秋の神輿祭り ― 2025年10月03日 10時29分34秒
[ハム様へのご質問の回答]
ラメッシ・バルセカールの本の翻訳は、いちおう予定はありますが、出版が実現するかどうかは現時点ではまだ未定です。期待しないで待っていただければありがたく思います。(シンプル堂)
[新刊案内]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
昔は、政治のことを政(まつりごと)と呼んでいた時代があった。そして、政(まつりごと)は祭り事でもあったのだ。その「祭り事」の意味は、現代私たちが普通に使っている「祭り」という言葉とは、意味が異なるが、しかし、国政の政治家とは祭りの神輿の一番上に乗る人たちと考えるとわかりやすい。
では神輿を担ぐのは誰かと言えば、仲間の政治家であったり、マスコミであったり、一般国民であったりする。だから、神輿の上にいる政治家の皆さんは、「私は〇〇をやります」、「私は〇〇を達成します」と勇ましく叫ぶけれど、彼らの言葉はまず実現しない。なぜなら、実際神輿を動かしている人たちは別の人たちであり、そもそも根本的に日本という国を動かしているのは、政治家の言動ではなく、国民の思考と労働力である。国民が考え、働かないかぎり、国家はまわっていかない。
さて先日、真山仁さんという作家の方のインタヴュー記事をネットでたまたま読んだ。彼の最新作『アラート』(新潮社)についてのインタヴューで、本書は日本を守るために防衛費の増額が絶対必要という信念の(女性)政治家が主人公(←ただし、「私は奈良の女です」の、あの女性政治家がモデルではないとのこと)の小説だそうだ。そして、たまたま今自民党総裁選のさなかということで、総裁候補についても話題が及んだ(私は真山仁さんの本は何冊か読んだことがあるが、この『アラート』は未読)。
今回自民党総裁選に立候補している5人の中で一番人気の候補について、真山さんは、「彼は神輿が軽いから、誰でも担ぎたがる」と評していたが、言い得て妙である。
「軽い」ので、党内でも党外でも、老人も中年も若者も、「誰でも担ぎたがる」。つまり、人気がある。比較して言えば、たった一年で首相の座を引きずり降ろされた石破さんは、「神輿が重すぎて、誰も担ぎたがらない」。特に党内での不人気(嫌われぶり)は致命的で、まあ、今までずっと本ばかり読んで考えてきた人の弊害で、人間関係をうまく築くことができなかったのだろうと思う。
老人人口が30%も占める体力のない老人大国では、担ぐ神輿は軽いほうが好まれ、いいのかもしれない。でも担いでいる人たちは信念も体力もなく適当に担いでいるので、軽い神輿であっても、あっちへふらふら、こっちへふらふら迷走し、あげく神輿に乗っている人が落っこちるなんて事故も起きる可能性も。そして、アイドルを追いかけるように、その迷走神輿を追いかけているマスコミは何かが起きるたびに大騒ぎし、「お祭り」状態になる。
そんなつまらない想像をする程度しか私は政(まぐりごと)には関心がないけれど、それより今年も大好きなリンゴ(シナノドルチェ、シナノスイーツ、名月、秋映など)の季節(私にとってはリンゴ祭りの状況)が来て、スーパーにリンゴが豊富に手頃な値段で並んでいるのを見てほっとし、感謝している今日この頃である。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
On Having No Head (1) ― 2025年10月26日 10時04分46秒
[イベント]
イベントの詳細・予約は下記へ
◎2025年11月29日(土)と12月1日(月)出張シンプル道コンサルティング(東京)
◎リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都新宿区)
2025年11月30日(日曜日)午後1時20分より午後4時半頃まで
◎オンライン「私とは本当は何かを見る実験の会」
2025年11月9日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月20日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究──実験と瞑想の会」
2025年11月13日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年11月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
〔Youtube]
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』(24)
今回からもうすぐ出版が予定されているダグラス・ハーディング(1909~2007)著、On Having No Head ―Zen and the Rediscovery of the Obvious「頭がないことについて――禅と明白なるものの再発見」(仮称)(1994年に『心眼を得る』というタイトルで出版された本の再版)を紹介したい。
今まであちこちでハーディングの教えや彼について書いてきたので、重複する話が多くなるが、本ブログの読者の皆さんのために下記の三つに重点をおいて書く予定である。
1On Having No Headが書かれた経緯
2On Having No Headとの出会い
3On Having No Headに書かれている内容について
2On Having No Headとの出会い
3On Having No Headに書かれている内容について
1On Having No Headが書かれた経緯
ダグラス・ハーディングは第二次世界大戦後、建築の仕事を休んで、大著『The Hierarchy of Heaven and Earth ―A New Diagram of Man in the Universe (天と地の階層――宇宙における人間の新しい図解)を書きあげた。出版界に縁のなかった彼であるが、その原稿を読んだ当時のイギリス文学界の重鎮C.S.ルイス(イギリスの作家。1898~1963)がその内容を絶賛し、彼の後押しで1952年にそれは出版された。それから、大衆的雑誌、『サタデー・イブニング・ポスト』から原稿の依頼がきて、その依頼に応じて書いた2つの原稿の一つがOn Having No Headだった。
二つのうち一つの原稿は雑誌に掲載されたが、On Having No Headの元となった原稿は、友人たちが「『私には頭がない』なんていう書き出しで始まる文章は一般雑誌にはふさわしくない」と警告したので、当時会員だった仏教協会に頼んで出版してもらった。これは1960年代の話である。
初期の頃の版には下記の3つの文章が掲載されていた。
第1章 真に見ること
第2章 「見ること」を理解する
第3章 禅を発見する
第2章 「見ること」を理解する
第3章 禅を発見する
それから、1980年代に第4章「話を現代化する」を付け加え、この章では彼が30代の初めに自分には「頭がないこと」を発見してから40年以上、「頭がないことを」を自ら実践し、それを他の人たちとも分かち合ってきた経験の詳細が語られている。具体的には、単純なヴィジョンの背後にある奥深い神秘、キリスト教、仏教、インドのアドヴァイタなどの教えと深く共通する点、そして、日常生活への影響、他の人たちに伝えることの困難、そして「頭がないこと」を実践する人たちに降りかかる障害について、幅広く様々な角度から書いている。
ハーディングは本書のあとも様々なことをテーマにたくさんの本を書いたが、On Having No Headには、それらすべての本の内容が要約されていると言っても過言ではない。短い本(約100ページ)の中に非常にコンパクトに内容がまとめられ、そして、一般雑誌向け原稿だったということもあり、彼の文章にしては比較的平易な文体で書かれている(と思う)。(←比較すれば、『The Hierarchy of Heaven and Earth』の本などは、最初読んだとき、宇宙人が書いた英語かと思ったくらい、ハーディングの英語は私には難解に感じられたし、今でも難解である)
On Having No Headでハーディングは、中国、日本の著名な禅僧たちの言葉にも言及しているので、欧米では禅を学ぶ人たちの間でも広く読まれ、現在まで彼の本の中では一番売れているロングセラーとなっている。
[今年出版された本]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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