「売る」派VS「理解する」派のバトル2008年03月03日 09時50分18秒

最近、珍しく気の合う本に出会った。

「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」(太田直子著 光文社新書)

著者の文章の書き方、物事へのこだわり、価値観、仕事への情熱が、私好みである。実に、軽くて深い、達者な文章を書かれる方である。

本の内容は、映画の字幕翻訳者の日々の雑感、字幕翻訳という観点からの文字と言葉へのこだわりといった話題、人気映画「ロードオブザリング」の字幕問題等、言葉や言葉の翻訳に関心がある人には、なかなか考えさせられる話題が多い。私も数年前、DVDに字幕翻訳を付けるという仕事をやったおかげで、字幕翻訳という仕事の大変さ、苦労、そして、楽しさがどれほどのものか、今では多少理解している。字幕翻訳、あれは、けっこう中毒する仕事なのだ。

さらに本書には、映画産業の中で、優秀な字幕翻訳者が置かれている苦境というか愚痴も、あちこちに書かれてある。(本書は、おそらく著者のストレス発散の本でもある)

著者が語っている苦境というか愚痴というのは、要約すれば、「売る」派VS「理解する」派のバトルのようなものだ。優秀な字幕翻訳者の著者としては、できるだけ、映画を理解し、その雰囲気を伝えようと、七転八倒しながら、最適な字幕を作ろうとする。ところが、映画を売る会社は、映画を「売る」ために、できるだけお客を安直に「感動させる」ような字幕を早急に求める。そのため、字幕翻訳者対映画の本質を理解していないらしい販売会社の社員との間に、壮絶なバトルが展開するというわけだ。そのへんを、著者はさらりと書いていて、笑えるが、しかし、そのバトルはかなり深刻だろうと想像できる。

著者は力をこめてこう叫ぶ。
「自分たちが売ろうとする作品をきちんと理解し、評価することが前提ではないだろうか。なにかを売るというのは、その商品を大切に扱うということのはずだ。商品の価値や意義をろくに知らぬまま、うそやごまかしだらけの売り文句を駆使し、とにかくたくさん売れれば、オッケーという姿勢はおかしい。」(P171――P172)

実に実に、おっしゃるとおり……が、現世現実は、おかしいことが、たくさんまかり通るのだ。もし誰かが企業や会社の中で、「とにかくたくさん売れれば、オッケーという姿勢はおかしい。」などと、意見を言おうものなら、それこそ、「おまえこそ、おかしい」と批判されてしまうだろう。

「売れる」=「多くの人たちにアピールする」=「金が儲かる」=資本主義的善である。だから、最終的には作り手や売り手ではなく、一般の大多数の消費者というか購買者が、世の中に出回る商品や文化的作品の最終的質を決定する責任者であると、私は思っている。残念ながら、私も、記憶をたどるかぎり、映画を見て、映画字幕の質を理解したり、気にしたりしたことは、今まで一度もなかった(本書を読んだおかげで、これからは気になるかもしれないが)。

それでも、あえて(一応仕事に関しては理解派を自認している)私は思うのである。もし商品や作品に本当の質や理解、作り手の情熱がこめられてあれば、それは資本主義的善に反しても、生き残るであろうし、質や理解のために仕事ができる人たちは、幸福(プラス多大な苦痛)である、と。

著者の健康と健闘を心からお祈りする。

生物進化論的救い2008年03月11日 10時52分47秒

長年、生物進化論関係の本を愛読している。楽しいし、ためになるし、救われる。多様な生物の世界を知り、人間も含めて生き物はすべて利己的であることを理解すると、自分も含めた人の動物的利己的に見える振る舞いも、まあ仕方ないかと思えるし、自分の肉体的人格的欠点も、遺伝のせいかもしれないと思えれば、気が楽だ。

生き物は、すべて利己的である――より正確に言うと、個体が利己的というより、遺伝子が利己的ということであり、遺伝子は自分のコピーを増やしていくためだけに、個体を利用していく。私たちの肉体とは、ただ遺伝子の乗り物に過ぎない――すべては遺伝子の意志である――これが、リチャード・ドーキンスというイギリスの学者が世界中に広めて驚かせた利己的遺伝子の概念であり、多くの学者が彼の説を支持している。

生物学の知識を一般の人たちに楽しく伝える仕事をしているある著者の方は、リチャード・ドーキンスの本に出会ったときの「救い」をこう書いている。

「……ようやく谷底から救い出されたような思いになったのである。人生に、目的などない、人にまっとうすべき使命もない。努力を怠るのでもなければ怠慢というのでもないが、そもそも大袈裟に考えるからこそ我々は苦しまねばならないのだ。遺伝子とうまくつきあう方法を考えればよいのではないか……。」(竹内久美子著 「千鶴子には見えていた!」275ページ文藝春秋社)

生物進化論の観点から見ると、浮気をする男も女も、子殺し、子供の虐待、育児放棄、レイプする人たちさえも悪者ではない。それらにはちゃんと生物学的根拠がある(もちろん、だからといって、人間の社会が、子殺し、虐待、レイプ、育児放棄等々を、裁かなくてもいい、罰しなくてもいいという話ではない。人間の社会の法律は、そういう極度の動物的行動を禁止し、裁くことが、その仕事である)。動物の中には、信じられないことに、ある種の中絶さえする動物もいるという。最近読んだ本、「マザー・ネイチャー」という本には、様々な動物たちの生態が書かれてあり、大変に面白かった。

一方、生物進化論とは相性が悪い宗教(宗教、特にキリスト教は、進化論を否定する立場にたつ)も、最終的には、似たような結論にたどり着く。「遺伝子」を「神」という言葉に置き換えれば、こう言える。「すべては神の意志である」と。

私が敬愛するインドの導師たちは、「人生には目的はない。人生は神のリーラ(戯れ)であり、人の運命は、妊娠のときに刻印され、すべては決まっている」と言う。一つの肉体が何をしても、しなくても、どの肉体が何をしてもしなくても、それは神の意志だ、と。

深く考える人たちは、「それでは、私の自由意志はどうなるのだ?」と問うにちがいない。表面的に考えると、神の意志、あるいは、遺伝子の意志は、人間の自由意志とは矛盾するように思える。が、自分の意志だけをほとんど押し通して生きてきた(と本人は思っている)私は、人の自由意志と神の意志(遺伝子の意志)には何も矛盾もないことを今では理解している。

つまり、ある人が遺伝的環境的プログラムによって、選択することが、何であれ、神の意志(遺伝子の意志)であり、またその結果も神の意志である。AかB かの選択があるとして、もし人がAを選択すれば、それが神の意志でもあり、反対に人がBを選択しても、それも神の意志である。Aを選択した結果にその人が苦しめば、その人が苦しむことが神の意志であり、Bを選択した結果にその人が喜べば、その人が喜ぶことが、神の意志である。
 
だから、どんな状況でも、人が見かけの自由意志を行使する自由や考えたいことを考える自由は、制限されてはいない。ただ選択の結果が、自分の好みとは違う方向に展開することが多いだけで………

今では、脳科学も人間の自由意志を否定する。脳の実験によれば、人間が自分の意志に気づくより早く、脳のほうが反応するということがわかっている。どういうことかというと、たとえば、ある人が食堂で、うどんを食べようか、蕎麦を食べようか考えているとしよう。「うどんにしよう」と決め、「うどんをお願いします」と注文する。その人には選択の自由が与えられているように見えるし、また「うどんに決めたのは、誰の意志ですか?」と問われれば、その人は「私の意志です」と答えるだろう。

しかし、実際は、人が「うどんにしよう」という自分の意志に気づく以前に、脳のほうではすでに反応が始まっているという。つまり、自分の意志があるから、脳が反応するのではなく、脳の反応があるから、それが、自分の意志として感じられるというわけである。「脳の反応」→→「うどんにしようという意志に気づくこと」→→「実際に、うどんをお願いしますという注文する行為」という順番となっている。その脳の反応を、生物学系の人なら、遺伝子の意志と呼び、宗教系の人なら、神の意志と呼ぶわけである。

だから、究極的には、人がある特定の思考をもつこと自体、自分の意志ではない、という話になる。こういう話は、すべての人が納得する話ではないが、理解する人たちにはある種の「救い」となるかもしれない。

ただし……あちこちで浮気しまくったあげく、「遺伝子のせいなので………」とか、仕事等でミスばかりするのにまったく向上心もなく、「だって、神の意志だから………」などと、日常生活で遺伝子の意志や神の意志を持ち出して言い訳する人は、間違いなく、まわりの人たちの大ひんしゅくを買い、嫌われ、憎まれ、追放されます!


参考図書

「利己的遺伝子」リチャード・ドーキンス著 (紀伊國屋書店)
「われわれは遺伝子という名の利己的存在を生き残らせるべく盲目的にプログラミングされたロボットなのだ」という結論を提供して、生物学界のみならず、思想界にも衝撃を与えた本。

「マザー・ネイチャー」(上下)サラ・ブライファー・ハーディー著(早川書房)
3人の子供をもって科学界で奮闘する女性人類学者が、進化におけるメスという性の役割を論じた大著。
進化における女の力を証明しようとする著者の意気込みが感じられる本だが、上下巻あわせて、ハードカバー800ページ以上なので、超暇人の方にお勧めする。

「脳のなかの幽霊」V・S・チャマンドラン著 角川書店
数々の実験を通じて、人の認識と脳との驚くべき関係を探った本。著者は、私たちの体は、脳が作り出した幻想であるという結論を展開する。楽しく考えさせられる本。

「アイアムザット」ニサルガダッタ・マハラジ著(ナチュラルスピリット)
進化論者たちが否定し続け、しかし、宗教は語り続けてきた神の創造の本当の意味とは何か、その深い謎が理解できる本。分厚く、決して読みやすい本ではないので、インドのアドバイタ(非二元論)哲学に興味ある方にお勧めする。

体は、何でも知っている、かもしれない2008年03月18日 10時05分54秒

3月、4月は楽しい季節である。光の量が増えるので、何がなくても、なんとなく気分がいい。研究によれば、脳の中のセロトニンというホルモンの増減が、人の感情に大きく影響し、そしてそのセロトニンは光に強く影響されるという。だから、まあ、太陽の光をある程度浴びるのは、心にもよいことらしい。

ということで、天気のよい日に散歩をするのは楽しいことではあるのだが、一つだけこの季節に、ツライことは、花粉である。外出中、そして外出から帰ると、くしゃみ・鼻水がしばらく止まらない。

しかし、これでも、数年前に比較すれば、昨年、今年と私の花粉症は劇的に改善されたのである。少なくとも外出しなければ、花粉症の症状がほとんど出なくなった。

何が効いたかといえば、正確にはよくわからないが、たぶん、セロリとヨーグルトかなあと、思っている。

セロリ(特にセロリの芯)、1年間ほどセロリ中毒・セロリ恋愛かと思うほど食べた(セロリは決して安い野菜ではないので、家計費に響いた!)

スーパーへ行くとまずセロリ売り場へ直行する。売り切れていたり、値段が高かったりするときは、別のスーパーへまた走る。そこでもないと、また別のスーパーへと、セロリのために走るというか、走らされる尋常ではない日々が、ある時期突然始まり、1年ほど続いたあと、またある時期、体がまったくセロリに反応しなくなって、今はもうほとんど食べなくなってしまった。

で、現在の「恋」の相手は、ヨーグルトと今の季節が旬の果物、デコポンである。気に入った味のヨーグルトを見つけたので、そのヨーグルトの在庫と値段が気になって、またまたスーパーめぐり。本当に、人は「恋」のためには奔走できるもの……らしい。

いやいや、本日、私が何を言いたいかというと、体が何かを食べたいというときは、それは、たいていは、体に必要なものらしい、ということだ。

体は、人が思っている以上に、案外賢いものである。

参考図書
Your body doesn’t lie.(直訳すれば=あなたの体はウソをつかない) (John Diamond 著)

体が何を必要としているかを、筋肉の反射によって知るKinesiologyという研究を、普通の人が使える形で解説した本。

(未確認ですが、本書の翻訳書は、20年以上前に出た「健康への鍵をみつけた―行動キネシオロジーのすすめ」という本らしい)

We can change(私たちは変わることができる)という信仰2008年03月26日 09時06分51秒

先日、インターネットラジオを聴いていたら、アメリカ大統領選挙の民主党の候補者、オバマ氏の演説が流れていた。その演説の中で彼は、We can change We can change We can change We can change………と何度絶叫したことか(!)そしてそのたびに、聴いている人たちも、熱狂して反応する。We can change We can change We can change We can change………We can change(私たちは変わることができる)は、今、オバマ氏を支持する人たちの、ある種宗教的信仰になっている。

こういった誰にでもわかる短いフレーズを多用して、人の心を熱狂させるオバマ氏は、ケネディ大統領以来の演説の名手だと言われているが………しかし、アメリカ国民が、We can change(私たちは変わることができる)と熱狂して信じているかぎり、たぶん、アメリカは変わらないのだ。少なくとも自分たちの考えるようには(かつてのように豊かで経済的に繁栄する国へは)変わらない。


人は、「変わる」という言葉に弱い。その証拠が、本のタイトルである。特に英語の本のタイトルを見ていると、「change=変化、変わる」という言葉をタイトルに使う本が非常に目につく。出版社は、「change=変化、変わる」という言葉が、人の心に強くアピールすることを、よく知っている。

そして私たちはそういう本のタイトルに山ほど、騙される――いやいや、正確に言えば、本のタイトルが人を騙すわけではなく、自分の心が自分を騙すのである――「私は変わりたい、だから自分が変われる方法を知ろう」と自分の表面的エゴはささやく。「私は変わりたい・変わるべき」とささやくエゴを私たちは信じる。そして、次から次へ「変わる」ことを謳い文句にする本を買いに走る。そんなパターンに多くの人たちははまる。そして多くの場合、何十冊か何百冊かそういう本を読んでも、多少のワークをやってみても、自分がほとんど変っていないことに気づく。(たくさんの本が必要なのは、たぶん、自分が変わる必要がないことに気づくためである)

なぜ、人が信じるほど、あるいは、信じるようには、人間の心身、そして規模は違うが、家庭、企業、国家等、あらゆる組織は変わらないのだろうか?

最近私は、「私(たち)は変わることができる」と信じるより、むしろ「なぜ人、家庭、企業、国家等は、あらゆる努力にもかかわらず、ほとんど変わらないか?」を研究するほうが、役に立つのではないかと思っている。

私が到達した一つの答えは、「私(たち)は変わることができる」と信じるときというのは、実際は、自分の心身システムのほうは、「自分は変わる必要がない」とまだ十分な余裕があるときなのである。まだ、このままでも、十分やっていけると知っている。だから、人の心身システムは行動を変えることはない。あるいは、一時的に変わっても、ダイエットのリバウンドのようにまた元に戻ってしまうものである。「私(たち)は変わることができる」と信じている余裕があるかぎり、「私(たち)は決して変わることができない」

反対に、まわりの状況のほうが勝手に変わってしまうときは、「私(たち)は変わることができる」などと信じる余裕がないまま、人は、生き延びていくために、仕方なくというか自然に変わってゆく可能性がある。


で、冒頭に述べたアメリカの話。アメリカ人が、We can change(私たちは変わることができる)と絶叫している間は、アメリカ国家のシステムそのものは、「今のままのシステムで通用する。これからも、アメリカは世界の軍事経済大国として君臨できる」と、どこかでまだ余裕がある。

しかし、アメリカ人が、We can change(私たちは変わることができる)と絶叫する元気さえなくなるとき、そのときアメリカ人は、自分たちの国が軍事・経済大国から、「宗教大国」へ「変わってしまった」ことに気づくだろうと思う。

以前のインドのように、宗教大国になる条件が見事なまでにアメリカの中で整いつつある――巨大な貧富の差(つまり、巨大な貧富の差とは、国そのものが貧困という意味である)、勤労嫌いな怠惰な国民性、暴力に荒れる社会、ありとあらゆるスピリチュアルな教え、宗教の存在、インドの導師たちのアメリカへの移動等々。すでにアメリカは、かつて世界の中でインドが占めていた役割を果たしつつあり、世界中の人たちが、宗教的救いを求めて、インドではなく、アメリカへ出かけ始めている。