夢かなって――新約聖書の教え ― 2010年01月25日 11時55分02秒
この間、久しぶりに「新約聖書」を読み返していた。前々から思っていたことだが、欧米から来た願望達成の多くの考え方のルーツは、新約聖書のイエス・キリストの言葉にその起源があるようだ。
たとえば、
*なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
*求めよ、そうすれば、与えられるだろう。捜せ。そうすれば、見だすだろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。
*すべて求めるものは得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるだろう。
(以上、新約聖書より)
以上の言葉を、現代のたいていの「願望達成」本に書かれている願望達成ステップに書き換えれば、以下のような感じであろう。
1願う
2信じる
3受け取る
あるいは、
1自分が欲しいものを明確にする
2それが「すでにかなった」ものと感じる。
3直感にしたがって行動する
何も複雑なことはなく、実にシンプルな法則で、世の中でいわゆる何かで成功したと言われる人たちは、意識的かあるいは無意識的にみなこの原則を100%の情熱で実行しているはずだ。しかも、悪事(犯罪等)に成功する人たちでさえ、同じ原則を利用している。だから、こういった願望達成の原則が、必ずしもスピリチュアルである(聖書に起源があるようなので、そういう雰囲気で語られることが多いが)というわけでも、善であるというわけでもない。単純にメンタル科学の技法なのである。
さて、メンタル科学は、人間マインドに向けた教えで、きわめて有効なものではあるが、しかし、これは最高の教えではない。これを越えたところに、神マインドの科学がある。
聖書には神マインドの科学を語っているところも多くあり、それらは先ほど引用した人間マインドに向けた教えとは矛盾しているように見える。以下の言葉は、読みようによれば、「求めるな。そうすれば、それは与えられる」みたいな感じだ。
*空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは、彼らよりもはるかにすぐれた者ではないか。
*あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものをご存じである。
*まずは、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるだろう。
(以上、新約聖書より)
求めるべきか、求めざるべきか……その矛盾は、私の理解と経験によれば……
人というのは、何であれ、求める生き物である。求めて、求めて、求めて、願いが実現することの幸福と不幸、願いが実現しないことの幸福と不幸を経験しながら、それを人生で無数に繰り返して、もし幸いなら、求めることにも飽きて、「求めるな。そうすれば、それは与えられる」の教えにたどり着くようになる。それから、またその教えを理解することを求める長い道のり経て、最後にたどりつくところは、100% のあるがまま……つまり、求めても、求めなくても、どっちらでもいい……願いがかなっても、かなわなくても、どっちらでも平和である……「平和」を求めていた若い頃の私の夢がかなったのである。
ダグラス・ハーディング、ニサルガダッダ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール(いよいよ来月、ラメッシの「誰がかまうもんか!?――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」(ナチュラルスピリット発行)が発行されます)等、神マインドの科学を語る先生たちは、すべて次のように教えている。(下記の言葉は、先ほど引用した「まずは、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるだろう」という聖書の言葉を現代風に表現したものだ)
ありのままの本当の自分でいなさい。そうすれば、必要なものが現れるだろう。
Be who you are,and what you need will turn up.
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