マインド・レベルとスピリット・レベルの混同2014年02月24日 16時25分46秒

スピリチュアルな世界というか業界には、一つの非常に大きな混乱というか誤解があるように私はずっと感じてきた。それはマインド・レベルとスピリット・レベルの混同である。私自身の観念の中では、マインド・レベルを人間段階、スピリットレベルを神段階と呼んでいる(この二つの段階の違いについては、「人をめぐる冒険」で詳しく説明しています)

マインド・レベル(人間段階)とスピリット・レベル(神段階)の違いはシンプルではあるが、そのギャップは途方もなく大きい。そしてその途方もないギャップを私たちがマインドをもって超えようとしたり、マインド・レベルのワークがスピリット・レベルにあるかのように語られることから、大きな混乱が生じるのである。

私たちのマインドという機械(それはコンピュータのようなものだ)を特性を知れば、なぜマインドがスピリット次元を理解できないのか、その理由がよくわかるはずである。私たち人間のマインドは以下のように一般的に条件づけられている。

*それは過去か未来にしか関心がなく、過去か未来にしか行くことができない。

*それは「達成、獲得、拡大」の可能性があるとき、やる気がでる。反対に、何かを「自分が」獲得したり達成したりできないとき、つまり、報酬がないときは、やる気がでない。

*それは、「今ここに」存在することはできない。
*マインド・レベルでは、常に時間がかかる。
 

私たちの日常生活ではマインドを使わなければ、人間は機能せず(うまく機能しないときは、病気である――たとえば、認知症など)、私たちは常にマインドを使って日常の物事を進行させている。それは小さいことから大きなことまで、常に、「今の状態から別の状態への変化」を求めて、「ここからどこかへ行く運動」である。

たとえば、ある料理を作る予定を立てるとしよう。するとマインドは、そのプロセスを考えて準備をし、おいしいものを食べるという報酬を期待して、肉体に命じて、「その料理がない今の状態」から「料理の完成という状態」への運動を行わせる。もしプロセスが途中で頓挫して、「料理の完成」という目標が達成できなかったり、予定通りの味にならなければ、マインドにとってはそれは挫折である。

このようにマインドは常に、A地点(今)からB地点(未来か過去のどこか)へ行き、そこで何かの報酬を「自分が」受け取るための運動に駆り立てられている。マインドとは誰のマインドもそういう性質のもので、その性質を知って、人間マインドを機能的効率的に使えば、コンピュータのように快適な日常生活に役立つものである。

問題は、私たちが自分の本質とか気づきというスピリット・レベル(神段階)のものを、マインドを使って、掴もうとすることにある。なぜそれが不可能であるかといえば、スピリット・レベルは

*今ここでしか機能しない。
*マインド(エゴ)が活動しているときは、私たちはそれに気づくことができない。

からだ。

だから、今の状態からどこかの状態へ常に運動しようとするマインドにとっては、スピリット・レベルは絶対的に理解不能、認知不可能ということである。本当は、気づきとか覚醒とか悟りは、マインドにとっては絶対的に意味不明で、無価値なものである。

マインドが、何かの特別な体験を、今ここにない何かの状態を、何かの変化を望んでいるかぎり、スピリット・レベルとは根本的にすれ違っている。もちろん、スピリチュアルな道においては、予期せず、神秘体験のようなものが、誰にでも、一度くらいは降ってくることもあるだろうが、自分に起こった何かの神秘体験や悟り体験のようなものを、もしありがたがっている人たちがいるとすれば、それは単にマインドが、「こんなすごい経験をした」過去の『自分』を掴んで喜んでいるだけの話である。

で、この間いただいた、ダグラス・ハーディングのワークに関する下記のご質問に、今述べたことと関連してお答えしようと思う。
 
「 はじめて書き込みです。質問があります。 私は一年以上ハーディングの実験をライフワークとして続けているのですが、ハーディング氏の言うような明晰性、至福、などをよく理解できません。指差実験をしても『それはないのではなく見えないだけだ。』と思ってしまいます。 また頭痛もちなのでいつも自分の頭を意識していて、頭痛が酷いときなどは「頭がないこと」のことなど意識できません。 私はこの方法に向いてないのでしょうか。」
 
まず、ダグラス・ハーディング、ラメッシ・バルセカール(とその師のニサルガダッタ・マハラジ)の教えは、マインド・レベルではなく、スピリット・レベルにあることを心にとめておく必要がある。つまり、彼らが言及していることは、先ほども言ったようにマインドが掴んだり、理解したり、達成したりできる何かではないということである。彼らは今ここの現実をただ描写しているだけである。

だから、ダグラスのワークは、「頭がないことについて」考えたり、意識したりすることとは全然違うことなのだ。頭がないかあるかを考えて、マインド・レベルで記憶から答えを引き出せば、誰が答えても、それは当然「見えないけれど、頭はここにあるはずだ」となるわけである。

ダグラスが言っていることは、単純に、自分の中心に頭という物体があるのかどうか、頭の代わりに何があるのか、考えるのではなく、「今ここで、見なさい」ということである。

もちろん、見たからといって、理解が同時にわき起らないことがほとんどである。私が参加したダグラスのワークショップで、よくこういう質問をする人がいた。

「確かにここに頭がないことを見ました。でも、だからって、それで何?って感じですけど。普通の風景です」

「だからって、それで何?(So what?)」は、マインドの当然の疑問である。マインドにはそれは理解不能であるからだ。

そんなときダグラスはたいてい、一呼吸おいたあと、こう答えたものだ。

「だから、まさにこれ!(This is It!)ですよ」

「それで何?」という質問に対しては、「まさにこれ!」以上のどんな答えもないのである。たぶん、「まさにこれ!」という確信が起こるのは、ほとんどの人の場合時間がかかるだろうし、その確信が実験をやったすべての人に起こるわけではないことも確かなことである。確信が起こるのかどうか、それこそラメッシの言うところの、神の意志によるもので、起これば起こり、起こらなければ起こらない、ただそういうことである。

それから、ご質問者の方が頭痛で悩まれているという話に関して言えば、私も、体にひどい痛みがあるときは、意図的にどんなことも考えたり意識したりする余裕はなく、そういうとき私は(シンプル堂と呼ばれている肉体精神機構は肉体的苦痛への耐性がかぎりなくゼロに近いので)痛みの治療にまず専念する――薬を飲む、医者へ行く、湿布やマッサージをする、その他。 特にご質問者の方の頭痛が耐えがたく、慢性的ということであれば、その治療に専念することを私はお薦めする。

で、最後のご質問、 「私はこの方法に向いてないのでしょうか。」

誰のマインドにとっても、ダグラス・ハーディングのワークは向いていません(笑)。

なので、もし人が求めているものが、病気の治療、あるいは、「神秘体験、悟り体験、至福体験、宇宙意識」などの名前で呼ばれているものの獲得等であるなら、このワークはそういったものを提供できないことを私は断言する。病気の治療、神秘体験、悟り体験、宇宙意識の獲得などを目的とする教えやワークはすべてマインド・レベルにあり、そういったものを欲しいと思うマインドの願望に寄り添っている。

しかし、ダグラス・ハーディングのこのワークが提供するのは、ダグラスがいつも言っていたように、私たちの本質の単純な認識とそれが「どこ」にあるかということだけである。自分の本質を見たからといって、人間的状況がよくなるかどうか、人生がどう展開していくのか、誰にもわからないことである。
 
しかし、自分が見るものへの信頼と確信が育つとき、 仮に今日、頭痛がして、胃痛がして(最近私は多忙からくる胃痛で、胃薬が手放せない)も、雪が降ろうが雨が降ろうが、その他災難やトラブルが降り注ごうが、それでもまさにこれ!(This is It!)という理解がわき起こるのである。

ご縁があって実験を続けている皆様に、今述べた「まさにこれ!」という確信が起こればいいなあと、私は思ってはいるが、それは先ほども言ったように誰の意志もコントロールも超えている…… 

 [ご質問へのお答え]
Consciousness Speaks の本で、「賢者の不倫」についての質問は、275pの下のところに書かれています。