テストステロン(オス・ホルモン)中毒2012年07月23日 09時21分43秒

皆様、暑中お見舞い申し上げます。(8月は都合でブログをお休みします)

どこかの県の中学校で昨年起こった、イジメが原因とされる自殺が、今頃マスコミで大きく報道されている。

私は、学校でのイジメ問題が起こるたびに、その当の学校の校長や教育委員会の人たちの発言、「イジメはなかったと認識している」みたいな発言にいつも驚く。人が集団で毎日集まる場所(学校、職場、家庭等)では、どこでもイジメが起こる可能性があるし、特に中学校では、ほぼすべての学校で、私が子供だった頃も、現在も、大なり小なりイジメが起こっている。

ほとんどの場合は、たぶん、暴力ざたにならない程度ですんでいるか、イジメられている子供が孤独に必死に耐えているか、耐えられない場合は、他の学校へ転校するかして、表ざたにならないだけである。

イジメはめったに起こらない特殊なことだと学校関係者が思っているかぎり、毎回毎回、「イジメはなかったと認識している」と馬鹿の一つ覚えの発言を繰り返して、自分たちの無能さをさらけ出す羽目となっている。

なぜ教育関係者そして親たちががイジメに対して無知無能かといえば、彼らがヒトという生き物が子供から大人まで、どれほど本当は闘争的か、他者をコントロールして優位な立場に立ちたいという願望にどれほど駆り立てられて生きているか、知らないからだ。学校の教師はいつも生徒をコントロールして、自分のパワーを感じたいと思っている。親はいつも自分の子供をコントロールして、パワーを感じたいと思っている。そしてまた、教師同士、親同士も、コントロール・ゲームをしている。こういった自分たちの中にもある闘争本能を理解しないかぎり、子供同士のイジメのメカニズムも理解できないはずであろう。

「闘争本能」それ自体は、ヒトの肉体に生まれつき備わっているもので、それそのものが悪いわけではないが、それがヒトの自我(エゴ)とタイアップして、他人を踏み台にして、自己存在感を高めようとするとき、他者へのイジメという形でしばしば現れる。

その闘争本能をつかさどるホルモンが、テストステロンと呼ばれているオス・ホルモン(男性ホルモン)で、小学生高学年から中学生頃の思春期に、特に男の子の体の中で大量にそのホルモンが出始めることが知られている。

テストステロン(男性ホルモン)の作用というのは、日常用語的に言うと、「自分の中のエネルギーを外側に発散して、自分のパワーを感じたい」という衝動であり、sexはその衝動の一番有名な表現である。


学校という場で許されるテストステロン(ちなみに、このホルモンは女性の体の中にもある)の表現は普通、勉強、スポーツ、芸術とほぼ三つの分野に限られていて、この分野でテストステロンの衝動をうまく昇華できる子供たちは、学校という場で、それなりの居場所を見つけて、自分の存在にある程度自信をもつことができる。

しかし、すべての子供たちがテストステロンを無害に昇華できるわけではなく、学校の方針や教師の教え方が自分に合わないなどの理由で、不安や退屈や苦痛を感じている子供たち、あるいは、何らかの事情でひどい心理的ストレスをかかえている子供たちは、ほとんどの場合、人間関係の中で、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとする。

イジメている子供たちには、自分たちが悪いことをしているとか、自分たちがイジメているという認識はほとんどないはずであり、ただあるのは、「どうだ、オレがどれほど強いか、わかったか」みたいなテストステロンの衝動による自己存在の確認だけである。

そしてイジメられている子供も、多くの場合、イジメられていることを否定するのは、「イジメられている」ことを認めると、「自分は弱い存在である」ことを自分でも認めることになるからだ。子供の自殺というのは、自分のパワーの最後の証明とある種の「復讐」の意味合いがあるのではないかと、私には感じられる。小学中学生の頃のすべての子供たちは、切ないほど、自分の存在(パワー)を他者に認めさせたいと思っている。

学校でのイジメの問題に対しては、大人が考える解決法よりも、子供たち全員に問題を考えさせ、解決法を自分たちで創造させるのが本当は一番効果があるだろうと私はそう思っているが、学校関係者が自分たちの保身や無能さのために隠し続けると、いつのまにか大人の世界の(動物的)政治問題になってしまい、問題がスパイラルに膨れ上がって、もう誰も止めることができない状態になる(以前紹介した「ハインリッヒの法則」が当てはまる)

さて、テストステロンの衝動を動物的闘争という形で表現しようとするのは子供だけでなく、一生この動物的闘争に中毒する人たちもいる。「国民の生活が第一」党(という冗談のような党名――本当は、「オレの権力闘争が第一」党にすべきであろうと思うけど)の党首にこのたび就任された民主党元代表の小沢一郎氏はその典型である。誰かとの権力争い、選挙などの戦いになるときだけ、テストステロンが最高潮に盛り上がる方なのだ。小沢氏は、「昨年の原発事故のあと、放射能の影響が怖くて、地元へお見舞いにも行かなかった」とか、「塩を買い占めるように命じた」とか、自分の妻からその臆病ぶりが暴露されたという話がネットに出ていたけれど、集団でイジメる子供たちも、集団で動物的権力闘争する大人たちも、みな本当は臆病である。

というよりも、人はみな臆病なのだ。私の観念によれば、それを認めることができる人は人間で、それを認めることができない人はサル脳状態である。それを認められるとき、テストステロンの衝動が動物的闘争から人間的闘争へと進化する可能性が開かれるのである。

で、もうすぐロンドン・オリンピック――テストステロンが一番美しく無害に昇華され、お金も稼げて、人々からの称賛も得られるのが、スポーツという分野である。オリンピックのメダルとは、孤独と苦痛に耐えて、(イジメとは違って、より弱いところへ向かうのではなく)、より高くより強いところに向かった人たちに与えられる称号である。

お勧めの本
「政治をするサル――チンパンジーの権力と性」フランス・ドゥ・ヴァール著(平凡社)
チンパンジーの世界とヒトの世界がどれほど似ているかを教えてくれる本

死にたい気分という病気2012年06月14日 10時44分36秒

毎年、この時期になると、昨年の「自殺者数」が発表される。多少少なくなっているとはいえ、昨年も3万人を超え、特に20代、30代の若い人たちの自殺が増えているそうである。調査によれば、大人の3人に一人だったか4人に一人に自殺願望があるとされている。

「死にたい気分」――それは誰もがかかりうるある種の精神の病気である。私がその病気にかかったのは、二十代前半の大学卒業前後の数年間のことである。今と同じく、大学生の就職が非常に厳しい時代で、私は黒い雲に覆われた世界に住んで、何とかその世界から出ようと窮屈な世界でもがいていた。今でいうある種の「うつ病」状態だったのだと思う。どうもがいてもその世界からの出口を見つけられず、私はたびたび死ぬことを考えたものだ。

大学を卒業していわゆる今でいうフリーターをやっていたある日、まったく意図せず、まったく偶然、その黒い雲が一晩で消え去るという事件が起きた。何が起こったかというと、あることで私が怒り始めたら、怒りと悲しみが止めようもなく、どんどんわきあがってきて、100%の悲しみと怒りの言わばガソリンの海の中で全身が炎上してしまったのだ。私を取り囲んでいた黒い雲は実は自分の悲しみと怒りの雲で、そのとき幸運なことに、その黒い雲が全部燃え去ってしまったのである。一晩たったら、なんということか、気分がものすごく軽くなり、ある種の多幸感に包まれた。このとき、私はスピリチュアルな探求を始める前で、スピリチュアルや心理学について何も知らなかったので、この出来事をスピリチュアルな経験として考えなかったが、あとで考えてみたら、生涯の最大の「神秘体験」だったかもしれない。たまにスピリチュアルな本に言及されている、「意図されない変容」、まさにそういうことが起きたのだ。もちろん、そうした多幸感は長くは続かず、数ヶ月で静まったし、それ以来憂鬱な気分にならないというわけでもなかったが、重苦しい窒息しそうな憂鬱感からは解放された。

物事が自分の思うようにうまくいかなくて、分離感、敵対感、孤独感、不安、怒り、憎しみ、プライド、罪悪感等が、黒い雲のように自分のまわりにどんどん蓄積されて飽和状態になるとき、(おそらく自分でも止めようもなく)人は、自殺、あるいは自殺願望が反転して外側に出て、他者への暴力行為の方向へ向かってしまうのではないか、と私はそう理解している。私の若い頃の場合は、どういう偶然だったのか恩寵だったのか、その飽和状態が全然別の展開となって、世界と自分を遮断していた分離の黒い雲が相当抜け落ちてしまったのだ。

深刻なほどの自殺願望のある人たちを救う決定的な方法があるのかどうかはわからないが、たぶん、誰かがそういった人たちの黒い雲の中に愛情深い手を差し伸べて、風穴を開けて、世界とのつがなりを回復するのを助けてあげれば、一部の人たちには自殺を思い留まらせる効果があるだろうし、現在日本各地で様々な団体が各種の自殺対策をおこなっていると聞く。

私自身は、「死にたい」という人たちへの対応があまり優しくない。昔、私の本の読者の人が電話で「死にたい」と言ったとき、話の成り行きで、私が最後になんと言ったかというと、「死ぬのも悪くないかもしれない」みたいな言葉だった。そのやり取りを隣でたまたま聞いていた人に、「どうしてそんな冷たい言い方をするの?」と、私はひどく叱られた。私は、人がしたいということに基本、反対しない主義だし、自殺・安楽死の自由を認めている。「死にたい」と言う人に、「死んではいけない」と説得する一体どんな権威を他人がもっているというのか、生が苦痛か死が苦痛かを決めるのは、他人でなく、本人である、とその当時はそんなふうに考えていた。

やはり昔、半ボケしていた祖母が、「川に飛び込んで、死にたい」と子供のように駄々をこねたときも、私はこう言った。「それなら、死ねばいいよ」。すると祖母は、「川まで歩いて行けない」と言い、私は、「それなら、タクシーで川まで行けばいいよ」と言った。今度は、「タクシーに乗るお金がない」と言うので、私は、「だったら、私がおばあちゃんを川まで背負っていってあげる」と言った。そのあと、祖母は、「孫から、死ねと言われた! そんなこと孫に言われるようじゃ、もうおしまいだ」とヨヨヨと泣いた。そのやり取りはまるでお笑いのコントのようだった、と見ていた家族には言われたものだ。祖母はそのあとも数年以上生き、天寿をまっとうした。

今なら、特にスピリチュアル系の人で、「死にたい」という人には、たいてい一言、「自殺しても、ムダ!」。その「自殺しても、ムダ!」の根拠を私はうまく説明できないが、とにかく「自殺しても、ムダ!」。



スピリチュアルは社会を変えない2011年10月23日 09時27分35秒

(出版予定の本が、諸般の事情で遅れていますので、本の紹介を延期します)

この間亡くなったスティーヴ・ジョブズ氏のことは、アップル社のカリスマ的経営者というぐらいにしか知らなかったが、亡くなったあと、サイトに出ていた様々な記事を読んでみた。(私がパソコンを使い始めた最初の10年間はマック愛用者だったので、アップル社にはとてもお世話になった。90年代は、まだのんびりしていて、アップル社のサポート・センターに電話して、パソコンの使い方でわからないところを尋ねると、無料で何時間も付き合って、答えてくれたものだ)。

あるサイトに以下の内容の記事が掲載されていた。

スティーヴ・ジョブズ氏は若い頃、ヒッピー文化やインド哲学に惹かれ、ラム・ダス(「ビ・ヒア・ナウ」の著者)のグルであるニーム・カロリ・ババに会いに、実際にインドまで出かけたが、ニーム・カロリ・ババは彼がインドへ到着する一ヶ月前に亡くなり、会えなかった。インドに滞在して、彼はインドの貧困に衝撃を受け、またインドの霊性の伝統にもある種の失望を感じ、「ニーム・カロリ・ババとカール・マルクスを二人足したよりも、エジソンのほうが社会を変えた」ことに気づいた。それで、自分の情熱を、画期的な製品を生み出すことで社会を変えることに方向転換し、それ以後、生涯にわったってその情熱を追求した―まあ、だいたい以上のような話だったと思う。

「宗教やスピリチュアルよりも、物のほうが社会を変える」というスティーヴ・ジョブズ氏の若き日の洞察は、まったく正しいものだ。その証拠は、仏陀やキリストの教えだ。数千年前、彼らが出現して、神の王国や涅槃への道を教えたが、彼らの教えが社会や人類を変えたとは言い難い。人類社会は今も、数千年前と同じ苦しみ―戦争、暴力、貧困、飢餓、不安、孤独――に苦しんでいる。

社会を変えるには、物のほうがはるかにインパクトがある。それは、宗教やスピリチュアルの価値を理解するのは、大多数の人にとって困難であるが、物の価値を理解するほうがはるかに簡単だからだ。

たとえば、100人の人を、ニーム・カロリ・ババやラマナ・マハルシのようなインドの賢者のところへ連れて行って会わせたとしても、その100人の人の中で、ニーム・カロリ・ババやラマナ・マハルシの存在や教えに影響を受けることができる人はせいぜい一人いるかいないか程度であろう。しかし、100人にスティーヴ・ジョブズ氏の発明品であるiPodやiPadを与えて使い方を教えれば、ほとんどの人がその便利さの虜となり、おそらくは自分のライフスタイルさえ変えてしまうかもしれない。

物は人のライフスタイルや社会の外側の形態を変えるが、しかし、物の限界は人を根本的には幸福にも平和にもしないということである。たとえそれがどれほど画期的な製品で、一時的には人を興奮させ、喜ばせるとしても。そのことに気づいた少数の人たちは、情熱の方向を自分の内側に転換して、スピリチュアルな探求を開始するというわけである。

とはいえ、私自身も便利な物(iPodも愛好している)を嫌いではないし、最高の科学と最高の宗教(スピリチュアル)は究極的には一致すると確信もしているので、科学技術の発展にもそれなりには関心をもっている。だから、第二、第三の天才スティーヴ・ジョブズ氏が出現して、もっと衝撃的画期的な商品(たとえば、すべての家電に取り付けられる超小型超強力太陽光発電機とか)を発明してくれたら、いいなあと思っている。

お勧めの本
「愛という奇跡――ニーム・カロリ・ババ物語」ラム・ダス編(パワナスタ出版)



いつのまにか母系社会の日本2011年09月03日 10時16分41秒

私の両親も含めて、娘と暮らしている老親が最近は目につく。娘の形態は、シングル、シングルマザー、結婚して子供がいる、など様々であるが、どの形態の娘でも、たいていうまくいっていて、親も子(娘)も楽しそうである。

私が子供の頃、日本は父系社会だと言われ、つまり、家の跡を継ぐのは男で、親の面倒を見るのも男(特に長男)で、息子の生まれない家庭はかわいそうだと思われたものだ。あれから半世紀、日本もすっかり様変わりして、「娘が多い」ことは、いつのまにか「価値あること」になってしまった。今では私の高齢の両親は、親戚にも、近所にも、病院でもたいていこう言われる。「お宅は、娘さんが多くていいいですね」。つまり、世話や介護をする人員がたくさんいて、いいですね、という意味だ。

しかし、また今から数十年後はどうなるかは、誰にもわからない。「人生、万事塞翁が馬」、つまり、いつだって、不利なことは有利なことに代わり、有利なことは不利に代わり、また不利なことが有利にかわる、のである。未来の展開など誰にも本当は予測もつかないので、だから人は、ただ自分が今もっているもの(家族であれ、仕事であれ、その他何であれ、そして特に一番大事なものは、「私は在る」という「気づき」である)を喜び、縁のある者同士が、お互いを助け合って生きるのが、一番平和で楽しいことなのである。

まだ寝たきりでも、認知症でもない私の老親も、さすがに最近はピンピン元気ともいえなくなり、ピン元気程度の日々を送るようになった。先日も、父が、持病が悪化して入院し、医者から特別な延命治療をするかどうか尋ねられた。私たちは日ごろから、「不自然な延命治療はしない」と決めていたので、父の自然の生命力と普通の医学的処置に任せたいと伝え、集中治療室で家族全員が父を見守っていた。父は一時、「三途の川を渡りかけて」いたようだったが、なんとか持ち直して徐々に回復した。

普段は人からあれこれ世話をされるのをそれほど好まない父も、入院中は、家族の愛情と世話(家族が、交替で病院に通って、父が再び普通の生活を送れるように、父の体をマッサージし、励まし、話し相手になっている)をとても喜んでいる。父と私たち娘たちは、性格的にはお互いに面と向かって愛情表現をするようなタイプではないので――いつもはお互いに「辛口」である――父が生き返って、こういう形で父に愛情と感謝を表現する機会が与えられたことは、本当に神の慈悲ともいえるようなことだった。




「ポジティブ病の国、アメリカ」2010年11月21日 09時01分29秒

今、アメリカのジャーナリスト、バーバラ・エーレンライクの最新作「ポジティブ病の国、アメリカ」 (河出書房新社)という本を、読んでいる。

バーバラ・エーレンライクは、私の印象でいうと、日本でいえば、何年か前に亡くなった、ジャーナリストの筑紫哲哉氏に感じが似ている――舌鋒鋭い、リベラルなジャーナリスト、古きよきアメリカを愛する、そしていつもアメリカの政治・経済・社会の現実に怒っている愛すべきおばさん。

彼女は、ここ数十年のアメリカの現実――労働者が働いても働いても報われない現実――その格差の原因がどこにあるのかを鋭く追及する本を書いてきた。今回彼女がその調査・批判の対象に選んだのが、アメリカのポジティブ産業(スピリチュアルからビジネス・モーティベーション産業にいたるまで、肯定的物の考え方、態度を教える産業)である。

本書によれば、アメリカでは、ビジネス、宗教・教会、そして医療現場、労働現場のあらゆるところで、「ポジティブ(肯定的)で楽観的な態度」が推奨、いや、ほとんど強制されているといい、特に「ザ・シークレット」の本のヒット以後、その盛り上がりは頂点に達しているそうである。ところが、これだけ「ポジティブで楽観的な態度」が推奨・強制されているというのに、アメリカの状況、特に経済・労働環境は悪化の一途とたどっている――それは、なぜなのか?

バーバラおばさんは、現実を直視しない(させない)そういった安易な楽観主義、肯定的物の考え方の蔓延こそ、むしろアメリカのビジネスを凋落させ、金持ちと貧乏人の格差をいっそう広めてきたという論を展開する。

彼女が具体的に挙げている例は、
たとえば、会社で業績が不振だったとしよう。すると、そこの経営陣たちは、自分たちの責任を追及したり、自分たちの報酬は下げることなく、ビジネス・モーティベーション産業の力を借りて、社員のリストラを苦痛なくおこなったり、社員に「やる気向上」プログラムを押し付けたりする。リストラされる社員は、「リストラされることは、あなたのチャンスです。それを肯定的に考えましょう」と説得され、また態度がネガティブだと査定された社員は、職場で排除されたり、非難を受けたりするというわけである。

本書には他にも、
ビジネスの厳しい現実を見るべきときに、楽観的な考え方や「引き寄せの法則」で、なんとか切り抜けられると考える企業のCEO(最高経営責任者)の人たち、

そして、「信仰(=教会に寄付をすれば)があれば、どんなことも可能である」と、貧しい人たちに楽観主義をあおり、不釣合いな寄付や消費に追い込む教会の伝道師たち等々、山ほど事例が挙げられている。

バーバラおばさんは、人々が本当は、怒って、文句を言うべきときに、安易な楽観主義、肯定的物の考え方にまるめこまれて、自分のお金も働き場所も失ってますます貧しくなっていく一方、そういった一部のポジティブ産業の伝道師たちが、大金持ちになっていく様子を、強い口調で批判している。

本書の中に、「ネガティブなたち人は、有害である。彼らはポジティブな人たちからエネルギーを奪うからだ。だから、できるだけネガティブな人たちを避けよう」という主旨の、そういったポジティブ産業の著名な伝道師の言葉の引用があって、それに対しても彼女は、そうやって、あらゆるところからネガティブな人やネガティブな意見を排除しようとするのは、いかがなものか、時には、現実に対して否定的な意見や否定的な人だって必要ではないか?と異議を唱えている。

私はいちおうスピリチュアル系に属しているので、スピリチュアルな考え方や「ポジティブ・シンキング」に対する彼女の批判のすべてには同意しないし、「人々はもっと現実に怒って、文句を言ったほうがいい」という考えにも賛成しないが、ジャーナリストである彼女とは少々違った観点から、安易な楽観主義、安易な「ポジティブ・シンキング」、そして、「ネガティブな人は、有害である」というような意見は、かえって多くの混乱や苦痛を招く危険性があると思っている。

次回は、いわゆる「ポジティブ・シンキング」のその功罪と限界について、もう少し踏み込んで書いてみたい。



「ハインリッヒの法則」2010年09月21日 09時40分34秒

前回は、有名な「ピーターの法則」(民主党の小沢さんは運よく無能レベルに出世しなかったので、彼はこれからも有能に活躍されることであろう)をご紹介したが、ついでに今回は、それに劣らず産業界ではよく知られている(が、あまり理解さていないような)法則、「ハインリッヒの法則」をご紹介してみよう。

それは1930年代、保険会社に勤めていたハインリッヒさんという人が発見した法則で、1件の重大事故の背後に、29件の軽傷の事故と300件の「ヒヤリ」「ハッと」する体験があるという法則だ。別名「ヒヤリハット」の法則、「1:29:300の法則」とも呼ばれている。

それは、たとえば、工場の大火事とか、企業の情報漏えいとか、社員の不祥事とか、医療ミスとか、マスコミで報じられる大事件、重大事故が起きたときには、たぶん、その組織内で、それ以前に、軽度の事故、トラブルが29件くらい、さらに300件くらいの「ヒヤリ」としたり「ハッと」したりする経験があったはずだ、というものだ。

「ヒヤリ」としたり「ハッと」するとき、「これはまずい」と思う人が企業内にいて、対策を立てれば、それは軽度・重度のトラブルに発展しないですむが、「ヒヤリ」「ハッと」を無視していると、軽度のトラブル・事故・事件へ発展し、軽度のものも無視していると、さらに重大なトラブル・事故・事件に発展する――数字の割合がどれくらい精確かは、私には実証できないが、でもこの法則が当てはまった事例はあちこちでよく見かける。

この法則は、企業だけでなく、家庭とか、あるいは単に一個の肉体精神機構(人間)にも当てはまることである――小さいミス、小さい不調、小さいトラブル(それはある種の警告のようなものだ)を無視していると、もっと大きなミスやトラブル・事故に巻き込まれやすい。

「ハインリッヒの法則」は一般常識として知っておくと、特に組織で働いている人には役立つだろうし、またスピリチュアルな教えを学んでいる人も、よくこの法則を理解し、警告が来たら無視しないことをお勧めする。

なぜかというと、スピリチュアルな人たちがよく使う観念、「あるがまま」とか、「起こることは神の意志」とか、「現象は幻想である」とか、「人生に問題はない」、こういった観念がしばしばネガティブに影響する結果、小さいミスやトラブルを無視して、大きなミスやトラブルに巻き込まれてしまう人たちがけっこういるからである――起きたことなんて、たいしたことないさ、だって、幻想だし、それに神の意志だし、私の責任じゃないし―みたいな(笑)

しかしまあ、スピリチュアルな道にいる人に関しては、事故・トラブル・極度の精神的苦痛のさなかに、神秘体験とか覚醒体験をする人も非常に多くいて、特にここ10年くらいそういう話を私はよく読んだものだ――主に、アメリカ人の話であるが――交通事故、大病、犯罪で刑務所に入る、破産、アルコール中毒・ドラッグ中毒等々。皆さんもよくご存知のバイロン・ケイテイは、極度のうつ病と肥満に苦しみに、肥満治療の施設で覚醒体験をしたのは有名な話だ。

だから、平穏無事ではなくて、ジェットコースター的人生をお好みなら、「ハインリッヒの法則」的生き方もスピリチュアル的には悪くないです――たぶん。


「ピーターの法則」―小沢さんと管さんの場合2010年09月11日 07時42分12秒

「ピーターの法則」(ローレンス・ピーター著 ダイヤモンド社)という今から40年ほど前に出版された本で、出版当事、世界中で非常に話題になった本がある。ご存知ない方のために、簡単にどんな内容の本かを説明すると、教育学者であった著者が、大企業、官僚組織のなかにはびこる「無能」について研究した本で、彼が発見した法則は一般に以下のような「ピーターの法則」として知られている。

(以下、ウィキペディア日本語版より)

1能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。

2時が経つに連れて人間は悉く出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。

3その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。

(以上、ウィキペディア日本語版より)

例をあげて説明すると、たとえば、

ある大会社で、有能な営業部長がいるとしよう。営業のエキスパートでその会社の売上げに非常に貢献した人だ。有能であるゆえに、まわりからも会社からも出世を要請され、営業部長よりも上のポスト、重役のポストへ出世する。ところが営業部長としては有能であったのに、重役としてはまったく無能で役立たずであることが判明。万一、その人が重役としても有能であれば、さらに限界まで出世を余儀なくされ、たとえば、最高経営責任者まで出世して無能をさらけ出す。(一番目の法則)

他にも
スポーツ選手として優秀だった人の多くが、コーチや監督になると無能になる理由も、このピーターの法則に関連している。

さて、今なぜピーターの法則のことを思い出したかというと、民主党の小沢さんが、民主党代表選に立候補するというニュースを読んだからだ。いよいよ小沢さんもピーターの法則に従って、総理大臣になることを余儀なくされ、無能をさらけ出す時期が来たのかと……

ピーターの法則のどおり、政治家はトップ(総理大臣)になるとほとんど無能となる。野党のときは、有能な野党だった人も、与党になると無能な与党になり、大臣のときは有能だった人も、総理大臣になると無能になる。それは過去の日本の総理大臣のほとんどに当てはまることだ。

小沢さんは、幹事長としては有能だったゆえに、総理大臣としても有能になって手腕を発揮するだろうと、彼の支持者たちは期待するわけであるが、その期待の大きさゆえに、おそらくは総理大臣としては無能が際立つだろうと思う。彼は権力を取ろうと攻めているときは強くても、守りには弱いタイプである。

そもそも、小沢さんはパフォーマンスが好きな外向きの性格ではないし、裏でコソコソ権力をふるうのが好きな人であるので、総理大臣職という飾りみたいな仕事を楽しいと思えないだろう。総理大臣職とは、公務と会議に追われ、いつも笑顔で礼儀正しい言葉を使わねばならず、しかもマスコミに24時間監視され、女性やゼネコンとの密会もままならず……

では、菅さんはどうかといえば、野党のときには有能だった、それから与党になって、大臣になってもまだ有能だった。それでやはりピーターの法則に従って、総理大臣になった(させられた)。彼は、性格的に外向きでパフォーマンスが好きなので、総理大臣職は楽しそうではあるが、以前よりはるかに無能のように見える――小沢さんを立候補に追い込んだことは、彼の無能であろう。

どっちが勝っても、次の政権は短命が予想される。万一もし政権が長期に続くとすれば、最初に紹介した「ピーターの法則」の3番目が満たされるときで、つまり、自分は無能でも、まだ無能レベルに達していない有能な部下がたくさんいて、その人たちが仕事をすれば、組織はなんとか持ちこたえていく、ということである――さて、お二人には、それぞれ、まだ無能レベルに達していない有能な部下がたくさんいるのかどうか……

いやいや、政治家を見て笑ってばかりもいられない。「ピーターの法則」を、「出世(別の仕事)をすると、無能になる法則」と拡大応用すると、組織や大企業に所属していない人も、よくこの法則の罠に落ちるのだ。

シンプル堂の場合――本を読む人(読者)としてはまあまあ有能であったのに、本を作り、売る人に「出世」したら、無能をさらけ出してしまった――「無能を修行」するという意味ではよかったけれど。

「ピーターの法則」の本、皆様にお勧めします。

同じ著者の本
「こんなことがなぜ起こる」(ダイヤモンド社)
「ピーターのピラミッド法則」(ダイヤモンド社)




日本人と英語(英会話)(2)2010年05月24日 20時08分27秒

「日本語を母語とするこの国に住んで、英語が話せるようになるなんて、不自然きわまりないことです。その不自然なことが自然に身につく道理はありえません」と著名な英語同時通訳者で英語教育家でもある國弘正雄氏は、その編著(英会話・ぜったい音読入門編――講談社)で述べている。

國弘正雄氏といえば、私が高校時代に、テレビ英会話の講師をされていて、その華麗で知的な英語に私はものすごく憧れ、さらに当時ベストセラーとなった「英語の話し方(サイマル出版)を読んで、もっと憧れ、ファンレターまで書いたことがある。國弘氏は丁寧にお返事をくださり、私はそのハガキを長い間宝物としてもっていた。

國弘氏は、現在の英語ブームを憂え、前述の本で、さらにこう書かれている。「私は昨今の英語ブームを憂いています。英語学習者の皆さんにも、同情の感すら覚えます。世の中がいまのように英語教材であふれかえっていては、英語を本気で学習しようとする皆さんまでが、あちこち目移りして、いたずらにあれこれ手を出すだけで、一つとして何を完成させず、実をむすべないままに終わってしまうことを心配するからです」

日本にいて「英語が話せるようになること=不自然なこと」のためには、國弘氏(だけでなく、今では多くの英語教育者、英会話の先生たちも言っていることではある)は、脳に英語の基礎回路を作らなければならないと強調し、脳に英語の基礎回路ができるまでは、どれだけ英語をあびるように聞いても、難しい単語やイディオムを覚えても、英語は話せるようにならないと断言する。

言語脳は、聞く・話す・読む・書くがそれぞれ独立しているので、聞けるから、読めるから、自動的に話せたり、書けたりするわけではないことは、日本語の経験からもわかることである(パソコンや携帯の使用で、漢字を読めるけど、だんだん書けなくなるというのは、読むと書くがそれぞれ脳の中では独立していることを示している)。聞ける・読めるから、さらに話せる・書けるようになるまでには、脳の筋トレが必要であるというのが、今では専門家の方々の一致した意見である。

國弘氏が脳に英語の基礎回路を作る方法として、推薦する方法はものすごくシンプルな方法で、それは中学校の英語のテキスト(またはそれと同程度のテキスト)の音読という方法である。

高校時代、國弘氏を英語の師と仰いだ私は、彼の推薦する音読の方法でなんとか大学入学までたどり着いた感じだったし、もし大学中もさぼらずに続けていたら、学生の頃に英会話ができるようになっていたかもしれない。

音読はシンプルでお金がかからないすぐれた方法なのであるが、こういった基礎訓練の難点は、スポーツの基礎練習と同じで少々退屈であるということだろう。その退屈をなんとか克服して、一定期間根気よく基礎訓練をすれば、初級程度は誰でもできるようになると、私はそう確信している。

ただし――英語(外国語)を話すこと(使うこと)――それは國弘氏も言うようにひどく不自然な習慣である。今でも、英語を使うときには、その不自然さからくるある種のストレスを私は感じることがよくある。もちろん楽しいこともたくさんあるけれど、何十年英語に関わっても、自分がそれを得意だと思えたことが一度もない。

それだけでなく、言葉の能力は、日本語も外国語も、使用しなくなると、筋力と同じく、聞く・話す・読む・書く、それぞれ、自然に衰えていくのは、哀しいけれど、確かな事実である。だから、外国語の世界に足を踏みいれると、最低限の能力を維持するためにも、筋トレが欠かせなくなる。

この間、書店の語学コーナーの棚を眺めていたら、(確か)「英語のバカヤロー」というタイトルの本があった。どういう本かというと、著名人に英語との関わりについてインタヴューした本である。日本の学者、専門家は、専門以外にも英語をある程度やる必要があり――なんで英語ごときで、こんなに私は苦労しなければならないのか?――と、まあ、専門家・研究者の皆さんも英語で苦労しているので、「英語のバカヤロー」のだ。

私も「英語のバカヤロー」と思ったことは何度もあるが、日本語も含めて言語が好きなところが、私にとっては救いである。縁があって「英語のバカヤロー」に再挑戦しようと思う方、これから新しく英語学習の本を買おうと思っている方のために、英語脳回路を作るための初心者向け良書だと思う本を何冊かご紹介してみよう。

「英会話・ぜったい音読入門編(國弘正雄編――講談社)
音読練習のために学校の教科書からよりすぐった内容を選んで作られたシリーズ。國弘氏が音読の意義について懇切丁寧に説明している。中一レベルから高校レベルまである。

「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」森沢洋介著――ベレ出版
CDに中学3年分の基本的英文とその日本語訳が入っている。これだけ覚えれば、初級としては十分すぎるくらい十分。難しい英語が読めるのに、簡単な英語がしゃべれなかった著者(たいていの日本人が陥る状況)が、あるときその理由を理解し、それにもとづいて作った本だけに、非常に説得力のある本だ。

「話すための英文法」市橋敬三著――研究社
これも「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」と同じコンセプトでつくられているが、違いは、日本語訳がCDに入っていないことと、英文がもう少し口語風である。こちらは数十年のロングセラー。

「書く英語(基礎編)」松本亨著――英友社
英作文の本として分類されているが、会話のためにも役に立ち、初心者から中級者のために幅広くお勧めできる良書。本の構成、組み立てが非常にいい。何十年のロングセラーである。

「のうだま」上大岡トメ&池谷裕二著――幻冬舎
英語関係の本ではないが、あらゆることに関する「やる気の秘密」について迫った本。人(の脳)は飽きやすいことを前提に、ではどうすれば飽きずに何かを続けられるか、脳科学の研究をもとにイラスト入りで、簡単に説明している。

[イベント]
「楽しい英語の会」日時:2010年5月30日(日曜日午後)(東京)
英語の効果的な学習法・独習法と外国語を話す心理的な面について、講師を交えて皆さんで話し合い、学ぶ会です。英語の学習法に興味のある方は、どなたでも参加可能ですが、一応、英語(英会話)初級レベルを学習している方、これから再学習しようとしている大人の方を対象としています。詳細は下記サイトへ。
http://www.simple-dou.com/CCP006.html


日本人と英語(英会話)(1)2010年05月09日 13時18分50秒

何年か前に、日本の英会話学校No1だったN社が多くのトラブルを抱えて、倒産し、つい最近、今度はそのあとを継いで(確か)No1だったG社も倒産した。

これだけ子供から大人まで、英会話はブームというのに、何が問題なのだろうか?

それぞれの会社の経営上の色々な問題があろうとは思うけれど、私は一部の英会話学校が採用している多額(だいたい数十万円)の受講料前払い(N社もG社もこのシステムを採用)システムに多くのリスクがあるように前々から感じていた。

たとえば、人が、「さあ、何十万円も払ったし、これから英会話学校に通って、頑張って、英会話をものにするぞ」とまあ、こんな決意をしたとしよう。

ところが、人のやる気はそう長くは続かない。特に大人の場合、忙しい、疲れている、残業が突然入った、進歩が感じられない、退屈、予約がとれない等々の事情で、早々にやる気をなくし、そのうち学校から足が遠のき、そうこうしているうちに受講チケットの期限が切れてしまう――というような話を、そういったシステムの学校に通った経験のある何人かの人から聞いたことがある。

生徒が受講チケットを消化しないままやめていく――これは生徒の側だけでなく、学校(会社)側にとっても、多大な損失であり、多額の受講料前払いシステムではこの損失が起る確率が高くなるのだ。

大昔、大学を卒業した頃、私も英会話をマスターしたいと思い、英会話学校に通った経験がある(学校というより、月謝制の教室のようなところ)。

ところが行くたびに、ストレスを感じてツラクなって半年でやめてしまったのである。毎回、外国人の先生が初めに、「先週は何をしましたか?」と生徒一人一人に尋ねるわけなのだが、毎日似たような生活をしているので、毎回、同じようなことしか言えない。そもそも英語がしゃべれないので、それから先へ話が進まない。毎回同じことをしゃべったあとは黙って、しゃべることができる人たちの楽しそうなおしゃべりをただ聞くだけ――それが最大のストレスだった――私は、自分が英会話学校に何年通っても、英会話ができそうな気がまったくしなかった。

そのあと、高校生や中学生に英語を教える仕事についた機会に、英語の先生が英会話もできないのはさすがに恥ずかしいと思い、さらに、英会話ができないトラウマ(心の傷)がものすごく苦痛となって、独学を決意したのである。約3年(途中やる気を失くした時期もあったので、実質的には2年くらい)で、何とか話せるようになった。

英語が少し話せるようになってから、本当に自分の英語で通じるのか確認するために、もう一度短期間だけ英会話学校(教室)に通ったことがあり、このときは楽しかった。

英語(英会話)――昔の私だけでなく、英語(英会話)は多くの日本人にとってトラウマである。それはよく言われるように、中学、高校、大学と約10年も英語を勉強して(勉強させられて)、なぜ簡単な英語すら話せるようにならないのか、というようなトラウマである。

そのトラウマを解消するために、生活・仕事上、特に必要がなくても、英語(英会話)を勉強している人たちはたくさんいる。でも、必要がなくても、英語(にかぎらず外国語)をやっているうちに、なぜか、その言語が必要な仕事がまわってくるという人生の展開もあるようだ。

さらに、英語やその他の外国語ができると、心理的・文化的世界が広がる、それから、他の国民、文化、宗教を理解できるようになり、異なるものに対して寛容になる、驚くことができる、そして、同時に自国の文化にも改めて感心したり、笑えたりでき、偏狭なナショナリズムに陥らなくてすむ等、色々楽しいことがある。

最終的には、英語や外国語をやるかやらないかは、そういう運命があるかないかの話になるとは思うけれど、それでも、特に若い世代の方には、英語にかぎらず外国語を学ぶことをお勧めしたいと思っている。

たまに英語(英会話)の勉強法を尋ねられることがあるので、このたび、下記のような会を企画しました。

[ イベント]

「楽しい英語の会」日時:2010年5月30日(日曜日午後)(東京)

英語の効果的な学習法・独習法と外国語を話す心理的な面について、講師を交えて皆さんで話し合い、学ぶ会です。英語の学習法に興味のある方は、どなたでも参加可能ですが、一応、英語(英会話)初級レベルを学習している方、これから再学習しようとしている大人の方を対象としています。詳細は下記サイトへ。

http://www.simple-dou.com/CCP006.html



ないものねだりの貧乏スパイラル2010年04月21日 13時07分44秒

貧困に関する話で、昨年たまたま見た二つのテレビの映像が私の印象に残っている。

最初の映像は、ドイツの旧東ドイツ地区に住んでいる男性の話で、彼は8年間失業しているという。でも彼は、失業しているとはいえ、ホームレスではなく、ちゃんとしたアパートに住み、無料の食料支援も受け、見たところ健康である。私はそれを見て、8年も(!)失業していられる生活、さすが高福祉国のドイツだと思ったものである。

ところが、そんな恵まれた生活をしているその男性は、「今のドイツが嫌いだ。昔の東ドイツ時代のほうがずっとよかった」と不満たらたらなのである。

それからもう一つの映像は、生活保護を受けている日本の母子家庭の話で、ひと月15万円の生活保護で母親と幼い子供(4、5歳くらいの感じの子供)で暮らしている。母親は、自分は一日に一食しか食べず、お風呂は週に1回しか入らず、子供には飲み物も与えてあげられず、しかも自分は病気がちで通院して、働くこともできないとカメラの前で自分たちの貧しさを強調する。実際その母親はがりがりにやせていて、子供はスープとか飲み物もなく、哀しそうな顔でパンをかじっている、そんな風景であった。

この映像で、私が何より、まず不思議に思ったことは、「子供には飲み物も与えてあげられない」のところで、このお母さんは、今の時代、飲み物がどれだけ安いのか知らないのだろうか、ということだった。料理が嫌いでも、安くて簡単な飲み物(インスタント味噌汁とかインスタント・スープ、インスタント・コーヒーや紅茶、牛乳等)や安く作れる飲み物はたくさんある――私も一杯約10円のインスタント味噌汁や5円で1リットル作れるウーロン茶を愛飲している。

ひょっとしたら、テレビ局の意図で、過剰に貧しさを演出したのかもしれないが、もしその意図が、「貧しさへの同情を集めること」であるとすれば、あまり感心したことではない。

なぜなら、ある人やある状況に「かわいそう」とか「同情すべきもの」というハンコを大勢の人たちが押してしまったなら、その人は、その状況から抜け出すことがますます難しくなるからである。

これは自分の状況に対しても同じことがいえ、自分が置かれた状況や自分自身に、「かわいそう」とか、「同情すべきもの」というハンコを押せば、やはり、そこから抜け出すのが難しくなる。(抜け出したくない人は、積極的にハンコを押すといいかもしれないけど)

こう書くと意外に思う人がいるかもしれないが、もし長期的貧困に精神的原因があるとすれば、それは「プライド」である――なんで『私』がこんな程度の境遇(収入)でなければいけないのかとか、『私』はもっと世間から優遇されて(愛されて)しかるべきだ、というような「プライド」。

そういったプライドが、今与えられているもの(たとえば、失業手当とか生活保護費とか)のよさを、認識するのを邪魔するのである。

ないものを欲しがり、あるものを無視――こういうことが積み重なって、抜け出すのが困難な貧しさへ転落していく人たちが、たくさんいるのである。

個人だけでなく、町とか村とかの地域振興にも似たところがある。

今年のお正月に読んだどこかの新聞の記事で、九州地方のある島の地域振興プロジェクトの話が出ていて、その島では、島に今すでにある独特の産物や特徴をアピールすることで、たくさんの観光客が来るようになった、というような話だったと記憶している。

その関係者の一人が、「今までの地域振興は、自分の村や町に橋がないから、道路がないから、作ってくれ、というような『ないものねだり』みたいなものばかりで、それが財政を圧迫し、かえって地域経済を貧困にしてきた」という主旨のことを語っていた――「ないものねだりの貧乏スパイラル」で、一番有名になった町が財政破綻した夕張市だ。そんな例があるというのに、最近も関東のどこかの県に、この航空不況の時代でたいした需要もないのに、最初から赤字覚悟で空港ができたというから、驚きである。

今の時代、失業やリストラや病気やその他で、誰でも一時的には、失業したり、貧しくなったりする可能性があり、誰一人その例外ではないし、今日お金持ちで羽振りがよくても、明日は運命がどう変わるかは誰にも予想はできない。一時的に貧乏になったり、失業したりしたら、自分や他の人に何と言ってあげるか………ちょっと考えてみた。

「お金はなくても、呼吸はしているじゃない?」――お金より、呼吸しているほうがずっと大事。

「お金はなくても、本質が失われたわけじゃない――スピリチュアルな究極の事実

「倹約力があがる機会だね――お金を使わず、どうやって生活するか、考えるのはけっこう楽しい。

「働かないって、ワクワクしない?――というタイトルの本があります。

「働かないって、貴族じゃない――シンプル堂の座右の言葉。

貧乏を嫌えば嫌うほど、貧乏はますます近寄ってくる――先日どこかのサイトでたまたま見かけた言葉である。

参考図書

「金欠力」吉野信吾著 祥伝社

お金がない時期を、どう人に嫌われず、快適にすごすか指南した本。