人の「表」と「裏」2009年10月08日 08時39分47秒

大リーグ、マリナーズのイチロー選手が、先日、連続9年、200本安打の記録を達成したすぐあとのインタヴューが面白かった。

彼は、まず自分が着ている服(その日彼は、とてもカワイイ服を着ていた)に話題をふって、のっけから超ごきげんに話し始めた。

その様子が、野球をしているときのストイックで超真面目な彼とはあまりに違うので、インタヴュアーが驚くと、イチロー選手は、

「人には裏というものがあって、それでバランスがとれるんだと思う。僕が家庭でも真面目な野球選手だったら、もたないでしょう。どんな人にも裏があるのは、僕は当然なことだと思う」という意味のことを語った。

あらゆる人には裏がある――それは、ものすごく当たり前のことだが、そのことを理解している人は少ない。

「裏」というのは、必ずしも「悪い面」という意味ではなく、イチロー選手が言うように、表に現れる人格のバランスをとる面という意味である。

たとえば、

*(表が)ストイックで超真面目であれば、どこかでひょうきんでお茶目(イチロー選手のこと)
*(表が)優しく、親切であれば、どこかで冷たく、残酷
*(表が)頭がよければ、どこかでバカ
*(表が)何事にも几帳面であれば、どこかでだらしいない
*(表が)傲慢であれば、どこかで自信がない
*(表が)威張っていれば、どこかで劣等感をかかえている
*(表が)暴力的であれば、どこかでとても優しく、弱い
*(表が)理性的であれば、どこかでかなり感情的
*(表が)ハイテンションでいつも笑っている芸人やタレントは、どこかでかなり暗い
*(表が)素直な人、従順な人は、どこかで頑固
*(表が)計算高い人は、どこかで無駄使いをする
*(表が)臆病な人は、どこかで向こう見ず

等々、こうやって人は、自分の中で人格のバランスをとるのである。(上記のことは、反対もしばしば成り立つ。たとえば、「(表が)冷たく、残酷な人は、どこかで優しく、親切」)

さらに理解しておくと役に立つことは、ある人が、Aさんにとってそう見えるからといって、その人が別のBさんにとってそう見えるとはかぎらないということである。たとえば、ある人が、Aさんにとって親切で、優しくあるからといって、その人がBさんにとって親切で優しくあるとはかぎらないということだ。たいていの人は、人格・性格を、対人関係・状況によって多少修正するのが普通である。

もし、他人の「裏」が見えないとしたら、それは本当は、他人への観察眼が足りないというよりむしろ、その人は、自分の感情や思考、行動を客観的に眺めてみたことがないからなのである。

人は自分を理解する程度に、他人を理解する。

自分が物事や他人にどれだけ矛盾した思考や感情をいだくのか、ときにはどれほど否定的な感情や思考をいだくのか正視できれば、その程度において他人についてもより正確に判断できるようになるはず、と私はそう思っている。

そして、他人についての判断がより正確になれば、人間関係において期待と失望が減り、あらゆる人はみな「ありのままで、普通で、多様で、多面的」となり、自分より上でも下でも、自分より素晴らしいわけでも、ダメなわけでもなくなるのだ。

だから、他人の「裏」を見るとは、こいつの裏を暴いてやろう(笑)などという意地悪な気持ちで人を見たり、人には裏があるから信用できないと思ったりすることでは決してなく、ただ、単純に、人の多様な面を認め、受け入れることである。

人間がしばしば犯す間違いは、自分が好きな(あるいは嫌いな)一面だけを他人の中に見て、それに執着して、それ以外の面(「裏」)をなかなか見ようとしないことだ。

すると、ある日、その人の別の面を発見して驚く、ショックを受ける、嫌悪を感じる、(あるいは、たまには、嫌いだった人が好きになる)ということが起る。

自分が好きな他人のある面だけを台座に上げて過度に賞賛すれば(それが、アイドル化=偶像化ということ)、人の心は、いつかそれをその台座から引きずりおろして非難しないと気がすまない――もし人間心理のその証拠を見たいなら、マスコミのニュースやゴシップ欄を見るだけでいい――結局のところ、マスコミ(大衆心理の象徴)は、賞賛しては批判する、誰かを台座に上げては、引きずりおろすのがその仕事である。

人間は、本当はあらゆる人が多面的な生き物で、いわゆる「裏」がたくさんあるから、楽しいだと思う。

「裏」を受け入れ、愛すれば、「表」はもっと自由になる。反対に「裏」を否定すれば、「表」には非常にストレスがかかる。ほんの少し自分自身と自分のまわり(職場や家庭など)を注意深く見れば、そのことを理解するのは楽しい驚きとなるだろう。


[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年10月18日(日)午後(東京)詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

割り勘の悲喜劇2009年10月22日 13時30分55秒

本日は、割り勘をめぐる悲喜劇について書いてみよう。

最近、要約するとだいたい次のような内容の若い男性からの投稿を読んだ。

「先日、意中の女性を初めてデートに誘ってとても楽しい時間を過ごした。ところが、別れ際、その日かかった費用を計算して、彼女に割り勘で払ってと言ったら、それまで楽しそうにしていた彼女が怒ったような様子になり、お金は払ってくれたものの、そのあとメールをしても返事も返ってこない。自分は女性と男性は平等だと思っているし、年齢も近いので、割り勘でいいと思ったが、何か間違ったことをしたのだろうか?」

「男性と女性は平等だと思う」と、人間として正しい考えを持っているのに、どうしてこの男性はデートに失敗してしまったのか……

人間の論理では正しいことも、動物の領域では(男女関係は基本的に動物の論理で動いている)、通用しないことがある。

動物の世界では、オスがメスに求愛するときは、オスは精一杯見栄を張らないと、求愛には成功しない。「精一杯見栄を張る」とはどういうことかというと、自分がもっている力をできるだけメスにアピールするということだ。(もしテレビ等で機会があれば、「極楽鳥」という鳥のオスの求愛ダンスを見ることをお勧めする。オスたちの華麗で見事なダンスは必見の価値あり)

初デートで、男性が奢ることを女性がひそかに期待するのは、そのことが、オスがどれだけ自分のために「見栄を張ってくれるのか」を査定する一つのバロメータになっているからなのである←←動物のメスの論理から言えば。

それが帰り際に、「じゃあ、割り勘」では、「ああ、この人の私に対する求愛って、こんな程度なのね。がっかり。私には、私のためにもっと激しく求愛してくれるオスが他にいるはず」と、なってしまうのである。

それから、先回書いた人の「表」と「裏」でいえば、たいてい、女性は表がロマンチスト、裏が現実主義者、男性は表が現実主義者、裏がロマンチストである。女性は根が現実主義なので、恋愛等ではできるだけロマンチックな気分に浸りたいと思っている。だから、楽しくロマンチックに気分が盛り上がったその最後になって、「じゃあ、割り勘」では、そのロマチックな気分が一気にぺしゃんこになって、現実を見てしまったのがツライのである。女性は自分が現実主義であるゆえに、男性にはそうでないものを期待するというわけだ。

こんな割り勘の話を書いていたら、今から25年ほど前のある晩のことを思い出した。

その当時私は会社に勤めていて、あるとき、同僚の男性と二人で地方に仕事の出張で出かけたことがあった。数日間の仕事が終わった晩、せっかく食べ物と日本酒のおいしい街に来たので、では、どこかおいしい料理屋へ食事にでも行きますかという話になった。同僚の男性は、日本酒が好きで、私もおいしい食事と日本酒は好きなので、二人で料理屋へ食事に出かけた。

同期入社でほぼ同じ歳のその同僚の男性は話していて特に楽しい相手ではないのだが、二人であれこれおいしい日本酒を飲み比べて、日本酒の話で多少盛り上がって私も少々ほろ酔い気分になって、ではお勘定ということで、お店の人が勘定書きをもってきて、彼にそれを手渡した。

同僚の男性は、しばしその勘定書きを眺め、そして真顔で私にこう言ったのである。

「ねえ、ねえ、合計金額がさ、奇数で、割り切れないんだけど、1円どうする?」(彼は数学が専門である)

その言葉を聞く前は、私はほろ酔いの頭で、(彼は私よりたくさん給料をもらっているので)数百円程度彼が余分に払うほぼ割り勘で、払いやすい金額で払えばいいだろうとぼんやりと考えていた。

それが、「1円どうする?」と尋ねられて、私は目が点になり、一気にほろ酔いからさめ、「1円どうする?って私に尋ねるってことは、彼は1円もよけいに払いたくないんだ」と察した。

料理屋のテーブルで、どっちが1円多く払うか議論するのもみっともないと思い、私が「じゃあ、私が1円多く払いますよ」と言ったら、その同僚氏は「ありがとう!」とニコニコして言うではないか――その笑顔を見て、私は完全にしらふになってしまったのである(私も会社では変人で通っていたが、彼も私以上に変人で有名だった)。

翌日会社に戻り、私は社内の誰かに出張の話を訊かれるたびに、仕事のことではなく、この「1円どうする?」の話をしまくり、私のほろ酔いをぶち壊した仕返しをしてやった。

「1円どうする?」――今ではあんな変人もいたなあと、その場面を思い出すと笑いがこみあげるのだが、そのときは、「別にカップルというわけじゃないけど、せっかくおいしい食事をしたあとで、1円どうする? なんて、そりゃないだろう」という感じだったのだ。

食事やデートの最後に、お金の話で女性の気分を盛り下げて、現実に連れ戻してはいけない(お金の話をする必要があるときは、最初にする)――男性諸氏はこの鉄則を覚えておくと、きっと役に立ちます(笑)。

人間マインドの研究(1)2009年10月30日 13時21分37秒

数ヶ月前、ゴリラ・マインドとチンバンジー・マインド、まとめて言えば、人の中にある動物的マインドについて書いてみた。今回はその続きで、人間マインドについて書いてみよう。

(人の中にある)動物的マインドと人間マインドが、最大に違うところは、「自分が望むものを得るために、何に、誰に、頼るのか?」というところにある。

動物的マインドにとっては、自分の精神的物質的幸福は、すべて外(他者)から来るものである。だから、他人(世間一般)と人間関係が非常に重要であり、自分の精神的物質的幸福を得るために、他人をなんとかコントールしなければいけないと思っている。もちろん、他人も世の中もめったに自分の思い通りにならないので、動物的マインドが強く作動している人は、人間関係、世の中の状況、その他あらゆることに不満と愚痴が多い。不満と愚痴からさらに動物状態へ退化すれば、極度の怒り、憎しみへ、そしてさらに暴力へと転落していく。

もし人が、動物的マインドを一歩抜け出して、人間マインドに向かえば、最初に開発されるマインドが、「達成マインド」であり、私はこれを勝手に「人間マインド第一段階」と呼んでいる。

「人間マインド第一段階」は、自分の精神的物質的幸福は、他人に頼らず、自力で得ると信じるマインドである。何事もすべては、「自分の力で獲得すべきこと」であり、自力で達成したことに喜びを感じる。動物的マインドにとって重要なのは、他人や世間(なぜなら、そこに自分の幸福の源泉があるから)であるが、達成マインドにとっては、一番重要なことは、自分の力、そして自分が達成すべき目標と方法論である。

私たちが、子供の頃、学校で受ける教育は、この「達成マインド」を最初に訓練するためのものだが、残念ながらというべきか、学校教育はそれにあまり成功していない。子供の多くは、小学高学年くらいに、勉強やスポーツなど、学校での訓練を苦痛に感じるようになり、早々と「達成マインド」の訓練から脱落してしまっている。

なぜ「達成マインド」の訓練は困難かといえば……

私が思うに、動物的マインドと人間マインドの間には、大きなギャップがあるからである。動物的マインドは、ある種、動物的本能にもとづき、本能的であるゆえに、いわゆる「努力」がいらない。それは基本的に「食と性と人間関係」以外に関心がなく、その本能は生物の歴史と同じくらい古い。それは未来のいつかに結果がでる「達成」には無関心である。

しかしながら、今の時代、人々は、「達成マインド」が発達した人たちのほうが、この世の中を有利に生きていけることを理解し始め、またこの「達成マインド」が非常に発達した代表的な人たち、スポーツ選手、企業家、ビジネスマンなどは、一般に高収入で、その人たちはこの世の中で高い評価を受けていることもよく知っている。

そこで、出版界は、こういった人々の関心、つまり、「どうしたら自分が望むもの、自分の目標を、できるだけラクして簡単に達成するか」に応えるべく、勉強本、ビジネス、スピリチュアル系の成功哲学、引き寄せの法則本など、達成マインド育成用の本を多種提供している。が、次から次へ似たような本が書店にあふれているということは、本を読んでも、多くの人が「達成マインド」の訓練にあまり成功していないことを物語っている。

「何かの目標を立てて、それを達成する」――子供にしろ、大人にしろ、そのことは多くの苦痛(苦労)と犠牲を伴うものだ。子供の頃、試験のたびに、私はイヤイヤ、テレビやマンガや本を我慢したものだし、大人になって何十年たった今でも、締め切りのある作業(幸い、ほとんどないけど)や目標を決めてそれに向かうことが本当は苦痛である。

私の経験でいえば、「目標を達成したときの喜びと(物質的あるいは精神的)報酬」と「それを達成するための苦痛」を秤にかけて、喜びと報酬が苦痛よりも大きいだろうと、脳が判断するときに、人は「達成マインド」を起動できるのではないかと思っている。

あるいは、こういう言い方もできるかもしれない――「何かを達成する苦しみ」と「何かを達成しない苦しみ」を秤にかけて、「何かを達成する苦しみ」が、「何かを達成しない苦しみ」よりも小さいと脳が判断するとき、人は「達成マインド」を起動できる、と――私はこれを、「最小苦痛の選択法則」と呼んでいる。

わかりやすので、スポーツ選手を例にとってみると、何かのスポーツ選手が、オリンピックでメダルを取るために、ものすごくハードな練習をしているとしよう。おそらく、練習が苦痛のときや記録が伸び悩んでいるときは、「メダル獲得という目標をやめることができたら、どれだけラクだろうか」と思ったりすることもあるはずだ。しかし、その選手の脳の中で、「メダル獲得を達成する喜びと報酬」>「メダル獲得を達成する苦しみ」、あるいは、「メダル獲得を達成しない苦しみ」>「メダル獲得を達成する苦しみ」であるかぎり、その人はより少ない苦痛に向かって、メダル獲得のために邁進せざるをえないのである。

ということで、何かを達成しようと思うことは二つの「苦しみ」の間でもがくことにもなるので、私はなるべく「達成事項」を増やさないように心がけてはいるが、しかし、まあ、仕事をして生活するためには色々なことを「達成」しなければいけないことも事実である。

どうすれば一番ストレスなく無理なく物事を達成できるか、私が到達した結論はといえば……

達成とはどんな未来の遠大な目標も今日の小さい目標も、すべてはプロセスから成っている。3つのプロセスで終わるものもあれば、10のプロセスで終わるものもあれば、100のプロセスや1000のプロセスが必要なものもある。大きな目標であれ、小さい目標であれ、1つ1つのプロセスを確実にやっていくその終着点に目標の達成があるのである――そのために役立つ、昔からある便利でシンプルな道具と方法がある――手帖にメモやプロセスを書いて、終わったことから線を引くという方法である。

小さい目標、簡単な目標が確実に実行できるようになると、数ヶ月単位、数年単位の目標を達成するマインドも少しずつ自然に育っていくものだが、反対に、小さいことが確実にできる前に、大きな目標を掲げるとたいてい挫折する――単純にいえば、遠大な目標や夢を達成できる前にまず、日々の小さい約束・連絡・物事がきちんとできるようになる必要がある―小さいことを確実にやり続けること、それが本当は一番困難なことなのである。


次回は、人間マインド第2段階「理解マインド」について書く予定です。

参考図書

「キッパリ!」上大岡トメ著 (幻冬舎)
達成マインドを訓練するための非常に基本的事柄が、イラストと簡単な文章で書かれている。何年か前に大ベストセラーとなった本。本書に書かれていることを、もし続けることができれば(←←これが困難なわけであるが)、かなりの効果があるだろう。どちらかというと女性向き。

[イベント]
「私とは本当に何かを見る会」(ハーディングの実験の会)
2009年11月15日(日)午後(名古屋)

ご予約・詳細は下記のサイトへ
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html