方向が逆2024年09月07日 07時55分23秒

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年9月19日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2024年9月29日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――非二元的認識から生まれる豊かさについて

2024年9月22日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2024年10月3日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで



[お知らせ]
Master Key to Self-Realization についての紹介は、発売時期が決まりましたら、残りを書きます。


先日、ネットで見た小さい記事が私の関心を引いた。それは東ティモールという小さい国の話で、その国へこのたび、フランシスコローマ教皇が訪問するという。

東ティモールは小さい国で、それほど経済的に豊かではない。それにもかかわらず、莫大な予算を組んでローマ教皇来訪の準備をし、ミサの場所を作るために国有地に住んでいた貧しい人たちの家を強制的に壊し、退去させたという。

さて、私は思ったものだ。貧しい人たちの家を強制的に壊して退去させることは、キリストの精神に合っているのだろうか?と。もちろん、ローマ教皇はこのことをご存じないだろうから、彼の責任ではないが、貧しい人間たちを泣かせて、ローマ教皇の来訪に備えるって、なんかキリストの精神とは方向が逆な感じ……でも、カトリック教徒が90%以上をしめる国民からもたいした反対はなかったようだ。

私が子供の頃の話である。家族の中で唯一、祖母だけが宗教的行為に熱心だった。戦前から生き残った高さ2メートルに届きそうな仏壇に、お花と、家族がめったに口にできない高級なお菓子をあげ、熱心に毎日その前で読経していた。家にお金がない時代だったにもかかわらず、祖母は宗教行事にはお金をつぎ込んだ。それほど熱心に宗教行事にお金をつぎ込み、熱心に日々読経しているにもかかわらず、祖母は幸せな人ではなかった。そして、彼女の不幸は家族に暗い影を投げかけた。

祖母を見て、私は子供心に思ったものだ。木の箱(仏壇)にいるとされている死んだ人間にお菓子をあげて祈るより、生きている子供においしいお菓子をくれ!(笑)。そして、宗教行事はお金がかかるわりには、人間の幸福にも心の平和にも役に立たないものだとも思った。祖母は幸福や平和をまったく反対の方向に求めていたのだ。

だから、私は子供の頃から仏壇や墓に参るメリットを感じたこともなければ、宗教行事に特別な敬意ももったこともない。が、それでも、父が亡くなってからは、1年に数回だけは宗教行事(というよりは季節の文化行事)をおこなっている。8月は墓参りに行き、お寺さんにご挨拶もしてきた

そして、家に帰ってきてから、母と一緒に母の好きな歌、『千の風になって』を歌った。

私のお墓の前で泣かないでください♪♪♪
そこに私はいません♪♪♪
眠ってなんかいません♪♪♪

まさに、肉体が生きているときも、肉体の死後も、「私」が、あんな小さい石の箱(お墓)の中にいるはずがない! 方向が逆!




[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト























私が伝えたいこと2024年07月17日 07時09分30秒

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年7月25日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――非二元的認識から生まれる豊かさについて

2024年7月21日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」
*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



Master Key to Self-Realization についての紹介は、発売時期が決まりましたら、残りを書きます。

皆様、梅雨&暑中お見舞い申し上げます。

私がスピリチュアル関係の仕事を始めて35年くらいがたつ。この間、色々な本の出版に関わり、自分の本も出版し、スピリチュアルの色々な分野を見聞し、その一部に関わってきた。

出版関係の仕事、そして自分の活動を通じて、私が皆様に伝えたいことは、今も昔もそんなに変わっていない。私がこのブログで色々なことを書くので(スピリチュアルなことだけ書いていると、私のマインドは退屈する)、一体シンプル堂さんは本当は何を書きたいのか?と思っている方がいるかもしれないので、本日は、私が皆様に伝えたいことをまとめてみたい。

私が皆様に伝えたいことの核心は、非常にシンプルで、一言で書けば、「自分の本質に目覚めて、平和に楽しく生きること」である。もちろん、世の中には、自分の本質に目覚めていなくても、楽しく生きている人たちはたくさんいる。しかし、自分の本質に目覚めることは、人間という種に生まれたものにとっての最高の贅沢である、と私は確信している。

「自分の本質に目覚める」はスピリチュアルなことであるが、それに加えてさらに、人間的次元では:

*(なるべく)自分の好きなこと(自分に向いていること)をする。
*(なるべく)自分の生まれつきの能力(才能)を生かす。

以上の2つをさらに皆様にお伝えしたいとおもってきた。だから、以上の3つに役立つための(本などの)情報、私自身の45年のスピリチュアルな探求の経験から学んだこと、考えたことをこのブログで書いてきた(つもりである)。私が今まで出版に関わった本、このブログで書いてきたことが、誰かのお役に立ったとしたら、うれしいことだし、人間的意味での私の喜びもそこにある。


今、朝の6時。目を閉じると、思考が止まり、静寂が広がり、その中で、鳥の鳴き声が聞こえ、扇風機の風を感じる………

おっと、ブログがまだ途中でした。思考再開。

最近は、「老い」の苦を痛切に感じる日々である。若い頃、「老い」がこんなに苦だとは想像することができなかった――親の老い、自分の肉体の老い、そして、日本という国、システムの老い。

でも、精神は保守化(老化)しないように、注意しなくてはと思う。いつも心がけることは、今ここで、楽しむことができることを楽しむ。そして、少しだけ新しいことに挑戦する。ここ数年、試みた新しいこと――YouTubeでの動画作り、Zoom。そして、去年と今年は、簡単にできるお菓子作りにはまっている。私自身は体質的に糖分をたくさん食べないほうがいいので、自分はちょっとしか食べないが、家族のために作っている。料理はスピリチュアルな探求や仕事と違って、結果が出るのが早くて楽しい。

最近一番ヒットしたお菓子――「豆腐ガトーショコラ」――絹ごし豆腐、卵、砂糖、ココアをただ混ぜて、電子レンジで約3分、トータルで10分くらいで完成→粗熱をとって、冷やして食べる(レシピはネットに多数出ています)。

それでは皆様、楽しい夏をお過ごしください。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト







Master Key to Self-Realization (3)2024年07月01日 06時48分21秒

ケロケロ様
[Master Key to Self-Realizationの発売予定は、現時点ではまだ未定です。たぶん、今年中には発行されると思いますが……]

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年7月14日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2024年7月25日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――非二元的認識から生まれる豊かさについて

2024年7月18日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
2024年7月21日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」
*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)は、非常に短い本(原書で、約100ページ)なので、私がこのブログであまり内容を紹介しすぎると、皆さんに購入していただく意味がなくなる(笑)ので、各ボディについての詳細に興味がある方は、ぜひ購入していただければと思う。

私が本書の中に書かれている内容で、「ああ、そういうことか」と初めて知ったことは、インドの悪名高きカースト制度の起源である。本書の中のある章に、「一人の人間の中で、カーストを経験する」という項目がある。実は、インドのカースト制度の起源とは、現在のように、肉体がどこの家庭や家柄に生まれたかという外側の問題ではなく、一人の人間の中のそれぞれのボディにつけられた別称なのである。

カーストには、基本的にバラモン(司祭)、クシャトリヤ(戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(労働者)があるが、それをそれぞれのボディに当てはめれば:

グレート‐コーザル・ボディはバラモン(司祭)・カースト、
コーザル・ボディはクシャトリヤ(戦士)カースト、
サトル・ボディはヴァイシャ(商人)カーストであり、
グロス・ボディはシュードラ(労働者)カースト、

ということになる。

だから、人がグロス・ボディ(肉体)と自分を一体化していれば、その人の意識状態は、シュードラ(労働者)カーストに属し、サトル・ボディと一体化していれば、ヴァイシャ(商人)カーストに属し、コーザル・ボディと一体化していれば、クシャトリヤ(戦士)カーストに属し、グレート‐コーザル・ボディと一体化していれば、バラモン(司祭)・カーストに属している、ということになる。

このように、インドの古代ヴェーダの本来の教えによれば、カーストは、肉体の生まれや家柄とは無関係、つまり、今、流行の言葉で言えば、家柄ガチャとは無関係なのに、それを外側の固定的階級制度にしてしまったところに、現在まで続くインドという国の不幸がある――インドには、さらにカースト外の不可触民、「ダリッド」と呼ばれている人たちがいる。

本当であれば、人を解放するはずの宗教的教えが、人々を束縛し、不幸にするのは、何もヒンドゥー教に限らないが、人間マインドが、どれほど階級制度が好きなのか、いつも驚くばかりである。

たぶん、人間精神の奥深くに、誰の中にも、「上(の階級)へ行きたい」という超越へのあこがれ、野心(願望)のようなものがあるのだろうと、私には感じられる。そして、その野心(願望)が間違って、外側に向けられると、それは宗教ではなく、「政治」、他者とのかぎりない階級競争となり、その結末は、不幸、みじめさ、憎しみ、恨み、つらみである。

しかし、そのあこがれ、野心が正しい方向、つまり、内側に向けられ、内なる階級が理解できれば、本書が説明するように、それは究極的には人を解放する教えとなる。

真正なスピリチュアルは、どんな家柄、生まれ、人種であれ、すべての人にカースト(ボディ)からの解放の可能性を約束している。本書の中では、グレート‐コーザル・ボディ=バラモン(司祭)・カーストさえ、最後に超越すべきものとして語られている。

ボディの階級を上り、最後にはそれさえ捨てる。それがアドバイタの教えが語る最高の野心であり、ニサルガダッタ・マハラジはその野心を次のように語っている。

「あらゆる人が死ななければならない。だったら、自分の本質として死になさい。なぜ肉体として死ぬのか? 自分の本質を決して忘れないようにしなさい。そのことは多くの人たちには受け入れられないかもしれないが、それが事実だ。もしあなたが野心をもたなければならないとしたら、最高の野心をもちなさい。そうすれば、少なくとも死ぬ最中に、あなたは絶対になることだろう」『意識に先立って』p195(ナチュラルスピリット発行)


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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Master Key to Self-Realization (2)2024年06月15日 08時17分04秒

[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」



*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)は、ちょっとミステリーふうな仕立てになっている。つまり、謎めいた「私」を探すために、人間を構成する様々な体(ボディ)を、粗雑な体(グロス・ボディ)から、精妙な体(グレート・コーザルボディ)へと、順を追って調査しながら、究極のパラブラフマン(絶対)に至る道筋を明らかにする。

もし本書の方法が成功するなら、最後に探求者に、「絶対」である「私」が明らかになることになっている。

本書で語られているボディの種類は下記の4種類であり、第一の体から、順番に第四の体まで詳細な説明がなされている。

第一の体――グロス・ボディ
第二の体――サトル・ボディ
第三の体――コーザル・ボディ
第四の体――グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)


ここで注意すべきことは、もし読者の皆さんが今まで、他の教え、他の本で、こうした目に見えない体(ボディ)に関する秘教的知識を読んだことがあるなら、本書での説明・分類は、他の教え、本とはかなり異なるかもしれない。

たとえば、私が昔読んだ本では、本書でいう第二の体――サトル・ボディをさらに、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)に分けてあるものが多く、私の中にもいまだ、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)という観念が根強く残っている。

思い出すに(かなり昔に読んだ本なので記憶があいまいであるが)、ヒーリング関係の本が多かったと思う。しかし、本書はヒーリングの本ではなく、あくまでも、私とは何か? 私の本質とは何か?を探求することが目的の本であり、本書での体(ボディ)の説明もその目的にそっている。

私が本書を読んで、一つ不思議に思ったことは、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの主要な弟子であるニサルガダッタ・マハラジの講話には、私が読んだかぎり、こういった目に見えない体(ボディ)への言及がほとんどないことだ。

『アイアムザット私は在る』(ナチュラルスピリット発行)には多少言及があるが、最晩年の『意識に先立って』(ナチュラルスピリット発行)にはまったく言及がない。では、ニサルガダッタ・マハラジの弟子である、ラメッシ・バルセカールはどうかと言えば、初期の頃の著作に目に見えない体(ボディ)を詳細に説明した章があるが、私が読んだかぎりでは、それ以外の講話、本の中で、ラメッシも体(ボディ)の話をしていない。

それはどうしてなのだろうか?

その答えはたぶん、『意識に先立って』から読み取れば、マハラジの帰依者たちは、そういった目に見えない体(ボディ)のことはすでに宿題として学び終えているべきことなので、最晩年の講話の中ではあえて、説明しない(説明している時間がない)というのが、マハラジの考えだったようだ。

だから、『意識に先立って』、そしてラメッシがマハラジの教えを解説した本、『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』(ナチュラルスピリット発行)では、第二の体、サトルボディと第三の体、コーザル・ボディの話はまったく出てこなくて、第四の体―グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)(IAM)から、絶対へ至る話のみをほとんど語っている。

マハラジは、第一の体(グロスボディ=肉体)と第四の体―グレート‐コーザル・ボディが理解できれば、その中間の体に関する知識は自ずと湧きあがるだろうと考えていたのかもしれない。

まあ、ニサルガダッタ・マハラジがどう考えていたにせよ、本書の中では、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、すべての体(ボディ)を時間をかけて調査し、完全に理解することが重要だと強調している。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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Master Key to Self-Realization (1)2024年05月28日 09時20分00秒

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*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が

発行されました。詳細はこちらはへ。



今回より、今年出版が予定されている本、Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)を紹介したい。

本書は、ニサルガダッタ・マハラジの師、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジ(Shri Siddharameshwar Maharaj  1888–1936)の講話を弟子たちがまとめた本で、最初はマラーティー語で出版され、そのあと英語版が出版された。

本書によれば、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、インドのインチャギリ・サンプラダヤ派の二代目のグルで、さらにこの教えはインドのマハラシュトラ州(中心都市ムンバイ)に伝統的に伝わる教えの系譜に所属している。本書の中では、マハラシュトラ州で活躍した過去の聖者、特にシュリ―・サマールタ・ラムダスとトゥカラムがたびたび話題にされている。

そういった過去の聖者への敬意と崇敬には満ちているものの、本書は決して堅苦しい本ではない。シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが非常にユーモアと科学的態度をもった人であることがうかがえる本だ。私は本書によって初めて、シッダラメシュヴァール・マハラジについて詳しく知ったが、彼のユーモアと科学的態度、そして、原書表紙に掲載されている彼の写真に写し出されている少年のようなほほ笑みに好感をもった。

本書の序文によれば、師の死後、シッダラメシュヴァール・マハラジは他の弟子たちと一緒に、師の教えを広める旅に出た。その旅の途中、師の教えを伝えることに関して、彼に一つの疑問が湧き起こり、それを仲間の弟子たちに伝えたところ、仲間からは強い反発を受け、彼も自分の考えをその場では撤回した。

その彼の疑問とは、師の教えを伝えるために、瞑想以外の方法はないのだろうか? 瞑想は非常に多くの努力と時間を要する。自分の本質に目覚めるという目的に到達する、もっと早い道はないのだろうか? というものだった。彼は以上の疑問を他の仲間の手前、撤回はしたものの、旅の途中で仲間たちと別れ、自宅に戻り、また一人で瞑想を続け、最終的な覚醒に至った。

それ以後、彼は瞑想に加えて、「鳥の方法」、つまり、自分自身を論理的に調査・考察する方法を弟子たちに教え始めた。「鳥の道」と呼ばれるのは、それは時間がかからない方法であるからで、それに対して、従来の瞑想を中心とする方法は、「蟻の方法」と呼ばれている。

本書は、シッダラメシュヴァール・マハラジが「鳥の方法」と呼んでいる、自分自身を論理的に調査・考察する方法の詳細を語った本である。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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賢者たちの考え方と表現の違い2024年05月01日 09時44分54秒

[イベント】
◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで

場所:東京都新宿


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年5月19日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が

発行されました。詳細はこちらはへ。



先日、ニサルガダッタ・マハラジなどのインド系の賢者と、トニー・パーソンズの教えの違いについてのご質問をいただいた。

私の理解によれば、それが真正の非二元系(ノンデュアル、アドヴァイタ)の教えであれば、古代のイエス・キリスト、仏陀から、現在の様々な賢者たちにいたるまで、本質的には、皆さん同じ真理を教えているはずである――「すべては一つであり、本質的には分離がない」

しかし、たとえば、愛を強調する新約聖書と空(くう)を強調する般若心経を読んで、両方が同じことを言っていると理解するのは、けっこう大変なことだと思う。あまりに言葉の表現が違うからだ。

そして、その言葉の表現が違い、それを様々な人たちが解釈するゆえに、時代を経るにつれて、いわゆるそれぞれの宗教はお互いに相い入れないまったく別の物となり、平和を説く宗教が皮肉にも、いつの時代でも戦争の種となっている。

私たちが現代の非二元系の賢者たちの言葉を読むときも、表面的な表現の違いではなく、彼らが共通して伝えようとしていることの本質を理解する必要がある。そして、彼らが説いている真理の本質は同じであっても、では、その真理をどうやって理解するのか(認識するのか)に関する方法論については、かなり異なっている。真理に至る方法論をすべて否定する賢者から、瞑想、グルへの帰依を強調する賢者から、またハーディングのようにグル‐弟子関係を無価値なものとして否定して、一人で手軽にできる実験を開発した賢者もいる。

彼らの言葉や考え方が多様なのは、彼ら自身の生まれつきの気質、育った環境、文化・時代、そして彼らが話しかけた人々が異なるからである。そして、そういった賢者の言葉を聴いたり、読んだりする人たちの気質、育った環境・文化も様々である。現在では、世界各国のあらゆる教えを読んだり聴いたりできるという状況にはあるが、最終的には、自分と相性のよい少数の賢者(本や言葉)を選ぶというのが、賢明なことだと思う。

それと少し話が横道にそれるが、有名な賢者の皆さんは、お互いをほとんど認めないことがよくある(笑)。私が若い頃、J.クリシュナムルティとオショー(ラジニーシ)の間の相互批判は、オショーの弟子たちとJ.クリシュナムルティの信仰者を巻き込んで、けっこうな騒動であったし、J.クリシュナムルティともう一人の有名な賢者、U.G. クリシュナムルティの間の確執も、インド系スピリチュアル業界では有名な話だった。

ダグラス・ハーディングにも、J.クリシュナムルティの教えを批判的に書いたエッセイがあり、また彼が、U.G. クリシュナムルティやラメッシ・バルセカールの教えに関して否定的なコメントをしているのを、私は読んだことがある。

つまり、有名な賢者の皆さんも、物事への好き嫌いがけっこうあったり、教えに関して頑固だったり、文化的時代的偏見だってもっている。私が非二元系の賢者の本を読むときは、彼らの個人的好き嫌い、時代的文化的偏見は、重要じゃないものとして、基本的に無視(笑)して読んでいる。

最後に、読者の皆さんには、非二元系の翻訳本をたくさん買っていただいて、改めてお礼を申し上げます。もしたくさん読みすぎて混乱している方がいれば、先ほども書いたように、相性のよいものを少数選んで、繰り返し読むことをお勧めします(その他の本は古本に出してもいいし、本棚に余裕があれば、いつか読むためにとっておいてもいいかもしれない)。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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「自己責任論」とは、自分を責めることではない2024年03月17日 08時29分14秒

[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

(1)スピリチュアルとお金
()ラメッシ・バルセカールの教え①
 
()ラメッシ・バルセカールの教え② 

(4)ラメッシ・バルセカールの教え③

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



前回、いま流行りらしい「公正世界仮説」を紹介した。「公正世界仮説」をめぐる議論とは、別の言い方をすれば、人の人生の問題は、個人のせいなのか、社会のせいなのかという議論でもある。そして、一般的には、「公正世界仮説」を信じる人たちは、問題の原因を個人に帰し、「公正世界仮説」に反論する人たちは、問題の原因を社会に帰す傾向がある。

しかし、問題の原因は個人か社会かという単純な話ではないだろうし、私たちの人生に起こる問題の原因はそれこそ無数にあり、特定の一つに絞れるものではないと私は思う(そもそも、非二元系の教えでは、個人も社会も幻想なので、非二元の教えの観点から言えば、こういった議論そのものが無意味で、「起こることはすべては神の意志。」(笑)。でも、そんなことを言ってしまえば、身も蓋もなくなるので、今回は、いちおう個人も社会もあるという前提で話を進める)。

前回も書いたが、最近のネットには、「自己責任論(つまり、「公正世界仮説」的考え方)で、自分が責められているような気がして辛い」という記事をよく見かける。そして、いわゆるリベラル派の知識人も、「問題を個人に帰してはいけない。それは社会や政治の側の問題である」と、社会にはびこる自己責任論を批判する。

私自身も、自分が背負っている(背負わされている)重荷に最初に気づいたとき、非常に怒ったものだ。20代の前半、私はものすごく怒っていた。親に対して、自分が受けた教育に対して、常識的な生き方を押し付ける世間の大人たちに対して。そして、何よりも無知無能な自分に対して。怒りを発散すると、何か自分の中からパワーが出て来るような感じがして、一時的には心が軽くなる。しかし、怒りと様々な葛藤が長く続くと、心身が極度に消耗し、また気分が落ち込むという状態になり、気分の高低差が激しかった。

それから、スピリチュアルに入門し、最初の頃はセラピー的ワークを多く体験した。そのおかげで、自分の過去のトラウマを理解し、それをかなり手放すことができ、重荷が自然にかなり落ちた感じだった。そのとき、前回も書いたように、自分の人生の問題を誰かのせいにすると、そのほうがみじめだとわかり、他人や社会を責めなくなったら、人生の歯車がよい方向に回転し始め、私はスピリチュアルな道が自分にとって間違いのない道であることを確信した

この時期、私がバイブルのように読んだ本が、『なまけ者のさとり方』(タデウス・ゴラス 地湧社)という本で、スピリチュアル的「公正世界仮説」と自己責任論の権化のような本だ。

その文章を一部紹介すると(『なまけ者のさとり方』については以前のブログでも何度か紹介したが):

「他の人が何をしようと、あなたに起こることは、あなたの責任です。外部のいかなる事柄も、あなたの感情や体験を左右することは絶対にありません。あなたの人生の体験は、あなたのバイブレーションに百パーセント支配されているのです。バイブレーションが送ってくる情報と、その情報に対する反応の仕方によってあなたの人生は決まります」(80p)

「しかし、あなたが自分のバイブレーションを高めさえすれば、いつでも問題(精神的にも肉体的にも)を上手に避けられるようになり、世界が文字通り、よい方向へと変わってくるのです。愛は最も強力な魔法なのです。地獄でさえも愛することができるようになれば、あなたはもう天国に住んでいます」(80p)

「人がやっていることを否定すると、その行為を自分にも否定することになります。私達は自分を律する法律を常に自分が作っているのですから、あなたが発するすべての言葉と言動は、あなたがどんな世界に住むかを決めてゆくのです。あなたが口に出したことは、あなたとあなたと意見を同じくする人達だけに、有効である」(44p)

「あなたはどれくらい許され愛されたいですか。それと同じだけのものを他の人にもあげてください。とことん他の人にあなたの愛をあげてください。他の人のあなたに対するカルマをすべて許してあげなさい。自分の欲しいと思っているのと同じだけの自由と愛と注目を他の人にもあげなさい」(44P)

以上のような言葉を私は非常に納得して読んだものだ。私自身にとっては、スピリチュアル的「自己責任論」とは、自分にパワーを取り戻す考え方であり、それをほとんど辛いと感じたこともなかった。たぶん、『なまけ者のさとり方』の文章がとても温かい雰囲気だったせいもある。

それから、また長い探求の最後に、ダグラス・ハーディングやラメッシ・バルセカールなどの非二元系の教えに出会ってからは、「自己責任」さえも放棄し、今は、「神責任」(笑)に落ち着いている。

ここで、「責任」という言葉に関して私が思うことは、多くの人は「責任」に「批判」というニュアンスも入れるせいで、自分や人を苦しめる、ということだ。本当は、「責任」追求とは、批判するターゲットを探すというより、原因を究明する科学的態度をもって、自分の内面、自分が生まれ落ちた環境、社会制度を冷静に調査するということである。

そして、先ほど紹介したような『なまけ者のさとり方』のような見方も、たとえ気にいったとしても、鵜呑みにするべきではなく、自分の中で何度も検証すべきことである。検証できたら、古い考え方はしだいに抜け落ち、新しい見方が心身に馴染んでいくものである。

私たちがもっている様々な考え方(観念)は、本当は洋服のようなもので、いつでも取り換えることが可能だ。だから、私たちはいつも自分自身を調べて、問いかける必要がある。私がいだいている(着ている)様々な考え方(観念)は、私を平和と幸福へと導いているだろうか? 私はどこから誰からそういった考え方を受け取ったのだろうかと。そういった問いかけが、自分にへばりついているネガティブな観念からの束縛を少しずつ緩め、幸運なら、ある時期に自分の側の努力もなく、抜け落ちるという経験が起こることがある。

もし自分自身の過去のトラウマを自分自身で解きほぐすのが難しいと感じる場合は、必要ならカウンセリングやセラピー、自助グループの助けを借りることもお勧めする。自分が心を開けば、世の中には助けの手を指しのべてくれる人や団体はたくさんあるものだ。

本日は、昔、私が熱心に愛読し、非常に心が軽くなった本、『なまけ者のさとり方』の文章を紹介した。辛いときに読むと、よく効く本なので、もし現在、辛い気持ちや状況で苦しんでいる人がいれば、お勧めします。


昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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生への未練2024年02月02日 07時35分01秒

[イベント】

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年2月18日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2024年2月29日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで



◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


[お知らせ]

遅くなりましたが、今年のブログを開始します。お時間があるときに、気楽にお付き合いください。


元旦の午後、母の家で家族全員でくつろいでいたとき、全員のスマホからいっせいに大音響の地震アラートが鳴り響き、その1、2秒後、ものすごい大揺れが家を襲った。すぐに家中の暖房を消したあと、そのあとどうすればいいか、パニックで行動が思い浮かばす、全員で固まっていたら、ほどなく揺れが止まり、テレビをつけると、テレビからは、「津波です。すぐ逃げてください」とアナウンサーの絶叫の声が聞こえてきた。震源地から遠く離れていて、海からも離れているので、津波の心配はなく、家も比較的新しいので、倒壊はないだろうと思ってはいたものの、それでも震度6弱の強烈な揺れは一瞬、家の倒壊の恐怖を呼び起こした。

「大地震が来る」と専門家はいつも警告し、日本ではどこでも地震は起こる可能性はあるので、地震が起こっても驚くことではないはずなのに、それでも個々の人間にとっては、地震はいつも突然来るものだ。大地震のときに湧く一瞬の恐怖心は、(私の場合)人生で経験する最大の恐怖心の一つで、ハートに突き刺さるようなイヤな感じである。地震の揺れが収まっても、そのイヤな感じがしばらく続くのもイヤなことである。そして、自分のところは被害がなくてホットしたあと、被災地の惨状を見ると、さらに胸が痛む。

その元旦の夜にそのイヤな感じについて考えてみた――考えても仕方のないことだけど、愚考が湧くのを止めることもできず、しばらくマインドのおしゃべりに付き合っていた。

たぶんそれは、諸々の恐怖心なのだろう。肉体が傷つくことへの恐怖、生が突然に終わることへの恐怖など、肉体の生への未練なのだろうと思い至った。自分の本質は不死であることは確信しているし、肉体年齢が70歳を超え、生きることに特別に強い未練があるわけでもないと思いながら、しかし実際は、まだ頑張って生きている(笑)母を残して死ぬわけにもいかないとか、やりかけの仕事があるとか、色々なことが片付いていないとか、人間としては未練が残っているような感じである。では、時計の針を進めて、今から10年後に突然に肉体の死を迎えそうになるときだって、もしそのとき、体が元気なら、何かをやっているはずで、やはり未練が残るにちがいない。

生への未練について考えていたら、日本の偉大な禅僧、一休(室町時代の禅師)が臨終のときに言ったとされる言葉、「死にたくない」を思い出した。それから、ダグラス・ハーディングの晩年のワークショップ(彼が車椅子生活になってからのワークショップ)のあとで、みんなでお茶を飲んでいるとき、ダグラスがぼそっと、「死ぬのはイヤなことだ」みたいなことを言って、その場にいた人たちが「ええ?!」と驚いたことがあった。彼ほどの人が口にする言葉とも思えなかったからだ。その中の誰かが彼の言葉の真意を尋ねたが、彼がどう答えたかは残念ながら記憶にない。

こんなふうに、地震のあと、ひとしきり生への未練について考えをめぐらし、最後に、ラメッシ・バルセカールの言葉、「人はどんなふうにいつ死ぬか、初めから決まっている」、つまり、「人の寿命や死に方は人知でコントロールできない」ということを改めて思い出して、なぜかほっとした。

そう、寿命は決まっているのだ。未練があろうがなかろうが、死に際にどんな思考が湧こうが、人の死によって、まわりがどれほど悲しもうが、(残務の後始末をさせられて)迷惑しようが、地震だろうが、何だろうが、病気になろうが、寿命なら死ぬ。そうでなければ、生きる。

私にとっての地震対策は、この単純な事実を受け入れて、一方で矛盾するようだが、日々、中心にいる(本質を見る)練習をすることだ。ダグラス・ハーディングがワークショップで日本に滞在していたとき、たまたま地震があり、そのとき彼は、「地震のときは、自分の中心にいなさい」とそうアドバイスしてくれた。今だに地震の大揺れのときに、情けなくも、中心にいることができない感じになるが、それでも日々練習する――寿命の終わりまで、日々平和に生きることができるように、そして、最後の瞬間に平和に死ぬためにも。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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仏陀の教え――「般若心経」(2)2023年12月23日 10時41分54秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。(1)から(17)


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



「般若心経」は、大乗仏教の教えの精髄をまとめたものとされ、仏陀の死後、数百年後に起こった大乗仏教運動の中で、出来上がったもの(作者未詳)らしい。

大乗仏教と小乗仏教の違いを、ものすごく簡易に言えば、小乗仏教は「修行者が自分だけの悟りを求める」仏教であり、大乗仏教は、仏教を一般庶民にも開放して広め、すべての人の救済を目指す仏教、みたいなことになるらしい(自分一人しか乗れない「小さい乗り物=小乗」と、大勢が乗れる「大きな乗り物=大乗」と考えるとわかりやすいかもしれない)。

それでは前回に引き続いて、私が「般若心経」とどう格闘したかの話を書いてみよう。「物質には実体がない」の文章に躓き、それから次に私が引っかかったのは、「無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽きることもなし」(漢文書き下し文)のところで、私がもっていいる、『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)の訳は、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」となっている。

「迷いもさとりもない」、「老いも死もない」と前半で言っておきながら、後半で、「迷いも悟りも、老いも死も尽きることがない」と真逆のことを言って、お互いに打ち消しあって、まったく何も言っていないことになり、ナンセンスな文章ではないかと、私の常識思考は言い、私は読みながら、いつも怒りすら(笑)覚えたものだ。この当時、「Aは存在しないが、Aは存在する」みたいな理性にはまったくナンセンスな文章を、私のマインドはまったく受け入れることができなかった。

それでも私は、「不」「無」「空」のようなネガティブな漢字ばかりが散りばめられているテキストになぜか愛着を感じ、手放すことができず、一年に最低は1回か2回、儀式のように読んでは、ため息をついていた。

スピリチュアルな探求を始めたあとも、時々は、「般若心経」を読み返し、あるとき、「たぶん、般若心経は、私たちの常識が理解する観点とはまったく異なる観点で、この世界を語っているにちがいない」という思考が思い浮かんだ。この頃にはスピリチュアルな文献に特有なあちこちで矛盾する表現も、なんとか受け入れられるぐらいには、、私の二元的常識的思考はかなり薄くなっていった。

そして、大学の講義で「般若心経」を最初に読んだときから、およそ15年くらいたったときに、ダグラス・ハーディングの著作と実験に出会い、初めて、色即是空、空即是色の一瞥を得たのだ。彼の開発した実験によって、自分の目の前にある色の世界(物質世界)と自分側にある空(本質)の世界がピッタリと一つであることが信じられないほど簡単に見えたのだ。その最初の衝撃は、「ええ!まさか!?」という感じだった。

もちろん、長年の????が解消したあと、また新しいたくさんの????も生じたが(シンプル堂という物体のプログラミングはいつも???が湧くようにできている)、長年の疑問とストレスがとりあえず解消できて、うれしかったものだ。

「般若心経」は確かに、世界を真逆に語っていた。そのことを、簡単に説明すれば、普通、常識思考では、前回も書いたように、「感じられるもの(こと)」が現実である。私が自分の指で、体のどこかをつねる。すると痛みが生じて、それは人間としての自分にはとても「現実」に感じられる。しかし、「般若心経」の観点から言えば、感じられるからこそ、それは「現実ではない=幻想」なのである。なぜなら、感じられるものは、すべて一時的で永遠ではないからである。だから、五感が対象的にとらえるすべてのもの(こと)、そして、感じられる感情や思考も、全部、「現実ではない=幻想」であり、感じられないもの、五感でとらえることができないもの(空)こそ、「現実」なのだ。

そして、私を悩ませていた、「(さとりもなければ)、迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである」のところも、空(本質)の観点と色(物質)の観点という、二つの真逆な観点から、さとり、迷い、老い、死を語っている。空(本質)から見れば、「さとり、迷い、老い、死」などというものは永遠にまったく存在していない。しかし、色(物質)の世界では、永遠に「さとり、迷い、老い、死」が尽きることがない。「さとり、迷い、老い、死」はあくまでも、色(物質)の世界で、人間が創造した観念にしかすぎないのだ。

最近、「般若心経」を読んでいると、時々一つの風景(イメージ)が思い浮かぶ。それは、こんな風景だ――仏陀と仏陀の高弟たちがみんなで瞑想をしている。そして、瞑想が終わると、その中の一人、観自在菩薩が、自分が、今、深く瞑想に入っていって、気づいたことを話し始める。

「私が深く自分の本質(般若波羅蜜多=知恵の完成)について、瞑想していましたところ、五大元素から構成されているこの世界は、そのどれも究極的には実体がない空っぽであることがわかりました。だから、私たちが感じる苦しみにも、実体がないのです」

そのあとの「シャーリプトラよ」で始まる部分は、別の高弟であるシャーリプトラ(舎利子)に話かける形で、観自在菩薩の言葉を受けて、それをもっと詳しく補足するように、仏陀が言葉を続けている(と私にはそう感じられる)。

その部分で、注目すべき言葉は、無苦集滅道(苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない)という部分で、それは下記の仏教の有名な四諦(したい)の否定である。

苦=人生は苦に満ちている
集=その苦は、迷いによる業が集まって原因となっている。
滅=迷いを断ち尽くした永遠に平和な境地が理想である。
道=その理想に到達するためには、道によることが必要である。

四諦をもっと平たく言えば、「私たちの苦は、私たちの過去からの業により、それらから解放されるために、人は厳しい修行の道を歩くことが必要である」ぐらいであるが、しかし、仏陀はここであっさり自ら四諦を否定し、「皆さん、苦集滅道なんて必要ありませんし、真理を知ることも、悟りを得ることもないのです」と宣言する。

そして、ここからフィナーレに向かって、仏陀の言葉はさらに、パワーアップしてくる。「悟りを得ることなんて、ないわけですから、求道者たちは自分自身の本質(般若波羅蜜多)に(すでに)安住し、だから、不安や恐れがないのです」

そして、最後に、般若波羅蜜多(智慧の完成)がどれほど比類なきほどの素晴らしいものかを称えるために、求道者がいつも覚えておける形で、次のマントラで締めくくられている。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)彼岸に行ったのです。
(皆さんはすでに)完全に彼岸に行ったのです。
ああ、般若波羅蜜多(智慧の完成)は、なんと素晴らしいことか!

『金剛般若心経』の中で、スブーティ長老が仏陀に、「これらのあなたの言葉を、後世になっても、真実だと思う人が誰かいるのでしょうか?」と尋ねる場面がある。それに対して仏陀は、「心配しなくても大丈夫。後世になっても、必ずこれらの言葉が真実だと思う人たちがいるにちがいない」と予言している。

その予言どおり、仏陀亡き後、2千5百年後の今日でも、仏陀の言葉が真実だと思う人たちは少数ながらも存在し、そして今から2千5百年後にもいるはずである。その系譜に参加させてもらう縁を得て、仏陀の勝手弟子として、この上もなくその縁を私はありがたく感じている。合掌


ダグラス・ハーディングが、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット刊)第21章「チャオの夢」というエッセイの中で、一万回「般若心経」を読経した僧が、夢の中で仏陀と語り合うという形で、「般若心経」の世界を格調高く語っている。


[お礼]
今年も貴重な時間を割いて、ブログを読んでくださった皆様、またシンプル堂のYouTubeを視聴してくださった皆様、そして、様々なご支援をしてくださった皆様、ありがとうございました。今年も、平和に、無事一年を終わることができそうで、ほっとしています。それでは皆様、楽しいクリスマス、年末年始をお過ごしください。来年は、1月の終わりか、2月の初め頃から、ブログを再開する予定です。

[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








仏陀の教え――「般若心経」(1)2023年12月11日 14時29分47秒

[イベント】

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



もし歴代の有名なスピリチュアルな先生から一番好きな先生を選ぶとしたら、私は迷わず仏陀を選ぶと思う。

と書くわりには、私は仏教と仏陀の教えを系統的に学んだわけでもなく、私が知っている仏陀の教えは、唯一愛読している『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)とその他わずかに読んだ仏教関係の本、そして、またダグラス・ハーディングの著作から学んだことに限られている。だから、私は深い信仰をもった仏教徒というわけではなく、ただ仏陀の教えに共感する、勝手弟子であり、気ままに自由に彼の教えを理解している。そして、仏陀もそれをゆるしてくれるものと確信している。

仏陀の教え、「すべては空(くう)である」は非常に自分になじむ。「何かがある」ことよりも、「何もない」ほうが私の気質にははるかにしっくりくる。「何かがある」ことは興味深いが、複雑だし、楽しくもあるが、それをめぐる争いも多い。なによりも、何かが「ある」ことの喜びは一時的で長続きしないし、そして、人間のマインド自体が「ある」ことにはすぐ飽きる。

他の所でも書いた話だが、私が睡眠を愛するのは、眠ると、すべてが一時的に「なくなる」からだ。目覚めているとき、あれほど騒いでいたマインドも、マインドによる苦しみも、熟睡したとたんになくなってしまう。まだスピリチュアルにまったく興味のない頃から、私にはこのことが非常に不思議だった。

ちょうどそんなことを考え始めていた頃、私は大学の講義で「般若心経」と出会い、それは後々考えてみると、最初のスピリチュアルな一撃であった。本当は隅のほうで、居眠りでもしていようという授業だったはずが、受講生がほんの5、6人しかいず、全員が前列一列に並ばされ、居眠りするわけにもいかず、私はそれこそ毎回、口をぽかんと開けた状態で、教授の話を聴かされた状態だった。

なぜ、「口ぽかん」の状態かというと、私は「般若心経」の中の言葉、そしてその教授の説明もまったく何も理解できなかったからだ。生涯初めて、そんな難解なテキストに出会い、衝撃を受け、しかも、それが仏教の最高の経典とされ、世界中の仏教僧が毎日、読経していると知り、その人たちはこの内容を理解して読経しているのか、とすごく驚きもした。

ところがまったく理解できなかったことが、逆に私の中の何かを目覚めさせ、私はこの講座が終わったあとも(たぶん昭和50年頃=1975年頃の話)、そのテキストを捨てることなく持ち続け、時々読み返しては、「なぜこんなに熱心に読んでも、理解できないのだろうか?」とパズルを解くように考えたものだった。

特に最初のほうの、「色不異空」ここでまず私は躓いた。私がもっている『般若心経・金剛般若心経』(岩波文庫版)は、この部分を次のように訳してある。「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである」。

同じように、色即是空 空即是色の訳も、前の文章をまとめるように、次のように訳されている。「(このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ、実体がないということは、物質的現象なのである」

この文章を読んで、「物質的現象に実体がないって、どういうこと? だって、物質って、目に見えるし、触れば、硬いし、ちゃんと実体があるじゃないの」と、私の常識的未熟な思考はいつも抗議したものだ。

私たちの常識的思考にとっては、「実体がある」とは五感で感じられることである。現象世界では、それを「現実」と呼んでいる。自分の肉体(だと思っているもの)が、怪我をしたり、病気になったり、誰かに殴られたりしたら、苦痛を感じるし、それが常識思考にとっての現実(実体)である。常識思考にとっては、「感じられること(もの)」それが現実(実体)である。

物質的現象は、「実体がない」とか、「幻想」と言うには、あまりにリアル(現実)ではないか? 私のマインドは、「般若心経」を読むたびにストレスを感じ、頭の中には100個もの????が点灯したものだった。(次回へ続く)


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)