生き延びたという「幸運」2008年11月08日 09時47分18秒

ほとんどの人には、人生に最低でも、一度か二度、本当に「ひどい体験」というものがある。私にもいくつかあるし、今このブログを読まれている皆さんにも、たぶんあることだと思う。

事故、事件、人間関係や金銭のトラブル、犯罪の被害、虐待、イジメ等。

不思議なことに、誰にでも、何らかの「ひどい体験」は降りかかるのに、その体験をどう受け止めるかは、人の数だけあるということだ。

多くの人は、その「ひどい体験」がトラウマになって、生きる意欲をなくすか、みじめになる。

また、一部の人たちは、自分にされた「ひどい体験」の仕返しをしようとして、自ら犯罪者や虐待加害者になる。

また、一部の人たちは、その「ひどい体験」のせいで、ある種の政治的戦士となる。

そして、一部の人たちは、「ひどい体験」から学んで、賢く、強くなる。

実際、出来事にどう対応するか、そのときは自分の意志で選べるわけでもないが、もちろん、幸福な道は、最後に書いた、「『ひどい体験』から学んで、賢く、強くなる」であり、これがスピリチュアルな道でもある。

今、読んでいる本、「許す勇気、生きる力」(デイヴ・ペルザー著 青山出版社)は、そんな「ひどい体験」から学んで、賢く、強くなった人が、どうしたら人生のひどい体験から立ち直り、豊かな人生を送ることができるかを、読者に語りかけている本である。専門家が書いたヒーリングの本とは一味違って、著者の語りには、苦難を本当に生き延びた人がもつパワーと優しさがある。

「ひどい体験」といえば、この著者の体験のひどさを超える人はあまりいないかもしれない。実の母親に12年間も虐待され続け、しかも、その虐待の中味が半端じゃない。虐待の詳しい様子は、著者の別の本、「Itと呼ばれた子」(青山出版社)などに詳しく書かれているらしいが、本書でも、母親が8歳の少年だった著者をコンロで焼き殺そうとする話が書かれている。

母親にコンロの上に乗せられないように、必死で知恵をしぼって逃げまどう少年――そしてなんとか逃げ切ったあとで、8歳の少年は思うのだ。

「ぼくは生きているんだ。腕がずきずきするのがわかるってことは、死んでいないということだ。死んでいないということは、母さんに殺されなかったってことだ。ぼくは生きている!勝ったんだ! (中略)いまみたいなことができたなら、母さんに勝って生きられたなら、ぼくにできないことなんてあるだろうか?」(114ページ)

そして、著者は、この日の出来事が、人生を変えた転機だったと書いている。彼は、自分が本の中にこんな悲惨な出来事を書いたのは、同情をひくためではなく、

「人生経験のない子供だって必死でやれば、どんな困難も生き延びることができた。だったら、どんな人の中にもそんな不屈の精神があることに気づいてもらいたい」からだと言う。

今はどんなときにも幸運だという著者は、講演で、「もし過去を変えることができたら、何を変えますか?」と訊かれると、こう答える。

「『何も!』ぼくは、これまでの人生のどの部分も変えることはしないだろう。(中略)その当時はどれほどつらく、恐ろしかったにせよ、過去の経験のすべてがあったおかげで、いまのぼくは生活のすべて――それこそありとあらゆるものを、楽しみ、感謝することができるのだ。あれだけの思いをしたあとで、何を不満に思うことがあるだろうか?」(ページ184-185)

こういう発想は、この著者だけでなく、自分の人生を幸運だと思う人に共通しているものだ。自分を幸運だと思う人は、他の人より、たくさんよいことが起きた人ではなく、「ひどい体験」を生き延びたことを幸運を思える人なのである。

太平洋戦争で三回死にかけた私の父親は、「戦争中に耐えた苦しみに比べれば、どんなことにも耐えられる」というのが口癖であるし、先日読んだ本の著者も、交通事故で九死に一生を得たとき、「自分はなんと幸運なんだろうかと思った」と書いている。

生きている人はみな、色々なツライ出来事、ひどい体験があったにもかかわらず、知恵をしぼって生き延びてきたからこそ、今、呼吸をしている。だから、本当は、生きているかぎり、人は毎日、自分の幸運を祝福できるのである。


[イベント]
*2008年11月23日(日)「私とは何かを見る会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
*2008年11月24日(月――振り替え休日)「問題解消の会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分

上記の会の詳細・お申し込みは下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html