借金への圧力 ― 2008年02月03日 15時04分33秒
昨年秋以降、テレビなどのマスコミ、インターネットのニュースで、アメリカの「サブプライムローン」(信用度の低い借り手向け住宅ローン)問題という言葉を聞くことが多い。そして、その「サブプライムローン」問題による、世界各国の金融機関の膨大な損失が、毎日のように報道されている。
経済問題というのは、何か複雑で一般の人にはわかりにくい感じがするが、実は、よーく考えてみると、本質は、案外シンプルだったりする。
現在の経済問題の多くは、誰かの金融資産=誰かの借金という構図がわかれば、理解はそれほど難しくはない。別の言葉で言い換えるなら、誰かの金融資産分、誰かが「借金をしなければならない」ということである。
当然、金融資産がある側は、利息を要求し、借金した側は利息を払わねばならない。
世界の金融資産(特に日本と中国の金融資産)=アメリカの借金
日本国民の金融資産=日本国家と地方自治体の借金
金持ちの金融資産=貧乏人の借金
金融資産というのは、誰のものであっても、いい子にして金融機関で眠っているわけではなく、世界中のあらゆるところへ出かけていき、借金してくれる人を探している。誰か借金してくれる人が出ないかぎり、金融資産は利息を稼ぐことができない。つまり、全世界の金融資産分だけ、「借金してくれ(!)=利息をくれ(!)」という膨大な借金圧力が世界中に吹き荒れているのである。
私やあなたが個人的には利息に無関心であっても、自分のお金を金融機関に預けたら最後、そのお金は、借金してくれる人を求めて、言い換えれば、利息を求めて、世界中を旅することになっている。
で、冒頭に書いたアメリカの「サブプライムローン」(信用度の低い借り手向け住宅ローン)問題というのは、
世界の金融資産が、借金させるターゲットにアメリカの低所得者を選んで、高金利の利子で儲けまくった後の問題ということである。
儲かるので、もっともっとと欲を追いすぎたら、アメリカの住宅バブルが崩壊し、ローンを借りた人たちが返済不可能になって、借金が焦げ付いたという話なのである。
もちろん借金には、健全な借金というものもある――普通の金利の住宅ローン、企業が投資のために借りるお金等々――健全かどうかの見極めは、自分(会社)の能力の範囲内の借金ということだが、その能力の見極めは、簡単ではないし、借金圧力が吹き荒れている現代では、簡単に自分の能力以上を借金することができる。そして借金への圧力に負け、能力以上のお金を借りてしまうと、借金地獄→→借金貧乏への道が始まる。
このように、借金には一般に悪いイメージがあるが、でも、逆の見方をすれば、貧乏になるほど借金する人たちのおかげで、資産家の人たちは、潤っている面もあるわけで、本当は、「金持ち父さん」たちは、サブプライムローンで泣いている「貧乏父さん」たちに心から感謝すべきなのである――「たくさん借金してくれて、ありがとう。あなたたちのおかげで、私は資産を増やすことができました」って。
さて、日本では、1990年代以後、たいした経済成長している実感がないまま、なぜか、個人の金融資産は増え続けている。つまり、その反対側で、国家や地方自治体の借金も含めて、借金が増え続けているというわけでもある。GDP(国内総生産)の3倍もの資産と借金、それがどういう意味なのか、考えてみるのは、なかなか興味深いことである。
お勧めの本
「日本を滅ぼす経済学の錯覚」堂免信義著 光文社
投資、貯金、借金の関係を新たな観点で説明し、その視点から、今の日本の経済の状況を読み解いた本。
「マネーを生み出す怪物」G.エドワード・グリフィン著 草思社
アメリカの連邦準備制度が、いかに無からマネーを生み出し、世界経済を支配するようになったのかを、歴史的に検証し、明らかにした本。
経済問題というのは、何か複雑で一般の人にはわかりにくい感じがするが、実は、よーく考えてみると、本質は、案外シンプルだったりする。
現在の経済問題の多くは、誰かの金融資産=誰かの借金という構図がわかれば、理解はそれほど難しくはない。別の言葉で言い換えるなら、誰かの金融資産分、誰かが「借金をしなければならない」ということである。
当然、金融資産がある側は、利息を要求し、借金した側は利息を払わねばならない。
世界の金融資産(特に日本と中国の金融資産)=アメリカの借金
日本国民の金融資産=日本国家と地方自治体の借金
金持ちの金融資産=貧乏人の借金
金融資産というのは、誰のものであっても、いい子にして金融機関で眠っているわけではなく、世界中のあらゆるところへ出かけていき、借金してくれる人を探している。誰か借金してくれる人が出ないかぎり、金融資産は利息を稼ぐことができない。つまり、全世界の金融資産分だけ、「借金してくれ(!)=利息をくれ(!)」という膨大な借金圧力が世界中に吹き荒れているのである。
私やあなたが個人的には利息に無関心であっても、自分のお金を金融機関に預けたら最後、そのお金は、借金してくれる人を求めて、言い換えれば、利息を求めて、世界中を旅することになっている。
で、冒頭に書いたアメリカの「サブプライムローン」(信用度の低い借り手向け住宅ローン)問題というのは、
世界の金融資産が、借金させるターゲットにアメリカの低所得者を選んで、高金利の利子で儲けまくった後の問題ということである。
儲かるので、もっともっとと欲を追いすぎたら、アメリカの住宅バブルが崩壊し、ローンを借りた人たちが返済不可能になって、借金が焦げ付いたという話なのである。
もちろん借金には、健全な借金というものもある――普通の金利の住宅ローン、企業が投資のために借りるお金等々――健全かどうかの見極めは、自分(会社)の能力の範囲内の借金ということだが、その能力の見極めは、簡単ではないし、借金圧力が吹き荒れている現代では、簡単に自分の能力以上を借金することができる。そして借金への圧力に負け、能力以上のお金を借りてしまうと、借金地獄→→借金貧乏への道が始まる。
このように、借金には一般に悪いイメージがあるが、でも、逆の見方をすれば、貧乏になるほど借金する人たちのおかげで、資産家の人たちは、潤っている面もあるわけで、本当は、「金持ち父さん」たちは、サブプライムローンで泣いている「貧乏父さん」たちに心から感謝すべきなのである――「たくさん借金してくれて、ありがとう。あなたたちのおかげで、私は資産を増やすことができました」って。
さて、日本では、1990年代以後、たいした経済成長している実感がないまま、なぜか、個人の金融資産は増え続けている。つまり、その反対側で、国家や地方自治体の借金も含めて、借金が増え続けているというわけでもある。GDP(国内総生産)の3倍もの資産と借金、それがどういう意味なのか、考えてみるのは、なかなか興味深いことである。
お勧めの本
「日本を滅ぼす経済学の錯覚」堂免信義著 光文社
投資、貯金、借金の関係を新たな観点で説明し、その視点から、今の日本の経済の状況を読み解いた本。
「マネーを生み出す怪物」G.エドワード・グリフィン著 草思社
アメリカの連邦準備制度が、いかに無からマネーを生み出し、世界経済を支配するようになったのかを、歴史的に検証し、明らかにした本。
自分に還る言葉 ― 2008年02月11日 10時39分16秒
言葉や思考というのは、自分に返って来るものである。そのことの意味とは、私たちが自分以外の何かや誰かについて、何をどう思っても、言っても、それはある意味では、自分自身について言っているということである。
そのことを、最初に私に教えてくれた本が、私が長年愛読してきた「なまけ者の悟り方」という本で、少し長いが引用すると、
「あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見が同じくする人達だけに、有効である。(中略)今、あなたがある人に、『必要以上の援助を君は受けるべきではない』と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。そして、あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです」(「なまけ者のさとり方」(44ページ)タデウス・ゴラス著 地湧社発行)
つまり、他人批判=自分批判、ということである。
このことがわかってくると、人はだんだん他人を批判することは、無意味というか、時間とエネルギーのムダというか、自分自身こそを束縛するということに気づく。しかし、一方で、思考や言葉というのは、無意識に、ほとんど自動的に現実を批判し、否定してしまうものだということも、人は理解するだろうと思う。
言葉や思考が、なぜこれほど現実否定というか、現実批判に中毒してしまうかというと、それには、おそらく生物学的な根拠があると、私はそう理解している。
言葉や思考――それは、本質的には一つである現象の世界を、分析し、説明し、判断し、分離するために使われてきた歴史がある。ではなぜ言葉と思考は、現象の世界を分析、説明し、判断し、分離したいかといえば、それは、人間が、自分が見ている現象を、よりコントロールし、自分の都合のいいように改良したいからなのである――「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」と。
そして、思考と言語の発達とそれに伴う科学や技術の発展のおかげで、人類は、他の生き物との戦いに勝ち抜き、自然の脅威をある程度コントロールできるようになり、今日、地球上の覇者として君臨しているという事実がある。
つまり、私たち人類の成功は、「これでは、ダメだから、何とか現象を改良しよう」という現実否定にもとづいてきたのである。もしそういった強力な現実否定プログラミングがなかったとしたら、私たちは今でも、ボノボかチンパンジーのような生き物のはずであろう。
であれば、その長い長い歴史を生き抜いてきた生き物として、私たちの思考が、基本的に現実否定(これでは、いけない)であることは、当然であり、ある意味では遺伝というかプログラミングなのである。技術や科学に関して、「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」が有効であったゆえに、その現実否定をそれ以外のすべてに応用するように私たちは条件づけられている。
だから、自分のことであれ、他人のことであれ、社会のことであれ、「これではいけない」と現実を否定しなければ、物事は変わらず、自分も成長できないと思いこまされているし、否定し、批判するときは、自分が否定し、批判する対象よりも、自分が一段「上」であると、私たちの思考は信じているのだ(苦笑)。
しかし、技術や科学に関して以外は、自分や他人や社会全体に関していえば、現実否定は、それを変えるのにほとんど効果があったことがないし、その効果のなさを、ほとんどの人が、人生でたくさん経験しているはずである。さらに、効果がないどころか、多くの場合逆効果でさえある――「テロとの戦い」を、ブッシュ大統領が宣言して以来、どれほど地球上でテロが増加したことか!
そういった経験にも関わらず、私たちの思考や言葉は、現実否定に中毒していて、えんえんと「あなたは、それではいけない」「私は、これではいけない」「社会は、これではいけない」「政府は、これではいけない」、「あの発言は、いけない」と、「いけない、いけない、いけない」のオンパレードである。(ただし、念のために書けば、自分の目の前の現象に問題があって、自分がそれに関わる必要があるときは、自分にできることがあれば、迅速に具体的にそれに対して対処することは重要だと思う。さもないと、私が見聞してきたところによれば、現実否定の処方箋として、精神世界でよく言うところの「そのままんまでOK」が、かえって問題先送りの「現実回避の処方」となりうる場合もある!)
このように文章を書いているときは、よーく理解している私(笑)だって、日々、現実否定を免れていない。それは、本当に条件反射のような好き嫌いのプログラミングで、ニュースを聞いたり、町を歩いたりしているとき、「これはひどい」とか、「この人は、変だ」とか、まあ、いろいろな批判的感想やら意見やらを、思考が言っているのに、気づいて笑ってしまう。それほどまでに、人にあっては、現実否定のプログラミングは強力である。
あるいは、肉体が老いるにつれて、そのパフォーマンスが落ちるとき(熱湯を手に間違ってかけたり、宅急便の住所を書き間違えたり、と最近、ミスが多い)、自分の思考が、自分を叱りそうになることも、最近気づかされる。こういうときは、自分を批判する思考に気づいて、自分を慰める――人は完璧ではないし、肉体が老いるとは、こういうものだなあ、仕方ない……でもなるべく気をつけよう。
自分批判=他人批判=自分批判……言葉や思考は自分に還る――毎日が、気づきの修行の日々である。
そのことを、最初に私に教えてくれた本が、私が長年愛読してきた「なまけ者の悟り方」という本で、少し長いが引用すると、
「あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見が同じくする人達だけに、有効である。(中略)今、あなたがある人に、『必要以上の援助を君は受けるべきではない』と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。そして、あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです」(「なまけ者のさとり方」(44ページ)タデウス・ゴラス著 地湧社発行)
つまり、他人批判=自分批判、ということである。
このことがわかってくると、人はだんだん他人を批判することは、無意味というか、時間とエネルギーのムダというか、自分自身こそを束縛するということに気づく。しかし、一方で、思考や言葉というのは、無意識に、ほとんど自動的に現実を批判し、否定してしまうものだということも、人は理解するだろうと思う。
言葉や思考が、なぜこれほど現実否定というか、現実批判に中毒してしまうかというと、それには、おそらく生物学的な根拠があると、私はそう理解している。
言葉や思考――それは、本質的には一つである現象の世界を、分析し、説明し、判断し、分離するために使われてきた歴史がある。ではなぜ言葉と思考は、現象の世界を分析、説明し、判断し、分離したいかといえば、それは、人間が、自分が見ている現象を、よりコントロールし、自分の都合のいいように改良したいからなのである――「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」と。
そして、思考と言語の発達とそれに伴う科学や技術の発展のおかげで、人類は、他の生き物との戦いに勝ち抜き、自然の脅威をある程度コントロールできるようになり、今日、地球上の覇者として君臨しているという事実がある。
つまり、私たち人類の成功は、「これでは、ダメだから、何とか現象を改良しよう」という現実否定にもとづいてきたのである。もしそういった強力な現実否定プログラミングがなかったとしたら、私たちは今でも、ボノボかチンパンジーのような生き物のはずであろう。
であれば、その長い長い歴史を生き抜いてきた生き物として、私たちの思考が、基本的に現実否定(これでは、いけない)であることは、当然であり、ある意味では遺伝というかプログラミングなのである。技術や科学に関して、「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」が有効であったゆえに、その現実否定をそれ以外のすべてに応用するように私たちは条件づけられている。
だから、自分のことであれ、他人のことであれ、社会のことであれ、「これではいけない」と現実を否定しなければ、物事は変わらず、自分も成長できないと思いこまされているし、否定し、批判するときは、自分が否定し、批判する対象よりも、自分が一段「上」であると、私たちの思考は信じているのだ(苦笑)。
しかし、技術や科学に関して以外は、自分や他人や社会全体に関していえば、現実否定は、それを変えるのにほとんど効果があったことがないし、その効果のなさを、ほとんどの人が、人生でたくさん経験しているはずである。さらに、効果がないどころか、多くの場合逆効果でさえある――「テロとの戦い」を、ブッシュ大統領が宣言して以来、どれほど地球上でテロが増加したことか!
そういった経験にも関わらず、私たちの思考や言葉は、現実否定に中毒していて、えんえんと「あなたは、それではいけない」「私は、これではいけない」「社会は、これではいけない」「政府は、これではいけない」、「あの発言は、いけない」と、「いけない、いけない、いけない」のオンパレードである。(ただし、念のために書けば、自分の目の前の現象に問題があって、自分がそれに関わる必要があるときは、自分にできることがあれば、迅速に具体的にそれに対して対処することは重要だと思う。さもないと、私が見聞してきたところによれば、現実否定の処方箋として、精神世界でよく言うところの「そのままんまでOK」が、かえって問題先送りの「現実回避の処方」となりうる場合もある!)
このように文章を書いているときは、よーく理解している私(笑)だって、日々、現実否定を免れていない。それは、本当に条件反射のような好き嫌いのプログラミングで、ニュースを聞いたり、町を歩いたりしているとき、「これはひどい」とか、「この人は、変だ」とか、まあ、いろいろな批判的感想やら意見やらを、思考が言っているのに、気づいて笑ってしまう。それほどまでに、人にあっては、現実否定のプログラミングは強力である。
あるいは、肉体が老いるにつれて、そのパフォーマンスが落ちるとき(熱湯を手に間違ってかけたり、宅急便の住所を書き間違えたり、と最近、ミスが多い)、自分の思考が、自分を叱りそうになることも、最近気づかされる。こういうときは、自分を批判する思考に気づいて、自分を慰める――人は完璧ではないし、肉体が老いるとは、こういうものだなあ、仕方ない……でもなるべく気をつけよう。
自分批判=他人批判=自分批判……言葉や思考は自分に還る――毎日が、気づきの修行の日々である。
好き嫌いと善悪 ― 2008年02月19日 11時37分15秒
(前回のコラムに、コメントを送っていただきました皆様、ありがとうございました)
今回も前回に引き続き、思考と言葉の問題を考えてみたい。
私は、常々、人と会話をしているとき、人には、自分の好き嫌い、他人の好き嫌いを、善悪と解釈する傾向があると感じてきた。
たとえば、Aさんが、「私は、犬は好きだけど、ネコは嫌いだ」みたいなことを、言ったとしよう。Aさんは、動物の好き嫌いを軽い気持ちで言ったと思っている。ところが、話を聞いている人の中に、ネコがすごく好きなBさんがいて、しかもその人が非常に感情的に反応する人だとすると、Bさんは、「ネコは嫌い」というAさんの発言を、心の中でどう拡大解釈していくかというと、たいていは、
「ネコは嫌い」→「ネコは悪い」→「ネコを好きな人は悪い」と、Aさんは言っているのだと感じられて、Bさんは気分が悪くなる。極端な場合は、Aさんの発言を、「Aさんは、ネコ好きな自分の存在を否定している」という解釈にまで発展するときもある。
すると今度は、「ネコが嫌いだというAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんは、悪い」と、Bさんはある種の怒りと分離感を感じるというふうに、続いていく。こうした思考と感情の流れは、ほとんど無意識に行われる。
さらに自分の好き嫌いを述べる側も、それをあたかも自分の好き嫌いではなく、善悪に転化して語るのもよく見聞した。今の犬・ネコの例でいえば、「ネコよりも犬が、どれだけすぐれているか」というような論を展開して、自分が犬を好きなことは「正しい」のだと印象づけようとするとき、そこには自分の好き嫌いを善悪に転化しようという無意識の試みがある。
もちろん、事が動物の好き嫌い程度の話であれば、たいていの場合は、笑い合って話し合うことができ、今書いたような拡大解釈する人はそれほど多くはないだろうが、さあ、発言や言葉が、政治、宗教、自分の根幹的な価値観、自分の過去のトラウマ、人間関係、自分の家族、自分の好きなアイドル、自分が師事している教えや先生に触れる話題になってくると、私たちは、今述べたような、言葉と発言の拡大解釈をする傾向がある。程度の差はあれ、誰でも無意識で、心の中ではやることだと思うし、私が感じるに、マスコミやネット上の多くの論争は、自分を好き嫌いを善悪に転化して、みな思考上の戦争している感がある――思考上の論争は、多くの人たちの娯楽でもある。
好き嫌い――それは、遺伝や生まれ育った家庭教育環境、文化的時代的環境によって、それぞれ違って形成され、実にある種、動物的なものであり、きわめて個人的なものだ。
そして、人の発言、思考、言葉、表現は、多くが、こういった自分の個人的な好き嫌いもとづいている。あえていうと、自分の肉体的心理的生存に快適なこと=好き、自分の肉体的心理的生存に不快なこと・脅威なこと=嫌い、という反応が脳に組み込まれていると、私は感じている。
ではなぜ、人は、自分の好き嫌いを善悪に転化しようとするかといえば、それはおそらく、好き嫌いの場合は、「好き」と「嫌い」は平等で、個人的なものであるのに、善悪に転化されると、一般化されて「偉くなる」感じがあり、さらに「善」が、「悪」よりも「上」で、「正しい」とされているからである。
人は、誰もが善の立場、正しい立場に所属したいと思っている。それゆえ、本来は平等である、「好き」と「嫌い」を、善悪に転化して、自分の好きなこと=善いこと=正しいこと、自分の嫌いなこと=悪いこと=間違っていることだと、自分の中で思い込み、他人にも同意してもらいたい。さらに、「正しい」立場とは、強い立場であり、悪いと自分が思う人を批判できる立場でもある。
私たちが、誰かの発言や言葉を不快(=嫌い)に感じたとしよう。人の発言や言葉を聞いて、一瞬不快に思う場合があることは、誰にも避けられないことである。が、その言葉や発言に長い間、巻き込まれて気分が害されるとすれば、私たちは他人と自分の好き嫌いを善悪に転化して、「私が嫌いなあんな発言や言葉を言うやつは、悪いやつだ、けしからん」と、勝手に心の中で相手との間で、善悪の戦争を始めている。
というより、本当は、相手と戦争しているというより、相手の発言を「信じてしまった自分」と「それを否定する自分」との戦いというのが、事の核心である。
前回も書いたように、言葉や思考は、それを信じる人たちにしか有効ではない。他人の言葉に強く反応するとき、私たちはすでに自分でそれを信じていて、自分で信じてしまっているゆえに、自分からその信仰を追い出そうとして、戦うのである。
戦争――それは、いつも自分から始まるものであり、自分の中で、戦争が終われば、私たちは、平和である。
最後に、言葉と思考、好き嫌い、善悪について、私が発見したことをまとめれば、
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人にしか当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無関係――自分がそれと関係を築くまでは。
逆にも言ってみよう。
自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にしか当てはまらない――他人がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無意味――他人がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無関係――他人がそれと関係を築くまでは。
さらに言えば、
自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にも当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無関係――自分がそれと関係を築くまでは。
参考図書
「善悪中毒」 東郷潤著 リベルタ出版
「善」のために「悪」と戦うことが、かえって害を増加させる、人間の善悪中毒について、イラストを交えてユニークに語る。
今回も前回に引き続き、思考と言葉の問題を考えてみたい。
私は、常々、人と会話をしているとき、人には、自分の好き嫌い、他人の好き嫌いを、善悪と解釈する傾向があると感じてきた。
たとえば、Aさんが、「私は、犬は好きだけど、ネコは嫌いだ」みたいなことを、言ったとしよう。Aさんは、動物の好き嫌いを軽い気持ちで言ったと思っている。ところが、話を聞いている人の中に、ネコがすごく好きなBさんがいて、しかもその人が非常に感情的に反応する人だとすると、Bさんは、「ネコは嫌い」というAさんの発言を、心の中でどう拡大解釈していくかというと、たいていは、
「ネコは嫌い」→「ネコは悪い」→「ネコを好きな人は悪い」と、Aさんは言っているのだと感じられて、Bさんは気分が悪くなる。極端な場合は、Aさんの発言を、「Aさんは、ネコ好きな自分の存在を否定している」という解釈にまで発展するときもある。
すると今度は、「ネコが嫌いだというAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんの発言は、嫌いだ」→「ネコ好きな自分を否定するようなAさんは、悪い」と、Bさんはある種の怒りと分離感を感じるというふうに、続いていく。こうした思考と感情の流れは、ほとんど無意識に行われる。
さらに自分の好き嫌いを述べる側も、それをあたかも自分の好き嫌いではなく、善悪に転化して語るのもよく見聞した。今の犬・ネコの例でいえば、「ネコよりも犬が、どれだけすぐれているか」というような論を展開して、自分が犬を好きなことは「正しい」のだと印象づけようとするとき、そこには自分の好き嫌いを善悪に転化しようという無意識の試みがある。
もちろん、事が動物の好き嫌い程度の話であれば、たいていの場合は、笑い合って話し合うことができ、今書いたような拡大解釈する人はそれほど多くはないだろうが、さあ、発言や言葉が、政治、宗教、自分の根幹的な価値観、自分の過去のトラウマ、人間関係、自分の家族、自分の好きなアイドル、自分が師事している教えや先生に触れる話題になってくると、私たちは、今述べたような、言葉と発言の拡大解釈をする傾向がある。程度の差はあれ、誰でも無意識で、心の中ではやることだと思うし、私が感じるに、マスコミやネット上の多くの論争は、自分を好き嫌いを善悪に転化して、みな思考上の戦争している感がある――思考上の論争は、多くの人たちの娯楽でもある。
好き嫌い――それは、遺伝や生まれ育った家庭教育環境、文化的時代的環境によって、それぞれ違って形成され、実にある種、動物的なものであり、きわめて個人的なものだ。
そして、人の発言、思考、言葉、表現は、多くが、こういった自分の個人的な好き嫌いもとづいている。あえていうと、自分の肉体的心理的生存に快適なこと=好き、自分の肉体的心理的生存に不快なこと・脅威なこと=嫌い、という反応が脳に組み込まれていると、私は感じている。
ではなぜ、人は、自分の好き嫌いを善悪に転化しようとするかといえば、それはおそらく、好き嫌いの場合は、「好き」と「嫌い」は平等で、個人的なものであるのに、善悪に転化されると、一般化されて「偉くなる」感じがあり、さらに「善」が、「悪」よりも「上」で、「正しい」とされているからである。
人は、誰もが善の立場、正しい立場に所属したいと思っている。それゆえ、本来は平等である、「好き」と「嫌い」を、善悪に転化して、自分の好きなこと=善いこと=正しいこと、自分の嫌いなこと=悪いこと=間違っていることだと、自分の中で思い込み、他人にも同意してもらいたい。さらに、「正しい」立場とは、強い立場であり、悪いと自分が思う人を批判できる立場でもある。
私たちが、誰かの発言や言葉を不快(=嫌い)に感じたとしよう。人の発言や言葉を聞いて、一瞬不快に思う場合があることは、誰にも避けられないことである。が、その言葉や発言に長い間、巻き込まれて気分が害されるとすれば、私たちは他人と自分の好き嫌いを善悪に転化して、「私が嫌いなあんな発言や言葉を言うやつは、悪いやつだ、けしからん」と、勝手に心の中で相手との間で、善悪の戦争を始めている。
というより、本当は、相手と戦争しているというより、相手の発言を「信じてしまった自分」と「それを否定する自分」との戦いというのが、事の核心である。
前回も書いたように、言葉や思考は、それを信じる人たちにしか有効ではない。他人の言葉に強く反応するとき、私たちはすでに自分でそれを信じていて、自分で信じてしまっているゆえに、自分からその信仰を追い出そうとして、戦うのである。
戦争――それは、いつも自分から始まるものであり、自分の中で、戦争が終われば、私たちは、平和である。
最後に、言葉と思考、好き嫌い、善悪について、私が発見したことをまとめれば、
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人にしか当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
他人の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分には無関係――自分がそれと関係を築くまでは。
逆にも言ってみよう。
自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にしか当てはまらない――他人がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無意味――他人がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、他人には無関係――他人がそれと関係を築くまでは。
さらに言えば、
自分の言葉と思考は(好き嫌い、善悪)は、自分にも当てはまらない――自分がそれを信じるまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無意味――自分がそこに意味を見出すまでは。
自分の言葉と思考(好き嫌い、善悪)は、自分にも無関係――自分がそれと関係を築くまでは。
参考図書
「善悪中毒」 東郷潤著 リベルタ出版
「善」のために「悪」と戦うことが、かえって害を増加させる、人間の善悪中毒について、イラストを交えてユニークに語る。
生姜の薬効 ― 2008年02月26日 10時34分29秒
体を温める――先日、読んだ雑誌に、現代人の体の不調や病気のほとんどの原因は「体の冷え」であり、体を温めると、病気を防ぐことができるという内容の本が紹介してあった。その本を私は読んではいないが(本の正確なタイトルは失念)、「体の冷え」が、体の不調や病気を引き起こしやすいという考えには、以前から、実感として、そうかもと思うことが多かった。
素人的に考えみても、体が冷えると、免疫力が落ちるので、細菌やウイルスに弱くなる、血液の流れが悪くなるので、老廃物が体にたまりやすい、体が冷えると、睡眠が浅くなるなど、確かに、病気になりやすくなるかもしれないなあーと納得する。
体を芯から温めるのに、効果がある方法は、いろいろあるだろうけど、私の場合は、一番、簡単で効果があると思ったのは、生姜を食べることである。料理に使うだけでなく、味噌汁に入れる、ホット梅酒に入れる、生姜湯を作る(試したことはないが、生姜紅茶もおいしいらしい)、その他市販の生姜入りの飲み物を飲む等、毎日常用している。
あと、生姜は、胃の不調にも効く。私の場合は、市販の胃薬と同じかそれ以上に効果がある(殺菌作用とか消炎作用があるように感じられる)。
私のように医者に行くのを面倒に思う人には、身近な食品の薬効を発見するのは、楽しいことである――どこでも手に入るし、簡単なので。
素人的に考えみても、体が冷えると、免疫力が落ちるので、細菌やウイルスに弱くなる、血液の流れが悪くなるので、老廃物が体にたまりやすい、体が冷えると、睡眠が浅くなるなど、確かに、病気になりやすくなるかもしれないなあーと納得する。
体を芯から温めるのに、効果がある方法は、いろいろあるだろうけど、私の場合は、一番、簡単で効果があると思ったのは、生姜を食べることである。料理に使うだけでなく、味噌汁に入れる、ホット梅酒に入れる、生姜湯を作る(試したことはないが、生姜紅茶もおいしいらしい)、その他市販の生姜入りの飲み物を飲む等、毎日常用している。
あと、生姜は、胃の不調にも効く。私の場合は、市販の胃薬と同じかそれ以上に効果がある(殺菌作用とか消炎作用があるように感じられる)。
私のように医者に行くのを面倒に思う人には、身近な食品の薬効を発見するのは、楽しいことである――どこでも手に入るし、簡単なので。
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