「すべては幻想」という観念の魔境(2)2014年04月25日 07時53分56秒

ラメッシの処女作Pointers from Nisargadatta Maharaj(ニサルガダッタ・マハラジの教え)   の本では、他の本では垣間見ることができないマハラジの講話中の姿が生き生きと描かれている。

 その本の中の Dabbling in Meditation(瞑想をちょっとかじる) という 章で、普段は陽気でのん気なマハラジが訪問者の話と質問を聞いたあと、珍しく深刻に話している場面がある。

訪問者の話の内容は――瞑想にまったく興味がなかったが、友人の勧めで瞑想キャンプに参加し、自分は何事にも集中してやるタイプなので、全力でそれに取り組んだ。その結果、瞑想キャンプが終わる頃には、自分が肉体から分離し、世界が夢のように見えるようになった。それは自由で心地よい状態ではあるが、自分は一体、この夢の世界でどう生きていけばいいのか? ――だいたい要約すれば、こういう内容の話である。

それに対してマハラジがなんと言ったかというと、深刻な面持ちで、次のように警告している。

*瞑想は、興味本位でやるものではない。
*「意識は地上の最大のパワーであるので、それと戯れればその結果は予見できない。人の精神がその結果に直面する準備ができていないなら、肉体精神のレベルで問題が起きるかもしれない。 その理由は、 それ以前に自分自身を肉体の一体化から解体する準備 ができていないからである」

そして、そのうえで、マハラジはその訪問者にここでの講話に少なくとも15日間参加するようにと言うが 、いつもはどちらかと言えば、自分のところへできるだけ訪問者を滞在させないようにする マハラジにしてみれば、これはものすごく異例である。 ところが、訪問者がそれはできないと言うと、非常に残念な様子で、「だったら、『アイアムザット私は在る』を繰り返し読み、今回の訪問をできるかぎり思い出すように」とアドバイスする。

そして、最後に、
「あなたは全宇宙を夢として見るかもしれないが、『あなた』が一個の分離した実体としてこの夢を見ているかぎり、あなたは困ったことになるだろう。あなたがいつかしだいに、あなた自身が夢の中の夢見られた登場人物であり、この夢から分離している人ではないことを理解するように、望もう」  と締めくくっている。
 
この訪問者が陥っている危険性とは、ドラッグ等の影響で物質世界が幻(まぼろし)のように見えてしまう人たちの問題に似ているかもしれない。

マハラジが最後に言ったことを、私なりに解釈すれば、

もし一人の分離した実体として、「世界は幻想である」  とか「世界は夢である」と言ったり、そう見えたりするとしたら、それは暗に、「世界は幻想であるが、そう見たり思ったりする一人の『私』は幻想ではなく現実である」と言っていることになり、世界と自分の間にある種の観念的分離がある、ということだ。

 もし「世界は幻想である」と言う一人の自分そのものが幻想であるという認識・理解が起こるなら、そもそも「世界は幻想だ」と言うことに何の意味もなく、「『私』はどう生きればいいのか」の質問も無意味である。なぜなら、 生きるべき「自分」も、何かをする「自分」も本当は存在せず、「どう」も「何」もへったくれもなく、物事はただ起こるだけだからだ。起こる出来事の中で夢の中の登場人物は、それぞれの性格やプログラミングにしたがって、ただ反応し行動するだけである。

さて、春爛漫である。「世界はブラフマンである」がリアルに実感できる季節である。先日、用があって新潟市へ行ったついでに、市内の福島潟まで足をのばし、一面に菜の花が咲いている湖沼風景を堪能し、帰りは車の中からところどころ、満開の桜を満喫した。大げさな言い方をすれば、世界の美しさがハートを直撃し、世界は幻想どころか、まさにブラフマン花盛りであった……

 [イベント]
 
2014年5月24日(土曜日)(広島市)
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2014年5月25日(日曜日)(広島市)
 「私とは本当に何かを見る」ワークショップ

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