夫(政府)の弱腰・妻(国民)の不満2010年11月09日 12時41分49秒

世の夫族は、概して弱腰である。それが結婚生活における世の妻族の不満の一つである。

子供のこと、近所付き合い、親族付き合い等々において、たとえば、妻が
「ねえ、あなた、ご近所の〇〇さんが××で、困っているんだけど、あなた、注意しに行ってよ」とか、

「お義母(おかあさん)が、毎月、ここに泊まりに来ているけど、こっちも忙しいから、なんとか、あなたからもう少し回数を減らすように、言ってよ」とか言われると、

夫は、たいていこんな返事をする。
「別に、いいじゃないか。そのうちついでに言っておくよ」と逃げ腰で答える。面倒な場面にはなるべく巻き込まれずに、穏便にすべてを済ませたい――それがたいていの世の夫族の本音だ。

妻は、「そのうち」は、決して来ないことを知っているので、内心不満たらたらである。では、自分が出て行って言えばいいのだが、妻も自分が非難を浴びてまで、あえて人間関係を悪くしたくはない。妻は、自分が出来ないことは棚上げして、自分の夫には出るべきところへ出て、言う必要があるときは、ビシっと意見を言ってもらいたいと思っている。が、その妻たちの願いは、多くの家庭ではかなえられないでいる。

人が生きている人間環境――近所、親族、子供の教育関係、職場の人間関係では、しばしばゴリラ的な人が出没して、彼らは、自分より誰が弱いか、強いかをちゃんと査定して、弱腰の人のところへ平気で無理難題を押し付けてくる。

最近の日本の外交問題を見ていると、まさに弱腰夫(政府)とそれに不満タラタラの妻(国民)というよくある日本の家庭の風景を見ているようである。

日本のご近所さん、中国、北朝鮮は一党独裁共産国家で、ロシアもつい最近までは一党独裁共産国家で、昨年も書いたように、一党独裁国家の思考パターンは、ゴリラである――つまり、私(国家)だけが、絶対に正しい。私に刃向かうものは、全部間違っている――というゴリラ的思考で生きている。

中国ゴリラに、間違いは存在しない、というよりも、存在してはならないのである――たとえ、自分から、船をぶつけようが、車をぶつけようが、何をぶつけようが、悪いのは、ぶつけられた相手であって、自分ではない。

さて、こういったゴリラに、人間の礼儀(その場所がどこであれ、故意にしろ、偶然にしろ、ぶつけたほうが、詫びる、それが人間の礼儀だ)を理解させるのは至難のわざだ。ゴリラは、自分より弱いと思っている相手の言うことは、聞かないのだ。

では、中国ゴリラは、何を恐れているかといえば、アメリカとそして国際世論だ。国際世論が盛り上がって、「中国ってこんなひどい国なのか、人間以下だ。あんな国とは付き合いたくない」と思われるのは、これから世界中に進出したい中国にとっては、さすがにイヤなことである。

そういう意味では、国民のほとんどが思っているように、中国船の衝突事件のビデオがyoutubeに流出したことは、よかったことであるのだ――あなた(中国)がこれからもこういう行為を繰り返すなら、youtubeにいつだって、あなたのしたことが世界中に暴露されますよという警告の意味で。

弱腰夫(管さん)は、こう言っている。「時間がたてば、政府は正しく対処していることが、わかってもらえるはずだ」と。これはまるで、何もしない夫が、家庭の中で、「俺が正しいことが、いつか君にもわかってもらえると思うよ」とのん気に妻に言っているようなものだ。

それと同じくらい笑えるのは、元夫(元、前首相)たちがしばしばマスコミに登場して、「私なら解決できた」とか、「菅政権のやり方はここがおかしい」と、言い放っていることだ。

たしか、菅さんだって野党のときは、散々自民党を批判して、「私ならこうする、ああする、もっとうまく解決する」と言っていたと記憶する。自分で何もできない弱腰夫にかぎって、自分がその立場にないときには、「私ならこうする、ああする」と言うのである。

国民世論調査によれば、内閣支持率は30%台まで落ち込んでいて、内閣支持率は政府と国民の離婚バロメーターでもある。管さんは、「石にかじりついてでも頑張る」とおっしゃるが、現在の妻は、昔の妻と違って、我慢強くない。「いつか」の前に、さっさと離婚する……が、妻(国民)も、いつだって自分にピッタリな夫(政府)を得ていることに気づかなければ、どれだけ夫(政府)を新しく変えても、不満は永遠になくならないものであろうとは、思うけど。



「ポジティブ病の国、アメリカ」2010年11月21日 09時01分29秒

今、アメリカのジャーナリスト、バーバラ・エーレンライクの最新作「ポジティブ病の国、アメリカ」 (河出書房新社)という本を、読んでいる。

バーバラ・エーレンライクは、私の印象でいうと、日本でいえば、何年か前に亡くなった、ジャーナリストの筑紫哲哉氏に感じが似ている――舌鋒鋭い、リベラルなジャーナリスト、古きよきアメリカを愛する、そしていつもアメリカの政治・経済・社会の現実に怒っている愛すべきおばさん。

彼女は、ここ数十年のアメリカの現実――労働者が働いても働いても報われない現実――その格差の原因がどこにあるのかを鋭く追及する本を書いてきた。今回彼女がその調査・批判の対象に選んだのが、アメリカのポジティブ産業(スピリチュアルからビジネス・モーティベーション産業にいたるまで、肯定的物の考え方、態度を教える産業)である。

本書によれば、アメリカでは、ビジネス、宗教・教会、そして医療現場、労働現場のあらゆるところで、「ポジティブ(肯定的)で楽観的な態度」が推奨、いや、ほとんど強制されているといい、特に「ザ・シークレット」の本のヒット以後、その盛り上がりは頂点に達しているそうである。ところが、これだけ「ポジティブで楽観的な態度」が推奨・強制されているというのに、アメリカの状況、特に経済・労働環境は悪化の一途とたどっている――それは、なぜなのか?

バーバラおばさんは、現実を直視しない(させない)そういった安易な楽観主義、肯定的物の考え方の蔓延こそ、むしろアメリカのビジネスを凋落させ、金持ちと貧乏人の格差をいっそう広めてきたという論を展開する。

彼女が具体的に挙げている例は、
たとえば、会社で業績が不振だったとしよう。すると、そこの経営陣たちは、自分たちの責任を追及したり、自分たちの報酬は下げることなく、ビジネス・モーティベーション産業の力を借りて、社員のリストラを苦痛なくおこなったり、社員に「やる気向上」プログラムを押し付けたりする。リストラされる社員は、「リストラされることは、あなたのチャンスです。それを肯定的に考えましょう」と説得され、また態度がネガティブだと査定された社員は、職場で排除されたり、非難を受けたりするというわけである。

本書には他にも、
ビジネスの厳しい現実を見るべきときに、楽観的な考え方や「引き寄せの法則」で、なんとか切り抜けられると考える企業のCEO(最高経営責任者)の人たち、

そして、「信仰(=教会に寄付をすれば)があれば、どんなことも可能である」と、貧しい人たちに楽観主義をあおり、不釣合いな寄付や消費に追い込む教会の伝道師たち等々、山ほど事例が挙げられている。

バーバラおばさんは、人々が本当は、怒って、文句を言うべきときに、安易な楽観主義、肯定的物の考え方にまるめこまれて、自分のお金も働き場所も失ってますます貧しくなっていく一方、そういった一部のポジティブ産業の伝道師たちが、大金持ちになっていく様子を、強い口調で批判している。

本書の中に、「ネガティブなたち人は、有害である。彼らはポジティブな人たちからエネルギーを奪うからだ。だから、できるだけネガティブな人たちを避けよう」という主旨の、そういったポジティブ産業の著名な伝道師の言葉の引用があって、それに対しても彼女は、そうやって、あらゆるところからネガティブな人やネガティブな意見を排除しようとするのは、いかがなものか、時には、現実に対して否定的な意見や否定的な人だって必要ではないか?と異議を唱えている。

私はいちおうスピリチュアル系に属しているので、スピリチュアルな考え方や「ポジティブ・シンキング」に対する彼女の批判のすべてには同意しないし、「人々はもっと現実に怒って、文句を言ったほうがいい」という考えにも賛成しないが、ジャーナリストである彼女とは少々違った観点から、安易な楽観主義、安易な「ポジティブ・シンキング」、そして、「ネガティブな人は、有害である」というような意見は、かえって多くの混乱や苦痛を招く危険性があると思っている。

次回は、いわゆる「ポジティブ・シンキング」のその功罪と限界について、もう少し踏み込んで書いてみたい。