関心という愛情 ― 2008年05月11日 10時47分14秒
人間的「愛情」ということに関して、私がもっている観念の一つが、「関心は、愛情である」というものがある。
それが何であれ、人が何かや誰かに関心をもつということは、人はそれに対して愛情をもっているのだと、私はそう理解している。たとえ、人がその何かや誰かを嫌っている、憎んでいると公言しているときでも、嫌うことや憎むことは、関心・愛情の一部であるのだ。人は、関心・愛情をもってないものを嫌ったり、憎んだり、さらにいえば、批判したりすることはないのである。
簡単に書けば、
愛情=関心=自分の時間やエネルギーを相手に与えること、という方程式が成り立つ。
そんなことを思いながら、映画「靖国YASUKUNI」をめぐる最近の騒動の記事や報道を読んだり、聞いたりしていた。ネットやマスコミの記事によれば、この騒動の発端は、ある週刊誌が、「文化庁が『反日映画』に助成金を出した」という記事を掲載したことから始まり、そのあと一部の国会議員たちが騒ぎ、それから右翼団体が騒ぎ、映画館が上映中止を決め、マスコミ・文化人たちが騒ぎという具合に、騒動がどんどん膨らんでいったらしい。
現在は、振り子が反対に振れるように、多くの映画館でこれから上映されることが決まったようである。考えようによれば、一般公開される前から、映画「靖国YASUKUNI」を反日的だと批判し、騒いだ人たちの「おかげ」で、この映画に対する国民の関心が盛り上がり、最終的には多くの映画館で上映されることが決まったとも言えるのである。もし騒動がなければ、ほんの一部の人たちしか見ない、たいして話題にもならない、マイナーな文化映画で終わる可能性もあったはずだ。
だから、私は、この映画に多大な関心をいだき、上映に抗議している人たちは、結果的には、(自分たちでも気づかないまま)この映画に愛情をもち、その成功に力を貸しているのだと思っている。
一方、この映画を作った中国人監督、彼がどんな意図でこの映画を作ったのか、また、(映画を見ていないので)、この映画が反日的かどうかは、私には判断できない。ただ一つ私にわかるのは、この映画は、反靖国神社ではないということである。なぜかといえば、この中国人の監督は、10年間の歳月をかけて、靖国神社に通いつめて、この映画を作ったと聞いているからだ。
もし人が10年間もの間、何かに関心を持ち続け、そこに通い続けるとすれば――それは、ある種の「恋愛」である――彼はどういうわけか、自分でも説明できないほど、強烈に、靖国神社とそれを取り巻く人々に心惹かれている。
今回の騒動は、靖国神社に対する中国人監督の情熱と、やはり靖国神社を偏愛する人たちの心が織り成す相思相愛のお祭騒ぎであり、両者から多大な愛情・関心をもらった当の靖国神社は、今回のお祭騒ぎと映画のおかげで、(今でも「戦争神社」として世界的にも有名であるが)、日本だけでなく、世界中にも、ますます鮮明にその名を刻むことになるだろうと私は思っている。
以上のような観点で今回の騒動を鑑賞すれば、この映画を批判する側も、作った側も、上映・配給する側も、すべて三者それなりに、得るところがあり、三方丸く収まって、結局のところメデタイ話なのである。
そして、多くの国民がこの映画を見たあと、やはりこの映画は「反日的」だという意見がたくさん出て、議論が起こるとしたら、それはそれで、日本国および、日本人の精神性の高さ・豊かさを物語っている。なぜなら、日本国家および日本人には、外国人監督が作る「反日的映画」にお金を出して、さらにそれをみんなで鑑賞し、議論する文化的寛容さ、財政的豊かさ、精神的度量があるからである。
今回の映画をめぐる騒動に関しては、(めったに自分と国家とを一体化しない)私も、右翼系の方々に習って、日本および日本人の精神性を礼賛してもいいような気分である。
それが何であれ、人が何かや誰かに関心をもつということは、人はそれに対して愛情をもっているのだと、私はそう理解している。たとえ、人がその何かや誰かを嫌っている、憎んでいると公言しているときでも、嫌うことや憎むことは、関心・愛情の一部であるのだ。人は、関心・愛情をもってないものを嫌ったり、憎んだり、さらにいえば、批判したりすることはないのである。
簡単に書けば、
愛情=関心=自分の時間やエネルギーを相手に与えること、という方程式が成り立つ。
そんなことを思いながら、映画「靖国YASUKUNI」をめぐる最近の騒動の記事や報道を読んだり、聞いたりしていた。ネットやマスコミの記事によれば、この騒動の発端は、ある週刊誌が、「文化庁が『反日映画』に助成金を出した」という記事を掲載したことから始まり、そのあと一部の国会議員たちが騒ぎ、それから右翼団体が騒ぎ、映画館が上映中止を決め、マスコミ・文化人たちが騒ぎという具合に、騒動がどんどん膨らんでいったらしい。
現在は、振り子が反対に振れるように、多くの映画館でこれから上映されることが決まったようである。考えようによれば、一般公開される前から、映画「靖国YASUKUNI」を反日的だと批判し、騒いだ人たちの「おかげ」で、この映画に対する国民の関心が盛り上がり、最終的には多くの映画館で上映されることが決まったとも言えるのである。もし騒動がなければ、ほんの一部の人たちしか見ない、たいして話題にもならない、マイナーな文化映画で終わる可能性もあったはずだ。
だから、私は、この映画に多大な関心をいだき、上映に抗議している人たちは、結果的には、(自分たちでも気づかないまま)この映画に愛情をもち、その成功に力を貸しているのだと思っている。
一方、この映画を作った中国人監督、彼がどんな意図でこの映画を作ったのか、また、(映画を見ていないので)、この映画が反日的かどうかは、私には判断できない。ただ一つ私にわかるのは、この映画は、反靖国神社ではないということである。なぜかといえば、この中国人の監督は、10年間の歳月をかけて、靖国神社に通いつめて、この映画を作ったと聞いているからだ。
もし人が10年間もの間、何かに関心を持ち続け、そこに通い続けるとすれば――それは、ある種の「恋愛」である――彼はどういうわけか、自分でも説明できないほど、強烈に、靖国神社とそれを取り巻く人々に心惹かれている。
今回の騒動は、靖国神社に対する中国人監督の情熱と、やはり靖国神社を偏愛する人たちの心が織り成す相思相愛のお祭騒ぎであり、両者から多大な愛情・関心をもらった当の靖国神社は、今回のお祭騒ぎと映画のおかげで、(今でも「戦争神社」として世界的にも有名であるが)、日本だけでなく、世界中にも、ますます鮮明にその名を刻むことになるだろうと私は思っている。
以上のような観点で今回の騒動を鑑賞すれば、この映画を批判する側も、作った側も、上映・配給する側も、すべて三者それなりに、得るところがあり、三方丸く収まって、結局のところメデタイ話なのである。
そして、多くの国民がこの映画を見たあと、やはりこの映画は「反日的」だという意見がたくさん出て、議論が起こるとしたら、それはそれで、日本国および、日本人の精神性の高さ・豊かさを物語っている。なぜなら、日本国家および日本人には、外国人監督が作る「反日的映画」にお金を出して、さらにそれをみんなで鑑賞し、議論する文化的寛容さ、財政的豊かさ、精神的度量があるからである。
今回の映画をめぐる騒動に関しては、(めったに自分と国家とを一体化しない)私も、右翼系の方々に習って、日本および日本人の精神性を礼賛してもいいような気分である。
by シンプル堂 [政治] [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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