死にたい気分という病気2012年06月14日 10時44分36秒

毎年、この時期になると、昨年の「自殺者数」が発表される。多少少なくなっているとはいえ、昨年も3万人を超え、特に20代、30代の若い人たちの自殺が増えているそうである。調査によれば、大人の3人に一人だったか4人に一人に自殺願望があるとされている。

「死にたい気分」――それは誰もがかかりうるある種の精神の病気である。私がその病気にかかったのは、二十代前半の大学卒業前後の数年間のことである。今と同じく、大学生の就職が非常に厳しい時代で、私は黒い雲に覆われた世界に住んで、何とかその世界から出ようと窮屈な世界でもがいていた。今でいうある種の「うつ病」状態だったのだと思う。どうもがいてもその世界からの出口を見つけられず、私はたびたび死ぬことを考えたものだ。

大学を卒業していわゆる今でいうフリーターをやっていたある日、まったく意図せず、まったく偶然、その黒い雲が一晩で消え去るという事件が起きた。何が起こったかというと、あることで私が怒り始めたら、怒りと悲しみが止めようもなく、どんどんわきあがってきて、100%の悲しみと怒りの言わばガソリンの海の中で全身が炎上してしまったのだ。私を取り囲んでいた黒い雲は実は自分の悲しみと怒りの雲で、そのとき幸運なことに、その黒い雲が全部燃え去ってしまったのである。一晩たったら、なんということか、気分がものすごく軽くなり、ある種の多幸感に包まれた。このとき、私はスピリチュアルな探求を始める前で、スピリチュアルや心理学について何も知らなかったので、この出来事をスピリチュアルな経験として考えなかったが、あとで考えてみたら、生涯の最大の「神秘体験」だったかもしれない。たまにスピリチュアルな本に言及されている、「意図されない変容」、まさにそういうことが起きたのだ。もちろん、そうした多幸感は長くは続かず、数ヶ月で静まったし、それ以来憂鬱な気分にならないというわけでもなかったが、重苦しい窒息しそうな憂鬱感からは解放された。

物事が自分の思うようにうまくいかなくて、分離感、敵対感、孤独感、不安、怒り、憎しみ、プライド、罪悪感等が、黒い雲のように自分のまわりにどんどん蓄積されて飽和状態になるとき、(おそらく自分でも止めようもなく)人は、自殺、あるいは自殺願望が反転して外側に出て、他者への暴力行為の方向へ向かってしまうのではないか、と私はそう理解している。私の若い頃の場合は、どういう偶然だったのか恩寵だったのか、その飽和状態が全然別の展開となって、世界と自分を遮断していた分離の黒い雲が相当抜け落ちてしまったのだ。

深刻なほどの自殺願望のある人たちを救う決定的な方法があるのかどうかはわからないが、たぶん、誰かがそういった人たちの黒い雲の中に愛情深い手を差し伸べて、風穴を開けて、世界とのつがなりを回復するのを助けてあげれば、一部の人たちには自殺を思い留まらせる効果があるだろうし、現在日本各地で様々な団体が各種の自殺対策をおこなっていると聞く。

私自身は、「死にたい」という人たちへの対応があまり優しくない。昔、私の本の読者の人が電話で「死にたい」と言ったとき、話の成り行きで、私が最後になんと言ったかというと、「死ぬのも悪くないかもしれない」みたいな言葉だった。そのやり取りを隣でたまたま聞いていた人に、「どうしてそんな冷たい言い方をするの?」と、私はひどく叱られた。私は、人がしたいということに基本、反対しない主義だし、自殺・安楽死の自由を認めている。「死にたい」と言う人に、「死んではいけない」と説得する一体どんな権威を他人がもっているというのか、生が苦痛か死が苦痛かを決めるのは、他人でなく、本人である、とその当時はそんなふうに考えていた。

やはり昔、半ボケしていた祖母が、「川に飛び込んで、死にたい」と子供のように駄々をこねたときも、私はこう言った。「それなら、死ねばいいよ」。すると祖母は、「川まで歩いて行けない」と言い、私は、「それなら、タクシーで川まで行けばいいよ」と言った。今度は、「タクシーに乗るお金がない」と言うので、私は、「だったら、私がおばあちゃんを川まで背負っていってあげる」と言った。そのあと、祖母は、「孫から、死ねと言われた! そんなこと孫に言われるようじゃ、もうおしまいだ」とヨヨヨと泣いた。そのやり取りはまるでお笑いのコントのようだった、と見ていた家族には言われたものだ。祖母はそのあとも数年以上生き、天寿をまっとうした。

今なら、特にスピリチュアル系の人で、「死にたい」という人には、たいてい一言、「自殺しても、ムダ!」。その「自殺しても、ムダ!」の根拠を私はうまく説明できないが、とにかく「自殺しても、ムダ!」。



Resist no evil (悪に抵抗するな)2012年06月22日 09時08分18秒

Resist no evil (悪に抵抗するな)――イエス・キリストが言ったとされる言葉の中でもっとも重要で、もっとも奥深く、もっとも理解されないメッセージの一つである――ここで、evil(悪)というのは、自分の観念の中で、「悪いもの・不愉快なもの・イヤなもの」という意味である。

過去から現在まで、イスラム教にずっと抵抗しまくりのキリスト教世界はいまだこのメッセージを理解していないし、人類そのものが、不愉快なもの(敵)に抵抗し戦って、肉体を生き延びさせてきた種であるので、私たちは、「不愉快なものに抵抗し、戦うこと=善」というふうに根深くプログラムされている。それはおそらく免疫・肉体レベルでは有効な戦略であるかもしれないが、感情や思考のレベルでは、それが何であれ、今在るものへの抵抗は、分離と分断とストレスの元凶となる。

と、頭でわかっても、人は無意識に不愉快なものに抵抗し、戦う種なので、もし偶然にも抵抗が起きない事態があれば、それそのものが神の意志というか恩寵であろう。

前回書いた私の二十代の頃の経験も、そういった「抵抗なし」の経験だったし、アジャシャンティも、「あなたの世界の終わり」(ナチュラルスピリット刊)ではない、別の「Falling into Grace」(恩寵に落ちる)の本の中で、やはり二十代のときに起きた「抵抗なしの」経験について語っている。その話も、特別スピリチュアルな話ではなく、誰もがよく経験するような平凡な経験の最中に「抵抗なし」が起こったのだ。

それは、かわいがっていた彼の愛犬が死んだときの話で、そのとき彼は、今まで一度も感じたことがない悲しみを感じたという。彼が愛犬にお別れの言葉を言い始めたとき、目から涙がとめどもなく流れ、その悲しみがあまりに巨大になり、彼が抵抗できずに完全にその悲しみに身をまかせると、不思議なことに、その途方もない悲しみの最中にその中心に微笑みと幸福を発見し、それは彼が今まで経験したこともないような幸福感だった、という内容の話である。彼は、「平和と幸福は、私たちが深く手放し、闘争することを本当にやめるときに、起こりうることである」と書いている。

「深く手放し、闘争することを本当にやめる」――このことが、キリストが語ったResist no evil (悪に抵抗するな)の意味であり、「今在るものを今あるがままにしておく」ということである――(ただし、念のために書いておけば、Resist no evil (悪に抵抗するな)という観念の運用は、自分の知恵のレベルに合わせることが重要である。たとえば、誰かに上着を取られそうになったら、取られる前に『逃げる』、これが普通レベルの知恵であって、上着もズボンもはぎ取られるような愚か者にならないように!)

私たちが抱え、抑圧している否定的な感情が何であれ、それから解放されるヒントは、アジャシャンティが語った話にある。つまり、何であれ、否定的感情が起こったとき、それを100%受け入れ、それを全身で感じることをゆるし、それが語りたい話を聴くということである。

さて、先日、私は、「おそろし」(宮部みゆき著 新人物往来社刊)という小説を読んでいた。この短編集は、ある若い娘(彼女自身も自分の人生でおきた事件によって、強いトラウマ=心の傷をかかえている)が、執着的感情・思考に憑依された人々が語る不思議で悲しい物語を聴くというスタイルで、話は展開していく(時代背景は江戸時代)。

執着的感情・思考に憑依された人々によって起こされる悲劇を、スピリチュアル系や宗教系の人が描くと、たいてい退屈で面白くもない話になるが、そこはさすが小説家、「おそろし」では、そういった悲劇を、ありそうな、なさそうな結末へと導いていく筆さばきが冴えている。

この話の中に一人の男が、全身で自分の兄弟の死を願うという話がある。「誰かの死を強く願う」、それはもちろん、現世の法律では罪ではないが、「今在るもの」の死・不在を願うという意味では、スピリチュアル的には罪深い。しかし、長い人生の中で、他人の死を強く願うとまではいかなくても、他人の不在を望んだり、他人の存在を否定したことがない人などまずいないはずで、そういう意味で私たちはみなResist no evilに違反している「罪人」である。よって、ゆるしというか、ヒーリングが必要なのである。この小説の最後に、悲しい話を聴くことによるヒーリングが小説的に語られている。

「なぜ、皆さんがあたしを助けてくださるんです?」(注―ここで「皆さん」とは、小説の中では、すでに死んだ人たちのことである」

「お嬢さんが聞いてくださったからですよ」
我々の胸の痛みを。生きていたときにしでかした、愚かな過ちへの後悔を。

「聞いて、わかってくださった。お嬢さんの心の内で、涙を流してくださった。そんな酷(むご)い出来事を他人事(ひとごと)だと、忌まわしい、愚かでくだらないと顔を向けたりなさらずに、我がことのように悼んでくださった」

「私どもの罪は、お嬢さんの魂の一部になり、お嬢さんの涙で浄められました。私どもは解き放たれたのです」 
(「おそろし」354p―355p より)


スピリチュアルの一部の業界では、「人の執着的感情・思考」の世界を「下位アストラル世界」と呼ぶ人たちもいる。「下位アストラル世界」とは、「今在るもの」に対する抵抗しまくりの結果生じた世界でもあり、人間の集合エネルギーなので、厳密にいえば、非個人的なものである。つまり、私たちが強く感じている執着的感情・思考(怨念、悲しみ、嫉妬、憎しみ、怒り、罪悪感等)は、私たちの個人的感情・思考だけでなく、自分の家族、自分の祖先、自分が住んでいる家・土地、日本全土、地球全土、人類のすべての感情的歴史と密接に関わっていたり、影響を受けたりしている。

自分の否定的感情を抑圧(抑圧=抵抗)したり、それと戦っている人たちがたくさんいるかぎり、下位アストラル業界は憑依できる(つまり、エネルギーという形でお金を払ってもらえる)対象がたくさんいて、非常に商売繁盛である。前回話題にした「死にたい気分」も、集団エネルギーとして、商売をして「生き延びて」(笑)いかなければならない。つまり、「死にたい気分」を人々の中に増幅させて、代金をもらって、商売繁盛・事業拡大をめざしているわけである。だから、自殺を考える人が多ければ多いほど、自殺する人が多ければ多いほど、「死にたい気分」集団エネルギーもますますご繁盛で、下位アストラル業界での地位もあがるというわけである。人が自殺しても、「死にたい気分」そのものが死ぬわけではない……

以上が、お寄せいただいた「『自殺してもムダ』の根拠を説明してほしい」への回答――に、なっていないかもしれないが……「『自殺してもムダ』の根拠を説明してほしい」と質問している「死にたい気分」にとって、「自殺してもムダ!」という観念は、商売がたき、敵です!