夫(政府)の弱腰・妻(国民)の不満2010年11月09日 12時41分49秒

世の夫族は、概して弱腰である。それが結婚生活における世の妻族の不満の一つである。

子供のこと、近所付き合い、親族付き合い等々において、たとえば、妻が
「ねえ、あなた、ご近所の〇〇さんが××で、困っているんだけど、あなた、注意しに行ってよ」とか、

「お義母(おかあさん)が、毎月、ここに泊まりに来ているけど、こっちも忙しいから、なんとか、あなたからもう少し回数を減らすように、言ってよ」とか言われると、

夫は、たいていこんな返事をする。
「別に、いいじゃないか。そのうちついでに言っておくよ」と逃げ腰で答える。面倒な場面にはなるべく巻き込まれずに、穏便にすべてを済ませたい――それがたいていの世の夫族の本音だ。

妻は、「そのうち」は、決して来ないことを知っているので、内心不満たらたらである。では、自分が出て行って言えばいいのだが、妻も自分が非難を浴びてまで、あえて人間関係を悪くしたくはない。妻は、自分が出来ないことは棚上げして、自分の夫には出るべきところへ出て、言う必要があるときは、ビシっと意見を言ってもらいたいと思っている。が、その妻たちの願いは、多くの家庭ではかなえられないでいる。

人が生きている人間環境――近所、親族、子供の教育関係、職場の人間関係では、しばしばゴリラ的な人が出没して、彼らは、自分より誰が弱いか、強いかをちゃんと査定して、弱腰の人のところへ平気で無理難題を押し付けてくる。

最近の日本の外交問題を見ていると、まさに弱腰夫(政府)とそれに不満タラタラの妻(国民)というよくある日本の家庭の風景を見ているようである。

日本のご近所さん、中国、北朝鮮は一党独裁共産国家で、ロシアもつい最近までは一党独裁共産国家で、昨年も書いたように、一党独裁国家の思考パターンは、ゴリラである――つまり、私(国家)だけが、絶対に正しい。私に刃向かうものは、全部間違っている――というゴリラ的思考で生きている。

中国ゴリラに、間違いは存在しない、というよりも、存在してはならないのである――たとえ、自分から、船をぶつけようが、車をぶつけようが、何をぶつけようが、悪いのは、ぶつけられた相手であって、自分ではない。

さて、こういったゴリラに、人間の礼儀(その場所がどこであれ、故意にしろ、偶然にしろ、ぶつけたほうが、詫びる、それが人間の礼儀だ)を理解させるのは至難のわざだ。ゴリラは、自分より弱いと思っている相手の言うことは、聞かないのだ。

では、中国ゴリラは、何を恐れているかといえば、アメリカとそして国際世論だ。国際世論が盛り上がって、「中国ってこんなひどい国なのか、人間以下だ。あんな国とは付き合いたくない」と思われるのは、これから世界中に進出したい中国にとっては、さすがにイヤなことである。

そういう意味では、国民のほとんどが思っているように、中国船の衝突事件のビデオがyoutubeに流出したことは、よかったことであるのだ――あなた(中国)がこれからもこういう行為を繰り返すなら、youtubeにいつだって、あなたのしたことが世界中に暴露されますよという警告の意味で。

弱腰夫(管さん)は、こう言っている。「時間がたてば、政府は正しく対処していることが、わかってもらえるはずだ」と。これはまるで、何もしない夫が、家庭の中で、「俺が正しいことが、いつか君にもわかってもらえると思うよ」とのん気に妻に言っているようなものだ。

それと同じくらい笑えるのは、元夫(元、前首相)たちがしばしばマスコミに登場して、「私なら解決できた」とか、「菅政権のやり方はここがおかしい」と、言い放っていることだ。

たしか、菅さんだって野党のときは、散々自民党を批判して、「私ならこうする、ああする、もっとうまく解決する」と言っていたと記憶する。自分で何もできない弱腰夫にかぎって、自分がその立場にないときには、「私ならこうする、ああする」と言うのである。

国民世論調査によれば、内閣支持率は30%台まで落ち込んでいて、内閣支持率は政府と国民の離婚バロメーターでもある。管さんは、「石にかじりついてでも頑張る」とおっしゃるが、現在の妻は、昔の妻と違って、我慢強くない。「いつか」の前に、さっさと離婚する……が、妻(国民)も、いつだって自分にピッタリな夫(政府)を得ていることに気づかなければ、どれだけ夫(政府)を新しく変えても、不満は永遠になくならないものであろうとは、思うけど。



「ピーターの法則」―小沢さんと管さんの場合2010年09月11日 07時42分12秒

「ピーターの法則」(ローレンス・ピーター著 ダイヤモンド社)という今から40年ほど前に出版された本で、出版当事、世界中で非常に話題になった本がある。ご存知ない方のために、簡単にどんな内容の本かを説明すると、教育学者であった著者が、大企業、官僚組織のなかにはびこる「無能」について研究した本で、彼が発見した法則は一般に以下のような「ピーターの法則」として知られている。

(以下、ウィキペディア日本語版より)

1能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。

2時が経つに連れて人間は悉く出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。

3その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。

(以上、ウィキペディア日本語版より)

例をあげて説明すると、たとえば、

ある大会社で、有能な営業部長がいるとしよう。営業のエキスパートでその会社の売上げに非常に貢献した人だ。有能であるゆえに、まわりからも会社からも出世を要請され、営業部長よりも上のポスト、重役のポストへ出世する。ところが営業部長としては有能であったのに、重役としてはまったく無能で役立たずであることが判明。万一、その人が重役としても有能であれば、さらに限界まで出世を余儀なくされ、たとえば、最高経営責任者まで出世して無能をさらけ出す。(一番目の法則)

他にも
スポーツ選手として優秀だった人の多くが、コーチや監督になると無能になる理由も、このピーターの法則に関連している。

さて、今なぜピーターの法則のことを思い出したかというと、民主党の小沢さんが、民主党代表選に立候補するというニュースを読んだからだ。いよいよ小沢さんもピーターの法則に従って、総理大臣になることを余儀なくされ、無能をさらけ出す時期が来たのかと……

ピーターの法則のどおり、政治家はトップ(総理大臣)になるとほとんど無能となる。野党のときは、有能な野党だった人も、与党になると無能な与党になり、大臣のときは有能だった人も、総理大臣になると無能になる。それは過去の日本の総理大臣のほとんどに当てはまることだ。

小沢さんは、幹事長としては有能だったゆえに、総理大臣としても有能になって手腕を発揮するだろうと、彼の支持者たちは期待するわけであるが、その期待の大きさゆえに、おそらくは総理大臣としては無能が際立つだろうと思う。彼は権力を取ろうと攻めているときは強くても、守りには弱いタイプである。

そもそも、小沢さんはパフォーマンスが好きな外向きの性格ではないし、裏でコソコソ権力をふるうのが好きな人であるので、総理大臣職という飾りみたいな仕事を楽しいと思えないだろう。総理大臣職とは、公務と会議に追われ、いつも笑顔で礼儀正しい言葉を使わねばならず、しかもマスコミに24時間監視され、女性やゼネコンとの密会もままならず……

では、菅さんはどうかといえば、野党のときには有能だった、それから与党になって、大臣になってもまだ有能だった。それでやはりピーターの法則に従って、総理大臣になった(させられた)。彼は、性格的に外向きでパフォーマンスが好きなので、総理大臣職は楽しそうではあるが、以前よりはるかに無能のように見える――小沢さんを立候補に追い込んだことは、彼の無能であろう。

どっちが勝っても、次の政権は短命が予想される。万一もし政権が長期に続くとすれば、最初に紹介した「ピーターの法則」の3番目が満たされるときで、つまり、自分は無能でも、まだ無能レベルに達していない有能な部下がたくさんいて、その人たちが仕事をすれば、組織はなんとか持ちこたえていく、ということである――さて、お二人には、それぞれ、まだ無能レベルに達していない有能な部下がたくさんいるのかどうか……

いやいや、政治家を見て笑ってばかりもいられない。「ピーターの法則」を、「出世(別の仕事)をすると、無能になる法則」と拡大応用すると、組織や大企業に所属していない人も、よくこの法則の罠に落ちるのだ。

シンプル堂の場合――本を読む人(読者)としてはまあまあ有能であったのに、本を作り、売る人に「出世」したら、無能をさらけ出してしまった――「無能を修行」するという意味ではよかったけれど。

「ピーターの法則」の本、皆様にお勧めします。

同じ著者の本
「こんなことがなぜ起こる」(ダイヤモンド社)
「ピーターのピラミッド法則」(ダイヤモンド社)




政治家の人生ゲーム2009年09月07日 11時52分46秒

いつのまにかまた政治スポーツの季節がめぐってきて、日本の政治家たちは真夏の日本を元気に走り回っていた。

事前の予想どおり、衆議院選挙は民主党圧勝に終わり、民主党小沢代表代行の「長年の夢(政治権力の頂点に立つこと)がかなった」(祝)、選挙結果となった。

今回の選挙をスポーツとしてみた場合、自民党は、まったく運と戦略に恵まれなかった。どれほど運と戦略が悪かったかを思いつくままに列挙してみると、

*4年前の衆院選挙で小泉さんが圧勝したとき、彼が作った政権は自民党政権ではなく、「郵政民営化政権」で、彼は自分の人生ゲームに勝利する(郵政民営化を実現する)ために、自民党の組織を実質的に崩壊させてしまった。で、郵政民営化を実現したあとは、もはやその「郵政民営化党」の役割も終わり、「自民党・郵政民営化党」はそれ以後は求心力と中味のない党になってしまった。つまり、「自民党をぶっつぶす!」と常々言っていた小泉さんは、自分の人生ゲームのために、自民党をとことん利用したあげく、本当に4年前に自民党をぶっ壊してしまったのである。

*「選挙の風」というのはバブルのようなもので、4年前の自民党の300議席のうち、100議席くらいは小泉さんの人気が引き起こしたバブルな議席で、それはバブルが終われば、当然はじけてしまうものである。バブルというのは、はじけるときは、たいてい以前よりもずっと収縮してしまう傾向がある。つまり、バブルで獲得した100議席は、減るときはそれよりももっとずっと多く減ってしまうということである。

*以上のような4年前の遠因に加え、麻生首相自身にも運がなく(就任早々、世界的経済危機が襲い)、何兆円のお金を全国民にばらまく(定額給付金)という愚策で、国民の人気を得ようとして失敗し(長年多種多様なマンガを愛読しているという麻生首相は、マンガから大衆の本音の感情や時代の風を読むことを学ばなかったのだろうか)、国民の支持率はあがらす、党内の支持も分裂していた。

*そしてきわめつけは、選挙中に、自民党は、民主党に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、自ら民主党に力を与えてしまった。(批判とは常に相手に力を与えることを、政治家の方々はほとんど知らないようである)

だから、今回の民主党の圧勝は、民主党が支持されたというより、自民党が戦う前からすでに負けていたというほうが近い。それでもあえて、今回の選挙に関して、民主党の強運を一つあげれば、献金問題で小沢さんの秘書が逮捕され、民主党にピンチが襲ったとき、小沢さんが代表を退いて、裏に引っ込んだことで、最大のピンチが最高のチャンスになったことであろうか。

前にも書いたことがあるが、小沢さんという人は、表にでると力が出ない人なのだ。命令言語(ゴリラ言語)は得意でも、マスコミ向けに丁寧にしゃべったり、対等の議論をするのが、この人は得意ではない。作り笑いを浮かべ、精一杯、ていねいにしゃべろうとするが、自分にふさわしくない人を演じているので、どこかきごちない。

でも、裏に回った小沢さんは、水を得た魚のように、自分の大好きな得意分野(選挙と人事)に集中し、思い切り力をふるうことができたはずだ。そして。表の仕事は、従順な鳩山代表にまわし、要するに、民主党は、小沢さんが奥へ引っ込んで以後、適所適材に人材を配置し、組織力が格段によくなったのである。

ということで、かつての自民党のライバルたちを苦しめ、夢がかなった小沢さんにとってはおめでたい選挙結果となったが、しかし、民主党にとっては、308議席という圧勝は内心少々憂鬱な数字でもあろう。なぜなら、308議席はもはや上限であり、これからの4年間、仮にどれほど自分たちがミスなく政権を運営できたとしても、次回は今回よりも減ると考えるほうが常識的だからだ。

そして、これからの民主党の見どころは、小沢さんがどこまでゴリラぶりを発揮して、裏から民主党をひっかきまわすか、である。自分が創造したものを、いつのまにか破壊する――これが彼の人生ゲーム(国民の生活とも日本の経済状況ともまったく無関係なゲーム)なのである。民主党は衆議院でこれ以上拡大するという希望がないばかりか、へたをしたら、小沢さんの人生ゲームに巻き込まれて、今回の自民党と同じく、次回は、308議席が100議席ちかくまで落ち込むかも……


以上、今回の政治スポーツを見た感想でした。

ゴリラ(独裁者)マインドの研究2009年06月02日 09時32分28秒

一味変わったDVDを見た。「ペルセポリス」というタイトルの外国アニメ映画で、内容は、1980年代、1990年代のイランの国情を背景に、非常に民主的で自由な価値観の一族に生まれた少女の成長と苦難を描いた物語だ。日本のアニメとは全然雰囲気が違う(それでいて、日本の白黒の影絵のような作り)独特のタッチが内容にピッタリである。(「ぺルセポリス」とは、大昔、イランがペルシャと呼ばれて繁栄していた頃の首都の名前)

このアニメで私の興味を一番ひいたのは、宗教独裁国であるイランの権力者たちの発想・考えである。それは、時代、文化、地域をこえて、過去・現在のあらゆる独裁的国家――戦前の日本の軍国主義、かつてのソ連・東欧の共産主義一党独裁国、ナチスドイツ、現在の北朝鮮、フセイン時代のイラク等々――の発想・考えと、滑稽なほどまったく同じだということだ。

時代・地域を越えて共通するということは、そこにある種の人類の精神の原型があるということで、私の観念によれば、それは、「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」に取りつかれている、人類のある段階の知性・精神を表している。その「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」をさらにもっと具体的に書いてみると、

* 私(たち)の考えていることが、唯一絶対に正しい
* お前たち(国民)は、私(たち)の言うことに従っていれば、幸福である。
* 私(たち)の言うことに従わない者たちは、社会の悪として罰せられなければならない。
* 女は、男の所有物で、男の言うことに従わなければならない。
* 女を自由にすると、社会の風紀が乱れるゆえに、厳しく統制しなければならない。
* 私(たち)に敵対する外部勢力は、攻撃しなければならない。

と、だいたいこんなようなものだ。

こういった考え方の源流をたどってみると、なんとそれは驚くことに、ヒトの祖先がゴリラのような生き物だった時代(ヒトとゴリラは1000万年くらい前に分かれたとされている)にまでさかのぼるというのが、私の考えだ。以前、野生のゴリラの生活を記録した映像を見たことがあり、そのときの一シーンにこんな場面があった。

一頭のボスゴリラ(オス)がしきる縄張り(ゴリラは、独裁的、一夫多妻的ハーレム的集団を作る)のまわりを、群れを乗っ取ろうとする若いオスゴリラがうろついている。それを目ざとく見つけたボスゴリラは、早速警戒心をあらわにして、威嚇する。若いオスゴリラはかなわないと判断し逃げ去ったのだが、問題は、このあとの場面だ。突然、ボスゴリラは、その若いオスに一瞬興味を示した群れの一匹のメスのところへ突進して、二発、三発攻撃。それから胸をドラミング(ドラミングは、類人猿が自分の体を叩いて、自分の力を誇示するときなどにする仕草)。とまあ、こんな感じの場面だ。

今の場面を人の言語に翻訳すれば、

若いオスに向かって、
ボスゴリラ「オレの女たちに手をだしたら、ただじゃおかないぜ! 痛い目にあいたくなければ、オレの縄張りからさっさと消えうせろ!」

若いオスに関心を示した群れのメスに向かって、
ボスゴリラ「他の男に、なに色目なんか使ってんだよ、このバカ! 許さん!こらしめてやる」

このようにボスゴリラは、外から群れを乗っ取るやつがいないか、群れのメスの中で造反者(浮気者)がでないか、群れの状態をたえずチェックし、コントロールするのに忙しい。

イランや北朝鮮のように社会全体が監視社会となって、いつも他人の行動・思想・服装をチェック・コントロールするのに忙しい社会というのは、私に言わせれば、国民の大多数がゴリラ(独裁者)マインドに支配されている社会というわけだ。(念のために言えば、あらゆる人の中にこのゴリラマインドは潜んでいるが、それがほとんど作動しなくなれば、その人の知性は、幸いなことに、いちおう人間にまで進化しているというのが、私の考えである)

こういう国家は、内部の自由をあまりに厳しく統制するために、その反動で、たえず、外に向かっては攻撃的にならざるをえず、常にある種の戦時状態である。

だから、北朝鮮が最近特に、核だ、ミサイルだと外に向かってやたら攻撃的なのは、国家内部の統制があまりに厳しいので、外側に向かってエネルギーを発散しないと、体(国)のエネルギー・バランスがとれないからなのである――国力の衰退を、必死で隠すべく、北朝鮮ゴリラがドラミングしているというわけなのだ。

幸い現在の日本は、国家的にはこういう国ではないが、ミニ北朝鮮ゴリラのような感じのヒト(特にオス)たちが、家庭、職場、街中、あらゆるところでドラミングしている――物事が自分の思いどおりにならないとき、怒りだしたり、暴言を吐いたり、果ては暴力をふるったりするヒトたち(ナイフをもって突然暴れるオスたちは、その極端な典型)は、時代を1000万年ほど勘違いしている……

参考図書
「1984年」ジョージ・オウエル著
監視社会とはどういう社会か、小説という形態で描いた本。ゴリラ(独裁者)マインドをつらぬく思考・思想のすぐれた研究書でもある。現在、自由を謳歌している社会でも、監視社会になりうる可能性はどこの国にもあるということを、教えてくれる。

「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー著
世界文学の最高傑作とされているこの名作も、読みようによれば、父親と兄弟たちをめぐるゴリラ的権力闘争の物語として読むことができる。

「人間はどこまでチンパンジーか?」ジャレド・ダイヤモンド(新曜社)
チンパンジー、ゴリラから、ヒトはいつ、どのようにして分かれて今日に至っているのか? 生物学的理解からヒトの行動を解明している一般向け科学書。ヒトはどういう相手を結婚相手として選ぶのかを、生物学的に説明している箇所もあるので、今、世の中で流行の「婚活」にも役立つかも(!? )

「ほどほど」という考え2009年02月27日 09時04分19秒

石油価格も穀物価格も今はかなり値段が下がったようだが、それが最高潮に値上がっていた頃、そういう市場へ大量の資金を投入していたアメリカのヘッジファンドの代表へのインタヴューを私は見たことがある。

インタヴュアーがこう訊いていた。

「あなた方が、大量に穀物市場に資金を投入したせいで、貧しい国では、穀物の値段が急騰して、食料をめぐる暴動が起きています。そういうことをあなたはどう思っているのですか?」

それに対してヘッジファンドの代表はこう答えていた。

「別に。私たちの仕事は、顧客から預かったお金を一番儲かるところへ投資して、利益をできるだけ上げることです。それが私たちの仕事です」

私はそのとき、それを聞いて、思ったものだ。「食い物の恨みは恐ろしいことを、この人たちはあんまり知らないのかもしれない」と。

人はお金その他に関して、どんな考えをもつことも自由であり、どんな価値観が絶対的に悪いわけでも正しいわけでもないが、しかし、自分がすること・考えることの結末は自分に循環して戻ってくる(これをスピリチュアルな世界では「カルマ」と呼んでいる)確率が高いものだ。

アメリカという国は、根から上昇主義、お金の量で計る成功主義が蔓延している。彼らに理解できないのは、「ほどほど」とか「まあこのくらいで」といった中庸的な考えで、アメリカではこういう考えを、「負け犬の考え」と呼ぶ。しかし、極端な上昇主義の国では、その代償として、一方で格差と貧困が拡大する。

私も、お金は便利だから好きだが、拝金主義とアメリカのような格差のありすぎる社会は好みではない。なぜなら、格差のありすぎる社会とは、

:必然的に犯罪と暴力が多い。
:社会全体は貧乏。
:社会的公共的インフラの整備がお粗末。

のような社会だからだ。

そして、アメリカの上昇主義に中途半端に影響されてきた日本も、気づいてみれば、格差と貧困は拡大し、国全体は貧乏になりつつある(悪いところだけがアメリカに似てきている)。

さて、先日、アメリカのクリントン国務長官が、アジアにやってきた。(外国で醜態をさらけ出す日本の政治家とは違って)、自国の印象アップに貢献し、各国で見事なパフォーマンスを披露した。が、彼女がアジアに最初に挨拶にやってきた本当の理由は、「これからもアメリカにお金、よろしく」という意味だ。また、オバマ大統領が、各国政治家の中で麻生首相を最初にアメリカに招待したのも、「これからもアメリカにお金、よろしく」というためである。アメリカは、日本の一年間の国家予算にも匹敵するお金を、経済再建につぎ込むというが、そのお金の多くを日本、中国などのアジア各国からの「援助」に頼る予定のようだ。

アメリカの言い分は、こうである。

「もしあなた方が私たちにお金を出さなければ、あなた方の国の経済も停滞したままですよ。これからもアメリカに物を輸出したければ、お金を出しなさい」(日本の立場からいえば、自分のお金を貸して、そのお金で相手から物を買ってもらう奇妙な経済である)

政治レベルでは、日本はこういった圧力に屈するだろうけど、アメリカが日本からこれから一番輸入する(学ぶ)べきものは、本当は、「日本のお金や物」ではなく、「ほどほど」「そこそこ」「普通」「仕方ない」という、日本的中庸の考え方だと思う。オバマ大統領は演説で、「強いアメリカの復活」みたいなことを言っていたけど、もうこの地球に「他国の援助に頼る強いアメリカ」なんて、必要あるの? という感じである。


で、この間、昼寝中に思いついたアメリカ人向けセルフヘルプの本のタイトル――「あなたを救う『ほどほど』『そこそこ』『仕方ない』――日本的中庸のすごいパワー」


*前回に続いて、エントロピーの発想で書かれた本をご紹介する

「弱者のためのエントロピー経済入門」槌田敦著 ほたる出版
資源物理学者が、現在のような膨張経済ではなく、本当に成長可能な経済とは、どういう経済かを、エコロジー、環境の問題も含めて論じ、貧困、格差の問題の本質に鋭く迫る本。著者もまた、「ほどほどの幸せ」という考えを提唱する。

「エコロジー神話の功罪」槌田敦著 ほたる出版
「リサイクル運動は本当によいことか?」「温暖化は問題か?」「太陽光発電は環境にやさしいか」等々、エコロジーをめぐる神話と常識に一石を投じる本。リサイクルではなく、動植物も含めたサイクル(循環)が大事という考えは納得できる。日本的「もったいない」の考えから始まったリサイクル運動のたどった道は、よい考えが、必ずしもよい結末にならない難しさを感じさせる。

オバマ氏の目2008年10月31日 11時11分31秒

来週、アメリカ大統領選挙ということもあって、日本のテレビのニュースでも、オバマ・マケイン両候補の演説風景がよく放映されている。

二人の顔をたまにテレビでちらっと見て、私が気になるのが、民主党のオバマ氏の目である。彼の目が、なぜか時々ひどく暗く感じられる。共和党のマケイン氏の目と見比べると、よくわかる。マケイン氏の目は、たいてい笑っていて、ある種、子犬のような愛嬌がある。

一口に「目が暗い」といっても、色々な種類の「暗さ」があるのだが、オバマ氏の目の暗さは、「攻撃的暗さ=怒りの暗さ」のようなものだと、私は感じているのだが、世論調査ではかなりの優勢が伝えられているのに、彼は一体何に怒っているのだろうかと、考えてみた。

おそらく想像するに、敏感なオバマ氏は、もうすぐ黒人大統領が誕生しそうだという今、経済状況の悪化もともなって、秘かに反黒人主義のようなものが、アメリカ全土に蔓延しているのを、なんとなく感じているのではないだろうか。彼が「change=変化」と叫べば叫ぶほど、変化に抵抗する最も保守的部分も強固になって台頭してくるというわけである。

ハリウッド映画の中のアメリカ人たちとはちがって、実際のアメリカ人の多くは非常に保守的で人種意識が強い。彼らにとっては、黒人が大統領になるということは、日本人が想像もできないほど、ものすごく衝撃的なことらしい。先日、私が書店で立ち読みした本によれば、アメリカには、オバマ氏を大統領にさせないように画策している勢力があるとか……

まあ、そういった陰謀論は別にして、では、どういった人がアメリカ大統領にふさわしいかという観点で考えてみると――

アメリカの大統領を務めるのに一番重要な資質、それは単純な愛国心である――アメリカ大統領は、アメリカの価値観を一度も疑ったこともなく、アメリカを世界の一番だと考え、子供の頃からアメリカが大好きで、他の何を犠牲にしてもアメリカの国益と自国の富裕層の利益を常に一番に考える、単純な知性の持ち主でなければならない。単純で、明るい愛国主義者、「テロとの戦い」を脳天気に明るく言える人こそ、アメリカの大統領にふさわしいのだ――ブッシュ大統領にも、その前のクリントン大統領にもそういった資質がちゃんとあったし、マケイン氏にもあるが、どうみてもオバマ氏にはそれがない。

それなのにオバマ氏は、勝利に向かって、自分に向かないものに向かって、邁進中なのだ。もしかしたら、彼自身、大統領になったら、自分が苦しむことになるだろう苦難や矛盾――自分の知性が、アメリカ大統領職が求める資質を越えていること――を、無意識に予感し、それが目の暗さに現れているのかもしれない。

[イベント]
*2008年11月23日(日)「私とは何かを見る会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
*2008年11月24日(月――振り替え休日)「問題解消の会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分

上記の会の詳細・お申し込みは下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

秋のお祭り2008年09月08日 20時29分40秒

去年、今年と、秋になると政変が起こる。

政変といっても、日本の場合は、マスコミや一部の識者が批判するだけで、全国の交通が止まったり、デモや暴動があったり、自衛隊が出動したりということもなく、いたって平穏で、平和で、ありがたいことである。

去年の安倍さんに続いて、政権を放棄した福田さんは、私が見るに、まだ前の小泉政権が残した不運の影響下にある。人気下落の原因となった後期高齢者医療制度(私もよく知らなかったが、小泉政権のときに決めた制度らしい。)の問題にしろ、年金記録の問題にしろ、別に福田さんのせいではなく、たまたま、発覚したのが、彼の政権中というのが、不運なのである。福田さんにしてみると、「別に私がしたことでもないのに、なんで私の政権中に問題が次から次へと出てくるのか?」という感じで、嫌気がさしたのであろう。元々、福田さんは、首相になって何がしたいということがあるわけでもなく、ただ親子二代首相になるという、ぼんやりとした夢をもっていたようなので、「夢がかなって、よかったですね」、という感じだ。

エネルギー的に見ると、小泉政権の時代は、自民党は非常に求心的(陰性的)、つまり、小泉さんのカリスマ性と人気と強い信念で、自民党の実力以上にエネルギーを集めて、その結果が前回の衆院選の圧勝である。そして、その小泉政権が終わったあとは、自民党の実力以上に集められたエネルギーは出て行こうとする(遠心的・陽性的になる)ので、当然、組織はしだいに求心力がなくなり、誰がトップになってもしまりがなくなり、以前は表に出なかったミスや不都合・混乱が外に出やすくなる。(カリスマ的人物が去ったあとの混乱は、政治組織だけでなく、国家、企業、宗教組織、家庭、また現代だけでなく、過去の歴史においても、よく見られる現象である)

今もし、このままの状態で、選挙をやれば、二代続けて、政権を放り出したということで、自民党には圧倒的マイナスのイメージがあり、不利である。しかし、そこは、試合巧者の自民党、大々的に総裁選という大花火を打ち上げて、そのマイナスのイメージを完全に払拭する作戦に出た。

この手法は、小泉さんが首相になる前頃から、自民党が使い出した方法で、マスコミを利用して、国民の関心を一気に自分たちに引きつける頭のいい方法である。小池元防衛大臣も出して、女性で初めての総裁候補ということで話題を作るあたりが、企画がうまい。(今回の総裁選の企画を立てているのは、小泉さんか……)

さらに、自民党総裁選というのは、党内にある対立エネルギーを身内のゲームで解消できて、選挙のときには、一丸となって挙党体制で、のぞむことができるという効果もある。対照的に、民主党代表選に出たい人たちがいたにもかかわらず、代表戦を封印した民主党は、党内に対立エネルギーのくすぶりを残している。

ということで、さあ、どうなるか、秋の政治=お祭り――自民党の戦術が勝つのか、民主党小沢さんの執念が勝つのか――どっちが勝っても、私の生活にはまったく関係ないけど、政治家の皆さんには健康に留意して、「政」(まつりごと)に頑張っていただきたいものだ。

橋下大阪府知事の奮闘2008年06月26日 09時45分54秒

大阪府政を大改革しようと奮闘している橋下大阪府知事は、世論の圧倒的支持を得ている(80%以上)そうである。

世論が、彼を支持するのは、それは、彼が自分の職場や組織のトップではないからだ。利害関係なく傍観しているだけなら、彼は面白いし、楽しい。しかし、そう彼を好ましく思っている世間の人たちも、もし彼が自分の勤めている会社の社長になって、「これから、みんなの給料やボーナスを大幅カットするけど、それにもめげず、これからも頑張って会社のために働いてくれ」と言ったら、ほとんどの人たちが、「誰が一生懸命に働いてやるもんか」と思い、彼を大嫌いになるはずである。

橋下氏は、自分の能力に自信がある。そして、知事としても、自分の能力をどうしても証明したいと思っている。彼のように自分の能力と腕一本で、成功してきた人間には、公務員のように、組織で働く人たちの行動や脳のパターンをほとんど理解できない。そして、そこにある種の落とし穴があるのだ。

私がいつも思っていること――「Aの場所での成功法則は、Bの場所での成功法則ではない」からみると、彼の自分の能力への過信が、彼が望むことの実現を阻む可能性が高い。知事として彼が言っていること(府政の借金を減らす)が、正論であればあるほど、府庁の職員たちの反発を買い、士気は下がり、仕事の能率も落ちるだろうと、予想できる。

先日、ご紹介した「リアリティ・トランサーフィン」(徳間書店)の本に、こういう話が書かれてある。

「あなたは仕事で猛烈ぶりを発揮していて、そのことでこれまで培われてきた物事の秩序を乱しているとしよう。職場で改善すべきことが数多く見受けられ、自分は正しく行動しているという絶対的なまでの確信をあなたは持っている。しかしながら、あなたの新しいやり方が、同僚たちの人生で馴染んだやり方と相容れないのであれば、良いことは何も期待できない。これはまさに「言いだしっぺは罰せられる」という諺通りのケースである。あなたは、ゆっくりではあるが、穏やかで順調な流れに乗っているのに、もっと速く泳ごうとして両手を水面に全力でたたきつけているのである」(331ページ)

かくして、改革派知事の熱意というものは、挫折の憂き目を見るという結果になることが多い。

関心という愛情2008年05月11日 10時47分14秒

人間的「愛情」ということに関して、私がもっている観念の一つが、「関心は、愛情である」というものがある。

それが何であれ、人が何かや誰かに関心をもつということは、人はそれに対して愛情をもっているのだと、私はそう理解している。たとえ、人がその何かや誰かを嫌っている、憎んでいると公言しているときでも、嫌うことや憎むことは、関心・愛情の一部であるのだ。人は、関心・愛情をもってないものを嫌ったり、憎んだり、さらにいえば、批判したりすることはないのである。

簡単に書けば、
愛情=関心=自分の時間やエネルギーを相手に与えること、という方程式が成り立つ。

そんなことを思いながら、映画「靖国YASUKUNI」をめぐる最近の騒動の記事や報道を読んだり、聞いたりしていた。ネットやマスコミの記事によれば、この騒動の発端は、ある週刊誌が、「文化庁が『反日映画』に助成金を出した」という記事を掲載したことから始まり、そのあと一部の国会議員たちが騒ぎ、それから右翼団体が騒ぎ、映画館が上映中止を決め、マスコミ・文化人たちが騒ぎという具合に、騒動がどんどん膨らんでいったらしい。

現在は、振り子が反対に振れるように、多くの映画館でこれから上映されることが決まったようである。考えようによれば、一般公開される前から、映画「靖国YASUKUNI」を反日的だと批判し、騒いだ人たちの「おかげ」で、この映画に対する国民の関心が盛り上がり、最終的には多くの映画館で上映されることが決まったとも言えるのである。もし騒動がなければ、ほんの一部の人たちしか見ない、たいして話題にもならない、マイナーな文化映画で終わる可能性もあったはずだ。

だから、私は、この映画に多大な関心をいだき、上映に抗議している人たちは、結果的には、(自分たちでも気づかないまま)この映画に愛情をもち、その成功に力を貸しているのだと思っている。

一方、この映画を作った中国人監督、彼がどんな意図でこの映画を作ったのか、また、(映画を見ていないので)、この映画が反日的かどうかは、私には判断できない。ただ一つ私にわかるのは、この映画は、反靖国神社ではないということである。なぜかといえば、この中国人の監督は、10年間の歳月をかけて、靖国神社に通いつめて、この映画を作ったと聞いているからだ。

もし人が10年間もの間、何かに関心を持ち続け、そこに通い続けるとすれば――それは、ある種の「恋愛」である――彼はどういうわけか、自分でも説明できないほど、強烈に、靖国神社とそれを取り巻く人々に心惹かれている。

今回の騒動は、靖国神社に対する中国人監督の情熱と、やはり靖国神社を偏愛する人たちの心が織り成す相思相愛のお祭騒ぎであり、両者から多大な愛情・関心をもらった当の靖国神社は、今回のお祭騒ぎと映画のおかげで、(今でも「戦争神社」として世界的にも有名であるが)、日本だけでなく、世界中にも、ますます鮮明にその名を刻むことになるだろうと私は思っている。

以上のような観点で今回の騒動を鑑賞すれば、この映画を批判する側も、作った側も、上映・配給する側も、すべて三者それなりに、得るところがあり、三方丸く収まって、結局のところメデタイ話なのである。

そして、多くの国民がこの映画を見たあと、やはりこの映画は「反日的」だという意見がたくさん出て、議論が起こるとしたら、それはそれで、日本国および、日本人の精神性の高さ・豊かさを物語っている。なぜなら、日本国家および日本人には、外国人監督が作る「反日的映画」にお金を出して、さらにそれをみんなで鑑賞し、議論する文化的寛容さ、財政的豊かさ、精神的度量があるからである。

今回の映画をめぐる騒動に関しては、(めったに自分と国家とを一体化しない)私も、右翼系の方々に習って、日本および日本人の精神性を礼賛してもいいような気分である。

中国の時代2008年04月23日 18時48分11秒

北京オリンピックの聖火リレーが、世界のあちこちで妨害されている。私がこのニュースを聞いて最初に思ったことは、ああ、いよいよ中国の時代なんだなあということである。20世紀の後半からつい数年前まで、国際的に反〇〇運動が起こるといえば、それは反米国運動ときまっていた。なぜ反米運動かといえば、それは世界中が、アメリカこそが、世界の覇権を握っていて、アメリカが世界の一番の政治経済大国だと信じていたからである。

反〇〇運動というのは、運動する人たちが、敵(アメリカとか中国)の力を認めないかぎり、起こりえないことなのである。相手が、反対運動する価値があるだけ、巨大で強力であると認識しているからこそ、反対運動は盛り上がるわけである。だから、たいてい、反〇〇運動は、運動者の意図とは反対に、敵にエネルギーを与える結果となる。

現在、聖火リレーの行く先々で、反中国運動が起きているのは、それは世界が、これからの世界の覇権は中国が握り、中国こそ21世紀の政治経済大国だと信じ始めているからである。

かつての日本がそうであったように、アジアでのオリンピック開催というのは、その国の経済がこれから急激に上昇しますよ、というような合図のようなものだ。15億の中国国民が、60年代、70年代の日本の10倍くらいの熱気で、豊かになる希望と願望をいだいて、がむしゃらに走り始めているのである。

今、15億の民のその熱気に勝てる国は、世界のどこにもない。

そして、経済政治帝国は、必ず領土や支配領域を異常に拡大したがる習性があり、騒動をあちこちで引き起こす。帝国は、ほんの少しでも自分の支配領土が減るのがイヤなのであり、常に拡大しないと気がすまない。

これからの世界の政治経済映画では、世界の覇権を手放したくない沈みつつある旧帝国船(アメリカ)と、国民一丸となって上昇しようという新帝国中国とが、日本という国をはさんで、米中政治経済戦争を繰り広げるのである(現在のアメリカの頭の中では、まだ、日本、韓国、台湾までが、自分たちの支配領域となっている)。

例のごとく優柔不断な日本は、両国に利用されつつ、しかし、まあ、最終的には、中国と仲良くして、なんとかこれからの経済的苦境を乗り切ってゆくだろうと、私はそんなふうに予想している。