苦痛について(3)―ダブルバインド ― 2012年11月28日 16時50分27秒
心理学系の用語で、ダブルバインド(二重拘束)という言葉がある。元々はイギリスの人類学者、グレゴリー・ベイトソンが最初に提唱した概念で、その一般的意味とは、異なる矛盾したメッセージの間で身動きが取れなくなり、行動不能な状態に陥る心理状態のことをさしている。
ダブルバインドという言葉はそれほど日常用語ではないかもしれないが、実は、私たちは無意識のうちにしばしばこの状況に陥ることがある。
たとえば、よくある例をあげてみよう。
*今の仕事もイヤ(苦痛)であるが、仕事をやめるのもイヤ(苦痛)である。
*結婚生活もイヤ(苦痛)であるが、離婚もイヤ(苦痛)である。
*太っているのもイヤ(苦痛)であるが、ダイエットもイヤ(苦痛)である。
*今の人間関係もイヤ(苦痛)であるが、それを失うもイヤ(苦痛)である。
*失業しているのもイヤ(苦痛)であるが、就職するのもイヤ(苦痛)である。
*生きているのもイヤ(苦痛)であるが、死ぬのもイヤ(苦痛)である。
*一人でいるのもイヤ(苦痛)だが、人と一緒もイヤ(苦痛)である。
つまり、何かに関して、今ある現実も辛いが、代わりの現実ももっと辛そうな感じがしたり、Bad(悪い)かWorse(より悪い)の選択しか見えないようなときのことだ。
何かがイヤだという悩みを他の人が言うのを聞くとき、たいていまわりは、次のように思ったり、アドバイスしたりするものだ。
*結婚生活がイヤ(苦痛)→→だったら、離婚すれば?
*今の仕事がイヤ(苦痛)→→だったら、仕事やめれば?
*太っているのがイヤ(苦痛)→→だったら、ダイエットすれば? みたいな。
ところが、こういうアドバイスや意見そのものが、本人には苦痛だ。なぜなら、別の選択が簡単にできないからこそ、悩み苦しむわけで、簡単に離婚できたり、仕事をやめることができたり、ダイエットができたら、そもそも悩む必要もないのである。
そういった状態にいる人をイメージで表すと、A(今いる現実)という場所に片足を接着剤で張り付けて、もう片足で、かなり離れているB(新しい選択)という場所に飛ぼうとしているような感じである。当然、それは不可能なわけで、不可能なことをやろうとしているから、悩み苦しむのである。新しい選択へ飛ぶためには、片足の接着剤がはがれて、足が自由にならなければならない。接着剤とは、A(今いる現実)の中にある何かへの自分の執着を象徴している。
ダブルバインドは、どっちにも落ち着かない宙ぶらりんな苦痛状態で、深刻になると、うつ病的になる場合もあり、さらにもっと深刻になると、悲劇的破壊的な結末になることがある。それは、その苦痛から逃れるために、ダブルバインドを無理やり強制的に解消するときである。
今年よくマスコミで話題となった、いじめが原因とされる子供の自殺は、「今の人間関係もイヤ(苦痛)、それを失って孤独になるのもイヤ(苦痛)」の二重苦で身動きとれない状態の強制的解消であろうし、たまに起こるストーカー殺人・自殺も、「相手が生きているのもイヤ(苦痛)、生きていないのもイヤ(苦痛)」の二重苦からの強行逃避である。
経験から言えることは、ダブルバインドの苦痛を最小にして、静かに穏やかにそれを解消していくには、まず自分が今いる現実からどんな「利益」(物質的利益、自己イメージ、プライドなど)を得ているのか、そして自分がどれほどその「利益」に執着しているのかをていねいに調べ、それを理解し、受容することが重要である。執着(接着剤)と闘ったり、執着している自分や新しい選択ができない勇気のない自分を叱ったり、否定すれば、接着剤なので、もっとグチャグチャになり、もっと苦痛なだけである。
執着を受容すると、接着剤のパワーが少しずつ落ちてきて、時機がくれば、足が自由になる。足が自由になったときは、新しい場所(選択)へ飛ぶことが可能になる――実際は、飛ぶのではなく、新しい場所が自然に近づいてきて、歩いて静かに渡るだけの状態になる。そのときの新しい場所は、ひょっとしたらBではなく、CとかDというまったく考えてみたこともない場所が寄ってくるかもしれないし、あるいは、今いるAという現実がそれほどイヤでもなくなり、そこに新たな気持ちでとどまるという可能性もある。
最終的には、選択する「人」は誰もいず、答えや選択は奥深き自分の本質から出てくるものである。それがいつどのような形で出てくるのかは、予測もコントロールもできないが、(まわりにはどう見えようとも)自分にとって「正しい」答え・選択がやって来たときは、迷いがないというのがその特徴である。
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コメント
_ ゆか ― 2020年06月24日 14時54分53秒
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人間が言っていることは、総じて、だれかがそう思っていたことを言っている、というだけの証明不可能なことをそうだと思っている、という意味で
言われているすべての事象が確証できないということまでは理解できるんですけど
最近、バシャールとナオキマンの対談本が出ていて
地球の歴史や宇宙連合の話が詳しく連載されていました
バシャールのような存在が言うようなことは
人間が言っている情報に比べると、
信憑性があるような気がしてしまいます
髙木さんにとって
バシャールなど、そういった存在が言っていることも
地球の人間が言っている情報の内容の信憑性と、全く同じ位置づけになりますか??
そこがどうしてもわかりません(; ;)
その理由を、わかりやすく教えていただけるとすごく嬉しいです
よろしくお願いいたします