怠け者の世紀 ― 2008年01月12日 14時35分39秒
あけましておめでとうございます。本年も、「シンプル、平和、快適、楽しい」をコンセプトに、気ままに気楽に適当に、ブログを書いていきたいと思います。お時間が許せば、お付き合いください。
お正月――母が作った料理をむしゃむしゃ食べながら、テレビを見たり、本を読んだりして、いつもよりもっと怠けてごろごろと過ごした。働き者の母と怠け者の私――私はやることがないかぎり、坐って本を読むか、ぼーと半眠りをしている。母はというと、疲れるまで、あれこれ忙しく働いている。昔から変わらぬお正月の光景であり、母といっしょにいると、私の怠け者ぶりはいっそう際立ってしまう。が、それである意味では関係の調和がとれているような感じもあり、神が家族の中のそれぞれの人間に与えるプログラミング(役割)は、よくできているものだと、つくづく感心する。
私が怠けることのよさを確信したのは、20代半ば頃で、その頃私はインドの導師、和尚(有名な精神世界の導師なので、ご存知の方も多いと思うが)の本をたくさん読んでいた。彼の教えのほうは、ほとんど忘れてしまったが、いくつか今でも印象に残っている彼の言葉があり、その一つが、「21世紀は怠け者の世紀になる」という言葉だった。
彼が言わんとしたことは、「21世紀は機械やロボットが人間の労働を肩代わりしてくれるので、人間はあまり働く必要がなくなる。そのため、何もしないでいることができる人、怠けることができる人たちだけが、快適に人生を生きることができる」というような主旨だったと思う。
その頃は、まだ21世紀になる数十年前の日本が高度成長している時代であり、日本全国、誰もがまじめに働くことを賞賛し、それに希望を見出していた頃だった。そんな中で私はただ一人、和尚の「21世紀は怠け者の時代になる」の言葉を喜び、「私は怠け者でOKであり、未来型の人間なんだ」と勝手に思いこむことにした。
そしてあれから数十年の日々が過ぎ去り、21世紀の日本は低成長時代になり、国中にニートの若者があふれてる。ニートは問題だと、識者の方々は、よく言うけど、ひょっとしたら、彼らは、和尚の言うように、「何もしないでいることができる能力、怠けることができる能力」をもった21世紀型の人たちかもしれないのだ。
「生産しすぎること=働きすぎること」が、地球環境の悪化に影響を与えていることを考え合わせてみると、ニートの人たちは自分ではほとんど生産活動をせず、親の財産(親の過去の生産活動)で生活して、案外、地球環境のためにはなっているのかもしれない。
つまり、地球という一個の生き物全体の立場から考えてみれば、先進国で生産活動の意欲に乏しい人たちが増えていること、そして、少子化は、地球が健康に生き延びるためには、よいことかもしれないのである。
究極的にいえば、いつの時代であれ、頑張って働くようにプログラムされている人たちは頑張って働き、頑張って働かないようにプログラムされている人たちは、頑張って働かない――そして、今はおそらく時代の必要によって、頑張って働かないようにプログラムされている人たちが増えている――それで、ちょうど全体の調和がとれているのである――ちょうど私と母のように。
お正月――母が作った料理をむしゃむしゃ食べながら、テレビを見たり、本を読んだりして、いつもよりもっと怠けてごろごろと過ごした。働き者の母と怠け者の私――私はやることがないかぎり、坐って本を読むか、ぼーと半眠りをしている。母はというと、疲れるまで、あれこれ忙しく働いている。昔から変わらぬお正月の光景であり、母といっしょにいると、私の怠け者ぶりはいっそう際立ってしまう。が、それである意味では関係の調和がとれているような感じもあり、神が家族の中のそれぞれの人間に与えるプログラミング(役割)は、よくできているものだと、つくづく感心する。
私が怠けることのよさを確信したのは、20代半ば頃で、その頃私はインドの導師、和尚(有名な精神世界の導師なので、ご存知の方も多いと思うが)の本をたくさん読んでいた。彼の教えのほうは、ほとんど忘れてしまったが、いくつか今でも印象に残っている彼の言葉があり、その一つが、「21世紀は怠け者の世紀になる」という言葉だった。
彼が言わんとしたことは、「21世紀は機械やロボットが人間の労働を肩代わりしてくれるので、人間はあまり働く必要がなくなる。そのため、何もしないでいることができる人、怠けることができる人たちだけが、快適に人生を生きることができる」というような主旨だったと思う。
その頃は、まだ21世紀になる数十年前の日本が高度成長している時代であり、日本全国、誰もがまじめに働くことを賞賛し、それに希望を見出していた頃だった。そんな中で私はただ一人、和尚の「21世紀は怠け者の時代になる」の言葉を喜び、「私は怠け者でOKであり、未来型の人間なんだ」と勝手に思いこむことにした。
そしてあれから数十年の日々が過ぎ去り、21世紀の日本は低成長時代になり、国中にニートの若者があふれてる。ニートは問題だと、識者の方々は、よく言うけど、ひょっとしたら、彼らは、和尚の言うように、「何もしないでいることができる能力、怠けることができる能力」をもった21世紀型の人たちかもしれないのだ。
「生産しすぎること=働きすぎること」が、地球環境の悪化に影響を与えていることを考え合わせてみると、ニートの人たちは自分ではほとんど生産活動をせず、親の財産(親の過去の生産活動)で生活して、案外、地球環境のためにはなっているのかもしれない。
つまり、地球という一個の生き物全体の立場から考えてみれば、先進国で生産活動の意欲に乏しい人たちが増えていること、そして、少子化は、地球が健康に生き延びるためには、よいことかもしれないのである。
究極的にいえば、いつの時代であれ、頑張って働くようにプログラムされている人たちは頑張って働き、頑張って働かないようにプログラムされている人たちは、頑張って働かない――そして、今はおそらく時代の必要によって、頑張って働かないようにプログラムされている人たちが増えている――それで、ちょうど全体の調和がとれているのである――ちょうど私と母のように。
by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
環境対策の矛盾 ― 2008年01月22日 13時06分05秒
リサイクル――今の時代では、それを考慮して生活するのは、常識となっている。怠惰な私だってやっている。ゴミは分別し、ペットボトルはリサイクルのため近くのスーパーへもっていき、お風呂の水は洗濯に使い、紙は、広告のチラシ1枚残らず、資源ゴミに出し、古着は海外の難民キャンプに送料を支払って送ってもらっている。トイレットペーパーやコピー用紙は、多少高くても、古紙混入のものを買う。よいことをしているという意識よりも、大量生産・大量消費の先進国に生活している者の罪滅ぼし、自己満足のようなものだと思っている。
でも、リサイクルを意識すると、色々時間がかかり、なんだか時々面倒になるときもある。
そんなときこの間、ペットボトルのリサイクルは、環境により悪いというデータを発表している学者のインタヴュー記事を読んだ。その方の研究によれば、ペットボトル1本をリサイクルするのに必要な石油は、約150グラムで、ペットボトル1本作るのに必要な石油は、約40グラム、つまり、リサイクルするほうが、3・5倍の石油を必要とするという。
その学者によれば、ペットボトルは可燃ゴミといっしょに燃やしたほうが、ずっと費用もかからず、環境にいいということである。つまり、ペットボトルのリサイクルは、多額の税金を使って、より大量の石油を消費するだけ、という、ちょっとショックな話だった。彼が言うには、コストを度外視したリサイクルは、大量生産・大量消費の免罪符でしかないという。その日以来、ペットボトルをどうするか、私は考えこんでいる。
大量生産・大量消費の免罪符――多くのいわゆる環境対策には、そんな面があるのは否めないような感じがする。先日は、製紙業界で、次から次へと古紙混入率の擬装が報道されていたが、紙の場合もたぶん、再生紙を作るのは、コストがかかりすぎるのかもしれない。
自分でもいくつか環境対策の失敗がある――待機電力を消費しないために、電気のコンセントをよく抜いていた頃、たびたびコンセントを抜いていたら、コンセントを壊わしてしまって(!)、かえって、お金がかかってしまった。それから、長持ちするというとても値段の高い電球を買ったら、普通のものより、早く切れてしまった、などなど。
結局のところ、一番の環境対策は、大量生産・大量消費しないことなんだと思うけど、それが実に今の先進国では難しいのである。「なるべく生産・消費しないようにしましょう」ということは、資本主義の価値そのものを否定することになり、生産高の減少=売り上げの減少=個々の人の収入の減少へと、導くからだ。だから、先進国の社会が、自らの意志で、「大量生産・大量消費」を止めることは、ほとんど不可能に近い。
最終的には、物を作る資源そのものが足りなくなり、物の値段が上がり、自然に「大量生産・大量消費」できなくなり、物が昔のように貴重になり、人々に本当に「もったいないの精神」が普及する――それが、これからの地球の意志ではないかと、私はそう感じている。
でも、リサイクルを意識すると、色々時間がかかり、なんだか時々面倒になるときもある。
そんなときこの間、ペットボトルのリサイクルは、環境により悪いというデータを発表している学者のインタヴュー記事を読んだ。その方の研究によれば、ペットボトル1本をリサイクルするのに必要な石油は、約150グラムで、ペットボトル1本作るのに必要な石油は、約40グラム、つまり、リサイクルするほうが、3・5倍の石油を必要とするという。
その学者によれば、ペットボトルは可燃ゴミといっしょに燃やしたほうが、ずっと費用もかからず、環境にいいということである。つまり、ペットボトルのリサイクルは、多額の税金を使って、より大量の石油を消費するだけ、という、ちょっとショックな話だった。彼が言うには、コストを度外視したリサイクルは、大量生産・大量消費の免罪符でしかないという。その日以来、ペットボトルをどうするか、私は考えこんでいる。
大量生産・大量消費の免罪符――多くのいわゆる環境対策には、そんな面があるのは否めないような感じがする。先日は、製紙業界で、次から次へと古紙混入率の擬装が報道されていたが、紙の場合もたぶん、再生紙を作るのは、コストがかかりすぎるのかもしれない。
自分でもいくつか環境対策の失敗がある――待機電力を消費しないために、電気のコンセントをよく抜いていた頃、たびたびコンセントを抜いていたら、コンセントを壊わしてしまって(!)、かえって、お金がかかってしまった。それから、長持ちするというとても値段の高い電球を買ったら、普通のものより、早く切れてしまった、などなど。
結局のところ、一番の環境対策は、大量生産・大量消費しないことなんだと思うけど、それが実に今の先進国では難しいのである。「なるべく生産・消費しないようにしましょう」ということは、資本主義の価値そのものを否定することになり、生産高の減少=売り上げの減少=個々の人の収入の減少へと、導くからだ。だから、先進国の社会が、自らの意志で、「大量生産・大量消費」を止めることは、ほとんど不可能に近い。
最終的には、物を作る資源そのものが足りなくなり、物の値段が上がり、自然に「大量生産・大量消費」できなくなり、物が昔のように貴重になり、人々に本当に「もったいないの精神」が普及する――それが、これからの地球の意志ではないかと、私はそう感じている。
by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
最近のコメント