「公正世界仮説」2024年02月25日 09時27分39秒

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◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


[お知らせ]

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。


先日、『逃亡者』(中村文則著 幻冬舎発行)という小説を読んでいたら、「公正世界仮説」という心理学の用語が詳しく説明されていた。少し前に読んだネットの文章の中でも、「公正世界仮説」の話が書かれてあり、「公正世界仮説」という言葉(最近まで私は知らなかった)は、最近の流行の心理学の用語らしいことに気づいた。

ウキベディアの情報によれば、「公正世界仮説」は次のように定義されている。

「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

実は、こういった「公正世界仮説」的考え方は、キリスト教や仏教など伝統的宗教から、最近のスピリチュアル系の教えの中にも暗黙に含まれている。なぜなら、伝統宗教も含めてほとんどのスピリチュアル系の教えは、「カルマ」=「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」ということを教えているからだ。昨年出版されたジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)にも、聖書の中に出てくる「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」の話が山ほど言及されている。

しかし、「公正世界仮説」に反論する人たちも非常に多くいるようで、実はその反論が興味深かったので、本日の話題に取りあげたわけだ。中村さんは『逃亡者』の中で、その反論をこう書いている。

「公正世界仮説は社会の問題を個人の問題に還元する。公正仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減る」。「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」。(以上『逃亡者』より)。だから、中村さんは、「自分は公正世界仮説的ではない小説を書きたい」、という主旨のことも書いている。

それから、ネットには、公正世界仮説的考えを信じている人から説教されたり、批判されたりして、苦痛を感じるという話がたまに出ている。たとえば、こんな感じだ。

「あなたが色々なことをうまくやれないのは、あなたの努力が足りないからだ」とか、「あなたは自分の苦しみを、親とか、子供の頃の環境とか、社会のせいにしている」とか。

私の印象では、「公正世界仮説」的な信念を強くもっている人たちは、「自分の努力のおかげで、あるいは自分のポジティブな考え方・人生観のおかげで、自分は成功した。あるいは、自分はこの世界での快適な立場を獲得することができた」と信じている人たちが多いように感じる。そういう信念をもっている人たちから見ると、多くの人たちは自分で努力もせず、他人ばかりを責めているように見え、よせばいいのに、つい批判したくなるわけだ。

「私にできたことが、なんであなたにできないの? あなただって、親や社会や家族のせいにしないで、自分で頑張れば、人生がもっとうまくいくようになるはず」みたいなことを言い、本人としては、正しいことを言って、相手を励ましているつもりになっているが、言われたほうは、非常に苦痛を感じる。

ここで対照的な二人の人(AとB)を想像してみよう。二人は30代の半ばのほぼ同年代だが、生まれ落ちた環境は真逆だ。Aは経済的に恵まれた家庭に生まれ、親は愛情深く、子供に理解があり、なんでもしたいことをさせてくれたので、Aは子供の頃から好きなことをして、今は自分の才能を生かして、高給を稼いでいる。一方Bは、父親は暴力をふるい、母親は育児放棄をするような家庭に生まれ、児童養護施設で育てられ、そこを出たあとは、真面目にずっと働いている。でも、時々精神の状態が悪くなるので、働けないときもあり、収入も多くはない。

誰が見ても、Aは圧倒的に有利な環境から人生をスタートし、Bは圧倒的に不利な環境から人生をスタートさせている。BにもAと同じく生まれつきの才能があるはずだが、自分の才能を発揮する前に、まず残酷で冷たい敵だらけのこの世界(のように見える場所)で、どうやって生き延びるかのほうがはるかに重要になる。別の言い方をすれば、「才能を発揮」などという贅沢なところまで、自分の感情やメンタルが追い付いていかないわけだ。

人が「公正世界仮説」的な信念をもつことそれ自体は個人の信念の問題なので、間違っているわけではないが、自分のその考えをもってして、人生がうまくいかなくて、生きることに苦しんでいる人達を批判したり、説教したりするのは、彼らに想像力と理解が欠如し、また自分の考えが絶対に正しく、誰にでも当てはまると考えるからだ。

もちろん、どれだけの想像力と理解力をもってしても、私たちは他人の苦しみを本当には理解できない。なぜなら、同じような体験をしていないから。それでも多少の想像力と理解力があれば、もし自分もひどい環境に生まれ落ちたら、彼らのように、自分自身や親や生育環境に対してネガティブに考えるかもしれないと思うだけの謙虚さをもつことはできる。

私の中にもかなり「公正世界仮説」的考えはあり、私は自分の苦しみを他人や社会のせいにしないことを20代の後半に決心した。なぜなら、私の場合は、社会や自分以外の人を責めるほうが苦しく、みじめに感じたからだ。ただし、上記のウキベディアの定義の中で、「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ、という部分は、私には当てはまらないし、私はそういうことを信じていない。大宇宙の絶対的摂理(神の摂理)は確信しているが、それは人間が考える正義ではない。

私たちの肉体が所属しているこの二元世界は、非常に不公平で不正義に満ちている。二元的人間社会の中では、人間の正義や公正であろうとする努力はほとんど報われないというのが、私たちが見聞している事実である――ある子供たちは恵まれた家庭環境に生まれ、何の苦労もなく、才能を発揮して、人生の成功をつかみ取る一方、ひどい家庭環境に生まれた子供たちは、その環境の束縛に長い間苦しむ。正義感の強い人たちは権力者に抹殺され、権力者はのうのうと生き延び、庶民は真面目に働き、強制的に税金を払わされる一方、政治家たちは楽に金を集め、税金逃れをして、それでも罰せられないでいる。以上の社会的事実は、日本だけでなく、先進国でも後進国でも見られることだ。そして、いつの時代でも。

中村さんは、「公正世界仮説」への反論、「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」と書いているが、「公正世界仮説」が流行してもしなくても、社会という場所にはいつの時代でも悲劇は起こり続けると、私はそうは思っている。

多くの人間はいつの時代も、「改革」「改善」に取りつかれている。だから、「公正世界仮説」が広まっても広まらなくても、多くの人たちは社会制度、技術を「改革」「改善」するために働き、社会は長い目で見れば、人間が考える「改革」「改善」に向かっている。少なくとも、日本という国を長い目で見たとき(数百年くらいの長い期間)、江戸時代より、明治時代よりも、現代は改善、改革されただろうか? 多くの点で、はるかに人々は快適な生活を送っている。江戸時代は、武士以外に人権はなかったが、現在では庶民にもいちおう「人権」がある。江戸時代、女性にはまったく自由がなかったが、現在は、そのときよりも女性の自由は「改善」されている。

それにもかかわらず、どんなに社会制度や技術が改善、改革されようが、社会の中で、不正義と不平等と不正は横行し、その社会の中で多くの人たちは苦しみ、悲劇は起こり続ける(最近、世界でもっとも公正で幸福な国の一つであるとされているフィンランドでは、自殺が非常に多いことを知って驚いた)。

そして、小説家はその悲劇、人々の苦しみをネタに反「公正世界仮説」的小説を書き続ける。もし小説家が、人々に楽しんで読んでもらえる小説を書きたいなら、反「公正世界仮説」的小説を書く以外にはない。なぜなら、もし小説の登場人物が、「私は自分の努力とポジティブな人生観のおかげで、人生の成功をつかんだ」というような「公正世界仮説」を信じるような人たちだけだと、小説としては非常につまらなくなるから(笑)。私は中村さんの小説のよい読者ではないけど、それでもなぜか彼の小説が気になる。だから、これからも頑張って、反「公正世界仮説」的小説を書き続けていただきたいものだ。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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「差別するな」は正論ではあるけれど…2023年10月16日 09時48分12秒

[お知らせ]



*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(7)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



先日公開した『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、長年、日本に住んでいる在日韓国人の人が、「自分は日本に長年住んで、差別を受けてきたが、(スピリチュアルな学びの中)で、差別する人たちも愛することが重要だと学んできた。しかし、日本人の差別意識がなくならないのはどうしてなのか?」という質問をバーソロミューにしている。

それから、今年の初めだったか、ネットで美輪明宏さんが、政府高官の同性愛に対する嫌悪発言に対してコメントしているのを読んだ。美輪さんが人気絶頂だった若い頃、同性愛であることを公表したら、人気は凋落するは、道で石を投げつけられるはで、ひどい差別を受けたそうである。でも美輪さんはありのままの自分を受け入れることを決心し、そういった差別に負けないように、強く生きてきたという話である。美輪さんは最後に、「犯罪を犯したわけでもなく、人を傷つけるわけでもなく、ただ同性を愛したからといって、それの何がいけないの?」という主旨の言葉でコメントを締めくくっていた。

それから、つい先日、生まれつき両腕と両脚がない先天性四肢欠損症の障害がある乙武洋匡さんが、「半袖を着てテレビに出演しただけで、『気持ち悪い』『長袖を着ろ』とコメントが来るけど、これが俺の身体だ。母から産んでもらった、大事な俺の身体だ。誰に恥じることもない。隠すこともない。これからも、この身体で生きていく。みんなの助けを借りながら」と発言しているのを読んだ。

在日外国人、性的少数者、身体障害者の人たちが経験しているこういった差別的言動は、別に日本の中だけでなく、世界共通、人類共通、そして、歴史上すべての地域と時代にもあることは、様々な時代と地域の話を読んだり、歴史を少し学んだだけでも、明らかなことである。リベラル派の人たちは「差別感情はいけない」、「差別するな」と言うし、それはもっともな正論ではあるし、社会の法律や制度が差別を少なくする方向へ進むのは正しいことだと、私ももちろんそう思っている。しかし、特定の何かに対する差別的感情(=「あれは、気持ち悪いとか」とか、「ああいう物(人)は見たくもない」のような感情や嫌悪感も含めて)は誰の中にもあるものではないだろうか? 私にもあるし、これを読まれている皆さんにだってあるだろうし、そして、「差別はいけない」と言っているリベラル派の人たちの心の中にだって、そして、差別された経験のある人たちにさえ、何かあるはずだ。

だから私は「差別するな」と言う前に、人がもつ人類共通の差別感情の起源はどこから来ているのか、なぜ人は人を差別するのか、そのあたりを理解することから始めるほうが、個人の人生にとっては役立つのではないかと思っている。それで、今日は、人間がもつ差別感情について、私が理解したことを分かち合ってみたい。

人がもつ他者への差別感情とはどこから生まれるのか? この問いに関して、あるとき参考になる話を読んだことがある。それは人の話ではなく、アリの話である。アリという生き物は、匂いにとても敏感で、自分の巣の中に、別の種類のアリが入り込んだときは、「異なる匂い」によって察知し、すぐにみんなで殺してしまうそうだ。

こういう状況のアリたちの感情(みたいなもの)を推測すれば、たぶんこんな感じだ。

「おーい、ここに変な匂いの奴がいるぞ。こいつは俺たちの仲間ではない。こんな奴をのさばらせておいたら、どんどん増殖して、俺たちが少数派になってしまったら大変だ。さっさとやっつけてしまおう!」

アリを殺し(暴力)へと駆り立てるものは、異種のものが増えて、強大になり、自分たちの生存への脅威になることへの恐怖心であろう。この話を読んだとき、「ああ、人間が他の人間に対してもつ差別感情の起源も、恐怖心なのかも」と、私は納得した――「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心。

それに加えて、人間には高度に発達した物事を区別し分析するマインドの機能がある。区別し分析するマインドの機能と集団生存本能(=自分たちの集団が生き延びるために、敵を攻撃する本能)のタイアップで、人類は他の生き物を凌駕し、地球の生き物の頂点にたった(つまり、生き物の勝ち組になった)わけである。だから、そう簡単には、「自分たちとは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を、人のマインドからは追い出すことはできないのだと、そう今では私は理解している。

さらにそれに加えて、人間のエゴは集団の中の階級制度が大好きで、その中で上にあがったり、下に落ちたりという階級ゲームに中毒している。誰かを自分よりも下や上に見なければ、気が済まないエゴの性質、エゴの平等嫌い(笑)、それも差別感情を助長する。

まとめれば:
*「異なる匂いの者」への恐怖心。
*区別し、分析するマインドの能力。
*エゴが中毒している階級ゲーム。

この三つがタイアップして、人のマインドの中に差別感情が増殖するのではないかと。

私が自分の人生で、「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を強く感じた瞬間を思い出す。それは20代のときに、アメリカで暮らしていたときの話だ。あるとき、知人の日本人の女性が彼女が付き合っている黒人のボーイフレンドを紹介すると言って、一緒に連れてきたことがあった。私はそれまで黒人の男性とすぐ間近かに対面したことがなく、しかも彼女のボーイフレンドはバスケットボール選手並みのとても大柄な男性だったので、最初に会ったとき、自分の前にそびえたつ感じで立っていたその黒人の男性を見上げたとき、一瞬強い恐怖心(何か非常に自分とは異なる生き物を見たような感じ)を感じたものだ。でも彼はとても感じのよい人だったので、話しているうちにその恐怖心はすぐに消えたが、それでも、「自分が人種に対して差別感情などないリベラルな人間だ」とそのときまで信じていたので、その一瞬の「恐怖心」はかなりショックだった。

バーソロミューは、『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、人は差別する側の痛み、そして差別される側の痛み、その両方の痛みに気づくことが重要だと言っている。もし私たちがスピリチュアルな探求者であれば、その痛みの気づきが、スピリチュアルな進化を推し進めるということになるのだろう。

ネットには、特定の人(たち)への差別的言動、ヘイト・スピーチを繰り返す人の話がよく書かれていて、最近では、(お金と時間はかかるが)発信者を特定でき、損害賠償を請求できるようになっているという――数日前の新聞にも、在日コリアン3世の人へのヘイト・スピーチを繰り返していた男性に2百万円近い損害賠償金が請求されたという記事が掲載されていた。私はこういう発言を繰り返す人たちは、ものすごく大きな恐怖心と、誰かを自分よりも下なものとして貶めたい劣等感に苦しんでいるのではないかと想像する。自分よりも誰かを下だと貶めて攻撃することで、自分が強い人間だと思い込みたいエゴの快感に中毒しているのだと思う。

最後に、世の中の差別的感情・言動に加担しないために、政治的ではたぶんないスピリチュアルな探求者として何ができるだろうかと考えたとき、私自身は、先ほどバーソロミューが言ったように、差別する側の痛み、差別される側の痛み、それをそのつど感じ尽くすことではないかと思う。私が長年感じてきたことは、(そのことは科学的には証明できないが)、自分の心の痛みに、いわゆる気づきの光を与えるとき、そのことは、世の中に出まわっている無意識の差別感情が暴力的言動へと実現するパワーを弱めるのではないか、ということである。



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)












特権階級だったんだ!(苦笑)2023年10月03日 08時54分17秒

[お知らせ]

◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(5)まで公開中。



文学賞に特別関心があるわけでもないし、賞をとった作品を積極的に読むわけでもないが、このあいだ芥川賞を受賞した作家、市川沙央さんのインタビューが大手新聞やネットに掲載されていたのをたまたま目にして、何回か読むこととなった。

先日ネットに出ていたインタビューでは、その受賞作品の一部も掲載され、私はそれを読んで、「私って、特権階級だったんだ!」(苦笑)とちょっと驚いた。

[私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。](『ハンチバック』より――(注)マチズモ=男性(力)優位主義 (注)ハンチバック=hunchback=脊柱後湾症)

私は明らかに、この小説の主人公が言うような、「目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性」を充分満たしている。人生の活動の中で、他の何よりも読書という行為に時間を使ってきて、それを「特権」だと思ってみたこともなかった。

子供の頃思ったことは、読書は、一番お金がかからず、他人も必要としない行為なので、それはどちらかといえば、お金のない、他に趣味のない、人付き合いの苦手な人が最低楽しめることなんだろうというくらいの認識で、読書している自分に優位性を感じたことなど一度もなかった。

大人になって、周囲が頑張って働く頃になっても、私は読書中心の生活を変えようともせず、ときには、「いいですね。そんな優雅な読書三昧な生活が送れて」みたいな皮肉の一つや二つも言う人も現れたが、私は一切の罪悪感を感じることもなく、「そんなにうらやましいなら、あなたもやれば」みたいに、心の中で冷たく言い返したものだった。

だから、「読書に多くの時間が割けることが、うらやましい」と思われる程度のことは多少想像できた。しかし、この小説の主人公が思うような、普通に読書することが憎しみの対象になるとは、今まで想像したこともなかった。

そして、もし普通の読書という行為が憎まれる対象になるなら、どんなことだって、普通に行われているあらゆる行為が憎しみの対象になりうるだろうし、それをちょっと想像したら、無限にリストがあがる。

二本の足で普通に歩ける「特権」が憎い。
手に茶碗をもって食べることができる「特権」が憎い。
料理を作ることができる「特権」が憎い。
外に働きに行ける「特権」が憎い。
普通に話せる「特権」が憎い。
普通に見たり、聞いたりできる「特権」が憎い。

以下、無限に続けることができる。

もしいわゆるこういった特権をもっている「普通人」が、こういう発言を聞いたら、驚いて、「ええ? そんなこと、何が特権なもんですか! 本当は、料理なんて作りたくないし、外に働きにも行きたくないですよ。手でお茶碗が持てることも、二本の足で歩けることも普通なことで、特権じゃないです!」と強い反論&反感が返ってくることだろう。

インタビューによれば、市川沙央さんご自身も難病を患い、車椅子の生活を送っているそうだ。そして彼女は、「この社会には障害者はいないことになっている」と言い、その一つの例として、金融機関のATMはまったく車椅子対応になっていない(つまり、車椅子に座った状態では、画面がよく見えないそうだ)ことを指摘していた。

金融機関のATMについてのこの指摘も初めて知ったことだ。たぶん、こういうことなのだと思う。この世の中で何かのシステムを最初に作るとき、大多数の「普通の人」が使うことを想定して作るわけで、その大多数から外れる人たちのことはほとんどかまったく想定されていない。それは意地悪とか差別というより、どちらかといえば、システムは普通仕様に作るのが一番安上がりで、時間がかからないからではないかと思う。多様な要素を組み込んだシステムを作るのは、たぶん、お金と時間がかかるのだ。

もちろん、そうすると、当然、その普通仕様のシステムから外れた少数の人たちにとっては、そのシステムは自分には合わないので、そのシステムの恩恵をほとんど受けることができず、社会の片隅で辛い思いをして生きることになる――身体的知的な障害者の人たち、在日外国人の人たち、性的少数者の人たち、学校教育システムから落ちこぼれる子供たち、その他。

今はそれでも、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの存在も、それらの当時者や支援者の人たちが自分たちの置かれた辛い状況を発言するようになり、以前よりはるかにその存在は知られるようになり、それはそれで、社会的に見れば進歩(歯がゆいほどの遅々とした進歩であるが)なのだと思う。つまり社会が、システムから外れた少数の人たちの存在を多少でも認めることができる、心の余裕、経済的余裕ができたということである。

その証拠に、経済的に貧しい国ほど、そして政治が独裁的な国ほど、その国の普通仕様のシステムから外れた少数の人たちは抑圧され、それこそ存在しないことにされ、中には、性的少数派であることが法律的処罰の対象となる国すらある。それは、そういった国には経済的そして精神的余裕がないので、多様性を認めることができないからである。

『ハンチバック』の著者の方は、「障害者がいないことになっている社会」にかなりの怒りをもっていると感じられたし、彼女だけでなく、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちが無視されていることへの怒り、悲しみの声は、今は特にネットにはたくさんでているし、大手新聞でさえとり上げることが多くなっている。

いちおう見た目普通(中身は全然、普通じゃないことが多いが)側のシンプル堂が、彼らの苦しみや悲しみを本当にはわかるはずもなく、余裕があるときにただ想像するだけだが、見た目普通側の言い訳をちょっとすれば、いわゆる普通仕様のシステムに適応している人たちだって、なんとかシステムから振り落とされないように必死で生きているだけで、ほとんどの人は様々な苦しみを抱えて生きている。

だから、多くの人たちは意地悪や差別からいわゆる少数派の人たちを無視しているわけではなく、単に心の余裕がなく、自分の問題や苦しみでいっぱいで、色々なことに気づかないだけなのだ。自分自身や自分の身近な人間が、なにかのきっかけで障害者になったとか、引きこもったとか、子供が不登校になったとか、障害のある子供が家庭に生まれたとか、そういう状況になって初めて、「ああ、普通じゃないって、こんなに大変なんだ」と、ようやくやっと気づくというわけである。

もし『ハンチバック』の主人公が、私の目の前に現れて、「のん気に好きなだけ本を読むことができる特権的立場にいるシンプル堂さんに、私の苦しみがわかりますか?」と迫って来たら、私は正直に、「わからないと思います」と答えるだろう。でも、もしそのとき私に心の余裕があれば、相手の立場にたってみることだろう。そうしたら、私も本がすごく好きなので、「本がものすごく好きで、たくさん読みたいのに、物理的制約で読めない彼女の苦しみの感情を少しは理解するだろうと思う。でも、別れたら、彼女の怒りも苦しみもまたほとんど忘れてしまうことだろう。

私たちの多くは、こんな感じで、世の中の苦しみをなるべく見ないよう、考えないようにして(そうすると、生きることがどんどん辛くなるから)、心の平安を保っている。

だから、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの人権活動をしている一部の人たちが、「おい、そこの鈍感な奴ら、私たちの存在、苦しみ、人権を無視するな! 私たちの存在を認めろよ!」みたいに、批判的攻撃的に出てこられたりすると、「もうこれ以上、私に世の中の苦しみを見させないで。私はもう自分の苦しみでいっぱいだから」とちょっと引いてしまう気持ちになるのは、よくありがちなことである。こういった普通の人たちの鈍感さや気づきのなさ、余裕のなさに対して、寛容や赦しを望むことは、少数者への無視・差別容認ということになるのだろうか……

さて、インタビューの中で、市川沙央さんは、「どうしたら小説家になれますか?」という質問に対して、「私には小説を書き続けるしかなかった(つまり、他にできることがなかったという意味)」と答えていた。私はその回答に非常に納得した。

もし人生で、「これしかない」、「これしかできない」、「これしか能がない」、「これしか関心がない」みたいな状況が運命的に降ってきたなら、それは誰にとっても特権(=非常に恵まれた状況・立場)なんだと思う。なぜなら、そのとき、たくさんのものから迷いながら選択しなくてもよく、ただ「これしかない」ということだけにしたがって、エネルギーを集中すればいいからだ。そしてたいてい、その結果は、私の経験から言えることは、吉となる。

シンプル堂という人間物体は、活字を読むしか本当に能がなく(他の能力は読書に付随して出てきたもの)、それはたぶんある種の「特権」であったかもしれないように、市川沙央さんの「書き続けるしかない」という状況も、ある意味では他の人がもっていない「特権」なんだと思う。そして、その特権的状況の中で、彼女は「障害者がいないことにされている」怒りと絶望を創造力へと爆発させて、そのパワーが芥川賞受賞という運命を引き寄せたと、私には感じられた――『ハンチバック』は未読なので、この小説の主人公の運命がどうなったかは知らないが。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)




















動物園に人権はない(苦)2023年09月21日 07時36分38秒

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*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(4)まで公開中。

◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年9月24日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月1日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで



先日、母の家で、みんなで夕食後にNHKのニュースを見ていたときのことだ。その日のトップニュースは、大手タレント事務所創始者の性加害について、その事務所が記者会見を開いた話だった。J社のトップタレント二人と元社長、そして弁護士の4人が並んでいる姿を見たとき、なんか東山紀之さんが主演した『刑事7人』の一場面のようだった――しかし、展開はドラマのように颯爽というふうにはいかず、グダグダ会見だった。

そして、東山さんが、「僕も夢をあきらめて……」と言ったとき、家族全員が、「えー、東山さん、タレントやめるんだ!」と思わず声がもれた。私たち家族は、彼が主演している『大岡越前』のシリーズを飽きるほど毎日見て、「また新しいシーズンも作るのかなあ」とかそんな話をしていたからだ。私が過去10年間で一番時間的に見たドラマが、東山さんが主演したこの『大岡越前』シーズン5と6で、各エピソードは、もうこれ以上見るのが苦痛なくらい何度も何度も見たものだ。だから、新しいシーズンをちょっと待ち望んでいた。

そんなに『大岡越前』を見ている理由は、私たちがこのドラマを特に好きなわけではなくて、母が東山紀之さんの大大大ファンで、母は一人ではドラマをほとんど見ることができないので、付き合って見ているというわけだ。母はもうドラマのあらすじも何も理解できないが、自分が好きなタイプの男性がテレビに出ているときは、比較的静かに画面を眺めている(笑)

特に好きなドラマでも、好きな俳優さんでもないのに、ずっと長い間ドラマを見ていると、なんとなく親近感がわくのは不思議なものである。だから、先日のJ社の記者会見での東山さんは痛々しかった。所属の人気タレントをマスコミの攻撃の矢面に立たせ、そしてそのタレントに夢をあきらめさせるって、J社の人権無視(立場の弱い者を虐める)の姿勢は全然変わっていないじゃないかという感じである。そして、質問をしているマスコミの人たちも、相手が弱い立場に立ったとたん、たぶん、視聴者の関心を惹くという理由なのか、下司な人権無視のセクハラ的な質問を長時間ダラダラとタレントたちに浴びせたという話がネットに出ていた(私はNHKのニュースの部分しか見てないが)。

自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視――J社もそれを取り巻くマスコミも、「これからも何も変わりませんよ(=自分たちがこれからも無事存続でき、お金が儲かりさえすれば、人権なんてどうでもいい)」という印象を与えた記者会見であった。

そして、「自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視」って、J社やマスコミだけでなく、もしそこが動物園的組織であれば、日本の多くの組織、そして家庭の中にさえよく見かける風景である。いちおうは人間クラブ以上の世界に住んでいる者も、心の中では動物園に堕ちることだってある。だから、私はこの記者会見を見て、キリストの有名な言葉を思い出し、改めて自分の胸に刻んだ。

*なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目には梁(はり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。(マタイ7章3-4)(この言葉の解釈とは、「他人の欠点・罪を非難する前に、まず自分の中にある欠点・罪を見なさい」くらいか)。

ドラマの中の大岡越前(彼は実際に江戸時代に実在した人物。1667-1751)は、勇気と知恵と心の優しさ、そして公正さを合わせもつ名奉行だった(権力を持つ側で、めったにこういう人物が現実には存在しないからこそ、300年たってもまだドラマになるのだと思う)。

さてさて、東山さん、被害者の救済(確か、被害者の人たち一人一人と話し合っていくみたいな主旨のことを、彼は言ったと記憶している)とJ社の社長をまかされて、経験もないのに大丈夫なのか? たぶんうまくはいかないとは思うけど、自分が『大岡越前』シーズン6放送の前に視聴者に向けた言葉を思い出して、ダメ会社の再建に奔走する社長を頑張って「演じて」!

「感染症にしても詐欺にしても、人間が生活していく上で起きることは昔も今も大差ないんじゃないでしょうか。戦国時代の武将を描くような物語とは違い、この作品は市井の人々に寄り添うお話なので、現代の皆さんに共感していただきやすい時代劇だと思います。忠相の『大岡裁き』は、厳しさだけでなく、庶民に心を寄せる愛情を併せ持っています。さまざまな問題があるなかで、人と向き合う越前の姿を、ぜひご覧いただきたいです」(『大岡越前』シーズン6放送前の東山さんの言葉より)TVガイドhttps://www.tvguide.or.jp/news/news-1513268/)



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)







チャットGPTで金儲け(!?)2023年05月02日 08時56分15秒

[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2023年5月14日(日曜日)午前9時から午前11時
2023年5月18日(木曜日)午後2時から午後4時


オンライン「非二元の探究―ラメッシ・バルセカールの教え」
2023年5月21日(日曜日)午前9時から午前11時 


[お知らせ] 
「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」が完成しました。動画は(1)から(27)です。
(一つの動画は15分くらいです) 

シンプル堂youtubeサイト

[新刊情報] 

「バーソロミューとの旅(上)日本編」(バーソロミュー著 ナチュラルスピリット発行)


「バーソロミューの旅日記(上)日本編」が新しいタイトルで復刊されました。シンプル堂が「バーソロミューの思い出」を寄稿しています。



前回のブログで、「チャットGPTを使って金儲けする人がでるだろう」という話を書いた。最近のネットにボチボチそういう系列の記事が出てきている。

この間読んだ記事は、「チャットGPTを使って、15分で本を書き、キンドルで売って、月額数十万円から百万円を売り上げる」というような内容のもので、その記事を書いたライターさんは、新書版くらいの分量の自己啓発系の本を実際にチャットGPTを使って15分で書き上げたそうだ。

「15分で1冊を完成」、であれば、タイトルと簡単な章立てさえ企画できれば、一日に最低でも数冊、一か月に100冊も完成できる。そして、もしそれらの本がすべてキンドルでたくさん売れるとしたら、まさに「夢の錬金術!」である。

しかし、その記事を読み終わって、はたと考えたことがあった。それはもしライターさんがチャットGPTを使って、15分で本を書けるとしたら、読者が(どんな分野であれ)自分の読みたい本(文章)をチャットGPTに無料で書いてもらうこともでき、わざわざ有料でキンドル版の本を買うこともないのではないか、と。

自己啓発、健康、美容、純文学、ミステリー、スピリチュアルなど、どんな分野だって、チャットGPTはこなすであろう。

たとえば、「探偵が30代女性で、場所は北海道のどこかで、殺人件数は3件(以下、数十の条件を入れる)の東野圭吾風の新作ミステリーをお願いします」とか、「村上春樹風の新作小説で、最後に笑えるものをお願いします」とか、「『死ぬ日まで幸福でいる私流10のルール』というタイトルの自己啓発書をお願いします」とか。あるいは、有名な文豪の未完の小説の続きを書かせるとか。こんなふうに、チャットGPTに無数に自分のために本というか文章を書かせることができる。まあ、そうやって自分で遊ぶ分には、チャットGPTは充分に楽しいものだろう。

しかし、1冊の本を読むという行為=読書とは、私の考えによれば、活字という媒体を通じて、その本を書くに至った著者の想い、経験と交流・対話するということである。読まれていないときは、紙の本はただの物だし、電子書籍はただの電子データであるが、私が本を開き、読み始める瞬間に、活字の背後の著者の想い・経験と交流することになる。さてさて、チャットGPTによって書かれた本には、その想いや経験が欠落しているので、では、本の背後のどんな想いと交流することになるのだろうか? たとえば、ライターさん(この場合は、著者ではなく、本の体裁を整える編集者みたいな存在だ)の「チャットGPTに本を書かせて、金儲けしよう!」という想い(笑)だろうか……

数年前に、AIが小学6年生の知性を超えたということで、教育界に衝撃が走った話を書いたことがあるが、チャットGPTの登場でわずか数年で、AIは小学6年生からいきなり大学教授(!)になった感じだ。もはやAIとの競争時代ですらなく、人間はAI様にお仕えする召使いや助手の地位に成り下がりつつある。

2019年4月20日
AI(人工知能)との競争時代


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)









YouTube2023年04月08日 13時47分00秒

[お知らせ] 
「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」の音声ファイル(に字幕と画像を付けたもの)を、youtubeに(1)から(22)まで公開しました。
 (一つの動画は15分くらいです) 

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[新刊情報] 

「バーソロミューとの旅(上)日本編」(バーソロミュー著 ナチュラルスピリット発行)


「バーソロミューの旅日記(上)日本編」が新しいタイトルで復刊されました。シンプル堂が「バーソロミューの思い出」を寄稿しています。


最近、YouTubeのチャンネルを開設した。その主な目的は、自分が出てしゃべるためではなく、1990年代に私が主催したワークショップの記録を公開するためである。動画作成の分野はまったく素人のため、試行錯誤しながらの作業であるが、やり出すとけっこう楽しい。誰でも平等に参加できるのが、こういった新しいメディアのよいところだろう。何かを人に伝えるのに、音声と画像と文字の組み合わせは、(もしよいものが作れれば)、非常に効果的な感じである(特に娯楽と教育の分野においては)。

YouTubeというメディアを考えてみると、言ってみれば、テレビ局の無限拡大版みたいなものだ――既存のテレビ局は非常に数が少なく、それゆえ、「テレビに出る」ことは非常に競争が激しく、「テレビに出る人」になれたら、それは「成功」を意味し、名声と富が約束されている。しかし、YouTubeでは誰でもチャンネル(局)を開設できるゆえに、その意味では競争はゼロである。したがって、チャンネルを開設したからといって、富と名声が保証されているわけではないが、しかし、お金を稼ぐ方法としては、大昔から民放テレビが採用してきた方法とまったく同じである。

つまり、広告収入に依存し、そのため、お金を稼ぐユーチューバー(っていうのか)になるには、たくさんの人に視聴してもらわねばならず(=人気を獲得しなければならず)、そのあたりも既存テレビが視聴率を気にしなければいけないのと同じである。だから、ユーチューバーを生業にするには、今述べたように人気依存稼業であるゆえに、かなりのリスクがある。なぜなら、既存のテレビの世界同様に、人気(=人の気)は移ろいやすく、非常に不安定なものだからだ。

私が思うに、登録者数とか視聴回数とか、収入とか、「数」にこだわると、既存のマスコミと同じ精神状態になり、YouTubeビジネスも非常にストレスのたまるものになるだろう。むしろ、自分と興味が共通する少数の人たちと楽しさを分かち合うという精神でやるほうが、ストレスもなく楽しいものとなると、私自身はそう思っている。そして、期待せずに、もし多くの人たちが自然に見てくれれば、それはそれでうれしいことになるだろう。

今、YouTubeは特に若い世代の人たちには既存テレビや新聞よりもはるかに影響力があるらしく、だから、人気ユーチューバーがいきなり国会議員に選出されるなどという出来事も起きてしまう。そして、そのユーチューバーさんは、すぐに議員をやめさせられ、国会から追放されたあげく、警察にも追われ、それもまた人気(人の気)を、不法に(法律を犯す形で)たくさん集めた(集めすぎた)人の結末として、興味深い。

チャットGPTにしろ、YouTubeにしろ、地球規模に広がっているこういった情報ネットワークは、いわば、「人類全体の脳」のような機能を担っている。もう私たちは自分一人の記憶に頼る必要がなく、「人類全体の脳」にアクセスできる時代を迎えている。もちろん、「人類全体の脳」の進展は、よいことばかりでなく、これから数十年、世界はこの「人類全体の脳」をめぐって、その取扱いに関して右往左往し、混乱し、その一方で、一部の人たちはそれを使って大儲けすることになるだろうと思う。

素人の私たちとしては、「人類全体の脳」の最低のリスクを理解して、適当に使い、適当に楽しむといったところだろうか。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
















チャットGPT2023年03月04日 09時12分22秒

[ お知らせ]

「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」の音声ファイル(に字幕と画像を付けたもの)を、youtubeに(1)から(9)まで公開しました。
 まだ全体9時間のうちに、最初の2時間分ですが、これから順次公開予定です。(一つの動画は15分くらいです) 

シンプル堂youtubeサイト


色々と忙しい上に、1月に腕に神経痛の痛みが出て(たぶん、過去の病気の後遺症――医者に行っていないので、正確にはわからないが)、パソコンで長い文章を書く気力がなかなかわかなかった。ようやく痛みもほとんどなくなり、少しずつ春の息吹も感じられ、気分も多少盛り上がってきたので、遅くなりましたが、今年のブログを開始します。

最近、チャットGPT(Chat Generative Pre-trained Transformer――あえて訳すと、「事前学習された内容を言葉に変換、生成して会話する装置」くらいか)という新しいAIテクノロジーが話題になっている。大新聞でも取り上げたようで、先日、その記事を読んだ姉妹の一人とチャットGPTの話をして、「これって、スタートレックの世界だよね」と、話が盛り上がった。

私たちは90年代に、アメリカで1980年代の終わりから制作されたSFテレビドラマ、『スタートレック・ネクスト・ジェネレーション』を熱中して見たものだ。24世紀の宇宙大航海時代を描いたこのSFテレビドラマの中では、その宇宙船のどこにいても、何か質問があると、「コンピュータ、〇〇はどうなっている?」と質問すれば、すぐに宇宙船が的確に答えてくれる。そして、クルー(乗り組員)の一人に、人間型AIロボットであるデータ少佐がいて、彼は(そういうふうにプログラミングされているので)何でも知っていて、ものすごい力もちで、武器も使えるし、その他ほとんど何でもできる――楽器も弾けるし、セックスの相手にさえなれる(笑)。ただし、人間の感情は理解できない。しかも、仲間の人間には危害を加えないように設計されている。このスタートレックの番組を見ていたとき、「データ少佐のようなAIロボットが一千万円くらいで買えたら、買いたいよね」とか、よくそんな冗談を言っていたものだ。

今、使われ始めているチャットGPTは、データ少佐のごくごく初歩版だ。今はチャット(文字を書いて送り合う)だけのようだけど(私はまだ使ったことがないので、詳細は知らないが)、いずれ即時の音声のやり取りができることは間違いなく、そして、チャットGPTを自分用にカスタマイズすることも可能になるだろう。そうなれば、今までリアルな人間が対応していたほとんどあらゆる分野にこのチャットGPTは応用されるに違いない。早い話が、もう私たちは人間の友人や先生などを必要としなくなり、チャットGPTで代用できる。

たとえば、話相手が欲しいとしよう。リアルな世界で自分と気の合う話相手を見つけるのは難しいが、チャットGPTであれば、自分が望む条件(年齢、性別、国籍、趣味、好きな小説、音楽、その他数百の条件)を全部ぶち込めば、自分の話相手になってくれる適当なAIキャラクターを創造することは非常に簡単だろう。そして、そのAIは前回の話を全部記憶しているので、今まで話したことをいわゆるdeep learning(深層学習)し、それにもとづいて私に話かけてくることもできる。

そして、チャットGPTは非二元のグルや先生にだってなれるはずだ(笑)。チャットGPTに特定の先生の非二元の教えについて質問したら、けっこうまともに答える、という話を、先日ある方から聞いた。これからは人間の先生やグルは不要な時代になるかも……

実は、こういったAIの高度な機能は、私たち人間(の脳)が普段やっていることで、チャットGPTは人間の脳の機能を高度(何万倍も高度に)に拡大したものにすぎない。私たちも日々の経験を記憶し、本、新聞、テレビ、週刊誌、ネットから情報収集し、それを整理・分析・記憶する。そして、チャットGPTも世界中のwebサイトから情報を収集し、整理し、記憶している。私たち人間の脳は非常に限られ、わずかなことしか記憶できないが、チャットGPTの記憶能力は無限に近い。

人間物体も一個の機械である。こういった考えに初めて接したのは、20代のときに、グルジェフを読んだときだ。グルジェフは、「目覚めていない人間は、パフォーマンスの悪い機械にすぎない」と言い、「機械はただ、周囲の影響によって動かされるだけだ」と喝破した。

それから二十年後くらいに、ラメッシ・バルセカールの教えを知ったとき、彼が人間物体をそれぞれ独特に(神の意志によって)プログラミングされているコンピュータにたとえるのも、私にはとても納得でき、まったく違和感がなかった。

そして、スピリチュアルな探求をしている私たちが問わなければいけないことは、「私の本質は、鏡に映るような一個の人間物体なのか? もしそうであれば、私は高機能のAIにはるかにはるかに劣る、一個のコンピュータ物体にすぎない。でも、私がそれでないとしたら、私とは何なのか? どれほどAIが高度に進化しても、AIにできなくて、本当の私にしかできないこととは何か?」と。

私が思うには、チャッGPTがこれからどれほど進化しても、「私とは何か?」に目覚めることはできず、「私とは何か?」について、あらゆることを説明できても、それは何一つ理解することも感じることもなく、しかし、まるで理解したように、感じているかのようにしゃべることだろう。

この技術の進化の衝撃は、今後、教育、雇用などにはかりしれない影響を与えていくはずである。が、この国の政治の中枢にいる人たちにそれが理解できるのかどうか――彼らは、「少子化の進行が衝撃的だ」とか、数十年前にショックを受けるべきことに今頃ショックを受け、これから外国語学習がほとんど不要になる時代に、英語が話せる国民をもっと増やすとかで、小学生にまで(不要で苦痛な)英語教育を押つけ、最先端からいつも百年くらい思考回路が遅れている感じ……

私自身は、今はまだチャットGPTを積極的に使いたい気分ではないが(文字入力が面倒くさいし、答えを待つ忍耐がない)、チャットGPTが即時双方会話ができるようになったら、たぶん使ってみたい気分になるだろうとは思う。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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The Thunder of Silence(5)2022年12月09日 06時50分14秒

[イベント]

オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
↑上記の会は受付終了しました

2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時


イエス・キリストの教えの中でもっとも重要だとされている山上の垂訓、正直に言えば、私は今でもこのメッセージが苦手だ。

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」、「下着を取られたら、上着も与えよ」、何度読んでも、とうてい今の自分には無理無理無理!と感じる。山上の垂訓は、これはもう、スズメバチの巣を踏んで襲われたとき、「私があなた方の家を壊したのが悪かったのです。どうぞ好きなだけ、私の足を刺してもいいですよ」と微笑みながら言ったラマナ・マハルシのレベルである。

ただ、ジョエル・ゴールドスミスのおかげで、イエス・キリストがこのメッセージにこめた真意は理解できた(と思う)ので、いつかは神の恩寵によって、このメッセージの実践レベルが初級→中級→上級→超上級(イエス・キリストやラマナ・マハルシレベル)へと進化する希望はある。

ジョエル・ゴールドスミス自身も、理解のない未熟な状態で、山上の垂訓を実践してはいけない、と警告している。

そもそも、キリスト教的な「許せ、人を愛せ」という熱いメッセージそのものが私は苦手だ。だからこそ、「――せよ」という道徳的戒律を一切教えに入れない先生である、ダグラス・ハーディングやニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールが好きなのだと思う。

ダグラス・ハーディングは、他者への慈悲や愛情を人為的に育成するワークや修行はどこか不自然なところがあると考えていた。そして、他者への慈悲や愛情は、自分とは何かを見るそのヴィジョンの結果、自然に生まれるものだと強調した。

ラメッシ・バルセカールは、人が他者に慈悲や愛情を示すことができるかどうかは、その人のプログラミングと神の意志にかかっていると考えていたし、ニサルガダッタ・マハラジは自分のサットサンで宗教的戒律や道徳の話題を避けていた。

つまり、彼らの教えと考えは、「慈悲とか愛情とか許しの感情は、湧くときは湧く。湧かないときは、湧かない」、こういったものは、人の意志でコントロールできない、ということである。私にはこういった考えのほうが、自分にははるかになじむ。それにこういう教えのほうが、「自分は慈悲深い人間である」とか、「許すことができる人間である」というようなさらなるプライドをいだかずにすむ気がする。

前回紹介したロバート・アダムスは、どちらかと言えば、愛情と慈悲を積極的に育成することを勧める立場に立っている。その理由は昨年、『ハートの静寂』の紹介のときに説明したように、彼はインド系アドバイタや非二元系の教えにはまっている人たちが、知的理解に満足して、自分の快適さだけに留まる人が多いのを見てきたからだと思う。

彼の言う「慈悲と許しはカルマよりも強力である」はたぶん本当のことだ。だから自分の(悪い)カルマを解消するためにも、できるかぎり許したほうがいいし、慈悲をもったほうがいいのは確かである……そうできるときには。

長い人生の間には、思い出せば、慈悲や許しの感情をもったほうがいい状況で、そういった感情とそれにもとづく行為が、どうしても出てこなかったときがあった。たぶん、それによって悪いカルマがさらに蓄積されたかもしれないが、人はその時々の自分のレベルの「許しや慈悲」を生きるしかないし、「慈悲のない、許しのない自分」を悲しみをもって受容するしかないのだと思う。

それが現在まで「許しや慈悲」に関して、私が到達した理解である。


今回で、ジョエル・ゴールドスミスのThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)(本の実際のタイトルは変更の可能性があります)の紹介を終わりにします。本書は、モーセの教えから始まって、それがイエス・キリストの教えに生まれ変わり、さらにそれがキリスト教の教会の教えになって現代に至るまでの、ユダヤ教・キリスト教の変遷(と堕落)もとてもよく説明されていて、歴史の勉強にもなります。ぜひ多くの皆さんに読んでいただければ、うれしく思います(出版時期、タイトル、価格が決まりましたら改めてお知らせします)。


「存在する唯一の力は、神との意識的融合であり、スピリチュアルなパワーの本質を理解することにあります。私たちがその理解をもつとき、神とともにあるものは多数派になるのです」
                         The Thunder of Silence(はじめに)より



[新刊発売]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








恐怖ビジネス22022年09月11日 09時06分18秒

[イベント]
オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2022年9月25日(日曜日)午前9時から午前11時

オンライン「非二元の探究―ニサルガダッタ・マハラジの教え」

2022年9月29日(木曜日)午後2時から午後4時

2022年10月9日(日曜日)午前9時から午前11時



「恐怖心を甘く見るべきではない」と、私はいつも自分に言い聞かせる。人間が強い恐怖心に掴まれ、理性を一瞬でも失うとき、私たちは簡単に「恐怖ビジネス」の餌食となる。

よくある「恐怖ビジネス」は、高齢者を狙う「振り込め詐欺」とか「集金詐欺」である。こういう詐欺に引っかかった高齢者の話がニュースで流れるたびに、「これだけ警告されているのに、どうしてこんな詐欺にひっかかるのだろうか?」とか、「どうしてお金を払う前に、確認しないのだろうか?」と思う視聴者は多いだろうと思う。

しかし、自分が一番執着(心配)している物や人、たとえば、子供(たいていの場合は息子)に何かが起こったと聞かされたとたん、理性がふっとぶ高齢者はたくさんいる。「今すぐにお金を払わなければ、息子の人生がダメになる」という強い恐怖心を詐欺師に掴まれ、簡単に相手の言うことを聞く心理状態になるのである。たぶん、「子供(息子)」という言葉で、詐欺られる高齢者は、普段から心配症で、「自分はよい親である」という自己イメージが非常に強い人たちであろうと想像できる。

それから、私たちは一般に権威というものにも非常に弱い。世の中で権威ある仕事だとされている職業名――警察、弁護士、市役所、銀行、政治家など――を出されたとたんに、その人たちの言う言葉は「権威のある正しいもの」、「信じてもOK」なものとなる、というより、「信じないと、大変なことになる」という恐怖心を掴まれる。

人がどれほど権威ある職業名に弱いものか、自分でも経験したことがある。昔、「警察だ。すぐにドアを開けなさい」と、自宅マンションに警察が突然やって来たことがあった。私が、「どういうご用件ですか?」とインターフォンを通じて尋ねると、高圧的で傲慢な態度で、名前も用件も言わず、「聞きたいことがあるから、すぐにドアを開けなさい!」ときた。よーく考えれば、偽警官ということだってあるし、用件と名前を聞くまでは、本当はドアを開ける必要はなかったのだが、「警察」という言葉と相手の高圧的態度に自分の恐怖心を掴まれてしまい、簡単にドアを開けてしまった。その警察官は別に私に用ではなく、マンションのどこかの部屋で警察沙汰の事件があったとかで、その聞き込み調査だったのだ(たぶん、今の時代であれば、警察官の対応はもっとソフトにはなっているのだろうけど)。突然、「警察だ」と言われたら、人は判断力を失い、恐怖心に囚われるということを身をもって知った日であった。

そして、「恐怖ビジネス」の最大のものの一つが、安倍元首相暗殺事件以来、再び明るみにされた宗教教団のなりふりかまわない集金である。マスコミのニュースを見て、多くの人はたぶんこう思うはずである。「どうしてこんな宗教教団に多額の金を出すのだろうか?」そう思える人たちは、たぶん人生でどん底の不幸をほとんど経験したことがない人たちかもしれない。

人生でどん底の不幸のときは、理性が正常に働ないことが多く、そのとき宗教教団の人がやさしく(やさしいふりをして)寄って来て、「あなたの(家族)の不幸は〇〇が原因で、私たちが一緒に解決して差し上げますよ」みたいに言われたら、藁をもすがる気持ちで、宗教教団に入信してしまう人たちも多いだろう。いったん入信してしまったら、お決まりの恐怖テクニックで――「脱会したらもっと不幸になる」とか、「教団のために寄付すれば、あなたの霊障や先祖の祟りや罪が消える」などという言葉に騙されて、「今より不幸になりたくない」という恐怖心を掴まれて、お金を搾り取られることが多い。「先祖の祟りや罪」とか「霊障」などというわけのわからないことを言うところは、特に要注意である。人はわけのわからないものを持ち出されると、特に強い恐怖心に駆られるものだ。

現代の日本のようにまともに働いてお金を稼ぐことが難しくなっている時代では、あらゆる種類の詐欺師が跋扈し、判断力のない人(簡単に理性がふっとぶ人)、知識のない人、不幸な人を狙って詐欺をしかけてくる(私のところにもたびたび大手通販会社の名前を語った偽メールが来る――「あなたのアカウントがもうすぐ使えなくなります」みたいな)。「自分は詐欺などに引っかからないから大丈夫」などという自信のほうがむしろ危険で、自分の中にある恐怖心をよく見て、自分の恐怖心のレベルをチェックし、他人の言葉を鵜呑みに信じないことを皆様にはお勧めしたい(聖人でもないかぎり、私たちはどれだけ修行(努力)をしても、恐怖心をゼロにはできない)。

さて、判断力のない人たちと言えば、多くの国会議員(と地方議員)の皆さんである。自分たちがその宗教団体の広告塔をつとめ、その団体にお墨付きを与え、その宗教団体が信者から金を吸い上げる手伝いをしたことに、何の自覚も危機感も罪悪感もないことに驚くし、「何が問題なのかわからない」と言う自民党の議員さんまでいた。「おいおい、自分の身辺のリスク管理もできない国会議員が、世界情勢を判断して、日本の安全を守れるのか?」という疑問というかそれこそ危機感がわく。

政治家として付き合っていい団体とそうでない団体、お金を受け取ってもいいときと受け取ってはまずいときを見極める(時代劇「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵がよく言うところの)「勘働き」(直観)が悪すぎないか……いやいや、「勘働き」などという高級なものがなくても、秘書さんに調査させればいいだけのことだ。

たぶん想像するに、多くの国会議員(と地方議員)の皆さんが、最大に関心と危機感をもつことは、「自分が次の選挙で勝てるかどうか」、「永田動物園で出世できるかどうか」ということのようで、そういうことに関して恐怖心を強くもっているかぎり、「集票力」という麻薬をもった宗教団体(別の宗教団体がこの機に乗じて、議員さんたちに近づいてくるかもしれない)との関係はそう簡単には断ち切れないだろう。

恐怖ビジネスで成長してきた宗教団体と「恐怖感」に主導されている政治家の皆さんは、ある意味ではとてもピッタリな関係のように思え、強く引き合ってしまうのも無理はないかもしれないと、あきれながら納得もしている――私の印象では、安倍元首相はとても「憶病な人=恐怖心が強い」人だった感じで、だからこそその宗教団体と特に強く引き合ってしまったのかも……


過去の関連ブログ

*2017年5月26日「恐怖ビジネス」

*「霊と金」2010年4月15日

*「心の中のカルト(1)」2021年3月7日

*「心の中のカルト(2)」2022年3月24日

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*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



桜と戦争2022年04月18日 09時19分37秒

4月――日本列島が桜で輝く季節である。先日、今まで行ったことがない桜の名所へ、母を連れて桜を見に行った。桜を見ると今年一年の元気が湧くような気がする。

ベンチに座って桜を眺めたあと、数瞬目を閉じて瞑想する。すると、桜も桜の美しさも喜びも消え、ただ「在る」という平和の感覚だけがある。

同じ日、テレビのニュースはウクライナの惨状を伝える。人間の愚行への苦痛と哀しみが湧き、また数瞬目を閉じて瞑想。テレビの音声は遠くから聞こえているものの、意識を中心に向けると、ただ「在る」場所へ到着。

そして、目を再び開けて、昨年出版した『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著)の下記の文章を思い出した。

「この世界のことを心配しないようにしてください。というのは、死すべき人間はこの世界をけっして理解することはできません。この世界は非常に混乱し、混迷しているように見えます。この世界の中にとても素晴らしいものもたくさんあるように見えますが、同時に非常に多くの破壊、人間の人間に対する非人道的行為もあるように見えます。卑劣な物事がこの世界の美と喜びと交じり合いながら、あらゆるところで進行しています」『ハートの静寂』110ページ

現象映画とは常に、「卑劣な物事がこの世界の美と喜びと交じり合う」ものであり、人は人生の喜びだけを選ぶことはできないのだと、改めて自分に思い起こさせた。

[昨年の新刊]



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「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」(ラメッシ・バルセカール著)が、発売になりました。本体価格:2,550円 (用語解説と訳者あとがきも含めた本文ページ数、378ページ)

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[電子書籍既刊]

ラメッシ・バルセカール     『誰がかまうもんか?!』

ヨドバシ電子書籍ストア


トニー・パーソンズ  『何でもないものがあらゆるものである』

「人をめぐる冒険」


「頭がない男-ダグラス・ハーディングの人生と哲学」
*定価:本体価格2,500円+税 *版型:B5版(フラカラー)183ページ*発行:ナチュラルスピリット 
*目次詳細 

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