ナマケモノ道2008年05月02日 09時11分23秒


最近、思考回路の調子が悪いのか、何のせいなのか、言葉がうまくまとまらない。それで、今回は、すべて他人の本の引用でうめることにする。

著者は、アーニーJ.ゼリンスキーという方で、彼は数十年間、ナマケモノ道を説きならが、「なるべく働かない」を実践している方だ。仕事やお金についての考えが、私と共通するところが多い。たぶん、怠け者を志向する人たちはみな、ライフスタイルに関して同じような結論に達するのかもしれない。

以下、彼の「ナマケモノでも「幸せなお金持ち」になれる本」(英治出版)より、いくつかご紹介する。

「何もしないでいることを後ろめたく思ってはいけない。
暇人は何の役にもたたないという考えは
人々が心のなかに儲けた枷のようなものだ。
実際は、その反対である。
暇人とは、嫌いなことをできるだけやらずにすませ
自分が楽しめる活動に多くの時間をあてる人間のことだ。」(27ページ)

「自分の道を歩みはじめると、人生はずっと楽になる。
世間並みという束縛から自由になれば
ストレスのない充実した人生はあなたのもの。
常識にとらわれない奇抜な考えが浮かぶようになればなるほど望ましい」(33ページ)

「すべてを手に入れたいと願うと
人生は大きな失望の場となる。
成功と幸せへの秘訣は、欲張り過ぎないこと」(57ページ)

「金儲けだけを考えていては、真の成功者になれない。
頭を冷やしてじっくり観察すれば、金の持つ多くの問題が見えてくる。
食べていける収入さえあれば、それ以上の富は幸せをもたらさないことにも気づくはずだ。
それなのに、なぜ金銭にこだわるのか。」(89ページ)

「独創力に関するふたつの法則。
誰でも独創力を発揮して社会に貢献する能力がある。
ただし、自分は例外だと誰もが考える。」(135ページ)

「まさかと思うかもしれないが、
幸せは金では買えない。
金で幸せが買えるなんて、それこそ悪い冗談だ」(185ページ)

「まさかと思うかもしれないが、
世の中、いつも金がものをいうとはかぎらない。
ほとんどの問題は、金で解決できるが、なかには例外がある。
そしてときには、金のために深刻な問題が生じる」(189ページ)

「丁重に接すれば金はよき友人となる。
金を見下すと、いつかは金に泣くはめになる」(203ページ)

「人生には代償がつきものだ。
勤勉に働かないことによる代償もあれば
働き過ぎによる代償もある」(213ページ)

「もう一つの大切なメッセージ。
働くのは人の常。
遊び暮らすのは神の業。」(221ページ)


それでは皆様、楽しい連休をお過ごしください。

関心という愛情2008年05月11日 10時47分14秒

人間的「愛情」ということに関して、私がもっている観念の一つが、「関心は、愛情である」というものがある。

それが何であれ、人が何かや誰かに関心をもつということは、人はそれに対して愛情をもっているのだと、私はそう理解している。たとえ、人がその何かや誰かを嫌っている、憎んでいると公言しているときでも、嫌うことや憎むことは、関心・愛情の一部であるのだ。人は、関心・愛情をもってないものを嫌ったり、憎んだり、さらにいえば、批判したりすることはないのである。

簡単に書けば、
愛情=関心=自分の時間やエネルギーを相手に与えること、という方程式が成り立つ。

そんなことを思いながら、映画「靖国YASUKUNI」をめぐる最近の騒動の記事や報道を読んだり、聞いたりしていた。ネットやマスコミの記事によれば、この騒動の発端は、ある週刊誌が、「文化庁が『反日映画』に助成金を出した」という記事を掲載したことから始まり、そのあと一部の国会議員たちが騒ぎ、それから右翼団体が騒ぎ、映画館が上映中止を決め、マスコミ・文化人たちが騒ぎという具合に、騒動がどんどん膨らんでいったらしい。

現在は、振り子が反対に振れるように、多くの映画館でこれから上映されることが決まったようである。考えようによれば、一般公開される前から、映画「靖国YASUKUNI」を反日的だと批判し、騒いだ人たちの「おかげ」で、この映画に対する国民の関心が盛り上がり、最終的には多くの映画館で上映されることが決まったとも言えるのである。もし騒動がなければ、ほんの一部の人たちしか見ない、たいして話題にもならない、マイナーな文化映画で終わる可能性もあったはずだ。

だから、私は、この映画に多大な関心をいだき、上映に抗議している人たちは、結果的には、(自分たちでも気づかないまま)この映画に愛情をもち、その成功に力を貸しているのだと思っている。

一方、この映画を作った中国人監督、彼がどんな意図でこの映画を作ったのか、また、(映画を見ていないので)、この映画が反日的かどうかは、私には判断できない。ただ一つ私にわかるのは、この映画は、反靖国神社ではないということである。なぜかといえば、この中国人の監督は、10年間の歳月をかけて、靖国神社に通いつめて、この映画を作ったと聞いているからだ。

もし人が10年間もの間、何かに関心を持ち続け、そこに通い続けるとすれば――それは、ある種の「恋愛」である――彼はどういうわけか、自分でも説明できないほど、強烈に、靖国神社とそれを取り巻く人々に心惹かれている。

今回の騒動は、靖国神社に対する中国人監督の情熱と、やはり靖国神社を偏愛する人たちの心が織り成す相思相愛のお祭騒ぎであり、両者から多大な愛情・関心をもらった当の靖国神社は、今回のお祭騒ぎと映画のおかげで、(今でも「戦争神社」として世界的にも有名であるが)、日本だけでなく、世界中にも、ますます鮮明にその名を刻むことになるだろうと私は思っている。

以上のような観点で今回の騒動を鑑賞すれば、この映画を批判する側も、作った側も、上映・配給する側も、すべて三者それなりに、得るところがあり、三方丸く収まって、結局のところメデタイ話なのである。

そして、多くの国民がこの映画を見たあと、やはりこの映画は「反日的」だという意見がたくさん出て、議論が起こるとしたら、それはそれで、日本国および、日本人の精神性の高さ・豊かさを物語っている。なぜなら、日本国家および日本人には、外国人監督が作る「反日的映画」にお金を出して、さらにそれをみんなで鑑賞し、議論する文化的寛容さ、財政的豊かさ、精神的度量があるからである。

今回の映画をめぐる騒動に関しては、(めったに自分と国家とを一体化しない)私も、右翼系の方々に習って、日本および日本人の精神性を礼賛してもいいような気分である。

大言壮語の国2008年05月20日 09時39分48秒

バーバラ・エーレンライクというアメリカの著名なジャーナリスト、社会評論家がいる。彼女が、自ら単純労働を経験しながら、アメリカの単純労働者たちのワーキング・プアーの実態を描いた「ニッケルアンドダイムド」(東洋経済新報社発行)は、全米でミリオンセラーとなり、日本でも発売当初多少話題になった。

「ニッケルアンドダイムド」を読んだ印象からいうと、彼女は、私が中流アメリカ人のなかに感じる最良のもの――好奇心が旺盛で、前向きで、ユーモアがあり、何事に対しても体験してから考え、簡単には信じない精神、そして健全なる批判精神――を持ち合わせている。彼女は古きよきアメリカの良心と知性の声でもある。

その彼女が、今度は、アメリカの中流階級、ホワイトカラーの厳しい就職事情を、やはり自らが就職活動をするという経験をしながら、取材して書いたのが、「捨てられるホワイトカラー」(東洋経済新報社発行)である。

まず、最初に多くのページを使って書かれていることが、就職のためのコーチングと、就職ネットワーキングの話で、それらは、アメリカで転職を志す人たちが、最初に足を踏み入れる場所になっているらしい。

その転職のためのコーチングの中味が、中々興味深い。

自分の業績、実績をテンコモリにして書く履歴書の書き方に始まって、自分の性格分析、前向きで明るい人を演じるためのイメージ訓練、「勝者の振る舞い」を身に付ける練習、服装、化粧のための講座、自分を売り込むためのスピーチ訓練等、アメリカの就職事情をあまりよく知らなかった私には、「自分を売り込むために、ここまでやるか!」という感じである。

そして、高いお金を払っていくつかのコーチングを受けながら、同時に全米各地で開かれている様々な就職ネットワーキングに参加する。ネットワーキングの目的は、そこに参加して、有力な情報やコネを得たり、コーチングで教わった「自分を高く売りこむ」技術を試したりすることである。

しかし、それだけお金と時間とエネルギーを使っても、著者も含めて、ほとんどの人が何ヶ月たっても、望む職を手に入れることができない。絶望しながら、失望しながら、コーチングとネットワーキングの間を、さ迷い歩く人々の姿を、著者は、前著同様、共感とユーモアをもって描いている。

私が本書を読んで一番強く感じたことは、アメリカという国全体が、「自分を常により高く売り込まなければ、いけない」という思考に、徹底的にマインドコントロールされているということだ。多くのアメリカ人の心には、「自分を常により高く売りこむこと」=「自分を他人よりも、よりよく見せること」=「キャリアと年収と地位の向上」=「人生の成功」という図式が、インプットされている。

そのため、アメリカ人は、あらゆることにおいて、常に自分を実際よりもよく見せなければいけない、という強力な圧力にさらされ、人々は全体として、大言壮語の傾向がある。つまり、自分のあるがままの本当の実力・性格が、1だとしたら、それを常に言葉や態度で、2倍とか3倍に飾り立てる人たちが非常に多い。日本風に言えば、やたら「押しが強い」人たちが多いということだ。

しかし、不思議なことに、私が経験してきたことからみると、キャリアだ、年収だと、アメリカ人たちが騒ぐわりには、平均的アメリカ人の仕事の質と能率は、少なくとも平均的日本人に比べると、おそろしく悪い。なぜか、簡単なこと(と平均的日本人なら思えること)が、きちんと短時間ですまない場合が多いのだ。

若い頃、アメリカに住んだ頃から、これが、長年アメリカという国について、私がいだいてきた一つの疑問だった。なぜ、ビジネスの先進国、ポジティブ思考(大言壮語を、よい表現で言えばこうなる)の盛んな国の国民が、簡単な仕事一つ、スムーズに短時間にできないのかと。

その答えを、私は本書の中に見出だしたような気がする。

アメリカの多くのホワイトカラーは、仕事そのものではなく、自分のキャリアと年収と地位に関心を寄せている。どんな仕事をしているときでも、目の前の仕事よりも、今の会社よりも、常に自分のキャリアが気になる。どこにいてもリストラされる危険性があるので、心では、常に次の仕事や次の会社のことを考えたり、探したりしている。会社の幹部や最高責任者でさえ、例外ではない。彼らはみな、仕事よりも、転職に忙しい。

だから、実際の日々の実務的仕事の細部がおろそかになる→→会社全体の士気や売り上げに影響→→ひいては、アメリカ全体の産業にも悪影響→→アメリカ経済全体の衰退を招くという具合に、悪循環が続くのであろうと、想像できる。

自分のことをポジティブに考える――このこと自体は悪いことではない。しかし、それがあまりに過度になると、人は自分が他人に与えるイメージや印象、あるいは、それらが未来に生み出す成果ばかりが気になり、かえってストレスを生み、今目の前にある問題や仕事に迅速に対処する能力が身に付かない――ポジティブ思考も、過度になれば、ただの大言壮語、である。

本書には、そういった過度のポジティブ思考圧力によって、全体的に無能へ転落しつつあるアメリカの実態が垣間見えるようである。

さて、これを書いている朝、アメリカ大統領選の民主党のもう一人の候補、ヒラリー・クリントン氏の演説が、インターネットラジオから聞こえてきた。聞くともなく聞いていると、自分に対する超超超ポジティブな宣言(大言壮語)であふれている。

「私は、この国を変えることができます」
「私は、この国のために一生懸命働いてきました」
「私は、実績があります」
「私ほど、すばらしい民主党の候補はいません」
「私は、最高の大統領になれます」

自分の最後のキャリアとしてアメリカ大統領という職業を目指す彼女は、超ポジティブ思考の国=大言壮語の国の大統領に、まさにふさわしいかも……