「夢やぶれて」2010年01月10日 18時15分55秒

皆様、あけましておめでとうございます(年賀状を送っていただきました皆様、ありがとうございました)。本年も時間と体調がゆるすかぎり、気ままに適当にブログを書いていきたいと思います。気楽にお付き合いください。

昨年の大晦日の晩、紅白歌合戦を見ていた。別に紅白に関心もないのだが、イギリスから来日したスーザン・ボイルの歌を聴くためであった。紅白をまじめに最初から見るのは(どこで彼女が登場するかわからなかったので)、本当に久しぶりだった。

ぼんやりと若い歌手が唄う歌の歌詞を眺めていると、「夢が叶って」とか「夢を叶える」みたいなフレーズがいくつか目についた。若い人間たちは、幸福な夢や希望を歌わずにはいられないのだ。

そして、半ばすぎに、中年のスーザン・ボイルが登場し、1曲だけ歌った――「夢やぶれて」

いっしょに見ていた母は、この歌の頃にはいつのまにか座椅子でうたた寝をしていた。その平和な寝顔を見ながら、私が母の夢をどれだけ打ち砕いてきたかを思い出した(涙)

おそらく私が若い頃の母の心境は、「夢やぶれて」の歌詞のようだったにちがいない。

私には人生の夢があったI had a dream my life would be
それなのに、夢とはあまりに違う地獄を私は生きている
So different from this hell I'm living

予想したのとは全然違う人生… (So different now from what it seemed…)
人生が私の夢をこわしてしまった…(Now life has killed the dream I dreamed…)

                       

(「レ・ミゼラブル――夢やぶれて」より)

私の家だけでなく、多くの親子関係は、お互いの夢と期待をそれこそぶ殺し合う(killed the dream I dreamed状況を経ることがしばしばある。親子の情愛は、「痛い愛」なのだ。

しかし、人は、一つの夢(就職とか人間関係)がやぶれたおかげで、また別の夢の道を歩くことなる(歩かされることになる)――一つの不運が、別の幸運を運んでくる――年をとって、多少賢くなると、若い頃にはよく理解できなかったそういうことがわかるようになる。

で、母も私も今ではお互いに平和な気持ちになれて、母は今でも元気いっぱいである。

ありがたい気持がわき、スーザン・ボイルの歌を聴いて、一句作ってみた。

 

夢やぶれ 行かされた道 光あり

紅白のついでに、ユー・チューブのスーザン・ボイルも見てみた。オーディションで、審査員に、「あなたの夢は?」と尋ねられて、「プロの歌手になること」とこたえ(ここで会場から失笑)、さらに、「どうして今までそれが実現しなかったの?」と訊かれ、「今まではチャンスがなかった。でもここで変わるかもしれない」と。その自らの言葉を叶え、彼女は一躍スターとなり、紅白の1曲で5百万円ものギャラを稼ぐプロ歌手となった。

スーザン・ボイルの歌声が人々のハートのは、それはおそらく中年になるまでの間、自分の夢がやぶれた数々の哀しみと苦しみを、彼女がたくさん経験してきて、それが歌にこもっているからであろう。

夢が叶わない哀しみの歌「夢やぶれて」を歌って、叶えた夢……

 

 

 

 

 

 




夢かなって――新約聖書の教え2010年01月25日 11時55分02秒

この間、久しぶりに「新約聖書」を読み返していた。前々から思っていたことだが、欧米から来た願望達成の多くの考え方のルーツは、新約聖書のイエス・キリストの言葉にその起源があるようだ。

たとえば、

*なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

*求めよ、そうすれば、与えられるだろう。捜せ。そうすれば、見だすだろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。

*すべて求めるものは得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるだろう。
                                                   (以上、新約聖書より)

以上の言葉を、現代のたいていの「願望達成」本に書かれている願望達成ステップに書き換えれば、以下のような感じであろう。

1願う
2信じる
3受け取る

あるいは、

1自分が欲しいものを明確にする
2それが「すでにかなった」ものと感じる。
3直感にしたがって行動する

何も複雑なことはなく、実にシンプルな法則で、世の中でいわゆる何かで成功したと言われる人たちは、意識的かあるいは無意識的にみなこの原則を100%の情熱で実行しているはずだ。しかも、悪事(犯罪等)に成功する人たちでさえ、同じ原則を利用している。だから、こういった願望達成の原則が、必ずしもスピリチュアルである(聖書に起源があるようなので、そういう雰囲気で語られることが多いが)というわけでも、善であるというわけでもない。単純にメンタル科学の技法なのである。

さて、メンタル科学は、人間マインドに向けた教えで、きわめて有効なものではあるが、しかし、これは最高の教えではない。これを越えたところに、神マインドの科学がある。

聖書には神マインドの科学を語っているところも多くあり、それらは先ほど引用した人間マインドに向けた教えとは矛盾しているように見える。以下の言葉は、読みようによれば、「求めるな。そうすれば、それは与えられる」みたいな感じだ。

*空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って下さる。あなたがたは、彼らよりもはるかにすぐれた者ではないか。

*あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものをご存じである。

*まずは、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるだろう。
                                                   (以上、新約聖書より)

求めるべきか、求めざるべきか……その矛盾は、私の理解と経験によれば……

人というのは、何であれ、求める生き物である。求めて、求めて、求めて、願いが実現することの幸福と不幸、願いが実現しないことの幸福と不幸を経験しながら、それを人生で無数に繰り返して、もし幸いなら、求めることにも飽きて、「求めるな。そうすれば、それは与えられる」の教えにたどり着くようになる。それから、またその教えを理解することを求める長い道のり経て、最後にたどりつくところは、100% のあるがまま……つまり、求めても、求めなくても、どっちらでもいい……願いがかなっても、かなわなくても、どっちらでも平和である……「平和」を求めていた若い頃の私の夢がかなったのである。

ダグラス・ハーディング、ニサルガダッダ・マハラジ、ラメッシ・バルセカール(いよいよ来月、ラメッシの「誰がかまうもんか!?――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」(ナチュラルスピリット発行)が発行されます)等、神マインドの科学を語る先生たちは、すべて次のように教えている。(下記の言葉は、先ほど引用した「まずは、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるだろう」という聖書の言葉を現代風に表現したものだ)

ありのままの本当の自分でいなさい。そうすれば、必要なものが現れるだろう。
Be who you are,and what you need will turn up.