感情の研究(4)人間的感情から存在の微妙な味わいへ2013年06月26日 10時35分37秒

感情の研究の最後として、今回もスピリチュアルを学んでいる人たちに特有な感情の問題を取り上げてみたい。

前回は、感情が非常に湧き出る話を書いたが、そういう時期が過ぎると、今度は逆に、感情をあまり感じなくなるということがよく起こる。いつも何かの感情を感じることが、普通だと思ってきた人たちには、これが何か非常に不自然に感じられて、自分が何かおかしくなったと思う人もいる。しかし本当は、感情を感じていない状態が自然で常態である。特にうれしくも、悲しくも、苦しくもなく、幸福でも不幸でもない状態、単純に平和な感じ。

つまり、古いパターンの思考・感情活動が静まって、自分の存在(本質)に気づきつつあるという意味である。エゴの観点から見れば、「自分」が消えていきそうな感覚があり、だから、それに抵抗するために、「これはおかしい」とか、「これは、退屈、厭世的、寂しい」などと言うわけであるが、エゴに騙されてはいけない。

セイラー・ボブ・アダムソンの本「ただそれだけ」の中に、古い感情・思考パターンが消えると、存在の微妙な味わいを味わうことができるようになるという話があり、ボブはそれを、禁煙すると、それまで気づかなかった食べ物の微妙な味に、気づくようになるのに似ている、と語っている。

存在次元にも、時にはある種の感情-喜び、哀しみ、苦しみが湧くことがあるが、それは人間的感情次元のものとは違って理由がない。人間的感情には普通、外側にその感情が湧き起る(見た目の)特定の原因ないし理由がある。何かが起きたからとか、何か(誰か)のせいで、うれしいとか悲しいとか、辛いとか苦しいとか。それに対して、存在次元の感情は、理由なき喜び、理由なき哀しみ、理由なき苦しみである。あえて理由を探せば、「私は在る」せいである。それは非常に微妙な感覚である。

そして、人間的感情をあまり感じない静かな沈んだ時期が過ぎ去ると、人にもよるが、たいていは、人間的感情も再び戻ってきて、以前と同じく、出来事に喜んだり、悲しんだり、怒ったりするようになる。以前との違いがあるとすれば、感情を中心に引き寄せて、増幅させることが少なくなるので、それは短く、ほとんどあとに残らないことであろう――感情は、ただ起きて、自然に消える、そんな感じだ。そのときには、感情は人生と人間関係のスパイスであり、人生料理の盛り立て役として、楽しい役割を果たすことになると思う。

(先日、ラマナ・マハルシの本「ラマナ・マハルシとの対話1」を読んでいたら、聖者として名高いラマナ・マハルシでさえ、質問に答えている最中に、「もういい! たくさんです!」とか、「このような馬鹿げた考えはたくさんです!」とか、苛立っている場面があった)


*2013年6月30日(日曜日)「楽しいお金ワークショップ」(東京)

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