目標・欲望・結果――ただ起こる ― 2013年12月01日 11時28分03秒
私のところへ話に来られる方は、アドバイタ系の教えの本を読んでいる方がほとんどで、「自分とは何か?」の覚醒・気づきなどに皆さん強い関心をもっている。しかし、同時に、人として世俗的欲望というか目標みたいなものも、たいていの方はもっている。
たとえば、車が欲しいとか、結婚したいとか、あるいは転職したいとか。そして、覚醒や気づきなどのスピリチュアルな関心と、世俗的欲望や目標との折り合いをどうつけたらいいのか、悩む人がいる。
私が欲望について深く考えたのは、二十代後半の頃で、その頃私はJ・クリシュナムルティ(ご存じない方は、ネットで検索してみてください)の本にものすごくはまっていた(彼とオショーは、私がスピリチュアルな道に入るきっかけを与えてくれた人たちだ)。J・クリシュナムルティには衝撃を受けたものの、彼の言うことがさっぱり理解できず、いつもある種の苛立ちがあった。
彼は言う――人間の「~~が欲しい」「~~したい」 「~~でありたい」 といった常に未来に思考を投影する心が、苦しみの元凶であると。
私はそういう文章を読むたびに、こう思ったものだ――確かにそうかもしれないが、しかし、人間から、「~~が欲しい」「~~したい」 「~~でありたい」という願望や欲望を取り除いたら、生きていく活力さえもなくなってしまうだろう。人間は、今の自分の現実にないものを目指すゆえに、未来への希望が出てくるのではないか。しかも人はある程度は自分の欲望を満たさないかぎり、欲望から解放されることもできないだろう、と。
私は約5年間 J・クリシュナムルティを非常に熱心に読んだものの、結局彼の教えは自分に合わないと思い投げ捨ててしまった(でも彼のおかげで、あまり横道にそれなくてすんだ気もしている)。 それから30代にダグラス・ハーディングの教えに出会い、40代にラメッシ・バルセカールの教えに出会い、欲望・目標と気づき・覚醒 の折り合いをつけることができた。
ダグラス・ハーディングの教えに出会ったとき最初に理解したことは、「覚醒・気づきは、努力して未来に到達したり獲得すべきものではなく、今ここに永遠にあるものであり、それは人が何をしてもしなくても、なくなったり減ったりするものではない」ということだ。つまり、人として何を経験しようが、何を欲望しようが、何を目標にしようが、それは覚醒とか気づきとは無関係であり、世俗的なことであれ、スピリチュアルなことであれ、何だって自分のしたいことをすればいいのだという確信を得た。
それからラメッシの教えに出会ったときも衝撃で、彼が言うことは、欲望であれ目標であれ、それがある特定の肉体精神機構(ラメッシが人間を指すときの言葉)に起こるのは、本当は個人の意志によるものではなく、神の意志によるものであり、そしてその欲望が自分の望みどおり実現するかどうかも個人の意志にはよらない――物事はすべて神の意志によってただ起こる。
「で、何をどうすればいいのですか?」という人たちに対して、ラメッシのアドバイスは非常に平凡ではあるが、奥深い。「何でも好きなことをしなさい。その結果はあるときはよく、ある時は悪いものですが、誰もがこれを受け入れざるをえません。すべては個人の意志ではなく、神の意志によって起こることを受け入れれば、プライド、罪悪感、妬み、憎しみから解放され、それが人が望みうるすべてです」。
あるいは、しばしば彼はこうも言う。「今まで続けてきたことを、これからもただやればいいだけです。意図的に何かを変える必要はありませんが、変化は自然に起こるかもしれません」(ラメッシのConsciousness Speaks『意識が語る』が来年出版予定です)。
人間と呼ばれる肉体精神機構には多くの欲望や目標が通過するものだが、実際そのために活動するエネルギーも伴ってやって来るかどうかはまた別の話で、人の「~~しよう」「~~したい」の多くは思考だけで終わるのも事実である。前にも書いた事ではあるが、実際ほとんどの人は数少ない特定のことにしか、本当のやる気はでないものである。また「~~しよう」「~~したい」という強い思いとエネルギーがあっても、外側からの障害が起きて、どうしてもそっちに進めないということもある。
思考・感情・欲望・目標、そして物事の実現も、個人の意志とは無関係にただ起こる、ただただ起こる――(人間の判断による)よいこと・悪いこと・普通のことが、誰の人生にも起き続け、しばしばよいことは悪いことに変わり、悪いことはよいことに変わり、苦労は喜びに変わり、喜びは苦痛に変わり(人生万事塞翁が馬)、ヒンズー哲学が神のリーラ(遊び)と呼ぶ人生映画が進行する。
さて、シンプル堂と呼ばれる肉体精神機構もこの間還暦となった――神にもて遊ばれて(笑)60年! 欲望・目標に関しては、J・クリシュナムルティに苛立っていた20代の後半の頃と今もほとんど考えが変わっていない。何かをしようと思い立ち、それに対する能力・体力・財力(エネルギー)が出そろえば、それに向かい、そうでなければ、できるだけじっとしている。 20代の頃と変わったことと言えば、自分の肉体精神機構にやって来る思考・感情・感覚と、それを通じて為される行為とその結果に対して、心配や罪悪感がほとんどないことと、どんな結果が展開しても最終的にはOKなのだという確信である――OKでないという思考が流れるときでさえも。なぜOKなのかと言えば、それが起こっていて、それが神の意志(=私の本質の意志)だからだ。
物事はただ起こる、ただただ起こる……
[質問へのお答え]
ニサルガダッタ・マハラジのPrior to Consciousnessは、神のみぞ知る理由で、どこかで進行が止まっているようです…たぶん、ラメッシの本のほうが先になるだろうと思われます。
必要か欲望か……どっちでもかまわない ― 2013年12月14日 07時24分01秒
前回、20代後半にJ.クリシュナムルティと格闘した話を書いた。そのとき、関連してよく考えたことは、何が欲望で、何が必要か、ということである。
一般に、スピリチュアルな本では、 欲望は悪、必要は善みたいに語られることが多い。実際、多くの賢者の方々が、必要は無理なくかなうものだが、欲望は必ずしもかなうとはかぎらず、しかもかなったときに、しばしば苦しみをもたらすという主旨のことを言っている。
「必要は無理なくかなう」――このことは経験からいっても、確かにそうだとは思うが、では、欲望と必要の間の線はどうやって引くのだろうか?
たとえば、「水が飲みたい」という思考、これは明らかに必要に属するもので、そのとき人は立ち上がって台所に向かい、水を飲み、その必要を満たす。
では、「ビールを飲みたい」 という思考は、どうだろうか? ビールは欲望だろうか、必要だろうか? ビールは生存のためには必要ないが、ビールなら、誰でも簡単に手に入れることができるし、 一杯くらいなら、飲んだところで別に苦痛もない。
では、ご飯一膳が適量な人が、二膳目のご飯を食べたいと思うことは、必要だろうか、欲望だろうか。 これはたぶん、健康に悪いという意味では、必要ではなく欲望であろうが、二膳食べないと心が満足しないということであれば、その人にとっては必要かもしれない。
では、車が趣味の人が、何台も車を所有し、さらにもっと欲しがることは、必要だろうか、欲望だろうか? もしその人にとっては車が生きがいだとしたら、それは必需品かもしれない。この場合、車は他のどんな物とも置き換えることができる。本とか食器とか鞄とか靴とか、そういった車に比べれば安価なものも同じことである。
ではでは、配偶者がすでにいる人が、それ以外に恋人や愛人を望むのはどうだろか? しかも財力にまかせて、何人もの愛人をもつとしたら、これは必要だろうか、欲望だろうか? 複数の愛人がいなければ、生きていく活力がでない(!)と思う人にとっては、それも必需品なのかもしれない。
と、こんなふうに考えていくと、何が欲望で、何が必要なのかの線引きは非常にあいまいで、伝統的なスピリチュアルが語る欲望=悪 、欲望からの解放=善、という単純なものでもないようである。
もし欲望が悪なら、欲望から解放されたい欲望とか、悟りたいという欲望だって、「悪」なわけだし、あるいは、知識をたくさん欲しい、真理を知りたいという欲望だって、欲望にちがいなく、そういった欲望が他の欲望に比べて高尚というわけでもない。
と、考えれば考えるほど、わけがわからなくなり、その区別もどうでもいいように思えてくる。ラメッシの説明を借りれば、外側から来る思考→言葉→行為→結果の順番で、物事は個人的意志によらず起こるが、そのどれも本人の手中にはなく、自然発生的な出来事である。つまり、欲望にしろ、必要にしろ、それは厳密に言えば、「私の欲望」でも「私の必要」でもなく、ある特定の肉体精神機構に自然発生的にわき起こる欲望ないし必要である。
しかも、人には多くの思考が通過するものの、すべての思考が言葉になるほど意識されるわけではなく、すべての言葉になった思考が、行為に移されるわけではなく、すべての行為が自分の望む結果をもたらすわけでもない。仮に望むように起こっても、それは自分の意志や自分の力のおかげではない。すべては(再びラメッシの言葉を借りれば)神(全体性)の機能の中で起こるだけである。そこがラメッシがいつも非常に強調する点である。
ある思考がわき、それが言葉として自覚され、そして行為になるエネルギーがやって来て、何かの結果を生む。ある思考は言葉としてまでは自覚されたが、行為に変換されるエネルギーがやって来ないままで終わる。ある思考は言葉としてすら自覚されないままで終わる。と、こんな感じだ。
では、「欲望が苦しみ」であるとはどういうことかと言えば、それは何かへの欲望の思考があって、しかも行動に移されるエネルギーも出ないまま、思考だけがぐるぐるとまわり続ける状態である。あるべきだと自分が思うもの――それがお金であれ、車であれ、結婚相手であれ、仕事であれ、才能であれ、愛人であれ、悟りであれ――それが自分には「ない」、欠落しているという思考、あるいは、それが欠落しているゆえに、自分自身が何か欠落しているように感じること、それが人の苦しみである。
あるいは、自分の欲望の対象が実現しても、その対象そのものが苦痛になることもある。そうすると、今度は私たちの心は言う。「これがあることが苦痛だ」「この状況がイヤで苦痛だ」と。ただ心だけが、何かが「ない」ことや「ある」ことに異議を唱えるわけで、だから、賢者の方々は「問題は心の中にしかない」 と繰り返し言うのである。思考がわかない熟睡状態では、誰も問題も苦痛ももつことができないことを見れば、そのことは明らかである。
しかし、そう知的に理解しても、(それは本当は「私の欲望」ではないゆえに)、私たちが「自分の」意志の力で、何かの欲望から解放されことは不可能なのである。それがわかるとき、私たちはムダな努力をしなくなるというだけの話である。自分自身とも状況とも戦うことをやめ、結局のところ、すべては起こるがままでよいという話になるのである。
で、ラメッシのConsciouness Speaks(意識は語る)の本は、「悟りへの欲望」がその一つのテーマであるが、なかにはセックスや不倫などについての世俗的質問もある。たとえば、
「賢者も不倫をする可能性がありますか?」
それにラメッシが何と答えたかは……来年、本を買って読んでください(笑)
[お礼」
本年のブログはこれで終了します。来年は2月からブログを再開します。この一年、ブログを読んでくださった方、コメントを送ってくださった方、そしてご縁でお会いした皆様、ありがとうございました。楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。
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