自分に還る言葉 ― 2008年02月11日 10時39分16秒
言葉や思考というのは、自分に返って来るものである。そのことの意味とは、私たちが自分以外の何かや誰かについて、何をどう思っても、言っても、それはある意味では、自分自身について言っているということである。
そのことを、最初に私に教えてくれた本が、私が長年愛読してきた「なまけ者の悟り方」という本で、少し長いが引用すると、
「あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見が同じくする人達だけに、有効である。(中略)今、あなたがある人に、『必要以上の援助を君は受けるべきではない』と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。そして、あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです」(「なまけ者のさとり方」(44ページ)タデウス・ゴラス著 地湧社発行)
つまり、他人批判=自分批判、ということである。
このことがわかってくると、人はだんだん他人を批判することは、無意味というか、時間とエネルギーのムダというか、自分自身こそを束縛するということに気づく。しかし、一方で、思考や言葉というのは、無意識に、ほとんど自動的に現実を批判し、否定してしまうものだということも、人は理解するだろうと思う。
言葉や思考が、なぜこれほど現実否定というか、現実批判に中毒してしまうかというと、それには、おそらく生物学的な根拠があると、私はそう理解している。
言葉や思考――それは、本質的には一つである現象の世界を、分析し、説明し、判断し、分離するために使われてきた歴史がある。ではなぜ言葉と思考は、現象の世界を分析、説明し、判断し、分離したいかといえば、それは、人間が、自分が見ている現象を、よりコントロールし、自分の都合のいいように改良したいからなのである――「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」と。
そして、思考と言語の発達とそれに伴う科学や技術の発展のおかげで、人類は、他の生き物との戦いに勝ち抜き、自然の脅威をある程度コントロールできるようになり、今日、地球上の覇者として君臨しているという事実がある。
つまり、私たち人類の成功は、「これでは、ダメだから、何とか現象を改良しよう」という現実否定にもとづいてきたのである。もしそういった強力な現実否定プログラミングがなかったとしたら、私たちは今でも、ボノボかチンパンジーのような生き物のはずであろう。
であれば、その長い長い歴史を生き抜いてきた生き物として、私たちの思考が、基本的に現実否定(これでは、いけない)であることは、当然であり、ある意味では遺伝というかプログラミングなのである。技術や科学に関して、「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」が有効であったゆえに、その現実否定をそれ以外のすべてに応用するように私たちは条件づけられている。
だから、自分のことであれ、他人のことであれ、社会のことであれ、「これではいけない」と現実を否定しなければ、物事は変わらず、自分も成長できないと思いこまされているし、否定し、批判するときは、自分が否定し、批判する対象よりも、自分が一段「上」であると、私たちの思考は信じているのだ(苦笑)。
しかし、技術や科学に関して以外は、自分や他人や社会全体に関していえば、現実否定は、それを変えるのにほとんど効果があったことがないし、その効果のなさを、ほとんどの人が、人生でたくさん経験しているはずである。さらに、効果がないどころか、多くの場合逆効果でさえある――「テロとの戦い」を、ブッシュ大統領が宣言して以来、どれほど地球上でテロが増加したことか!
そういった経験にも関わらず、私たちの思考や言葉は、現実否定に中毒していて、えんえんと「あなたは、それではいけない」「私は、これではいけない」「社会は、これではいけない」「政府は、これではいけない」、「あの発言は、いけない」と、「いけない、いけない、いけない」のオンパレードである。(ただし、念のために書けば、自分の目の前の現象に問題があって、自分がそれに関わる必要があるときは、自分にできることがあれば、迅速に具体的にそれに対して対処することは重要だと思う。さもないと、私が見聞してきたところによれば、現実否定の処方箋として、精神世界でよく言うところの「そのままんまでOK」が、かえって問題先送りの「現実回避の処方」となりうる場合もある!)
このように文章を書いているときは、よーく理解している私(笑)だって、日々、現実否定を免れていない。それは、本当に条件反射のような好き嫌いのプログラミングで、ニュースを聞いたり、町を歩いたりしているとき、「これはひどい」とか、「この人は、変だ」とか、まあ、いろいろな批判的感想やら意見やらを、思考が言っているのに、気づいて笑ってしまう。それほどまでに、人にあっては、現実否定のプログラミングは強力である。
あるいは、肉体が老いるにつれて、そのパフォーマンスが落ちるとき(熱湯を手に間違ってかけたり、宅急便の住所を書き間違えたり、と最近、ミスが多い)、自分の思考が、自分を叱りそうになることも、最近気づかされる。こういうときは、自分を批判する思考に気づいて、自分を慰める――人は完璧ではないし、肉体が老いるとは、こういうものだなあ、仕方ない……でもなるべく気をつけよう。
自分批判=他人批判=自分批判……言葉や思考は自分に還る――毎日が、気づきの修行の日々である。
そのことを、最初に私に教えてくれた本が、私が長年愛読してきた「なまけ者の悟り方」という本で、少し長いが引用すると、
「あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見が同じくする人達だけに、有効である。(中略)今、あなたがある人に、『必要以上の援助を君は受けるべきではない』と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。そして、あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです」(「なまけ者のさとり方」(44ページ)タデウス・ゴラス著 地湧社発行)
つまり、他人批判=自分批判、ということである。
このことがわかってくると、人はだんだん他人を批判することは、無意味というか、時間とエネルギーのムダというか、自分自身こそを束縛するということに気づく。しかし、一方で、思考や言葉というのは、無意識に、ほとんど自動的に現実を批判し、否定してしまうものだということも、人は理解するだろうと思う。
言葉や思考が、なぜこれほど現実否定というか、現実批判に中毒してしまうかというと、それには、おそらく生物学的な根拠があると、私はそう理解している。
言葉や思考――それは、本質的には一つである現象の世界を、分析し、説明し、判断し、分離するために使われてきた歴史がある。ではなぜ言葉と思考は、現象の世界を分析、説明し、判断し、分離したいかといえば、それは、人間が、自分が見ている現象を、よりコントロールし、自分の都合のいいように改良したいからなのである――「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」と。
そして、思考と言語の発達とそれに伴う科学や技術の発展のおかげで、人類は、他の生き物との戦いに勝ち抜き、自然の脅威をある程度コントロールできるようになり、今日、地球上の覇者として君臨しているという事実がある。
つまり、私たち人類の成功は、「これでは、ダメだから、何とか現象を改良しよう」という現実否定にもとづいてきたのである。もしそういった強力な現実否定プログラミングがなかったとしたら、私たちは今でも、ボノボかチンパンジーのような生き物のはずであろう。
であれば、その長い長い歴史を生き抜いてきた生き物として、私たちの思考が、基本的に現実否定(これでは、いけない)であることは、当然であり、ある意味では遺伝というかプログラミングなのである。技術や科学に関して、「これでは、ダメだから、何とか改良しよう」が有効であったゆえに、その現実否定をそれ以外のすべてに応用するように私たちは条件づけられている。
だから、自分のことであれ、他人のことであれ、社会のことであれ、「これではいけない」と現実を否定しなければ、物事は変わらず、自分も成長できないと思いこまされているし、否定し、批判するときは、自分が否定し、批判する対象よりも、自分が一段「上」であると、私たちの思考は信じているのだ(苦笑)。
しかし、技術や科学に関して以外は、自分や他人や社会全体に関していえば、現実否定は、それを変えるのにほとんど効果があったことがないし、その効果のなさを、ほとんどの人が、人生でたくさん経験しているはずである。さらに、効果がないどころか、多くの場合逆効果でさえある――「テロとの戦い」を、ブッシュ大統領が宣言して以来、どれほど地球上でテロが増加したことか!
そういった経験にも関わらず、私たちの思考や言葉は、現実否定に中毒していて、えんえんと「あなたは、それではいけない」「私は、これではいけない」「社会は、これではいけない」「政府は、これではいけない」、「あの発言は、いけない」と、「いけない、いけない、いけない」のオンパレードである。(ただし、念のために書けば、自分の目の前の現象に問題があって、自分がそれに関わる必要があるときは、自分にできることがあれば、迅速に具体的にそれに対して対処することは重要だと思う。さもないと、私が見聞してきたところによれば、現実否定の処方箋として、精神世界でよく言うところの「そのままんまでOK」が、かえって問題先送りの「現実回避の処方」となりうる場合もある!)
このように文章を書いているときは、よーく理解している私(笑)だって、日々、現実否定を免れていない。それは、本当に条件反射のような好き嫌いのプログラミングで、ニュースを聞いたり、町を歩いたりしているとき、「これはひどい」とか、「この人は、変だ」とか、まあ、いろいろな批判的感想やら意見やらを、思考が言っているのに、気づいて笑ってしまう。それほどまでに、人にあっては、現実否定のプログラミングは強力である。
あるいは、肉体が老いるにつれて、そのパフォーマンスが落ちるとき(熱湯を手に間違ってかけたり、宅急便の住所を書き間違えたり、と最近、ミスが多い)、自分の思考が、自分を叱りそうになることも、最近気づかされる。こういうときは、自分を批判する思考に気づいて、自分を慰める――人は完璧ではないし、肉体が老いるとは、こういうものだなあ、仕方ない……でもなるべく気をつけよう。
自分批判=他人批判=自分批判……言葉や思考は自分に還る――毎日が、気づきの修行の日々である。
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