「日本人が知らない幸福」2010年04月06日 06時14分17秒

「日本人が知らない幸福(武永賢著 新潮新書)という本を、タイトルにちょっと引かれて読んでみた。著者(日本に帰化したベトナム難民の方)はいったい日本人が知らないどんな幸福を知っているのかと……

読み始めてすぐ納得した――うーん、確かに今の日本人の多くはこういう幸福を知らないかもしれないと。

最初に書いてある話は、水の話だ。そのままでも飲める水で夏にシャワーを浴びるたびに、著者は感謝と幸福の念を禁じえないという。それから、著者にしてみれば、おいしい水道水があるのに、わざわざミネラルウォーターを買う日本人を信じられない気持ちで眺める。

なぜ著者が日本人から見ればそんなたわいもないことに幸福を感じられるかというと、ベトナムでの貧しかった子供時代、それからベトナム戦争が終わったあとの一家がたどったそれこそ波乱万丈の生きるか死ぬかの日々のせいなのだ。

著者はそういった経験についてはほんの少ししか触れていないが、泥水をすすり、弾丸をくぐりぬけた経験があるからこそ、彼は日本に落ち着いてからの日々を天国での暮らしのように感じるのであろう。そんな経験をしている日本人は今の日本では(戦争体験者以外)ほとんどいないので、確かに著者は幸いにも「日本人が知らない幸福を知る」ことができるのである。

私が思うに、人間界の幸福は、比較にもとづいている。不幸を経験するからこそ幸福を感じられ、貧しさを経験するからこそ豊かさが感じられる。同様に孤独だからゆえに、恋愛や人間関係が楽しく感じられ、失敗の苦痛があるから、成功の喜びがある。夏に経験する気温20度と春に経験する気温20度が、人間の感覚では同じ温度に感じられないのもそういうわけである。(私の感覚では、夏の気温20度は寒く、春の気温20度は暖かい)

「日本人が知らない幸福」を読んで面白いと思ったのは、著者の運命が、なぜか物事が「失敗した」あとに好転するという展開だ。カトリック教徒でもある著者は、たぶん、私が前に聖書の話のところで書いた、「求めよ、さらば与えられん」と「求めるな、さらば与えられん」の矛盾と調和を、知識としてではなく、体で体得しているようである。

著者は、何か人生で壁にぶつかったときは、「できないことは、できない」と自分に言い聞かせるという。成功した人たちがよく言う、「どんなときにも、できると信じれば、できる」、ではないところが、著者のユニークなところだ。

「できないことは、できない」という達観というか諦念は、私もよくつぶやくまじない言葉である……

さらに、
できないときは、できない。

できることは、できる。
できるときは、できる。

ないものは、ない。
あるものは、ある。

で、
今日できることをやる。
今日やるべきことをやる。
今日あるものを楽しむ。

で、今晩も湯船を満杯にして、私も贅沢で幸福な入浴を楽しんだのである。

[イベント]

2010 年4月18日(日)午後

「私とは本当に何かを見る会(東京)詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
または
*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html




「霊と金」2010年04月15日 22時01分51秒

「霊と金」(櫻井義秀著 新潮社)というタイトルの本がある。最初、このタイトルを見たとき、「なんだ、このタイトル!」と思ったものだ。私は本書を実は読んでいないのだが、読んだ人からの話、そしてネットで調べた情報で、だいたい何をテーマに書かれた本か理解した。内容は、スピリチュアル世界の拝金主義について批判した本のようである。だから、本書のタイトルは、本当は「スピリチュアル・ビジネスとお金」くらいのほうが正確であろう。

霊と金――はっきり言えば、この二つには何の関係もない。スピリチュアルという言葉の英語、Spiritual、 さらに、その元の英語のSpirit 、これらの言葉が純粋な意味で指し示しているものほど、お金と無関係なものはない。

スピリチュアルは、本当は普通の意味でのビジネスができないものなのだ。知識程度なら、本に載せて売れるだろうが、本質的なものは決してお金では売買することができない(これは私自身の観念なので、異論は様々あろうとは思うけど)。本来、お金で売買できないものを、売買しようとする――そこにスピリチュアル・ビジネスの矛盾と困難があると、私はずっとそう感じてきた。

もしスピリチュアル・ビジネスが本質的なものを売れないとしたら、そういうビジネスに携わっている人たちは一体本当は何を売っているのかといえば、

*娯楽(有名な先生を見にいく等の娯楽)
*スピリチュアル・オタクが集まって交流する場(趣味の交流会のようなもの)
*色々なワークの経験(色々なグルメを試すのと同じ)

などで、会費とか参加費というのは、以上のような場をコーディネート・セッティングして、提供している代金である。

スピリチュアルな探求を始めてしまうと、人はたいてい孤独になり、話す相手がいなくなり、今までの友人や家族と関心が合わなくなる。同じ関心を共有する人たちと話をしたり、交流したりしたいと思うのは、人としては自然であろう。

そして、そういう場を求める人たちがたくさんいれば、そこにビジネスが生まれ、そういった娯楽や場を提供しようと思う人たちもたくさん出るのも必然で、それが今日のスピリチュアル・ビジネスの盛況である。

で、その娯楽代をどれだけの金額で売る(提供する)のかというのは、主催者、団体、やっている人たちのお金についてそれぞれの考え方と都合によるのである。「無料」、「少額」、「普通」、「高額」と、いろいろあるが、それらは、内容とはほとんど無関係であり、また、どれがよくてどれが悪いというわけでもない。

いつだったか、知人(外国人)から、こういう話を聞いたことがある。その人の友人が、どうしても悟りを得たいと思い、自分のところへ来れば、悟りを伝授すると公言しているあるインドの導師のところへ、百万円を払って、修行に行ったという。でも、悟りも何にも起きなくて、がっかりして帰ってきたそうである。

「悟りを、お金で売買できる」――同じ観念を信じる者たちの、楽しい神のリーラ(娯楽)なのだ。

私の経験からいっても、ある意味では、スピリチュアルなワーク・修行は、ギャンブルである。つまり、参加するほとんどのものが自分にヒットしない。だから、スピリチュアルな会・ワーク・セミナー、修行の場に参加する人たちは、自分がスピリチュアルな娯楽にいくらまでならギャンブルできるのか、そのことを心に留めておく必要があるのではないかと思うのである。その金額の上限も、やはり人によって様々であろう。

こんな話を書いていたら、過去三十数年間に、スピリチュアルな娯楽に自分がいくらくらいお金を使ったか、ついでにちょっと思い出してみた。ざっと計算したところ、だいたい1,500万円から1,700万円くらいの感じだ――本代、セミナー・ワークショップの参加費、通信コース、旅費、寄付、それから詐欺めいたもの(?!)――もっと使ったと思っていたが、案外少ない。

私自身は、スピリチュアルな探求に使ったお金を一度も後悔したことがないし、ほとんどが自分にはヒットしなかったとはいえ、たくさんの楽しい場(娯楽)を提供してくださった人たちや団体、出版社にとても感謝している。

霊と金――霊は、お金を必要とはしないが、霊的なことに関わる人間たちはお金のやりとりを必要としている――まあ、そんなところなのだ。


[イベント]
2010 年4月18日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。
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http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
または
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ないものねだりの貧乏スパイラル2010年04月21日 13時07分44秒

貧困に関する話で、昨年たまたま見た二つのテレビの映像が私の印象に残っている。

最初の映像は、ドイツの旧東ドイツ地区に住んでいる男性の話で、彼は8年間失業しているという。でも彼は、失業しているとはいえ、ホームレスではなく、ちゃんとしたアパートに住み、無料の食料支援も受け、見たところ健康である。私はそれを見て、8年も(!)失業していられる生活、さすが高福祉国のドイツだと思ったものである。

ところが、そんな恵まれた生活をしているその男性は、「今のドイツが嫌いだ。昔の東ドイツ時代のほうがずっとよかった」と不満たらたらなのである。

それからもう一つの映像は、生活保護を受けている日本の母子家庭の話で、ひと月15万円の生活保護で母親と幼い子供(4、5歳くらいの感じの子供)で暮らしている。母親は、自分は一日に一食しか食べず、お風呂は週に1回しか入らず、子供には飲み物も与えてあげられず、しかも自分は病気がちで通院して、働くこともできないとカメラの前で自分たちの貧しさを強調する。実際その母親はがりがりにやせていて、子供はスープとか飲み物もなく、哀しそうな顔でパンをかじっている、そんな風景であった。

この映像で、私が何より、まず不思議に思ったことは、「子供には飲み物も与えてあげられない」のところで、このお母さんは、今の時代、飲み物がどれだけ安いのか知らないのだろうか、ということだった。料理が嫌いでも、安くて簡単な飲み物(インスタント味噌汁とかインスタント・スープ、インスタント・コーヒーや紅茶、牛乳等)や安く作れる飲み物はたくさんある――私も一杯約10円のインスタント味噌汁や5円で1リットル作れるウーロン茶を愛飲している。

ひょっとしたら、テレビ局の意図で、過剰に貧しさを演出したのかもしれないが、もしその意図が、「貧しさへの同情を集めること」であるとすれば、あまり感心したことではない。

なぜなら、ある人やある状況に「かわいそう」とか「同情すべきもの」というハンコを大勢の人たちが押してしまったなら、その人は、その状況から抜け出すことがますます難しくなるからである。

これは自分の状況に対しても同じことがいえ、自分が置かれた状況や自分自身に、「かわいそう」とか、「同情すべきもの」というハンコを押せば、やはり、そこから抜け出すのが難しくなる。(抜け出したくない人は、積極的にハンコを押すといいかもしれないけど)

こう書くと意外に思う人がいるかもしれないが、もし長期的貧困に精神的原因があるとすれば、それは「プライド」である――なんで『私』がこんな程度の境遇(収入)でなければいけないのかとか、『私』はもっと世間から優遇されて(愛されて)しかるべきだ、というような「プライド」。

そういったプライドが、今与えられているもの(たとえば、失業手当とか生活保護費とか)のよさを、認識するのを邪魔するのである。

ないものを欲しがり、あるものを無視――こういうことが積み重なって、抜け出すのが困難な貧しさへ転落していく人たちが、たくさんいるのである。

個人だけでなく、町とか村とかの地域振興にも似たところがある。

今年のお正月に読んだどこかの新聞の記事で、九州地方のある島の地域振興プロジェクトの話が出ていて、その島では、島に今すでにある独特の産物や特徴をアピールすることで、たくさんの観光客が来るようになった、というような話だったと記憶している。

その関係者の一人が、「今までの地域振興は、自分の村や町に橋がないから、道路がないから、作ってくれ、というような『ないものねだり』みたいなものばかりで、それが財政を圧迫し、かえって地域経済を貧困にしてきた」という主旨のことを語っていた――「ないものねだりの貧乏スパイラル」で、一番有名になった町が財政破綻した夕張市だ。そんな例があるというのに、最近も関東のどこかの県に、この航空不況の時代でたいした需要もないのに、最初から赤字覚悟で空港ができたというから、驚きである。

今の時代、失業やリストラや病気やその他で、誰でも一時的には、失業したり、貧しくなったりする可能性があり、誰一人その例外ではないし、今日お金持ちで羽振りがよくても、明日は運命がどう変わるかは誰にも予想はできない。一時的に貧乏になったり、失業したりしたら、自分や他の人に何と言ってあげるか………ちょっと考えてみた。

「お金はなくても、呼吸はしているじゃない?」――お金より、呼吸しているほうがずっと大事。

「お金はなくても、本質が失われたわけじゃない――スピリチュアルな究極の事実

「倹約力があがる機会だね――お金を使わず、どうやって生活するか、考えるのはけっこう楽しい。

「働かないって、ワクワクしない?――というタイトルの本があります。

「働かないって、貴族じゃない――シンプル堂の座右の言葉。

貧乏を嫌えば嫌うほど、貧乏はますます近寄ってくる――先日どこかのサイトでたまたま見かけた言葉である。

参考図書

「金欠力」吉野信吾著 祥伝社

お金がない時期を、どう人に嫌われず、快適にすごすか指南した本。