感情の研究(3)思考=感情2013年06月15日 09時31分18秒

思考と感情を眺めていると、思考と感情は密接にリンクしていることがわかる。感情は、いわば、思考の燃料のようなもので、思考に感情が投入されればされるほど、その思考が現実的に感じられる。

アジャシャンティは、「あなたの世界の終り」の中で、一つ一つの感情の背後には一つ一つの物語、世界観(思考)があることを詳しく述べている。彼は、若い頃、ノートをもって喫茶店にこもり、自分の感情の奥底まで辛抱強くたどり着いたという経験を紹介しているが、これはいわば、バイロンケイティの四つの質問と、セドナ・メソッドを組み合わせたような非常に強力な方法である。

感情の背後の世界観にたどり着くとき、人は自分がどんな世界観で世界を眺めているか、そして実際その世界観のとおりに世界を体験していることを理解するはずである。人の世界観が、その人の世界ということができるが、その世界観は、幻想でもある。アジャシャンティが言うように、「私たちの全自己感覚と世界がマインドの中で創造されているのを見ることは、根源的なことです。思考構造が本質的現実を何ももっていないことを私たちが見るとき、自分がマインドを通じて認識するような世界は、どんな現実ももちえないことを理解するようになります。これは天地がひっくり返るほど衝撃的なことです」(「あなたの世界の終り」ページ158)

と、書き、読むことは簡単であるが、読んで納得しているだけではほとんど役に立たない。自分の日常生活で、自分の感情パターン(何かにひどく腹が立ったり、気分が落ち込んでなかなか立ち直れないとか)に気づき、あとではなく感情がわき起こったその時に、その感情パターンの背後にある世界観・思考を突きとめる必要がある。

ただし、私たちが感情の背後にある世界観・思考に気づいたからといって、同様の感情を再び感じないわけではないし、自分の思考・解釈・意見・感情を追い払おうとする試みも、意図的によい感情を感じようとする試みも、ムダだと私自身は思っている。どれだけ自分の思考・解釈・意見・感情が現実ではないと理解しても、交通の流れと同じく、そういうものが自然にやって来るのを、私たちは止めることができない。ただ、それらが普遍的現実をもっていず、また、出来事にはあらゆる解釈が可能で、誰の解釈も意見も絶対的に正しいわけでもないことを理解すれば、人と争わずにすむし、自分も苦しまずにすむ。

さて、ここでスピリチュアルを学んでいる人たち(スピリチュアルの本を読んだり、何かのワークをやったり、瞑想などをしている人たち)に特有な感情の問題について言及してみよう。スピリチュアルの本を読んだり、ワークをやったり、瞑想などをすると、特に初期の頃には、感情が非常に湧いてくることがある。心を静めるために始めたワークや瞑想のせいで、かえって思考や感情がうるさくなるということも、非常によく起こることである。感情や思考がたくさん湧くことは悪いことではなく、本やワークや瞑想などの刺激で、今までいわゆる抑圧されてきた、自分で見ないように蓋をしてきた思考や感情が、蓋が取れて、湧きあがってきたことにすぎない。あるいは、感情がより敏感になって、以前は何も感じなかった場所や人や出来事が、より苦痛に感じられるということも起こり得る。また中には、大量に湧き起こる自分の思考や感情に耐えられなくて、それを外側のターゲットに投影して、吐き出す人たちもいる。ターゲットにされる人には迷惑な話ではあるのだが、これはスピリチュアルの世界ではよく起こる話なのだ。

90年代、私が運営していた出版社も、そういった感情的ゴミを吐き出したい人たち(ほとんどの場合、一度も会ったことのないまったく見知らぬ読者の人たちである)のターゲットになって、私は非常に困惑したものである。私が出版した本が何かの刺激になってしまったせいなのだろうが、わざわざ近づいてきて、非難するタイプの人たちにそれまで出会ったことがなかったので、本当に驚いた。もちろん、同じくらい称賛もされたが、称賛と非難は表裏一体ということもイヤというほど知らされた。愛や許しなどのスピリチュアルなことを学んでいるにもかかわらず、たかが本1冊の存在も許せない人たちがいることが不思議であった――もし誰かや何かが不愉快で、自分に害や苦痛を与えると思う場合は、普通は、近づくよりも、一刻も早くできるだけ遠くへ離れるべきだし、本が有害だと思うなら、ゴミ箱に捨てればいいだけ、なのである。

スピリチュアルな世界には、「あなたの世界の終り」にも言及があったけど、自分に正直にであるとか、ありのままの自分自身でいるということを、自分の感情的ゴミを相手にぶちまけてもいいことだ、と誤解している人たちがたくさんいる。もちろん、相手と状況によっては、ケンカをすることも楽しいことではあろうが、人間関係の礼儀としては、感情的ゴミは各自持ち帰りが原則である。

では、どうしても感情が大量に湧き上がって、苦しいときには、どうしたらいいかといえば――苦痛や混乱がかなり重症の場合は、そういうことを専門的に扱うカウンセリングやセラピーを、私はお勧めする(20代の頃、私も感情の問題を扱うセラピーを受けたことがある)。財政的余裕がない人の方法としては、人のいない場所(海岸、森、風呂場などで)で叫んで感情を吐き出すなどの方法がある。私自身は、安上がりなので、風呂場を愛用する。たとえば、「神のバカヤロー!」と叫んで、気分が落ち着いたら、「神様、先ほどは失礼しました。本心ではありませんでした」と、小声でそっと謝る(笑)とか。神は許しの大家だから、神の悪口を言っても、問題ないようである。

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2013年6月30日(日曜日)「楽しいお金ワークショップ」(東京)
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感情の研究(4)人間的感情から存在の微妙な味わいへ2013年06月26日 10時35分37秒

感情の研究の最後として、今回もスピリチュアルを学んでいる人たちに特有な感情の問題を取り上げてみたい。

前回は、感情が非常に湧き出る話を書いたが、そういう時期が過ぎると、今度は逆に、感情をあまり感じなくなるということがよく起こる。いつも何かの感情を感じることが、普通だと思ってきた人たちには、これが何か非常に不自然に感じられて、自分が何かおかしくなったと思う人もいる。しかし本当は、感情を感じていない状態が自然で常態である。特にうれしくも、悲しくも、苦しくもなく、幸福でも不幸でもない状態、単純に平和な感じ。

つまり、古いパターンの思考・感情活動が静まって、自分の存在(本質)に気づきつつあるという意味である。エゴの観点から見れば、「自分」が消えていきそうな感覚があり、だから、それに抵抗するために、「これはおかしい」とか、「これは、退屈、厭世的、寂しい」などと言うわけであるが、エゴに騙されてはいけない。

セイラー・ボブ・アダムソンの本「ただそれだけ」の中に、古い感情・思考パターンが消えると、存在の微妙な味わいを味わうことができるようになるという話があり、ボブはそれを、禁煙すると、それまで気づかなかった食べ物の微妙な味に、気づくようになるのに似ている、と語っている。

存在次元にも、時にはある種の感情-喜び、哀しみ、苦しみが湧くことがあるが、それは人間的感情次元のものとは違って理由がない。人間的感情には普通、外側にその感情が湧き起る(見た目の)特定の原因ないし理由がある。何かが起きたからとか、何か(誰か)のせいで、うれしいとか悲しいとか、辛いとか苦しいとか。それに対して、存在次元の感情は、理由なき喜び、理由なき哀しみ、理由なき苦しみである。あえて理由を探せば、「私は在る」せいである。それは非常に微妙な感覚である。

そして、人間的感情をあまり感じない静かな沈んだ時期が過ぎ去ると、人にもよるが、たいていは、人間的感情も再び戻ってきて、以前と同じく、出来事に喜んだり、悲しんだり、怒ったりするようになる。以前との違いがあるとすれば、感情を中心に引き寄せて、増幅させることが少なくなるので、それは短く、ほとんどあとに残らないことであろう――感情は、ただ起きて、自然に消える、そんな感じだ。そのときには、感情は人生と人間関係のスパイスであり、人生料理の盛り立て役として、楽しい役割を果たすことになると思う。

(先日、ラマナ・マハルシの本「ラマナ・マハルシとの対話1」を読んでいたら、聖者として名高いラマナ・マハルシでさえ、質問に答えている最中に、「もういい! たくさんです!」とか、「このような馬鹿げた考えはたくさんです!」とか、苛立っている場面があった)


*2013年6月30日(日曜日)「楽しいお金ワークショップ」(東京)

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