政治遺伝子 ― 2014年02月05日 08時22分53秒
皆様、本年も時々、ゆるくブログを書いていく予定ですので、お時間があるとき、おつき合いください。
もうすぐ「じいさんたちの政治運動会」(東京都知事選)なので、久しぶりに政治に話をふってみたい。
昨年の秋、 猪瀬前東京都知事と都議の皆さんが、鞄を前にして、その鞄に5千万円が入るのかどうか真剣に議論している都議会の様子をたまたまテレビで見た。その風景は、まるで小学生の教室で、子供たちが喧嘩しているような感じであった。政治家の皆さんというのは、他人の悪事を見つけると自分自身の悪事は忘れて、まるで鬼の首をとったかのように喜々として追及するのがいつも印象的である。「他人の目の埃を指摘する前に、自分の目の中の埃を取りなさい」というキリストの言葉と真逆なゲームが、政治ゲームである。
猪瀬さんがもらった5千万円は、まあダーティな金ではあろうが、その程度のお金をごまかす才覚がなく、大問題にされて、マスコミや都議会で追及されてしまうほど、(元はジャーナリストであった)彼に政治的技巧と運がなかったのがお気の毒な感じがした。
作家や学者、タレントなどいわゆる文化人がよく知事や議員になるわけであるが、文化人は生粋の政治家よりはるかにプライドが高く、「自分は清く賢い」というイメージをもっている。そのためいざ自分の中のダーティな部分が暴露されたり、周囲と考えが合わないと、いとも簡単にその職を投げ捨ててしまう。つまり、政治的忍耐と技巧がない、ということである。
その点、生粋の政治家、特に代々政治家の家系の政治家の方々は、政治遺伝子というものが、心身に入っていて、政治遺伝子がたくさんある政治家は、以下のことが自然に身についている。
* ダーティな問題が表面化しないようにうまくごまかす技巧
*不遇な時代を耐える忍耐力
*共通な目的のためなら、意見が合わない人たちとも共同できる能力
*「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」という種類の裏切りと友情を気にしないマインド 。
*政治ゲームに中毒するマインド。
政治遺伝子のよい例が、安部首相だ。前回首相を辞任したときほとんど政治生命が終わりかけたが、それでもそのあと不遇の時代を耐えぬいて、首相に返り咲いた。 安部さんを忍耐させたのは、彼個人の力ではなく、彼の中に潜む政治遺伝子 のおかげであろう。
*不遇な時代を耐える忍耐力
*共通な目的のためなら、意見が合わない人たちとも共同できる能力
*「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」という種類の裏切りと友情を気にしないマインド 。
*政治ゲームに中毒するマインド。
政治遺伝子のよい例が、安部首相だ。前回首相を辞任したときほとんど政治生命が終わりかけたが、それでもそのあと不遇の時代を耐えぬいて、首相に返り咲いた。 安部さんを忍耐させたのは、彼個人の力ではなく、彼の中に潜む政治遺伝子 のおかげであろう。
さて、猪瀬さんに政治遺伝子と運がなかったせいで、東京都は約50億円の税金を使って政治運動会(都知事選)をこの寒空にやらなければならなくなった(前回の石原さんの途中辞職と合わせて、東京都は100億円もムダに税金を使っている)。
東京都知事は代々文化人がなる傾向があり、今回の主要参戦メンバーもみな政治家ではなく、政治遺伝子があまりなさそうな方々ばかりである。桝添さんも元々は学者であり、細川さんは風流文化人である。 誰がなっても、2020年の東京オリンピックまでもつのかどうか……
政治遺伝子がない人といえば、橋下大阪市長もプライドが高いのに忍耐力がないゆえに、自分のヴィジョンが進展しないのにイラついて、また今度市長選をやるという――橋下さんに、意見の違う人たちと共同する能力と忍耐力がなければ、何度選挙をやっても、税金のムダ遣いでしかない。橋下さんが、自分のビジョンを実現したいと思うなら、数十年間忍耐して、郵政を民営化した小泉元首相を見習うべきである。
で、その小泉元首相は相変わらず政治ゲーム中毒が抜けないのか、今回の政治運動会に裏で参戦して、脱原発をぶち上げた。小泉さんは人生最後の政治ゲームを脱原発に賭けたようであり、そのゲームは、政治遺伝子が濃厚に入っている小泉さんの息子、小泉進次郎自民党議員が将来的には引き継ぐことになるだろう。親子二代で、抵抗勢力(原発派)を懐柔して、脱原発に向かって、頑張って!
[質問へのお答え]
電子書籍版の出版を決めるのは、翻訳者ではなく、出版社ですので、ご希望は出版社にリクエストしてください。
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夫(政府)の弱腰・妻(国民)の不満 ― 2010年11月09日 12時41分49秒
世の夫族は、概して弱腰である。それが結婚生活における世の妻族の不満の一つである。
子供のこと、近所付き合い、親族付き合い等々において、たとえば、妻が
「ねえ、あなた、ご近所の〇〇さんが××で、困っているんだけど、あなた、注意しに行ってよ」とか、
「お義母(おかあさん)が、毎月、ここに泊まりに来ているけど、こっちも忙しいから、なんとか、あなたからもう少し回数を減らすように、言ってよ」とか言われると、
夫は、たいていこんな返事をする。
「別に、いいじゃないか。そのうちついでに言っておくよ」と逃げ腰で答える。面倒な場面にはなるべく巻き込まれずに、穏便にすべてを済ませたい――それがたいていの世の夫族の本音だ。
妻は、「そのうち」は、決して来ないことを知っているので、内心不満たらたらである。では、自分が出て行って言えばいいのだが、妻も自分が非難を浴びてまで、あえて人間関係を悪くしたくはない。妻は、自分が出来ないことは棚上げして、自分の夫には出るべきところへ出て、言う必要があるときは、ビシっと意見を言ってもらいたいと思っている。が、その妻たちの願いは、多くの家庭ではかなえられないでいる。
人が生きている人間環境――近所、親族、子供の教育関係、職場の人間関係では、しばしばゴリラ的な人が出没して、彼らは、自分より誰が弱いか、強いかをちゃんと査定して、弱腰の人のところへ平気で無理難題を押し付けてくる。
最近の日本の外交問題を見ていると、まさに弱腰夫(政府)とそれに不満タラタラの妻(国民)というよくある日本の家庭の風景を見ているようである。
日本のご近所さん、中国、北朝鮮は一党独裁共産国家で、ロシアもつい最近までは一党独裁共産国家で、昨年も書いたように、一党独裁国家の思考パターンは、ゴリラである――つまり、私(国家)だけが、絶対に正しい。私に刃向かうものは、全部間違っている――というゴリラ的思考で生きている。
中国ゴリラに、間違いは存在しない、というよりも、存在してはならないのである――たとえ、自分から、船をぶつけようが、車をぶつけようが、何をぶつけようが、悪いのは、ぶつけられた相手であって、自分ではない。
さて、こういったゴリラに、人間の礼儀(その場所がどこであれ、故意にしろ、偶然にしろ、ぶつけたほうが、詫びる、それが人間の礼儀だ)を理解させるのは至難のわざだ。ゴリラは、自分より弱いと思っている相手の言うことは、聞かないのだ。
では、中国ゴリラは、何を恐れているかといえば、アメリカとそして国際世論だ。国際世論が盛り上がって、「中国ってこんなひどい国なのか、人間以下だ。あんな国とは付き合いたくない」と思われるのは、これから世界中に進出したい中国にとっては、さすがにイヤなことである。
そういう意味では、国民のほとんどが思っているように、中国船の衝突事件のビデオがyoutubeに流出したことは、よかったことであるのだ――あなた(中国)がこれからもこういう行為を繰り返すなら、youtubeにいつだって、あなたのしたことが世界中に暴露されますよという警告の意味で。
弱腰夫(管さん)は、こう言っている。「時間がたてば、政府は正しく対処していることが、わかってもらえるはずだ」と。これはまるで、何もしない夫が、家庭の中で、「俺が正しいことが、いつか君にもわかってもらえると思うよ」とのん気に妻に言っているようなものだ。
それと同じくらい笑えるのは、元夫(元、前首相)たちがしばしばマスコミに登場して、「私なら解決できた」とか、「菅政権のやり方はここがおかしい」と、言い放っていることだ。
たしか、菅さんだって野党のときは、散々自民党を批判して、「私ならこうする、ああする、もっとうまく解決する」と言っていたと記憶する。自分で何もできない弱腰夫にかぎって、自分がその立場にないときには、「私ならこうする、ああする」と言うのである。
国民世論調査によれば、内閣支持率は30%台まで落ち込んでいて、内閣支持率は政府と国民の離婚バロメーターでもある。管さんは、「石にかじりついてでも頑張る」とおっしゃるが、現在の妻は、昔の妻と違って、我慢強くない。「いつか」の前に、さっさと離婚する……が、妻(国民)も、いつだって自分にピッタリな夫(政府)を得ていることに気づかなければ、どれだけ夫(政府)を新しく変えても、不満は永遠になくならないものであろうとは、思うけど。
政治家の人生ゲーム ― 2009年09月07日 11時52分46秒
いつのまにかまた政治スポーツの季節がめぐってきて、日本の政治家たちは真夏の日本を元気に走り回っていた。
事前の予想どおり、衆議院選挙は民主党圧勝に終わり、民主党小沢代表代行の「長年の夢(政治権力の頂点に立つこと)がかなった」(祝)、選挙結果となった。
今回の選挙をスポーツとしてみた場合、自民党は、まったく運と戦略に恵まれなかった。どれほど運と戦略が悪かったかを思いつくままに列挙してみると、
*4年前の衆院選挙で小泉さんが圧勝したとき、彼が作った政権は自民党政権ではなく、「郵政民営化政権」で、彼は自分の人生ゲームに勝利する(郵政民営化を実現する)ために、自民党の組織を実質的に崩壊させてしまった。で、郵政民営化を実現したあとは、もはやその「郵政民営化党」の役割も終わり、「自民党・郵政民営化党」はそれ以後は求心力と中味のない党になってしまった。つまり、「自民党をぶっつぶす!」と常々言っていた小泉さんは、自分の人生ゲームのために、自民党をとことん利用したあげく、本当に4年前に自民党をぶっ壊してしまったのである。
*「選挙の風」というのはバブルのようなもので、4年前の自民党の300議席のうち、100議席くらいは小泉さんの人気が引き起こしたバブルな議席で、それはバブルが終われば、当然はじけてしまうものである。バブルというのは、はじけるときは、たいてい以前よりもずっと収縮してしまう傾向がある。つまり、バブルで獲得した100議席は、減るときはそれよりももっとずっと多く減ってしまうということである。
*以上のような4年前の遠因に加え、麻生首相自身にも運がなく(就任早々、世界的経済危機が襲い)、何兆円のお金を全国民にばらまく(定額給付金)という愚策で、国民の人気を得ようとして失敗し(長年多種多様なマンガを愛読しているという麻生首相は、マンガから大衆の本音の感情や時代の風を読むことを学ばなかったのだろうか)、国民の支持率はあがらす、党内の支持も分裂していた。
*そしてきわめつけは、選挙中に、自民党は、民主党に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、自ら民主党に力を与えてしまった。(批判とは常に相手に力を与えることを、政治家の方々はほとんど知らないようである)
だから、今回の民主党の圧勝は、民主党が支持されたというより、自民党が戦う前からすでに負けていたというほうが近い。それでもあえて、今回の選挙に関して、民主党の強運を一つあげれば、献金問題で小沢さんの秘書が逮捕され、民主党にピンチが襲ったとき、小沢さんが代表を退いて、裏に引っ込んだことで、最大のピンチが最高のチャンスになったことであろうか。
前にも書いたことがあるが、小沢さんという人は、表にでると力が出ない人なのだ。命令言語(ゴリラ言語)は得意でも、マスコミ向けに丁寧にしゃべったり、対等の議論をするのが、この人は得意ではない。作り笑いを浮かべ、精一杯、ていねいにしゃべろうとするが、自分にふさわしくない人を演じているので、どこかきごちない。
でも、裏に回った小沢さんは、水を得た魚のように、自分の大好きな得意分野(選挙と人事)に集中し、思い切り力をふるうことができたはずだ。そして。表の仕事は、従順な鳩山代表にまわし、要するに、民主党は、小沢さんが奥へ引っ込んで以後、適所適材に人材を配置し、組織力が格段によくなったのである。
ということで、かつての自民党のライバルたちを苦しめ、夢がかなった小沢さんにとってはおめでたい選挙結果となったが、しかし、民主党にとっては、308議席という圧勝は内心少々憂鬱な数字でもあろう。なぜなら、308議席はもはや上限であり、これからの4年間、仮にどれほど自分たちがミスなく政権を運営できたとしても、次回は今回よりも減ると考えるほうが常識的だからだ。
そして、これからの民主党の見どころは、小沢さんがどこまでゴリラぶりを発揮して、裏から民主党をひっかきまわすか、である。自分が創造したものを、いつのまにか破壊する――これが彼の人生ゲーム(国民の生活とも日本の経済状況ともまったく無関係なゲーム)なのである。民主党は衆議院でこれ以上拡大するという希望がないばかりか、へたをしたら、小沢さんの人生ゲームに巻き込まれて、今回の自民党と同じく、次回は、308議席が100議席ちかくまで落ち込むかも……
以上、今回の政治スポーツを見た感想でした。
事前の予想どおり、衆議院選挙は民主党圧勝に終わり、民主党小沢代表代行の「長年の夢(政治権力の頂点に立つこと)がかなった」(祝)、選挙結果となった。
今回の選挙をスポーツとしてみた場合、自民党は、まったく運と戦略に恵まれなかった。どれほど運と戦略が悪かったかを思いつくままに列挙してみると、
*4年前の衆院選挙で小泉さんが圧勝したとき、彼が作った政権は自民党政権ではなく、「郵政民営化政権」で、彼は自分の人生ゲームに勝利する(郵政民営化を実現する)ために、自民党の組織を実質的に崩壊させてしまった。で、郵政民営化を実現したあとは、もはやその「郵政民営化党」の役割も終わり、「自民党・郵政民営化党」はそれ以後は求心力と中味のない党になってしまった。つまり、「自民党をぶっつぶす!」と常々言っていた小泉さんは、自分の人生ゲームのために、自民党をとことん利用したあげく、本当に4年前に自民党をぶっ壊してしまったのである。
*「選挙の風」というのはバブルのようなもので、4年前の自民党の300議席のうち、100議席くらいは小泉さんの人気が引き起こしたバブルな議席で、それはバブルが終われば、当然はじけてしまうものである。バブルというのは、はじけるときは、たいてい以前よりもずっと収縮してしまう傾向がある。つまり、バブルで獲得した100議席は、減るときはそれよりももっとずっと多く減ってしまうということである。
*以上のような4年前の遠因に加え、麻生首相自身にも運がなく(就任早々、世界的経済危機が襲い)、何兆円のお金を全国民にばらまく(定額給付金)という愚策で、国民の人気を得ようとして失敗し(長年多種多様なマンガを愛読しているという麻生首相は、マンガから大衆の本音の感情や時代の風を読むことを学ばなかったのだろうか)、国民の支持率はあがらす、党内の支持も分裂していた。
*そしてきわめつけは、選挙中に、自民党は、民主党に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、自ら民主党に力を与えてしまった。(批判とは常に相手に力を与えることを、政治家の方々はほとんど知らないようである)
だから、今回の民主党の圧勝は、民主党が支持されたというより、自民党が戦う前からすでに負けていたというほうが近い。それでもあえて、今回の選挙に関して、民主党の強運を一つあげれば、献金問題で小沢さんの秘書が逮捕され、民主党にピンチが襲ったとき、小沢さんが代表を退いて、裏に引っ込んだことで、最大のピンチが最高のチャンスになったことであろうか。
前にも書いたことがあるが、小沢さんという人は、表にでると力が出ない人なのだ。命令言語(ゴリラ言語)は得意でも、マスコミ向けに丁寧にしゃべったり、対等の議論をするのが、この人は得意ではない。作り笑いを浮かべ、精一杯、ていねいにしゃべろうとするが、自分にふさわしくない人を演じているので、どこかきごちない。
でも、裏に回った小沢さんは、水を得た魚のように、自分の大好きな得意分野(選挙と人事)に集中し、思い切り力をふるうことができたはずだ。そして。表の仕事は、従順な鳩山代表にまわし、要するに、民主党は、小沢さんが奥へ引っ込んで以後、適所適材に人材を配置し、組織力が格段によくなったのである。
ということで、かつての自民党のライバルたちを苦しめ、夢がかなった小沢さんにとってはおめでたい選挙結果となったが、しかし、民主党にとっては、308議席という圧勝は内心少々憂鬱な数字でもあろう。なぜなら、308議席はもはや上限であり、これからの4年間、仮にどれほど自分たちがミスなく政権を運営できたとしても、次回は今回よりも減ると考えるほうが常識的だからだ。
そして、これからの民主党の見どころは、小沢さんがどこまでゴリラぶりを発揮して、裏から民主党をひっかきまわすか、である。自分が創造したものを、いつのまにか破壊する――これが彼の人生ゲーム(国民の生活とも日本の経済状況ともまったく無関係なゲーム)なのである。民主党は衆議院でこれ以上拡大するという希望がないばかりか、へたをしたら、小沢さんの人生ゲームに巻き込まれて、今回の自民党と同じく、次回は、308議席が100議席ちかくまで落ち込むかも……
以上、今回の政治スポーツを見た感想でした。
ゴリラ(独裁者)マインドの研究 ― 2009年06月02日 09時32分28秒
一味変わったDVDを見た。「ペルセポリス」というタイトルの外国アニメ映画で、内容は、1980年代、1990年代のイランの国情を背景に、非常に民主的で自由な価値観の一族に生まれた少女の成長と苦難を描いた物語だ。日本のアニメとは全然雰囲気が違う(それでいて、日本の白黒の影絵のような作り)独特のタッチが内容にピッタリである。(「ぺルセポリス」とは、大昔、イランがペルシャと呼ばれて繁栄していた頃の首都の名前)
このアニメで私の興味を一番ひいたのは、宗教独裁国であるイランの権力者たちの発想・考えである。それは、時代、文化、地域をこえて、過去・現在のあらゆる独裁的国家――戦前の日本の軍国主義、かつてのソ連・東欧の共産主義一党独裁国、ナチスドイツ、現在の北朝鮮、フセイン時代のイラク等々――の発想・考えと、滑稽なほどまったく同じだということだ。
時代・地域を越えて共通するということは、そこにある種の人類の精神の原型があるということで、私の観念によれば、それは、「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」に取りつかれている、人類のある段階の知性・精神を表している。その「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」をさらにもっと具体的に書いてみると、
* 私(たち)の考えていることが、唯一絶対に正しい
* お前たち(国民)は、私(たち)の言うことに従っていれば、幸福である。
* 私(たち)の言うことに従わない者たちは、社会の悪として罰せられなければならない。
* 女は、男の所有物で、男の言うことに従わなければならない。
* 女を自由にすると、社会の風紀が乱れるゆえに、厳しく統制しなければならない。
* 私(たち)に敵対する外部勢力は、攻撃しなければならない。
と、だいたいこんなようなものだ。
こういった考え方の源流をたどってみると、なんとそれは驚くことに、ヒトの祖先がゴリラのような生き物だった時代(ヒトとゴリラは1000万年くらい前に分かれたとされている)にまでさかのぼるというのが、私の考えだ。以前、野生のゴリラの生活を記録した映像を見たことがあり、そのときの一シーンにこんな場面があった。
一頭のボスゴリラ(オス)がしきる縄張り(ゴリラは、独裁的、一夫多妻的ハーレム的集団を作る)のまわりを、群れを乗っ取ろうとする若いオスゴリラがうろついている。それを目ざとく見つけたボスゴリラは、早速警戒心をあらわにして、威嚇する。若いオスゴリラはかなわないと判断し逃げ去ったのだが、問題は、このあとの場面だ。突然、ボスゴリラは、その若いオスに一瞬興味を示した群れの一匹のメスのところへ突進して、二発、三発攻撃。それから胸をドラミング(ドラミングは、類人猿が自分の体を叩いて、自分の力を誇示するときなどにする仕草)。とまあ、こんな感じの場面だ。
今の場面を人の言語に翻訳すれば、
若いオスに向かって、
ボスゴリラ「オレの女たちに手をだしたら、ただじゃおかないぜ! 痛い目にあいたくなければ、オレの縄張りからさっさと消えうせろ!」
若いオスに関心を示した群れのメスに向かって、
ボスゴリラ「他の男に、なに色目なんか使ってんだよ、このバカ! 許さん!こらしめてやる」
このようにボスゴリラは、外から群れを乗っ取るやつがいないか、群れのメスの中で造反者(浮気者)がでないか、群れの状態をたえずチェックし、コントロールするのに忙しい。
イランや北朝鮮のように社会全体が監視社会となって、いつも他人の行動・思想・服装をチェック・コントロールするのに忙しい社会というのは、私に言わせれば、国民の大多数がゴリラ(独裁者)マインドに支配されている社会というわけだ。(念のために言えば、あらゆる人の中にこのゴリラマインドは潜んでいるが、それがほとんど作動しなくなれば、その人の知性は、幸いなことに、いちおう人間にまで進化しているというのが、私の考えである)
こういう国家は、内部の自由をあまりに厳しく統制するために、その反動で、たえず、外に向かっては攻撃的にならざるをえず、常にある種の戦時状態である。
だから、北朝鮮が最近特に、核だ、ミサイルだと外に向かってやたら攻撃的なのは、国家内部の統制があまりに厳しいので、外側に向かってエネルギーを発散しないと、体(国)のエネルギー・バランスがとれないからなのである――国力の衰退を、必死で隠すべく、北朝鮮ゴリラがドラミングしているというわけなのだ。
幸い現在の日本は、国家的にはこういう国ではないが、ミニ北朝鮮ゴリラのような感じのヒト(特にオス)たちが、家庭、職場、街中、あらゆるところでドラミングしている――物事が自分の思いどおりにならないとき、怒りだしたり、暴言を吐いたり、果ては暴力をふるったりするヒトたち(ナイフをもって突然暴れるオスたちは、その極端な典型)は、時代を1000万年ほど勘違いしている……
参考図書
「1984年」ジョージ・オウエル著
監視社会とはどういう社会か、小説という形態で描いた本。ゴリラ(独裁者)マインドをつらぬく思考・思想のすぐれた研究書でもある。現在、自由を謳歌している社会でも、監視社会になりうる可能性はどこの国にもあるということを、教えてくれる。
「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー著
世界文学の最高傑作とされているこの名作も、読みようによれば、父親と兄弟たちをめぐるゴリラ的権力闘争の物語として読むことができる。
「人間はどこまでチンパンジーか?」ジャレド・ダイヤモンド(新曜社)
チンパンジー、ゴリラから、ヒトはいつ、どのようにして分かれて今日に至っているのか? 生物学的理解からヒトの行動を解明している一般向け科学書。ヒトはどういう相手を結婚相手として選ぶのかを、生物学的に説明している箇所もあるので、今、世の中で流行の「婚活」にも役立つかも(!? )
このアニメで私の興味を一番ひいたのは、宗教独裁国であるイランの権力者たちの発想・考えである。それは、時代、文化、地域をこえて、過去・現在のあらゆる独裁的国家――戦前の日本の軍国主義、かつてのソ連・東欧の共産主義一党独裁国、ナチスドイツ、現在の北朝鮮、フセイン時代のイラク等々――の発想・考えと、滑稽なほどまったく同じだということだ。
時代・地域を越えて共通するということは、そこにある種の人類の精神の原型があるということで、私の観念によれば、それは、「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」に取りつかれている、人類のある段階の知性・精神を表している。その「コントロール願望=私はまわりをコントロールしなければならない」をさらにもっと具体的に書いてみると、
* 私(たち)の考えていることが、唯一絶対に正しい
* お前たち(国民)は、私(たち)の言うことに従っていれば、幸福である。
* 私(たち)の言うことに従わない者たちは、社会の悪として罰せられなければならない。
* 女は、男の所有物で、男の言うことに従わなければならない。
* 女を自由にすると、社会の風紀が乱れるゆえに、厳しく統制しなければならない。
* 私(たち)に敵対する外部勢力は、攻撃しなければならない。
と、だいたいこんなようなものだ。
こういった考え方の源流をたどってみると、なんとそれは驚くことに、ヒトの祖先がゴリラのような生き物だった時代(ヒトとゴリラは1000万年くらい前に分かれたとされている)にまでさかのぼるというのが、私の考えだ。以前、野生のゴリラの生活を記録した映像を見たことがあり、そのときの一シーンにこんな場面があった。
一頭のボスゴリラ(オス)がしきる縄張り(ゴリラは、独裁的、一夫多妻的ハーレム的集団を作る)のまわりを、群れを乗っ取ろうとする若いオスゴリラがうろついている。それを目ざとく見つけたボスゴリラは、早速警戒心をあらわにして、威嚇する。若いオスゴリラはかなわないと判断し逃げ去ったのだが、問題は、このあとの場面だ。突然、ボスゴリラは、その若いオスに一瞬興味を示した群れの一匹のメスのところへ突進して、二発、三発攻撃。それから胸をドラミング(ドラミングは、類人猿が自分の体を叩いて、自分の力を誇示するときなどにする仕草)。とまあ、こんな感じの場面だ。
今の場面を人の言語に翻訳すれば、
若いオスに向かって、
ボスゴリラ「オレの女たちに手をだしたら、ただじゃおかないぜ! 痛い目にあいたくなければ、オレの縄張りからさっさと消えうせろ!」
若いオスに関心を示した群れのメスに向かって、
ボスゴリラ「他の男に、なに色目なんか使ってんだよ、このバカ! 許さん!こらしめてやる」
このようにボスゴリラは、外から群れを乗っ取るやつがいないか、群れのメスの中で造反者(浮気者)がでないか、群れの状態をたえずチェックし、コントロールするのに忙しい。
イランや北朝鮮のように社会全体が監視社会となって、いつも他人の行動・思想・服装をチェック・コントロールするのに忙しい社会というのは、私に言わせれば、国民の大多数がゴリラ(独裁者)マインドに支配されている社会というわけだ。(念のために言えば、あらゆる人の中にこのゴリラマインドは潜んでいるが、それがほとんど作動しなくなれば、その人の知性は、幸いなことに、いちおう人間にまで進化しているというのが、私の考えである)
こういう国家は、内部の自由をあまりに厳しく統制するために、その反動で、たえず、外に向かっては攻撃的にならざるをえず、常にある種の戦時状態である。
だから、北朝鮮が最近特に、核だ、ミサイルだと外に向かってやたら攻撃的なのは、国家内部の統制があまりに厳しいので、外側に向かってエネルギーを発散しないと、体(国)のエネルギー・バランスがとれないからなのである――国力の衰退を、必死で隠すべく、北朝鮮ゴリラがドラミングしているというわけなのだ。
幸い現在の日本は、国家的にはこういう国ではないが、ミニ北朝鮮ゴリラのような感じのヒト(特にオス)たちが、家庭、職場、街中、あらゆるところでドラミングしている――物事が自分の思いどおりにならないとき、怒りだしたり、暴言を吐いたり、果ては暴力をふるったりするヒトたち(ナイフをもって突然暴れるオスたちは、その極端な典型)は、時代を1000万年ほど勘違いしている……
参考図書
「1984年」ジョージ・オウエル著
監視社会とはどういう社会か、小説という形態で描いた本。ゴリラ(独裁者)マインドをつらぬく思考・思想のすぐれた研究書でもある。現在、自由を謳歌している社会でも、監視社会になりうる可能性はどこの国にもあるということを、教えてくれる。
「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー著
世界文学の最高傑作とされているこの名作も、読みようによれば、父親と兄弟たちをめぐるゴリラ的権力闘争の物語として読むことができる。
「人間はどこまでチンパンジーか?」ジャレド・ダイヤモンド(新曜社)
チンパンジー、ゴリラから、ヒトはいつ、どのようにして分かれて今日に至っているのか? 生物学的理解からヒトの行動を解明している一般向け科学書。ヒトはどういう相手を結婚相手として選ぶのかを、生物学的に説明している箇所もあるので、今、世の中で流行の「婚活」にも役立つかも(!? )
「ほどほど」という考え ― 2009年02月27日 09時04分19秒
石油価格も穀物価格も今はかなり値段が下がったようだが、それが最高潮に値上がっていた頃、そういう市場へ大量の資金を投入していたアメリカのヘッジファンドの代表へのインタヴューを私は見たことがある。
インタヴュアーがこう訊いていた。
「あなた方が、大量に穀物市場に資金を投入したせいで、貧しい国では、穀物の値段が急騰して、食料をめぐる暴動が起きています。そういうことをあなたはどう思っているのですか?」
それに対してヘッジファンドの代表はこう答えていた。
「別に。私たちの仕事は、顧客から預かったお金を一番儲かるところへ投資して、利益をできるだけ上げることです。それが私たちの仕事です」
私はそのとき、それを聞いて、思ったものだ。「食い物の恨みは恐ろしいことを、この人たちはあんまり知らないのかもしれない」と。
人はお金その他に関して、どんな考えをもつことも自由であり、どんな価値観が絶対的に悪いわけでも正しいわけでもないが、しかし、自分がすること・考えることの結末は自分に循環して戻ってくる(これをスピリチュアルな世界では「カルマ」と呼んでいる)確率が高いものだ。
アメリカという国は、根から上昇主義、お金の量で計る成功主義が蔓延している。彼らに理解できないのは、「ほどほど」とか「まあこのくらいで」といった中庸的な考えで、アメリカではこういう考えを、「負け犬の考え」と呼ぶ。しかし、極端な上昇主義の国では、その代償として、一方で格差と貧困が拡大する。
私も、お金は便利だから好きだが、拝金主義とアメリカのような格差のありすぎる社会は好みではない。なぜなら、格差のありすぎる社会とは、
:必然的に犯罪と暴力が多い。
:社会全体は貧乏。
:社会的公共的インフラの整備がお粗末。
のような社会だからだ。
そして、アメリカの上昇主義に中途半端に影響されてきた日本も、気づいてみれば、格差と貧困は拡大し、国全体は貧乏になりつつある(悪いところだけがアメリカに似てきている)。
さて、先日、アメリカのクリントン国務長官が、アジアにやってきた。(外国で醜態をさらけ出す日本の政治家とは違って)、自国の印象アップに貢献し、各国で見事なパフォーマンスを披露した。が、彼女がアジアに最初に挨拶にやってきた本当の理由は、「これからもアメリカにお金、よろしく」という意味だ。また、オバマ大統領が、各国政治家の中で麻生首相を最初にアメリカに招待したのも、「これからもアメリカにお金、よろしく」というためである。アメリカは、日本の一年間の国家予算にも匹敵するお金を、経済再建につぎ込むというが、そのお金の多くを日本、中国などのアジア各国からの「援助」に頼る予定のようだ。
アメリカの言い分は、こうである。
「もしあなた方が私たちにお金を出さなければ、あなた方の国の経済も停滞したままですよ。これからもアメリカに物を輸出したければ、お金を出しなさい」(日本の立場からいえば、自分のお金を貸して、そのお金で相手から物を買ってもらう奇妙な経済である)
政治レベルでは、日本はこういった圧力に屈するだろうけど、アメリカが日本からこれから一番輸入する(学ぶ)べきものは、本当は、「日本のお金や物」ではなく、「ほどほど」「そこそこ」「普通」「仕方ない」という、日本的中庸の考え方だと思う。オバマ大統領は演説で、「強いアメリカの復活」みたいなことを言っていたけど、もうこの地球に「他国の援助に頼る強いアメリカ」なんて、必要あるの? という感じである。
で、この間、昼寝中に思いついたアメリカ人向けセルフヘルプの本のタイトル――「あなたを救う『ほどほど』『そこそこ』『仕方ない』――日本的中庸のすごいパワー」
*前回に続いて、エントロピーの発想で書かれた本をご紹介する
「弱者のためのエントロピー経済入門」槌田敦著 ほたる出版
資源物理学者が、現在のような膨張経済ではなく、本当に成長可能な経済とは、どういう経済かを、エコロジー、環境の問題も含めて論じ、貧困、格差の問題の本質に鋭く迫る本。著者もまた、「ほどほどの幸せ」という考えを提唱する。
「エコロジー神話の功罪」槌田敦著 ほたる出版
「リサイクル運動は本当によいことか?」「温暖化は問題か?」「太陽光発電は環境にやさしいか」等々、エコロジーをめぐる神話と常識に一石を投じる本。リサイクルではなく、動植物も含めたサイクル(循環)が大事という考えは納得できる。日本的「もったいない」の考えから始まったリサイクル運動のたどった道は、よい考えが、必ずしもよい結末にならない難しさを感じさせる。
インタヴュアーがこう訊いていた。
「あなた方が、大量に穀物市場に資金を投入したせいで、貧しい国では、穀物の値段が急騰して、食料をめぐる暴動が起きています。そういうことをあなたはどう思っているのですか?」
それに対してヘッジファンドの代表はこう答えていた。
「別に。私たちの仕事は、顧客から預かったお金を一番儲かるところへ投資して、利益をできるだけ上げることです。それが私たちの仕事です」
私はそのとき、それを聞いて、思ったものだ。「食い物の恨みは恐ろしいことを、この人たちはあんまり知らないのかもしれない」と。
人はお金その他に関して、どんな考えをもつことも自由であり、どんな価値観が絶対的に悪いわけでも正しいわけでもないが、しかし、自分がすること・考えることの結末は自分に循環して戻ってくる(これをスピリチュアルな世界では「カルマ」と呼んでいる)確率が高いものだ。
アメリカという国は、根から上昇主義、お金の量で計る成功主義が蔓延している。彼らに理解できないのは、「ほどほど」とか「まあこのくらいで」といった中庸的な考えで、アメリカではこういう考えを、「負け犬の考え」と呼ぶ。しかし、極端な上昇主義の国では、その代償として、一方で格差と貧困が拡大する。
私も、お金は便利だから好きだが、拝金主義とアメリカのような格差のありすぎる社会は好みではない。なぜなら、格差のありすぎる社会とは、
:必然的に犯罪と暴力が多い。
:社会全体は貧乏。
:社会的公共的インフラの整備がお粗末。
のような社会だからだ。
そして、アメリカの上昇主義に中途半端に影響されてきた日本も、気づいてみれば、格差と貧困は拡大し、国全体は貧乏になりつつある(悪いところだけがアメリカに似てきている)。
さて、先日、アメリカのクリントン国務長官が、アジアにやってきた。(外国で醜態をさらけ出す日本の政治家とは違って)、自国の印象アップに貢献し、各国で見事なパフォーマンスを披露した。が、彼女がアジアに最初に挨拶にやってきた本当の理由は、「これからもアメリカにお金、よろしく」という意味だ。また、オバマ大統領が、各国政治家の中で麻生首相を最初にアメリカに招待したのも、「これからもアメリカにお金、よろしく」というためである。アメリカは、日本の一年間の国家予算にも匹敵するお金を、経済再建につぎ込むというが、そのお金の多くを日本、中国などのアジア各国からの「援助」に頼る予定のようだ。
アメリカの言い分は、こうである。
「もしあなた方が私たちにお金を出さなければ、あなた方の国の経済も停滞したままですよ。これからもアメリカに物を輸出したければ、お金を出しなさい」(日本の立場からいえば、自分のお金を貸して、そのお金で相手から物を買ってもらう奇妙な経済である)
政治レベルでは、日本はこういった圧力に屈するだろうけど、アメリカが日本からこれから一番輸入する(学ぶ)べきものは、本当は、「日本のお金や物」ではなく、「ほどほど」「そこそこ」「普通」「仕方ない」という、日本的中庸の考え方だと思う。オバマ大統領は演説で、「強いアメリカの復活」みたいなことを言っていたけど、もうこの地球に「他国の援助に頼る強いアメリカ」なんて、必要あるの? という感じである。
で、この間、昼寝中に思いついたアメリカ人向けセルフヘルプの本のタイトル――「あなたを救う『ほどほど』『そこそこ』『仕方ない』――日本的中庸のすごいパワー」
*前回に続いて、エントロピーの発想で書かれた本をご紹介する
「弱者のためのエントロピー経済入門」槌田敦著 ほたる出版
資源物理学者が、現在のような膨張経済ではなく、本当に成長可能な経済とは、どういう経済かを、エコロジー、環境の問題も含めて論じ、貧困、格差の問題の本質に鋭く迫る本。著者もまた、「ほどほどの幸せ」という考えを提唱する。
「エコロジー神話の功罪」槌田敦著 ほたる出版
「リサイクル運動は本当によいことか?」「温暖化は問題か?」「太陽光発電は環境にやさしいか」等々、エコロジーをめぐる神話と常識に一石を投じる本。リサイクルではなく、動植物も含めたサイクル(循環)が大事という考えは納得できる。日本的「もったいない」の考えから始まったリサイクル運動のたどった道は、よい考えが、必ずしもよい結末にならない難しさを感じさせる。
オバマ氏の目 ― 2008年10月31日 11時11分31秒
来週、アメリカ大統領選挙ということもあって、日本のテレビのニュースでも、オバマ・マケイン両候補の演説風景がよく放映されている。
二人の顔をたまにテレビでちらっと見て、私が気になるのが、民主党のオバマ氏の目である。彼の目が、なぜか時々ひどく暗く感じられる。共和党のマケイン氏の目と見比べると、よくわかる。マケイン氏の目は、たいてい笑っていて、ある種、子犬のような愛嬌がある。
一口に「目が暗い」といっても、色々な種類の「暗さ」があるのだが、オバマ氏の目の暗さは、「攻撃的暗さ=怒りの暗さ」のようなものだと、私は感じているのだが、世論調査ではかなりの優勢が伝えられているのに、彼は一体何に怒っているのだろうかと、考えてみた。
おそらく想像するに、敏感なオバマ氏は、もうすぐ黒人大統領が誕生しそうだという今、経済状況の悪化もともなって、秘かに反黒人主義のようなものが、アメリカ全土に蔓延しているのを、なんとなく感じているのではないだろうか。彼が「change=変化」と叫べば叫ぶほど、変化に抵抗する最も保守的部分も強固になって台頭してくるというわけである。
ハリウッド映画の中のアメリカ人たちとはちがって、実際のアメリカ人の多くは非常に保守的で人種意識が強い。彼らにとっては、黒人が大統領になるということは、日本人が想像もできないほど、ものすごく衝撃的なことらしい。先日、私が書店で立ち読みした本によれば、アメリカには、オバマ氏を大統領にさせないように画策している勢力があるとか……
まあ、そういった陰謀論は別にして、では、どういった人がアメリカ大統領にふさわしいかという観点で考えてみると――
アメリカの大統領を務めるのに一番重要な資質、それは単純な愛国心である――アメリカ大統領は、アメリカの価値観を一度も疑ったこともなく、アメリカを世界の一番だと考え、子供の頃からアメリカが大好きで、他の何を犠牲にしてもアメリカの国益と自国の富裕層の利益を常に一番に考える、単純な知性の持ち主でなければならない。単純で、明るい愛国主義者、「テロとの戦い」を脳天気に明るく言える人こそ、アメリカの大統領にふさわしいのだ――ブッシュ大統領にも、その前のクリントン大統領にもそういった資質がちゃんとあったし、マケイン氏にもあるが、どうみてもオバマ氏にはそれがない。
それなのにオバマ氏は、勝利に向かって、自分に向かないものに向かって、邁進中なのだ。もしかしたら、彼自身、大統領になったら、自分が苦しむことになるだろう苦難や矛盾――自分の知性が、アメリカ大統領職が求める資質を越えていること――を、無意識に予感し、それが目の暗さに現れているのかもしれない。
[イベント]
*2008年11月23日(日)「私とは何かを見る会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
*2008年11月24日(月――振り替え休日)「問題解消の会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
上記の会の詳細・お申し込みは下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
二人の顔をたまにテレビでちらっと見て、私が気になるのが、民主党のオバマ氏の目である。彼の目が、なぜか時々ひどく暗く感じられる。共和党のマケイン氏の目と見比べると、よくわかる。マケイン氏の目は、たいてい笑っていて、ある種、子犬のような愛嬌がある。
一口に「目が暗い」といっても、色々な種類の「暗さ」があるのだが、オバマ氏の目の暗さは、「攻撃的暗さ=怒りの暗さ」のようなものだと、私は感じているのだが、世論調査ではかなりの優勢が伝えられているのに、彼は一体何に怒っているのだろうかと、考えてみた。
おそらく想像するに、敏感なオバマ氏は、もうすぐ黒人大統領が誕生しそうだという今、経済状況の悪化もともなって、秘かに反黒人主義のようなものが、アメリカ全土に蔓延しているのを、なんとなく感じているのではないだろうか。彼が「change=変化」と叫べば叫ぶほど、変化に抵抗する最も保守的部分も強固になって台頭してくるというわけである。
ハリウッド映画の中のアメリカ人たちとはちがって、実際のアメリカ人の多くは非常に保守的で人種意識が強い。彼らにとっては、黒人が大統領になるということは、日本人が想像もできないほど、ものすごく衝撃的なことらしい。先日、私が書店で立ち読みした本によれば、アメリカには、オバマ氏を大統領にさせないように画策している勢力があるとか……
まあ、そういった陰謀論は別にして、では、どういった人がアメリカ大統領にふさわしいかという観点で考えてみると――
アメリカの大統領を務めるのに一番重要な資質、それは単純な愛国心である――アメリカ大統領は、アメリカの価値観を一度も疑ったこともなく、アメリカを世界の一番だと考え、子供の頃からアメリカが大好きで、他の何を犠牲にしてもアメリカの国益と自国の富裕層の利益を常に一番に考える、単純な知性の持ち主でなければならない。単純で、明るい愛国主義者、「テロとの戦い」を脳天気に明るく言える人こそ、アメリカの大統領にふさわしいのだ――ブッシュ大統領にも、その前のクリントン大統領にもそういった資質がちゃんとあったし、マケイン氏にもあるが、どうみてもオバマ氏にはそれがない。
それなのにオバマ氏は、勝利に向かって、自分に向かないものに向かって、邁進中なのだ。もしかしたら、彼自身、大統領になったら、自分が苦しむことになるだろう苦難や矛盾――自分の知性が、アメリカ大統領職が求める資質を越えていること――を、無意識に予感し、それが目の暗さに現れているのかもしれない。
[イベント]
*2008年11月23日(日)「私とは何かを見る会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
*2008年11月24日(月――振り替え休日)「問題解消の会」(大阪)午後1時30分より午後4時30分
上記の会の詳細・お申し込みは下記へ。
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html
秋のお祭り ― 2008年09月08日 20時29分40秒
去年、今年と、秋になると政変が起こる。
政変といっても、日本の場合は、マスコミや一部の識者が批判するだけで、全国の交通が止まったり、デモや暴動があったり、自衛隊が出動したりということもなく、いたって平穏で、平和で、ありがたいことである。
去年の安倍さんに続いて、政権を放棄した福田さんは、私が見るに、まだ前の小泉政権が残した不運の影響下にある。人気下落の原因となった後期高齢者医療制度(私もよく知らなかったが、小泉政権のときに決めた制度らしい。)の問題にしろ、年金記録の問題にしろ、別に福田さんのせいではなく、たまたま、発覚したのが、彼の政権中というのが、不運なのである。福田さんにしてみると、「別に私がしたことでもないのに、なんで私の政権中に問題が次から次へと出てくるのか?」という感じで、嫌気がさしたのであろう。元々、福田さんは、首相になって何がしたいということがあるわけでもなく、ただ親子二代首相になるという、ぼんやりとした夢をもっていたようなので、「夢がかなって、よかったですね」、という感じだ。
エネルギー的に見ると、小泉政権の時代は、自民党は非常に求心的(陰性的)、つまり、小泉さんのカリスマ性と人気と強い信念で、自民党の実力以上にエネルギーを集めて、その結果が前回の衆院選の圧勝である。そして、その小泉政権が終わったあとは、自民党の実力以上に集められたエネルギーは出て行こうとする(遠心的・陽性的になる)ので、当然、組織はしだいに求心力がなくなり、誰がトップになってもしまりがなくなり、以前は表に出なかったミスや不都合・混乱が外に出やすくなる。(カリスマ的人物が去ったあとの混乱は、政治組織だけでなく、国家、企業、宗教組織、家庭、また現代だけでなく、過去の歴史においても、よく見られる現象である)
今もし、このままの状態で、選挙をやれば、二代続けて、政権を放り出したということで、自民党には圧倒的マイナスのイメージがあり、不利である。しかし、そこは、試合巧者の自民党、大々的に総裁選という大花火を打ち上げて、そのマイナスのイメージを完全に払拭する作戦に出た。
この手法は、小泉さんが首相になる前頃から、自民党が使い出した方法で、マスコミを利用して、国民の関心を一気に自分たちに引きつける頭のいい方法である。小池元防衛大臣も出して、女性で初めての総裁候補ということで話題を作るあたりが、企画がうまい。(今回の総裁選の企画を立てているのは、小泉さんか……)
さらに、自民党総裁選というのは、党内にある対立エネルギーを身内のゲームで解消できて、選挙のときには、一丸となって挙党体制で、のぞむことができるという効果もある。対照的に、民主党代表選に出たい人たちがいたにもかかわらず、代表戦を封印した民主党は、党内に対立エネルギーのくすぶりを残している。
ということで、さあ、どうなるか、秋の政治=お祭り――自民党の戦術が勝つのか、民主党小沢さんの執念が勝つのか――どっちが勝っても、私の生活にはまったく関係ないけど、政治家の皆さんには健康に留意して、「政」(まつりごと)に頑張っていただきたいものだ。
政変といっても、日本の場合は、マスコミや一部の識者が批判するだけで、全国の交通が止まったり、デモや暴動があったり、自衛隊が出動したりということもなく、いたって平穏で、平和で、ありがたいことである。
去年の安倍さんに続いて、政権を放棄した福田さんは、私が見るに、まだ前の小泉政権が残した不運の影響下にある。人気下落の原因となった後期高齢者医療制度(私もよく知らなかったが、小泉政権のときに決めた制度らしい。)の問題にしろ、年金記録の問題にしろ、別に福田さんのせいではなく、たまたま、発覚したのが、彼の政権中というのが、不運なのである。福田さんにしてみると、「別に私がしたことでもないのに、なんで私の政権中に問題が次から次へと出てくるのか?」という感じで、嫌気がさしたのであろう。元々、福田さんは、首相になって何がしたいということがあるわけでもなく、ただ親子二代首相になるという、ぼんやりとした夢をもっていたようなので、「夢がかなって、よかったですね」、という感じだ。
エネルギー的に見ると、小泉政権の時代は、自民党は非常に求心的(陰性的)、つまり、小泉さんのカリスマ性と人気と強い信念で、自民党の実力以上にエネルギーを集めて、その結果が前回の衆院選の圧勝である。そして、その小泉政権が終わったあとは、自民党の実力以上に集められたエネルギーは出て行こうとする(遠心的・陽性的になる)ので、当然、組織はしだいに求心力がなくなり、誰がトップになってもしまりがなくなり、以前は表に出なかったミスや不都合・混乱が外に出やすくなる。(カリスマ的人物が去ったあとの混乱は、政治組織だけでなく、国家、企業、宗教組織、家庭、また現代だけでなく、過去の歴史においても、よく見られる現象である)
今もし、このままの状態で、選挙をやれば、二代続けて、政権を放り出したということで、自民党には圧倒的マイナスのイメージがあり、不利である。しかし、そこは、試合巧者の自民党、大々的に総裁選という大花火を打ち上げて、そのマイナスのイメージを完全に払拭する作戦に出た。
この手法は、小泉さんが首相になる前頃から、自民党が使い出した方法で、マスコミを利用して、国民の関心を一気に自分たちに引きつける頭のいい方法である。小池元防衛大臣も出して、女性で初めての総裁候補ということで話題を作るあたりが、企画がうまい。(今回の総裁選の企画を立てているのは、小泉さんか……)
さらに、自民党総裁選というのは、党内にある対立エネルギーを身内のゲームで解消できて、選挙のときには、一丸となって挙党体制で、のぞむことができるという効果もある。対照的に、民主党代表選に出たい人たちがいたにもかかわらず、代表戦を封印した民主党は、党内に対立エネルギーのくすぶりを残している。
ということで、さあ、どうなるか、秋の政治=お祭り――自民党の戦術が勝つのか、民主党小沢さんの執念が勝つのか――どっちが勝っても、私の生活にはまったく関係ないけど、政治家の皆さんには健康に留意して、「政」(まつりごと)に頑張っていただきたいものだ。
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