ほとんど「どん底」 ― 2007年10月18日 14時04分50秒
数年前の大ベストセラーに、「下流社会」(三浦展著 光文社新書)という本がある。格差が拡大していく日本社会を巧みに分析したその本の冒頭で、著者は、「下流社会の人々」を次のように定義してみせた。
1.年収が年齢の10倍未満
2.その日その日を気楽に生きたいと思う
3.自分らしく生きるのがよいと思う
4.好きなことだけをして生きたい
5.面倒くさがり、だらしない、出不精
6.一人でいるのが好きだ
7.地味で目立たない性格だ
8.ファッションは自分流である
9.食べることを面倒くさいと思うことがある
10.お菓子やファーストフードをよく食べる
11.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがある
12.独身である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)
これらの定義を読みながら、私は、自分がその中の多くに当てはまることを見て、「おお、私って、世の中の定義でいうと、負け組み下流階級なんだ!」とビックリする。
実は、私は今紹介した定義のように生きることが、人生の快適勝ち組だとずっとひそかに信じてきたわけで(苦笑)……だから、こういう識者の方の話を読んだり、聞いたりするたびに、いかに自分が世間とずれているのかを、思い知らされる。
20代の頃、いわゆる世でいうところの「自分探し」を開始した頃、私は、大人たちや社会の言うことや教えることには多くのウソや欺瞞があると感じていた。その頃感じたウソの一つが、人は社会の中を上昇すれば、するほどほど幸せになる、というものだった。
社会での上昇ゲームとは、おもにお金の量(年収や売り上げ)と高さ(役職と地位)の上昇を意味した。
上昇に成功した人たちも、上昇に失敗した人たちも、そう説いていたが、まわりに本当に幸せな大人なんて見たことがなかったから、上昇が幸福だなどと、私は信じることができなかった。
一方、世の中の価値観を否定しているような宗教や精神世界の団体に関わっても、その中にも、非常に奇妙なことに、世俗の世界の階級と同じような階級というものが存在した。修行やお布施や奉仕や導師の寵愛を通じて、その階級を上っていくのが、その団体での人々の生きがいとなっていた。
私は、つくづく、思ったものだ。人間の志向と嗜好と思考は、世俗にあっても、スピリチュアルにあっても、ほとんど変らないんだと。
怠け者の私は、社会においても、スピチュアルにおいても、努力の必要な上昇ゲームをあきらめ、代わりに怠け者であること許してくれる教えを探すことにした。
長い探求ののちに、ようやく私は、幸いなことに、上昇を志向しない例外的な教えを見つけ、その教えに今は、心から平和を感じている。
その教えを説いたハーディングという哲学者&第一人称の科学者は、「どん底にこそ私たちの本質と平和がある」といい、どこを見れば、その平和などん底があるのか簡単わかる実験を開発した。彼はまた「どん底と頂点は一致する」ことも教えてくれた。
世俗の中の階段を上ることも、スピリチュアルな階段を上ることも多大なお金と時間とエネルギーがかかるものであり、仮に努力の末に頂上にたどりついても、頂上の椅子に坐れる人たちは少数のエリートである。
しかし、ハーディングが言うように、存在のどん底へ落ちるのは、地上の物が重力の力で、努力なく下へ落ちるように、誰でも簡単にどんな努力もいらずに、落ちていけるところがよいところである。存在のどん底とは、実はあらゆる人に広く開かれているのである。
そして、どん底にいながら、平和ボケしない程度に、時々は自分に合った活動で、多少の背伸びをすること=自分にストレスを与ること=人間的個人的上昇ゲームをするのが、まあ、私にとっては一番シンプル快適ライフだと確信している。
最近は、ボケ防止のために、世の中の流行と同じく、脳力上昇ゲームにはまっている。今年は、漢字検定4級までの漢字を全部書けるようにしようとか、フランス語単語を何語まで覚えようとか、本は最低何冊まで読もうとか、ブログを毎週書こうとか、そんなたわいもないゲームである。
で、本日も、少々背伸びをして、このようにブログを書いているというわけであります。
お知らせ
2007年10月21日(日)午後1時より4時30分
ハーディングの実験の会「私とは何かを見る」会
お申し込み・詳細は下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
1.年収が年齢の10倍未満
2.その日その日を気楽に生きたいと思う
3.自分らしく生きるのがよいと思う
4.好きなことだけをして生きたい
5.面倒くさがり、だらしない、出不精
6.一人でいるのが好きだ
7.地味で目立たない性格だ
8.ファッションは自分流である
9.食べることを面倒くさいと思うことがある
10.お菓子やファーストフードをよく食べる
11.一日中家でテレビゲームやインターネットをして過ごすことがある
12.独身である(男性で33歳以上、女性で30歳以上の方)
これらの定義を読みながら、私は、自分がその中の多くに当てはまることを見て、「おお、私って、世の中の定義でいうと、負け組み下流階級なんだ!」とビックリする。
実は、私は今紹介した定義のように生きることが、人生の快適勝ち組だとずっとひそかに信じてきたわけで(苦笑)……だから、こういう識者の方の話を読んだり、聞いたりするたびに、いかに自分が世間とずれているのかを、思い知らされる。
20代の頃、いわゆる世でいうところの「自分探し」を開始した頃、私は、大人たちや社会の言うことや教えることには多くのウソや欺瞞があると感じていた。その頃感じたウソの一つが、人は社会の中を上昇すれば、するほどほど幸せになる、というものだった。
社会での上昇ゲームとは、おもにお金の量(年収や売り上げ)と高さ(役職と地位)の上昇を意味した。
上昇に成功した人たちも、上昇に失敗した人たちも、そう説いていたが、まわりに本当に幸せな大人なんて見たことがなかったから、上昇が幸福だなどと、私は信じることができなかった。
一方、世の中の価値観を否定しているような宗教や精神世界の団体に関わっても、その中にも、非常に奇妙なことに、世俗の世界の階級と同じような階級というものが存在した。修行やお布施や奉仕や導師の寵愛を通じて、その階級を上っていくのが、その団体での人々の生きがいとなっていた。
私は、つくづく、思ったものだ。人間の志向と嗜好と思考は、世俗にあっても、スピリチュアルにあっても、ほとんど変らないんだと。
怠け者の私は、社会においても、スピチュアルにおいても、努力の必要な上昇ゲームをあきらめ、代わりに怠け者であること許してくれる教えを探すことにした。
長い探求ののちに、ようやく私は、幸いなことに、上昇を志向しない例外的な教えを見つけ、その教えに今は、心から平和を感じている。
その教えを説いたハーディングという哲学者&第一人称の科学者は、「どん底にこそ私たちの本質と平和がある」といい、どこを見れば、その平和などん底があるのか簡単わかる実験を開発した。彼はまた「どん底と頂点は一致する」ことも教えてくれた。
世俗の中の階段を上ることも、スピリチュアルな階段を上ることも多大なお金と時間とエネルギーがかかるものであり、仮に努力の末に頂上にたどりついても、頂上の椅子に坐れる人たちは少数のエリートである。
しかし、ハーディングが言うように、存在のどん底へ落ちるのは、地上の物が重力の力で、努力なく下へ落ちるように、誰でも簡単にどんな努力もいらずに、落ちていけるところがよいところである。存在のどん底とは、実はあらゆる人に広く開かれているのである。
そして、どん底にいながら、平和ボケしない程度に、時々は自分に合った活動で、多少の背伸びをすること=自分にストレスを与ること=人間的個人的上昇ゲームをするのが、まあ、私にとっては一番シンプル快適ライフだと確信している。
最近は、ボケ防止のために、世の中の流行と同じく、脳力上昇ゲームにはまっている。今年は、漢字検定4級までの漢字を全部書けるようにしようとか、フランス語単語を何語まで覚えようとか、本は最低何冊まで読もうとか、ブログを毎週書こうとか、そんなたわいもないゲームである。
で、本日も、少々背伸びをして、このようにブログを書いているというわけであります。
お知らせ
2007年10月21日(日)午後1時より4時30分
ハーディングの実験の会「私とは何かを見る」会
お申し込み・詳細は下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
by シンプル堂 [ハーディング] [社会] [精神世界] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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