政治家の個人的物語(2) ― 2024年10月04日 09時42分39秒
[お知らせ]
「苦節38年総裁選5回立候補」物語が、「43歳で首相になりたい」物語と「日本で初めての女性総理」&「保守派のプリンセス」物語に打ち勝って、先日の自民党の総裁選では、石破さんが自民党の総裁に選ばれた。
たまたま当日、私はyoutube で決戦投票前の石破さんと高市さんのスピーチを聞いていた。スピーチは石破さんのほうが断然よかったと感じられた。その「よかった」の意味は、彼が政治家として長年日本を見てきた「経験」と彼の「想い」と「言葉」が一致し、自民党の議員の皆さんも含めて、聴いている人たちの感情に入るスピーチだった。特に最後の「ルールを守る自民党でありたい」の一言は、法律違反の裏金議員の支援を受け、さらにルール違反をして、リーフレットを党員に送付した高市さんには、最後のパンチになった感じ……。一方、高市さんのスピーチは、言葉だけが「頑張っている」という印象だった。
「経験」「想い」「言葉」の三位一致は、聴く人の心にアピールするよいスピーチにはなるが、しかし、その自分の言葉を実行できる能力があるかどうかはまた別の問題だ。石破さんはもうすでに最初から、自分が言ったことを実行できないという能力不足を露呈している。このままでいくと、「ただ首相になって満足している人」に終わり可能性も……。
野党と論戦してから、解散すると言っていたのに、(臆病なことに)早々解散を決め、正式に首相に選ばれる前から、衆議院解散に言及するというルール違反をおかし、「女性の機会を守る」と公約しながら、今回の組閣で女性閣僚はたった2名だけ――自分のところですら、全然、女性に機会を与えていない!
それにしても、国会議員の皆さんは、本当に「選挙」(戦い)が好きな人たちだ。やっと9月で党首選、総裁選が終わったというのに、もう次の「戦い」のために走り出している。いつも「戦い」のために走りまわり、「敵」を出し抜く策略を練るのが、彼らに高揚感(アドレナリンの放出)と最高の喜びを与えるのかも……江戸時代、高級船宿や料亭で、「いかにして庶民から年貢や冥加金(今でいえば、税金)を巻き上げるのか。いかにして敵を落としいれるのか」の密談している奉行や老中と、精神構造がほとんど同じってのが、笑えるというか(国会議員の皆さんには、「暴れん坊将軍」を見ることをお勧めしたい。たぶん、自分に似た奉行や老中、下級武士や浪人がいるはず。残念なことは、悪を一刀に成敗する徳川吉宗(徳田新之助)が、現実の政治家に見当たらないことだ)
以上、久しぶりに政治について書いたが、次回は、スピリチュアル形而上学のエベレスト登山とも言えるMaster Key to Self-Realization の紹介に戻る予定。本書、そしてその次の本のために、ここ数ヶ月間、私は禅やインドのアドヴァイタ、キリスト教の歴代の賢者、禅師、先生の話をネットで調べることが多い(ChatGPTも非常に役立っている!)。そして、純粋にスピリチュアルな探求をする人たちの物語も、昔から現在まであまり変わっていないことに気づく。
政治、スピリチュアル、その他、人がどんな「物語」に心惹かれようと、実際のところ、私たちが生きるべき物語を自分で決めているわけではない。人間は、単にその物語を演じさせられるキャラクター(登場人物)として創造されたにすぎない。であれば、政治家の物語であれ、その他の物語であれ、楽しんで鑑賞(観照)するだけ……。
政治家の物語を演じている皆さん、健康に注意して、これからも頑張ってください!
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
Master Key to Self-Realization (4) ― 2024年10月21日 09時39分07秒
[お知らせ]
(Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)の出版スケジュールは現在、まだ未定です)
本書の中で、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの教えの説き方は、登山にかなり似ている。彼は、下記の各ボディを肉体から一歩一歩ゆっくり絶対まで登る行程を詳細に説明する。
グロス・ボディ(肉体)
サトル・ボディ
コーザル・ボディ
グレート‐コーザル・ボディ
絶対
サトル・ボディ
コーザル・ボディ
グレート‐コーザル・ボディ
絶対
本書の中のグロス・ボディ(肉体)の話は、たぶん常識で理解できる。ただ、20世紀前半のインドの文化・社会を背景にした話なので、かなり男尊女卑的に感じられたり、日本人にはたぶんピンとこない話もある。
それから、サトル・ボディは、基本的には、思考・感情、そして感覚を司ると考えられるので、ここもある程度は普段の経験から理解できるだろうと思う。
本書の一番の難所だと思うところは、コーザル・ボディの説明だ。ここはかなりわかりにくいし、シッダラメシュヴァール・マハラジもここが難所であることを認めている。なぜなら、私たちの人間的思考、人間的知性は、コーザル・ボディを捉えることができないからだ。
サトル・ボディの活動が収まるとき、コーザル・ボディへの入り口に到達したと言えるが、では人が自分はサットル・ボディを超えて、コーザル・ボディに入っていると理解する目安は何だろうか?
私の理解によれば:
*瞑想などで思考・感情が静止する経験をする(=サットル・ボディが静まる)
*「自分は本当は何も知らない」という理解が湧く。
*自分の思考・感情・理解に執着しない。
以上のような状態を経験するとき、人はコーザル・ボディという難所に足を踏み入れたと理解してよいと思う。
私たちがサトル・ボディに自分の本拠地を置いているときには、「自分は本当は何も知らない」という理解は決して生まれない。自分の見方・考え方・知識が絶対に正しいと思う人たち、「自分がたくさんの物事を知っている」ことにプライドをいだく人たちは、自分の思考ですべてを理解できると思う人たちはコーザル・ボディに入ることはできない。
シッダラメシュヴァール・マハラジは、多くの求道者たちはコーザル・ボディまで到達して、そこから先は何もないと思い違いして、引き返す人たちが多いと警告する。たぶん、その警告は、「思考・感情」が静止したときの平安,いわゆる、「禅定」、「サマーディ」に安定できるいわゆる「瞑想者」たちに向けられている。
それから、コーザル・ボディについて言及すべきことは、コーザル・ボディは、ボディ(肉体)とサットル・ボディの生みの親(それゆえコーザル=原因、という名前がついている)であり、ボディ(肉体)とサットル・ボディはコーザル・ボディの道具である、ということだ。
しかし、コーザル・ボディは非二元形而上学登山の頂上ではない。さらにそのあとにグレート‐コーザル・ボディの領域、そして、絶対を残している。
ここから先の領域の説明は、本書にゆずるとして、私たちの日常生活での認識は、実は、登山の下りであることを理解することは重要だし、本書でもそのことに言及されている。
つまり、探求は下記の順番で一般的にはおこなわれる:
グロス・ボディ(肉体)
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
絶対
しかし、私たちの日常生活の認識は、下記の順番で降りて来る。
絶対
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
サトル・ボディ
↓
グロス・ボディ(肉体)
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
サトル・ボディ
↓
グロス・ボディ(肉体)
たとえば私たちが、自分が見ている世界に、何かを認識するとしよう。たった一つの認識、「あ、〇〇がある」というその平凡な認識さえ、絶対からグロス・ボディのすべてが関わっている。その下降はもちろん、光速よりも速く、というより、無時間で降りて来る。
このことは考えてみるに、本当に「奇跡的」なことだ。非二元系の教えで、第一の「奇跡」とはこのことであり、ニサルガダッタ・マハラジやダグラス・ハーディングはこの「奇跡」をよく話題にした。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
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