「自己責任論」とは、自分を責めることではない2024年03月17日 08時29分14秒

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前回、いま流行りらしい「公正世界仮説」を紹介した。「公正世界仮説」をめぐる議論とは、別の言い方をすれば、人の人生の問題は、個人のせいなのか、社会のせいなのかという議論でもある。そして、一般的には、「公正世界仮説」を信じる人たちは、問題の原因を個人に帰し、「公正世界仮説」に反論する人たちは、問題の原因を社会に帰す傾向がある。

しかし、問題の原因は個人か社会かという単純な話ではないだろうし、私たちの人生に起こる問題の原因はそれこそ無数にあり、特定の一つに絞れるものではないと私は思う(そもそも、非二元系の教えでは、個人も社会も幻想なので、非二元の教えの観点から言えば、こういった議論そのものが無意味で、「起こることはすべては神の意志。」(笑)。でも、そんなことを言ってしまえば、身も蓋もなくなるので、今回は、いちおう個人も社会もあるという前提で話を進める)。

前回も書いたが、最近のネットには、「自己責任論(つまり、「公正世界仮説」的考え方)で、自分が責められているような気がして辛い」という記事をよく見かける。そして、いわゆるリベラル派の知識人も、「問題を個人に帰してはいけない。それは社会や政治の側の問題である」と、社会にはびこる自己責任論を批判する。

私自身も、自分が背負っている(背負わされている)重荷に最初に気づいたとき、非常に怒ったものだ。20代の前半、私はものすごく怒っていた。親に対して、自分が受けた教育に対して、常識的な生き方を押し付ける世間の大人たちに対して。そして、何よりも無知無能な自分に対して。怒りを発散すると、何か自分の中からパワーが出て来るような感じがして、一時的には心が軽くなる。しかし、怒りと様々な葛藤が長く続くと、心身が極度に消耗し、また気分が落ち込むという状態になり、気分の高低差が激しかった。

それから、スピリチュアルに入門し、最初の頃はセラピー的ワークを多く体験した。そのおかげで、自分の過去のトラウマを理解し、それをかなり手放すことができ、重荷が自然にかなり落ちた感じだった。そのとき、前回も書いたように、自分の人生の問題を誰かのせいにすると、そのほうがみじめだとわかり、他人や社会を責めなくなったら、人生の歯車がよい方向に回転し始め、私はスピリチュアルな道が自分にとって間違いのない道であることを確信した

この時期、私がバイブルのように読んだ本が、『なまけ者のさとり方』(タデウス・ゴラス 地湧社)という本で、スピリチュアル的「公正世界仮説」と自己責任論の権化のような本だ。

その文章を一部紹介すると(『なまけ者のさとり方』については以前のブログでも何度か紹介したが):

「他の人が何をしようと、あなたに起こることは、あなたの責任です。外部のいかなる事柄も、あなたの感情や体験を左右することは絶対にありません。あなたの人生の体験は、あなたのバイブレーションに百パーセント支配されているのです。バイブレーションが送ってくる情報と、その情報に対する反応の仕方によってあなたの人生は決まります」(80p)

「しかし、あなたが自分のバイブレーションを高めさえすれば、いつでも問題(精神的にも肉体的にも)を上手に避けられるようになり、世界が文字通り、よい方向へと変わってくるのです。愛は最も強力な魔法なのです。地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう天国に住んでいます」(80p)

「人がやっていることを否定すると、その行為を自分にも否定することになります。私達は自分を律する法律を常に自分が作っているのですから、あなたが発するすべての言葉と言動は、あなたがどんな世界に住むかを決めてゆくのです。あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見を同じくする人達だけに、有効である」(44p)

「あなたはどれくらい許され愛されたいですか。それと同じだけのものを他の人にもあげてください。とことん他の人にあなたの愛をあげてください。他の人のあなたに対するカルマをすべて許してあげなさい。自分の欲しいと思っているのと同じだけの自由と愛と注目を他の人にもあげなさい」(44P)

以上のような言葉を私は非常に納得して読んだものだ。私自身にとっては、スピリチュアル的「自己責任論」とは、自分にパワーを取り戻す考え方であり、それをほとんど辛いと感じたこともなかった。たぶん、『なまけ者のさとり方』の文章がとても温かい雰囲気だったせいもある。

それから、また長い探求の最後に、ダグラス・ハーディングやラメッシ・バルセカールなどの非二元系の教えに出会ってからは、「自己責任」さえも放棄し、今は、「神責任」(笑)に落ち着いている。

ここで、「責任」という言葉に関して私が思うことは、多くの人は「責任」に「批判」というニュアンスも入れるせいで、自分や人を苦しめる、ということだ。本当は、「責任」追求とは、批判するターゲットを探すというより、原因を究明する科学的態度をもって、自分の内面、自分が生まれ落ちた環境、社会制度を冷静に調査するということである。

そして、先ほど紹介したような『なまけ者のさとり方』のような見方も、たとえ気にいったとしても、鵜呑みにするべきではなく、自分の中で何度も検証すべきことである。検証できたら、古い考え方はしだいに抜け落ち、新しい見方が心身に馴染んでいくものである。

私たちがもっている様々な考え方(観念)は、本当は洋服のようなもので、いつでも取り換えることが可能だ。だから、私たちはいつも自分自身を調べて、問いかける必要がある。私がいだいている(着ている)様々な考え方(観念)は、私を平和と幸福へと導いているだろうか? 私はどこから誰からそういった考え方を受け取ったのだろうかと。そういった問いかけが、自分にへばりついているネガティブな観念からの束縛を少しずつ緩め、幸運なら、ある時期に自分の側の努力もなく、抜け落ちるという経験が起こることがある。

もし自分自身の過去のトラウマを自分自身で解きほぐすのが難しいと感じる場合は、必要ならカウンセリングやセラピー、自助グループの助けを借りることもお勧めする。自分が心を開けば、世の中には助けの手を指しのべてくれる人や団体はたくさんあるものだ。

本日は、昔、私が熱心に愛読し、非常に心が軽くなった本、『なまけ者のさとり方』の文章を紹介した。辛いときに読むと、よく効く本なので、もし現在、辛い気持ちや状況で苦しんでいる人がいれば、お勧めします。


昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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