覚醒体験は平凡で自然なもの2012年07月08日 09時12分38秒

たまに、「シンプル堂さんは、覚醒体験がありますか?」とか、「シンプル堂さんは、覚醒していますか?」というご質問をいただくことがある。とりあえず、たいていのときは、「はい」と答えるが、本当はこの質問自体が適切ではない。私たちが対象的に見る名前のついたどんな物体(人)も「覚醒することはできない」。なぜなら、それはスクリーン上のイメージにすぎないから。一方主体である(本質としての)「私」はいつも覚醒している(このことは、誰でもそう主張することができる)。

もちろん、私たちはスピリチュアルな社交の場で、有名な賢者の方々を話題にして、○○は覚醒している(悟っている)とかしていないみたいな、たわいもない話をするし、まあ社交レベルの話としては無害なことではあるが、実際覚醒している「人」とか悟っている「人」がいるわけではない。

アジャシャンティ流に言えば、「覚醒とは、覚醒それ自身が(人から)目覚めることである」であり、ダグラス・ハーディング流に言えば、「ダグラスとかトムとかシンプル堂ではなく、ただ一つのものだけが、覚醒している」。

覚醒が覚醒することの楽しさを感じられる、誰にでもできる実験があるので、ご紹介してみたいと思う。

通りを歩いているとき、よく道端に花が咲いているのに出くわす。そのとき歩みを止めて、花をただ眺め入る。このとき、「ああ、きれい」とかその花についての知識という思考・感情レベルに入らず、ただ存在して、眺め入る。そうすると、名前のついた誰かが名前のついた何かを眺めているという二元的眺めではなく、(この感覚を言葉にすることは困難ではあるが、あえて言えば)、覚醒それ自身がそれ自身を眺めているという平凡で自然で、同時に不思議で美しい感覚が起こることがある。また私はこれを、「愛の交歓(交感)」と呼んでいる。6月はアジサイとの「愛の交歓」が楽しかった。

先日は、郵便局で順番待ちをしていたときに、目の前に母親の背中におぶわれた赤ん坊がいて、その子と目が合ったら、もう目を離すことができなくなってしまった。赤ん坊の目は、大人の目とは全然違う。そこにどんな感情も読むことができず、赤ん坊はただただ眺めている。その子は、私と目を合わせていた間一度もまばたきせず、ただ眺めていた。犬やネコなどの動物、赤ん坊などと、目を合わせる機会があれば、ぜひ試してみることをお勧めする。

それから、先日、Resist no evil (悪に抵抗するな)を練習するよい機会にも恵まれた。食事を作っているとき、うっかりして、熱湯を手にかけてしまったのだ。まず水道水で冷やして、それから火傷の薬を塗る応急処置をしてから、(何も考えずに)ただ存在して、ヒリヒリ、ズキズキする痛みを全身で一分間ほど百パーセント感じた。それから別の作業に移り、しばらくして気づいたら、痛みはほとんど消えてしまった。体の痛みに関しては、いつもこのようにうまくいくともかぎらないが、まあ、実験してみる価値はある。

覚醒体験は、平凡で自然で、そして奥深い。

[イベント]
2012年7月15日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」(東京)詳細は下記のサイトへ。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/99_blank014.html

*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html