも、そういう質問をされても、相手に納得させる言葉を言うことができない。
つい先日は、今度は、有名な元サッカー選手が世界中を旅したドキュメンタリー番組を少し見ていたが、ここでもまた多くの人たちが、なぜ彼のような名声のあるサッカー選手が、それを捨てて、地球の旅人になったのか、不思議がり、彼のことを「謎の男」みたいにとらえている。
名声や富のある一流の医者やサッカー選手になりたいといえば、ほとんどの人がそれを理解し、賞賛する。でも、それらを達成したあと、その恵まれた(と思われている)生活を捨てて、もっと楽しくワクワクする人生を送っている人たちのことは、不思議で理解できないという。
でも言葉を越えてわかる人たちには、わかるのだ。少なくとも私には、この二人の生き方や言葉は不思議でもなんでもなく、非常にわかりやすかった。
人間同士における理解・わかる・わからないの問題――それは別の言葉でいえば、コミュニケーション・ギャップということである。子供の頃からそれをよく実感してきた私は、大人になってからは、人と人とが、「言葉が通じない、理解できない」とは、おそらく言葉以前の問題なのかもしれないと、なんとなくぼんやりと感じ、その答えを求めて20代から、精神世界、宗教、心理学の本を読みあさった。
20代のときに読んだ本で、そういったコミュニケーション・ギャップの理解について一番役に立った本は、このブログで何度か紹介している「なまけ者のさとり方](タデウス・ゴラス著)と、もう一冊「奇蹟を求めて」(P.D.ウスペンスキー著)という本の2冊で、この2冊のおかげで、人々がお互いの言葉や生き方、考え方を理解できないのは、お互いのエネルギーの質量の違いによるものなので、それは仕方のないことなのだと、私はおおまかに理解した。
それから私は、実際に様々な精神世界や宗教関係の教えや先生たちに接したり、そういう世界に関心をもつ人たちともたくさん出会ったが、こちらは、世俗の世界よりも、「理解」に関しては、もっと混乱が多いように感じている。
精神世界や宗教に興味をもつ人たちは、本やセミナー等を通じて、様々な教えや観念を知り、もし気に入れば信じる。ところが、また別の観念や別の先生・教えに出会うと、そちらのほうが気に入り、また信じる。人はある観念を知り、信じ、疑い、また別の観念を知り、信じ、疑いといったふうに、様々に矛盾している観念に対して、そういうことを繰り返していくうちに、何が正しいのか、何を信じるべきなのか、何をすべきなのか、だんだんわけがわからなくなってくる場合が起こる。極端な場合は、その混乱から、うつ病のようになってしまう人たちもいる。
私自身がそういったことで極度に混乱した時期があり、10年ほど前、その自分自身の混乱を救うために書かれた本が、「人をめぐる冒険」という本である。
この本の中で、展開した、「動物・人間・神」という観念と、それに基づく霊的(精神的)進化論は、霊的世界におけるコミュニケーション・ギャップや現象世界を理解するうえで、私自身にとっては非常に役に立ち、なかなかの傑作だと、書いた本人は満足していたのだが、当初の私の予想に反して(!?)、この本は超絶的に売れない本となった。それでも中には、すごく面白いと言ってくださった超少数の人たちもいて、私の中の「作家魂」(なんか、わけのわからないものですが)を喜ばせた。
まあ本は売れなかったとはいえ、そこはどんなときにも、「転んでもタダでは起きない」私は、この本が売れなかったおかげで、本(言葉・観念)を、読む・知る・信じる・理解することをめぐるコミュニケーション・ギャップに関して、また新たに研究する機会に恵まれた。「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論を、もっと自分に役立つように、もっと詳細に検討しては、それをいろいろなことに当てはめて考えてみた。いや、本当は、研究というより、本を書いたあとの「修行の日々」というほうがふさわしい。
あれから10年、その研究・修行のほうは、大筋では終わり、あとは本にまとめるだけなのだが、これがどういうわけか、完成のめどがたたない。本という形にするだけのエネルギーがなかなか、天から降りてこないのだ。いつ本が出るか出ないかは、天のみぞ知るという感じ……である。
さて、あらゆることに関する「わかる・わからない」という問題――そもそも、多くの人たちにとっては、「わからない」ことは、まったく問題ではない。また最高の叡智も、「わからない」ことなので、そこまで進化した人たちも、「わからない」ことは、まったく問題ではない。「わからないこと」が気になる、その途上にいる私のような者たちだけが、愚かにも「わからない」ことと格闘しているのである。
よって、思考を紡いだり、言葉・観念を表現したり、本を書いたりする行為、また、それらを読んだり・理解したりする行為とは、「半分知っている者」たちのリーラ(宇宙の戯れ)、ときには、もっと多くの誤解・無知・混乱を生む可能性のあるリーラなのだと、私自身はいつもその限界をかみしめる。
半分知った者が、全知であろうと奮闘する愚者のリーラ……神以外の誰も止められないリーラ
それでも、願わくば……
半分知っている者同士の出会いから、創造的な理解が生まれますように……
[イベント]
そんなこんなの状態で、「人をめぐる冒険」の続編の本は、当分出そうにはありませんが、「動物・人間・神」という観念に基づく霊的(精神的)進化論の最新版を、ご興味ある方にご報告してもいいかと思いたち、下記の会を企画しました。
2008年6月22日(日)(午後1時30分より午後4時30分)
「人をめぐる冒険」の会
詳細・参加申し込みは、下記サイトへ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/profile.html
参考図書
「奇蹟を求めて」P・D・ウスペンスキー著 平河出版社発行
20世紀前半に活躍したロシアの神秘思想家、グルジェフの教えと言葉を、彼の高弟だったウスペンスキーがまとめた本。他のどんな本にも書いてない興味深い観念が記述されてあるが、読んで理解するだけでも、相当な努力が必要。グルジェフ自身が書いた本としては、「ベルゼバブの孫への話」(平河出版社発行)があり、こちらはさらに読むのがもっと困難な本で、「超超超努力」を要する本。
「バカの壁」養老孟司著 新潮社発行
5年ほど前の大ベストセラーであり、本書の中で、著者は、人は自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまう(=「バカの壁」を作る)というテーマで、自らの様々な体験と観察から、「わかることの困難」を語っている。
「なまけ者のさとり方」タデウス・ゴラス著 地湧社発行
「人をめぐる冒険」高木悠鼓著 マホロバアート発行
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