目指せ!「寝たきり老人ゼロの国」 ― 2025年05月01日 08時12分44秒
[イベント]
*リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都文京区)
2025年5月11日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
*オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2025年5月18日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
*オンライン「非二元の探究――実験と瞑想の会」
2025年5月4日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年5月22日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
上記のイベントについての詳細はこちらへ
2025年5月11日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
*オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2025年5月18日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
*オンライン「非二元の探究――実験と瞑想の会」
2025年5月4日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2025年5月22日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
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[新刊発売お知らせ]
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
ナチュラルスピリット発行)発売。
ナチュラルスピリット発行)発売。
ニサルガダッタ・マハラジの師の本、初邦訳!
価格:本体1800円+税
ページ数:176ページ日本では高齢者の増加にともなって、医療費もものすごいスピードで伸びている(私もここ数年、医者から薬を処方してもらっている身である)。それで政府も、人数の少ないところから(=選挙に影響が出ないところ)から、医療費の削減を目指そうとして、「高額医療費の自己負担額の引き上げ」が先日国会で議論された。
しかし、日本の医療費の削減って、まず終末高齢者に対する不要な延命治療をやめる、そして、(延命治療をやめる場合に、医者が刑事的に訴えられないように)法的整備をすることあたりから始めるべきではないかと、私は思っている。もう回復の見込みのない老人たちを寝たきり状態で生かしておくことに、どれだけの医療費が使われていることだろうか。高齢世代の福祉や医療のためばかりに税金が使われているという、若い世代の不満ももっともなことだ。
最近、『欧米に寝たきり老人はいない』(宮本顕二・宮本礼子著 中央公論新社)という本を読んで、欧米では、終末期高齢者への人工的水分・栄養補給は非常識で、むしろ人権侵害であるというあたりに私はかなり共感した。なぜ人権侵害かと言えば、それは本人にとって、ひどい苦痛となるからだ。本書では、2007年にスウェーデンの高齢者医療を見てきた著者たち(お二人ともお医者さん)が、今後の日本の終末医療について考察と提言をしている。
私も会員である、「日本尊厳死協会」の会報には、「親、夫や妻をこんなふうに看取りました」という読者の投稿がたくさん掲載されている。亡くなった人たちが「日本尊厳死協会」の会員である場合、家族は医者や医療機関に「本人の意志で、延命治療を希望しない」ことを強く伝えると、今ではたいてい病院や医者も理解を示し、本人や家族の希望通りにしてくれるという。
しかし、なかには、本人が植物状態になって、家族が、経鼻経管栄養(チューブによる栄養)を流すのをやめて欲しいと頼んでも、病院側から断られることもあるという。
もし今、若者、中年、老年の健康な人たちに、「回復の見込みがないときに、あなたは寝たきり状態で、長く生きたいですか?」とか、「胃ろうして生きたいですか?」と質問したら、ほとんどの人が、そんなふうにして「長生きしたくない」と答えるだろう。
だから、政治家の皆さんが、「寝たきり老人ゼロの国」のための議論を始めて、国民にも考えてほしいと言ったら、それは世代間の対立なく、みんなに関心をもってもらえる話題だろうし、「医療費の削減とより人間らしい死」が両立する社会が実現すれば大変によいことのはず……。
しかし、「はず……」ではあるが、日本で実現するにはまだまだ長い年月がかかるだろう。
その理由は、「終末期高齢者への人工的水分・栄養補給は非常識で、むしろ人権侵害である」という考え方は、長い間の日本人の考え方――いかなるときも延命は善であるという医学的倫理価値観、まだ延命治療をすれば生きることができる人を、早く死なせることへの家族の罪悪感などに、価値観の転換を迫るからだ。
人間は考え方、価値観を変えることに非常に抵抗する生き物である。加えて、医療機関や介護施設の都合(←「寝たきり老人」や「胃ろう」は儲かるという身も蓋もない話)なども聞いたことがある。そういった様々な複雑な事情が絡み合って、「もう回復しないことがわかっているときには、安らかに死にたい」という願望が実現しにくい社会となっている。
終末期高齢者への人工的水分・栄養補給は人権侵害であるという考えに私が納得するのは、父が亡くなる前の最後の数か月病院に入院していたとき、自分でもうほとんど食事もとれず、点滴栄養を受けていたときの様子を思い出すからだ。父は「痛い」とか「苦しい」とは絶対に言わない人なので、いつも黙って耐えていた感じだった。私たちは、父が医者と西洋医学をとても信じていたので、「病院で死ぬことが父の望み」と単純に思っていたが、父が亡くなったあとで、最後の1ヶ月くらいは自宅で看ればよかったのかもと後悔した。
さて、昔の後悔はさておき、母の場合(まだ一人で食事はできるし、食欲も衰えてはいない)、心安らかに平穏に看取ることができるのかどうか、家族にも覚悟が問われる感じである。
「日本尊厳死協会」サイト
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
異星人、たぶん存在するかも……(2) ― 2024年12月25日 09時57分03秒
[ケロケロ様へ]
「Master Key toSelf Realization 」をお待たせして、大変申し訳ありません。私の時間予想能力があまり当てにならず、スケジュールは、私にコントロールできないことなので、ご理解いただけば、ありがたいです。たぶん、来年の春くらいまでには、とぐらいしか現時点は、出版時期を申し上げられません。また原稿の販売もできません」
[ お知らせ]
*「Master Key toSelf Realization 」の発行は来年となります。諸般の事情で遅れてしまい、お待ちいてだいたいる皆様には、お詫び申し上げます。
最近読んだ「異星人とのコンタクト」物語を紹介しようと思ったものの、文章を書く体力、タイピングする体力がかなり尽きている。それで、いくつか読んだものから、その中に書かれていることを短く紹介すると:
*地球という惑星や地球人に関心をもっている異星人はたくさんいる(←現在では、異星人の種類、イラスト、性格や寿命、その惑星の地球からの距離が記載されている異星人図鑑みたいなものまで出ている)。
*異星人の種類は大まかに分けると3種類で、いわゆるヒューマノイド型(人間に近い)、グレイ型(目が大きい)、それからレプタリアン型(爬虫類型)がある。
*異星人の中には、人類を誘拐したり、人体実験をしたりするいわゆる地球人に敵対的な悪い(?)異星人もいるし、地球に友好的な異星人もいる。
*よい(?)異星人たちは連合を作って、地球を見守っている。
*アメリカ政府は、昔から異星人の存在を知っていた。
*多くの異星人はすでに地球のあちこちに基地をもっており、異星人と地球人のハイブリット的人間も多く生まれている。
*異星人の種類は大まかに分けると3種類で、いわゆるヒューマノイド型(人間に近い)、グレイ型(目が大きい)、それからレプタリアン型(爬虫類型)がある。
*異星人の中には、人類を誘拐したり、人体実験をしたりするいわゆる地球人に敵対的な悪い(?)異星人もいるし、地球に友好的な異星人もいる。
*よい(?)異星人たちは連合を作って、地球を見守っている。
*アメリカ政府は、昔から異星人の存在を知っていた。
*多くの異星人はすでに地球のあちこちに基地をもっており、異星人と地球人のハイブリット的人間も多く生まれている。
私は異星人図鑑のようなものを眺めながら、まるで人類の人種の図鑑のようだとは思ったが、それぞれの異星人の姿形の違いと比べれば、地球上の人種の姿形の違い(肌や目、髪の毛の色の違い、体型など)などは、ほとんどないに等しい。
人間型の異星人はまだいいとして、グレイ型やレプタリアン型の異星人が目の前にいたら、「すべての存在を受容」などという非二元的観念がふっとび(笑)そうで、恐怖心に圧倒されてしまうかも。あるいは、友好的な異星人だったら、「ハーディングの実験をいっしょにやりますか?」とか言って、いっしょに指差し実験とか紙袋の実験をやったら、どんな感じだろうかと、想像して可笑しくなった。
さて、「異星人とのコンタクト」の話になると、熱狂的に信じる人たちと「そんなの本人の想像にすぎない」と完全に否定する人たちがいる。私はいつも「書かれていることは、本当かもしれないし、本当でないかもしれないが、自分にとって興味深く読めればそれでいい」という態度で読むことにしている。
実は、今までの人生でいわゆるUFO(未確認飛行物体)みたいなものを、20代、30代の頃数回見たことがある。そして、「この人、地球人じゃないかも」という強い印象を受けた人に、人生でたった一人だけ出会ったことがある。まあ、そういう私の過去の記憶も、「本当かもしれないし、本当ではないかもしれない」。
[お礼]
1年間、貴重なお時間をさいて、ブログを読んでいただき、また動画を視聴していただき、ありがとうございました。また、ご質問やコメントを寄せていただきました皆様、様々な形でご支援してくださった皆様にも、心からお礼を申し上げます。それでは、楽しい年末年始をお過ごしください。来年は1月の終わりか、2月の初めからブログを再開する予定です。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
by シンプル堂 [社会] [コメント(1)|トラックバック(0)]
Master Key to Self-Realization (6) ― 2024年11月24日 08時57分05秒
[ ハム様へ]
「コメントをいつもありがとうございます。はい、真理を探す必要はありません。書かれているように、すべてがそれでできているわけですから。一方で、「聖なる催眠」によって、人が長い間、彷徨し、あちこちを探しまわることも仕方のないこと……なぜなら、誰も自分の意志でスピリチュアルな探求するとかしないとか選択したり、決めたりしているわけではないので。「聖なる催眠」--ラメッシの教えの中の好きな言葉です」
[ イベント]
◎リアルの会「私とは本当に何かを見る実験の会」(東京都文京区)
2024年12月10日(火曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
◎オンライン「非二元の探究──「気づき」を練習する」
2024年12月8日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで ←予約受付終了しました。
2024年12月10日(火曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
◎オンライン「非二元の探究──「気づき」を練習する」
2024年12月8日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで ←予約受付終了しました。
2024年12月19日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年12月15日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
シッダラメシュヴァール・マハラジの伝統では、師となる人たちはみな「マハラジ」(インド文化において、聖人につける呼称)という名前がついている。
シッダラメシュヴァール・マハラジ (1888–1936)
ニサルガダッタ・マハラジ(1897-1981)
ランジット・マハラジ(1913-2000)
ラマカント・マハラジ(1941-2019)
ニサルガダッタ・マハラジ(1897-1981)
ランジット・マハラジ(1913-2000)
ラマカント・マハラジ(1941-2019)
ところが、ラメッシ・バルセカールはニサルガダッタ・マハラジに師事し、彼の後継者とされたにもかかわらず、改名していない。彼はこの派の伝統を継ぐ者とは見なされていないようだ。それはどうしてなのだろうか?
私の印象では、ラメッシ・バルセカール(1917~2009)はニサルガダッタ・マハラジを敬愛し、師事したにもかかわらず、自分がこの長い歴史をもつ派の一員であり、その伝統を継ぐという観念がほとんどなかったのではないかと思う。そもそも彼には、自分が師(グル)であるという観念も非常に薄く、最初は話すことにも抵抗していたようだ。だから、名前を変えることにも、師として弟子にマントラを伝授するとか、瞑想法を教えるとか、そういったことにも関心をもっていなかった。また、前にも書いたように、(私が彼の本を読んだかぎりでは)彼は講話の中では、Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)の中で説明されている様々なボディの話を話題にしたことはない。
しかし、ラメッシが様々なボディの話を知らなかったわけではない。それどころか、彼の初期の著作、Explorations into the Eternalには、各ボディを詳しく説明している章がある。ラメッシの説明は、今回私がMaster Key to Self-Realizationを翻訳するにあたって非常に参考になり、ありがたかった。
話を各ボディに戻すと、人がどのボディに立脚して生きているかによって、世界の認識が異なると言える。ボディとは「世界を認識する窓」とも言え、人々は、自分が寄って立っているボディにしたがって、世界を認識し、理解する。なので人々がお互いに話し合っても、その理解と認識の立脚点が異なれば、お互いにまったく話がかみ合わない(ということは、皆さんも日常生活でよく経験することがあると思う)。そういうときは、議論に参加せずに沈黙が一番よい(笑)……
ということで、Master Key to Self-Realization の中で語られている知識は、仮にそれらがなくても、非二元の探究の決定的障害にはならないけれど、でも知っていれば、色々な知識が整理され、他のインド系の賢者の本を読むときに、理解がすすむかもしれない。(出版時期、価格、正式タイトルは、現時点でまた未定です)
最後に、過去に出版された非二元系の本で、Master Key to Self-Realizationと合わせて読むとよいと思われる本を紹介したい。
*『アイアムザット私は在る』ニサルガダッタ・マハラジ(ナチュラルスピリット発行)
本書の一部に、各ボディへの言及がある。
*『覚醒の炎』プンジャジ(ナチュラルスピリット発行)
27「誰もそれを言い表した者はいなかった。誰もそれを言い表せないだろう」
27「誰もそれを言い表した者はいなかった。誰もそれを言い表せないだろう」
トゥリーヤー(Master Key to Self-Realization での「グレート・コーザル・ボディ」にあたる)とトゥリーヤーティーター(Master Key to Self-Realization で「絶対」にあたる)を説明。
*『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』ラメッシ・バルセカール(ナチュラルスピリット発行)39「あなたは意識している存在である」
存在(Master Key to Self-Realization での「グレート・コーザル・ボディ」にあたる)と絶対的不在(Master Key to Self-Realization で「絶対」にあたる)について説明。
*『顔があるもの 顔がないもの』(現在絶版)ダグラス・ハーディング
五章 「存在が自ら生じる神秘」
五章 「存在が自ら生じる神秘」
絶対的無から存在が生じる神秘について語られている。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
by シンプル堂 [読書] [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
Master Key to Self-Realization (5) ― 2024年11月05日 10時13分57秒
[お知らせ]
(Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)の出版スケジュールは現在、まだ未定です)
Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー) (2)の中でも少し触れたように、ニサルガダッタ・マハラジは晩年の講話で、目に見えない体(ボディ)について語らなかった。先日たまたま読んでいたラメッシ・バルセカールの文章に、その理由が書かれてあった。
それを要約すれば、「マハラジは(Master Key to Self-Realizationの中で説明されている)4つの体を一つの器官と見なし、それらとの一体化が束縛を生み出すとだけ繰り返し、個々の体の詳細にはほとんど立ち入らなかった。ニサルガダッタ・マハラジの帰依者たちの中には、彼にもっとそれらの詳細を語って欲しいと思っていた人たちもいたが、マハラジにはそうするだけの時間と気力がなかった。彼の方法はもっと直接的アプローチであった」(Explorations into the Eternalより)とある。
その直接的アプローチとは、前回説明した下記の中で、肉体から一気に、グレート‐コーザル・ボディを経て絶対へ「上る」(というか、ニサルガダッタ・マハラジの言葉では、「戻る」、ハーディングの言葉では、「落ちる」)アプローチである。
グロス・ボディ(肉体)
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
絶対
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
絶対
晩年のマハラジが採用した「直接的なアプローチ」、そしてもっと直接的アプローチである、ダグラス・ハーディングの方法(実験)には、当然のことながら、利点と欠点がある。直接的アプローチは、言葉や議論という横道にそれることなく、「私の本質」に目覚めることを可能にする一方、探求者たちのグロス・ボディ(肉体)、サトル・ボディ、コーザル・ボディに多くの調査されない領域を残す可能性がある。調査されない領域を残す各ボディは不安定ゆえに、日常生活で問題や障害、疑念を生み出しがちである。
直接的アプローチは例えて言えば、ヘリコプターで山の9合目まで連れていってもらい、そこから頂上を目指す感じである。この方法は、むしろ下りのほうが大変で、今度は自力で一歩一歩降りて来なければならない。上る苦労をしない分、下りでは滑ったり、転んだりする。それが今述べた日常生活での問題や障害という話である。
それに対して、本書で、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが提唱する方法は、とにかく一歩一歩、下からすべてのボディをすみからすみまで徹底的に調査する。疑念の余地がないほどの調査をする。この登山方式の欠点をあげれば、探求者が各ボディについての知識を知ることに満足したり、その知識を元に議論に耽溺したりすれば、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが本書で意図したことからまったく外れてしまう。
おそらく、そうした横道にそれないためにも、グル(師)が必要ということになり、このシュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの派では、グルへの献身と帰依、マントラ伝授と瞑想が欠かせない。そして、それらの修行とセットで、本書の学習がある。
しかし、特定のグルや教えに帰依してない人たちでも、ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールの本を読みながら、「私」とは何か? を熱心に探求している人たちには、彼らの本が充分に説明しなかった領域を理解させてくれるという意味で、本書は多いに役に立つだろうと、私はそう希望している。(次回が本書の紹介の最終回です)
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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by シンプル堂 [読書] [社会] [コメント(1)|トラックバック(0)]
「日本人、死ぬな!」 ― 2024年08月07日 06時01分07秒
[お知らせ]
Master Key to Self-Realization についての紹介は、発売時期が決まりましたら、残りを書きます。
先日、ネットに、アフリカの人が投稿した、「日本人、死ぬな!」という動画が話題になっているという記事が出ていた。
そのアフリカの人(たしか、カメルーンの人)は、日本では、過労自殺をする人が多いことを知って驚き、そんな動画を日本人向けに投稿することを思いついたそうだ。彼は、「私の国は、日本に比べれば、非常に貧しいけれど、でも、仕事で死ぬ人は誰もいない。もし日本でダメなら、アフリカに来ればいい」と、日本人に呼びかけている。
彼の日常は、日本での生活環境とは違い、トラブルにあふれている。電気の供給は不安定で、たびたび止まり、養鶏業には強盗が入り、マラリアなどの感染がたびたび発生する。それでも、人々は自殺することはない。
日本でダメなら、他の国へ行ってみる――特に若い世代の人たちには、機会があれば、海外へ、特に日本よりかなり不便な国へ行くことをお勧めする。私も大昔、インドへ行って、カルチャー・ショックを受けたことを思い出す。何もかもが日本とは真逆で、最初の頃、毎日驚いていた。
日本よりも生活環境の整っていない所でしばらく生活すると、たいていなんというか、物事がスムーズにいくことを期待しなくなり、「怒っても、仕方ない。最後はなんとかなるだろう」みたいに、楽観的というか、前向きにあきらめることを学ぶようになるものだ。
すべてが便利で、整っている日本のような社会にいると、その便利さがあまりに当たり前になる。そして、少しでもその便利さが失われると、人々はイライラし、他者に対して、寛容でなくなり、怒りっぽくなる。そして、働く人たちは時間に終われ、ノルマに追われ、人間関係(お客、同僚、上司など)に気を使い、疲労する社会となる。
ずっと昔から、過労自殺、過労死のことが問題になっているのに、労働環境はほとんど改善されず、海外の人たちからも同情されている日本。それどころか政府自らが、マイナンバー・カード、マイナ(マイナンバー・カード)保険証を国民に押し付けるために、無駄な税金を使い(本当に便利なものだったら、自然に広まるはず)、色々なところで労働とストレスを増やしている。一体、マイナ保険無理やり推進で、「誰が」儲かったんだ?と勘繰りたくなる――マイナ保険証に、紙の保険証(最後の更新から1年間は使えるらしい)、資格確認書に、いずれはスマホの保険証と、医療機関の窓口の混乱必須。
先日見ていた時代劇――村々の米の出来高を毎年調査する悪代官が、賄賂をもらった村の収穫の査定は低くし(そうすると、年貢をたくさん収める必要がなくなる)、賄賂を出さない村の収穫は高く査定する(豊作と査定されると、年貢をたくさん収める必要がある)という、あくどいことをやっていた。賄賂を出さない村の、正義感の強い名主が悪代官のところへ、「これ以上年貢が高くなると、村民は暮らしていけない」と抗議に行き、江戸の目安箱へ訴えると言い放った。翌日、彼は死体で川に浮いていて、すべての責任をとって自殺したとされた(実際は、悪代官に殺されたことが、あとでわかる)。
権力の不正を抗議する正義感の強い人たちは死に、強欲な権力者たちは罪悪感もなく生き延びる。これって、数百年後の今も、時々見ている風景……
「日本人、過労自殺するな! 働きすぎるな! 権力者の不正くらいで死ぬな!」
そして、特に今、(日本だけが暑いわけではないけど)、「日本人、暑さで、死ぬな!」
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
「公正世界仮説」 ― 2024年02月25日 09時27分39秒
[イベント】
◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる」
先日、『逃亡者』(中村文則著 幻冬舎発行)という小説を読んでいたら、「公正世界仮説」という心理学の用語が詳しく説明されていた。少し前に読んだネットの文章の中でも、「公正世界仮説」の話が書かれてあり、「公正世界仮説」という言葉(最近まで私は知らなかった)は、最近の流行の心理学の用語らしいことに気づいた。
ウキベディアの情報によれば、「公正世界仮説」は次のように定義されている。
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC
実は、こういった「公正世界仮説」的考え方は、キリスト教や仏教など伝統的宗教から、最近のスピリチュアル系の教えの中にも暗黙に含まれている。なぜなら、伝統宗教も含めてほとんどのスピリチュアル系の教えは、「カルマ」=「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」ということを教えているからだ。昨年出版されたジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)にも、聖書の中に出てくる「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」の話が山ほど言及されている。
しかし、「公正世界仮説」に反論する人たちも非常に多くいるようで、実はその反論が興味深かったので、本日の話題に取りあげたわけだ。中村さんは『逃亡者』の中で、その反論をこう書いている。
「公正世界仮説は社会の問題を個人の問題に還元する。公正仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減る」。「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」。(以上『逃亡者』より)。だから、中村さんは、「自分は公正世界仮説的ではない小説を書きたい」、という主旨のことも書いている。
それから、ネットには、公正世界仮説的考えを信じている人から説教されたり、批判されたりして、苦痛を感じるという話がたまに出ている。たとえば、こんな感じだ。
「あなたが色々なことをうまくやれないのは、あなたの努力が足りないからだ」とか、「あなたは自分の苦しみを、親とか、子供の頃の環境とか、社会のせいにしている」とか。
私の印象では、「公正世界仮説」的な信念を強くもっている人たちは、「自分の努力のおかげで、あるいは自分のポジティブな考え方・人生観のおかげで、自分は成功した。あるいは、自分はこの世界での快適な立場を獲得することができた」と信じている人たちが多いように感じる。そういう信念をもっている人たちから見ると、多くの人たちは自分で努力もせず、他人ばかりを責めているように見え、よせばいいのに、つい批判したくなるわけだ。
「私にできたことが、なんであなたにできないの? あなただって、親や社会や家族のせいにしないで、自分で頑張れば、人生がもっとうまくいくようになるはず」みたいなことを言い、本人としては、正しいことを言って、相手を励ましているつもりになっているが、言われたほうは、非常に苦痛を感じる。
ここで対照的な二人の人(AとB)を想像してみよう。二人は30代の半ばのほぼ同年代だが、生まれ落ちた環境は真逆だ。Aは経済的に恵まれた家庭に生まれ、親は愛情深く、子供に理解があり、なんでもしたいことをさせてくれたので、Aは子供の頃から好きなことをして、今は自分の才能を生かして、高給を稼いでいる。一方Bは、父親は暴力をふるい、母親は育児放棄をするような家庭に生まれ、児童養護施設で育てられ、そこを出たあとは、真面目にずっと働いている。でも、時々精神の状態が悪くなるので、働けないときもあり、収入も多くはない。
誰が見ても、Aは圧倒的に有利な環境から人生をスタートし、Bは圧倒的に不利な環境から人生をスタートさせている。BにもAと同じく生まれつきの才能があるはずだが、自分の才能を発揮する前に、まず残酷で冷たい敵だらけのこの世界(のように見える場所)で、どうやって生き延びるかのほうがはるかに重要になる。別の言い方をすれば、「才能を発揮」などという贅沢なところまで、自分の感情やメンタルが追い付いていかないわけだ。
人が「公正世界仮説」的な信念をもつことそれ自体は個人の信念の問題なので、間違っているわけではないが、自分のその考えをもってして、人生がうまくいかなくて、生きることに苦しんでいる人達を批判したり、説教したりするのは、彼らに想像力と理解が欠如し、また自分の考えが絶対に正しく、誰にでも当てはまると考えるからだ。
もちろん、どれだけの想像力と理解力をもってしても、私たちは他人の苦しみを本当には理解できない。なぜなら、同じような体験をしていないから。それでも多少の想像力と理解力があれば、もし自分もひどい環境に生まれ落ちたら、彼らのように、自分自身や親や生育環境に対してネガティブに考えるかもしれないと思うだけの謙虚さをもつことはできる。
私の中にもかなり「公正世界仮説」的考えはあり、私は自分の苦しみを他人や社会のせいにしないことを20代の後半に決心した。なぜなら、私の場合は、社会や自分以外の人を責めるほうが苦しく、みじめに感じたからだ。ただし、上記のウキベディアの定義の中で、「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ、という部分は、私には当てはまらないし、私はそういうことを信じていない。大宇宙の絶対的摂理(神の摂理)は確信しているが、それは人間が考える正義ではない。
私たちの肉体が所属しているこの二元世界は、非常に不公平で不正義に満ちている。二元的人間社会の中では、人間の正義や公正であろうとする努力はほとんど報われないというのが、私たちが見聞している事実である――ある子供たちは恵まれた家庭環境に生まれ、何の苦労もなく、才能を発揮して、人生の成功をつかみ取る一方、ひどい家庭環境に生まれた子供たちは、その環境の束縛に長い間苦しむ。正義感の強い人たちは権力者に抹殺され、権力者はのうのうと生き延び、庶民は真面目に働き、強制的に税金を払わされる一方、政治家たちは楽に金を集め、税金逃れをして、それでも罰せられないでいる。以上の社会的事実は、日本だけでなく、先進国でも後進国でも見られることだ。そして、いつの時代でも。
中村さんは、「公正世界仮説」への反論、「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」と書いているが、「公正世界仮説」が流行してもしなくても、社会という場所にはいつの時代でも悲劇は起こり続けると、私はそうは思っている。
多くの人間はいつの時代も、「改革」「改善」に取りつかれている。だから、「公正世界仮説」が広まっても広まらなくても、多くの人たちは社会制度、技術を「改革」「改善」するために働き、社会は長い目で見れば、人間が考える「改革」「改善」に向かっている。少なくとも、日本という国を長い目で見たとき(数百年くらいの長い期間)、江戸時代より、明治時代よりも、現代は改善、改革されただろうか? 多くの点で、はるかに人々は快適な生活を送っている。江戸時代は、武士以外に人権はなかったが、現在では庶民にもいちおう「人権」がある。江戸時代、女性にはまったく自由がなかったが、現在は、そのときよりも女性の自由は「改善」されている。
それにもかかわらず、どんなに社会制度や技術が改善、改革されようが、社会の中で、不正義と不平等と不正は横行し、その社会の中で多くの人たちは苦しみ、悲劇は起こり続ける(最近、世界でもっとも公正で幸福な国の一つであるとされているフィンランドでは、自殺が非常に多いことを知って驚いた)。
そして、小説家はその悲劇、人々の苦しみをネタに反「公正世界仮説」的小説を書き続ける。もし小説家が、人々に楽しんで読んでもらえる小説を書きたいなら、反「公正世界仮説」的小説を書く以外にはない。なぜなら、もし小説の登場人物が、「私は自分の努力とポジティブな人生観のおかげで、人生の成功をつかんだ」というような「公正世界仮説」を信じるような人たちだけだと、小説としては非常につまらなくなるから(笑)。私は中村さんの小説のよい読者ではないけど、それでもなぜか彼の小説が気になる。だから、これからも頑張って、反「公正世界仮説」的小説を書き続けていただきたいものだ。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
by シンプル堂 [読書] [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
「差別するな」は正論ではあるけれど… ― 2023年10月16日 09時48分12秒
[お知らせ]
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(7)まで公開中。
先日公開した『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、長年、日本に住んでいる在日韓国人の人が、「自分は日本に長年住んで、差別を受けてきたが、(スピリチュアルな学びの中)で、差別する人たちも愛することが重要だと学んできた。しかし、日本人の差別意識がなくならないのはどうしてなのか?」という質問をバーソロミューにしている。
それから、今年の初めだったか、ネットで美輪明宏さんが、政府高官の同性愛に対する嫌悪発言に対してコメントしているのを読んだ。美輪さんが人気絶頂だった若い頃、同性愛であることを公表したら、人気は凋落するは、道で石を投げつけられるはで、ひどい差別を受けたそうである。でも美輪さんはありのままの自分を受け入れることを決心し、そういった差別に負けないように、強く生きてきたという話である。美輪さんは最後に、「犯罪を犯したわけでもなく、人を傷つけるわけでもなく、ただ同性を愛したからといって、それの何がいけないの?」という主旨の言葉でコメントを締めくくっていた。
それから、つい先日、生まれつき両腕と両脚がない先天性四肢欠損症の障害がある乙武洋匡さんが、「半袖を着てテレビに出演しただけで、『気持ち悪い』『長袖を着ろ』とコメントが来るけど、これが俺の身体だ。母から産んでもらった、大事な俺の身体だ。誰に恥じることもない。隠すこともない。これからも、この身体で生きていく。みんなの助けを借りながら」と発言しているのを読んだ。
在日外国人、性的少数者、身体障害者の人たちが経験しているこういった差別的言動は、別に日本の中だけでなく、世界共通、人類共通、そして、歴史上すべての地域と時代にもあることは、様々な時代と地域の話を読んだり、歴史を少し学んだだけでも、明らかなことである。リベラル派の人たちは「差別感情はいけない」、「差別するな」と言うし、それはもっともな正論ではあるし、社会の法律や制度が差別を少なくする方向へ進むのは正しいことだと、私ももちろんそう思っている。しかし、特定の何かに対する差別的感情(=「あれは、気持ち悪いとか」とか、「ああいう物(人)は見たくもない」のような感情や嫌悪感も含めて)は誰の中にもあるものではないだろうか? 私にもあるし、これを読まれている皆さんにだってあるだろうし、そして、「差別はいけない」と言っているリベラル派の人たちの心の中にだって、そして、差別された経験のある人たちにさえ、何かあるはずだ。
だから私は「差別するな」と言う前に、人がもつ人類共通の差別感情の起源はどこから来ているのか、なぜ人は人を差別するのか、そのあたりを理解することから始めるほうが、個人の人生にとっては役立つのではないかと思っている。それで、今日は、人間がもつ差別感情について、私が理解したことを分かち合ってみたい。
人がもつ他者への差別感情とはどこから生まれるのか? この問いに関して、あるとき参考になる話を読んだことがある。それは人の話ではなく、アリの話である。アリという生き物は、匂いにとても敏感で、自分の巣の中に、別の種類のアリが入り込んだときは、「異なる匂い」によって察知し、すぐにみんなで殺してしまうそうだ。
こういう状況のアリたちの感情(みたいなもの)を推測すれば、たぶんこんな感じだ。
「おーい、ここに変な匂いの奴がいるぞ。こいつは俺たちの仲間ではない。こんな奴をのさばらせておいたら、どんどん増殖して、俺たちが少数派になってしまったら大変だ。さっさとやっつけてしまおう!」
アリを殺し(暴力)へと駆り立てるものは、異種のものが増えて、強大になり、自分たちの生存への脅威になることへの恐怖心であろう。この話を読んだとき、「ああ、人間が他の人間に対してもつ差別感情の起源も、恐怖心なのかも」と、私は納得した――「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心。
それに加えて、人間には高度に発達した物事を区別し分析するマインドの機能がある。区別し分析するマインドの機能と集団生存本能(=自分たちの集団が生き延びるために、敵を攻撃する本能)のタイアップで、人類は他の生き物を凌駕し、地球の生き物の頂点にたった(つまり、生き物の勝ち組になった)わけである。だから、そう簡単には、「自分たちとは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を、人のマインドからは追い出すことはできないのだと、そう今では私は理解している。
さらにそれに加えて、人間のエゴは集団の中の階級制度が大好きで、その中で上にあがったり、下に落ちたりという階級ゲームに中毒している。誰かを自分よりも下や上に見なければ、気が済まないエゴの性質、エゴの平等嫌い(笑)、それも差別感情を助長する。
まとめれば:
*「異なる匂いの者」への恐怖心。
*区別し、分析するマインドの能力。
*エゴが中毒している階級ゲーム。
*区別し、分析するマインドの能力。
*エゴが中毒している階級ゲーム。
この三つがタイアップして、人のマインドの中に差別感情が増殖するのではないかと。
私が自分の人生で、「自分とは異なる匂いをもつ者」への恐怖心を強く感じた瞬間を思い出す。それは20代のときに、アメリカで暮らしていたときの話だ。あるとき、知人の日本人の女性が彼女が付き合っている黒人のボーイフレンドを紹介すると言って、一緒に連れてきたことがあった。私はそれまで黒人の男性とすぐ間近かに対面したことがなく、しかも彼女のボーイフレンドはバスケットボール選手並みのとても大柄な男性だったので、最初に会ったとき、自分の前にそびえたつ感じで立っていたその黒人の男性を見上げたとき、一瞬強い恐怖心(何か非常に自分とは異なる生き物を見たような感じ)を感じたものだ。でも彼はとても感じのよい人だったので、話しているうちにその恐怖心はすぐに消えたが、それでも、「自分が人種に対して差別感情などないリベラルな人間だ」とそのときまで信じていたので、その一瞬の「恐怖心」はかなりショックだった。
バーソロミューは、『バーソロミュー1994年京都ワークショップ』(7)の中で、人は差別する側の痛み、そして差別される側の痛み、その両方の痛みに気づくことが重要だと言っている。もし私たちがスピリチュアルな探求者であれば、その痛みの気づきが、スピリチュアルな進化を推し進めるということになるのだろう。
ネットには、特定の人(たち)への差別的言動、ヘイト・スピーチを繰り返す人の話がよく書かれていて、最近では、(お金と時間はかかるが)発信者を特定でき、損害賠償を請求できるようになっているという――数日前の新聞にも、在日コリアン3世の人へのヘイト・スピーチを繰り返していた男性に2百万円近い損害賠償金が請求されたという記事が掲載されていた。私はこういう発言を繰り返す人たちは、ものすごく大きな恐怖心と、誰かを自分よりも下なものとして貶めたい劣等感に苦しんでいるのではないかと想像する。自分よりも誰かを下だと貶めて攻撃することで、自分が強い人間だと思い込みたいエゴの快感に中毒しているのだと思う。
最後に、世の中の差別的感情・言動に加担しないために、政治的ではたぶんないスピリチュアルな探求者として何ができるだろうかと考えたとき、私自身は、先ほどバーソロミューが言ったように、差別する側の痛み、差別される側の痛み、それをそのつど感じ尽くすことではないかと思う。私が長年感じてきたことは、(そのことは科学的には証明できないが)、自分の心の痛みに、いわゆる気づきの光を与えるとき、そのことは、世の中に出まわっている無意識の差別感情が暴力的言動へと実現するパワーを弱めるのではないか、ということである。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
by シンプル堂 [社会] [精神世界] [コメント(0)|トラックバック(0)]
特権階級だったんだ!(苦笑) ― 2023年10月03日 08時54分17秒
[お知らせ]
◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」
2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(5)まで公開中。
文学賞に特別関心があるわけでもないし、賞をとった作品を積極的に読むわけでもないが、このあいだ芥川賞を受賞した作家、市川沙央さんのインタビューが大手新聞やネットに掲載されていたのをたまたま目にして、何回か読むこととなった。
先日ネットに出ていたインタビューでは、その受賞作品の一部も掲載され、私はそれを読んで、「私って、特権階級だったんだ!」(苦笑)とちょっと驚いた。
[私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。](『ハンチバック』より――(注)マチズモ=男性(力)優位主義 (注)ハンチバック=hunchback=脊柱後湾症)
私は明らかに、この小説の主人公が言うような、「目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性」を充分満たしている。人生の活動の中で、他の何よりも読書という行為に時間を使ってきて、それを「特権」だと思ってみたこともなかった。
子供の頃思ったことは、読書は、一番お金がかからず、他人も必要としない行為なので、それはどちらかといえば、お金のない、他に趣味のない、人付き合いの苦手な人が最低楽しめることなんだろうというくらいの認識で、読書している自分に優位性を感じたことなど一度もなかった。
大人になって、周囲が頑張って働く頃になっても、私は読書中心の生活を変えようともせず、ときには、「いいですね。そんな優雅な読書三昧な生活が送れて」みたいな皮肉の一つや二つも言う人も現れたが、私は一切の罪悪感を感じることもなく、「そんなにうらやましいなら、あなたもやれば」みたいに、心の中で冷たく言い返したものだった。
だから、「読書に多くの時間が割けることが、うらやましい」と思われる程度のことは多少想像できた。しかし、この小説の主人公が思うような、普通に読書することが憎しみの対象になるとは、今まで想像したこともなかった。
そして、もし普通の読書という行為が憎まれる対象になるなら、どんなことだって、普通に行われているあらゆる行為が憎しみの対象になりうるだろうし、それをちょっと想像したら、無限にリストがあがる。
二本の足で普通に歩ける「特権」が憎い。
手に茶碗をもって食べることができる「特権」が憎い。
料理を作ることができる「特権」が憎い。
外に働きに行ける「特権」が憎い。
普通に話せる「特権」が憎い。
普通に見たり、聞いたりできる「特権」が憎い。
以下、無限に続けることができる。
もしいわゆるこういった特権をもっている「普通人」が、こういう発言を聞いたら、驚いて、「ええ? そんなこと、何が特権なもんですか! 本当は、料理なんて作りたくないし、外に働きにも行きたくないですよ。手でお茶碗が持てることも、二本の足で歩けることも普通なことで、特権じゃないです!」と強い反論&反感が返ってくることだろう。
インタビューによれば、市川沙央さんご自身も難病を患い、車椅子の生活を送っているそうだ。そして彼女は、「この社会には障害者はいないことになっている」と言い、その一つの例として、金融機関のATMはまったく車椅子対応になっていない(つまり、車椅子に座った状態では、画面がよく見えないそうだ)ことを指摘していた。
金融機関のATMについてのこの指摘も初めて知ったことだ。たぶん、こういうことなのだと思う。この世の中で何かのシステムを最初に作るとき、大多数の「普通の人」が使うことを想定して作るわけで、その大多数から外れる人たちのことはほとんどかまったく想定されていない。それは意地悪とか差別というより、どちらかといえば、システムは普通仕様に作るのが一番安上がりで、時間がかからないからではないかと思う。多様な要素を組み込んだシステムを作るのは、たぶん、お金と時間がかかるのだ。
もちろん、そうすると、当然、その普通仕様のシステムから外れた少数の人たちにとっては、そのシステムは自分には合わないので、そのシステムの恩恵をほとんど受けることができず、社会の片隅で辛い思いをして生きることになる――身体的知的な障害者の人たち、在日外国人の人たち、性的少数者の人たち、学校教育システムから落ちこぼれる子供たち、その他。
今はそれでも、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの存在も、それらの当時者や支援者の人たちが自分たちの置かれた辛い状況を発言するようになり、以前よりはるかにその存在は知られるようになり、それはそれで、社会的に見れば進歩(歯がゆいほどの遅々とした進歩であるが)なのだと思う。つまり社会が、システムから外れた少数の人たちの存在を多少でも認めることができる、心の余裕、経済的余裕ができたということである。
その証拠に、経済的に貧しい国ほど、そして政治が独裁的な国ほど、その国の普通仕様のシステムから外れた少数の人たちは抑圧され、それこそ存在しないことにされ、中には、性的少数派であることが法律的処罰の対象となる国すらある。それは、そういった国には経済的そして精神的余裕がないので、多様性を認めることができないからである。
『ハンチバック』の著者の方は、「障害者がいないことになっている社会」にかなりの怒りをもっていると感じられたし、彼女だけでなく、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちが無視されていることへの怒り、悲しみの声は、今は特にネットにはたくさんでているし、大手新聞でさえとり上げることが多くなっている。
いちおう見た目普通(中身は全然、普通じゃないことが多いが)側のシンプル堂が、彼らの苦しみや悲しみを本当にはわかるはずもなく、余裕があるときにただ想像するだけだが、見た目普通側の言い訳をちょっとすれば、いわゆる普通仕様のシステムに適応している人たちだって、なんとかシステムから振り落とされないように必死で生きているだけで、ほとんどの人は様々な苦しみを抱えて生きている。
だから、多くの人たちは意地悪や差別からいわゆる少数派の人たちを無視しているわけではなく、単に心の余裕がなく、自分の問題や苦しみでいっぱいで、色々なことに気づかないだけなのだ。自分自身や自分の身近な人間が、なにかのきっかけで障害者になったとか、引きこもったとか、子供が不登校になったとか、障害のある子供が家庭に生まれたとか、そういう状況になって初めて、「ああ、普通じゃないって、こんなに大変なんだ」と、ようやくやっと気づくというわけである。
もし『ハンチバック』の主人公が、私の目の前に現れて、「のん気に好きなだけ本を読むことができる特権的立場にいるシンプル堂さんに、私の苦しみがわかりますか?」と迫って来たら、私は正直に、「わからないと思います」と答えるだろう。でも、もしそのとき私に心の余裕があれば、相手の立場にたってみることだろう。そうしたら、私も本がすごく好きなので、「本がものすごく好きで、たくさん読みたいのに、物理的制約で読めない彼女の苦しみの感情を少しは理解するだろうと思う。でも、別れたら、彼女の怒りも苦しみもまたほとんど忘れてしまうことだろう。
私たちの多くは、こんな感じで、世の中の苦しみをなるべく見ないよう、考えないようにして(そうすると、生きることがどんどん辛くなるから)、心の平安を保っている。
だから、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの人権活動をしている一部の人たちが、「おい、そこの鈍感な奴ら、私たちの存在、苦しみ、人権を無視するな! 私たちの存在を認めろよ!」みたいに、批判的攻撃的に出てこられたりすると、「もうこれ以上、私に世の中の苦しみを見させないで。私はもう自分の苦しみでいっぱいだから」とちょっと引いてしまう気持ちになるのは、よくありがちなことである。こういった普通の人たちの鈍感さや気づきのなさ、余裕のなさに対して、寛容や赦しを望むことは、少数者への無視・差別容認ということになるのだろうか……
さて、インタビューの中で、市川沙央さんは、「どうしたら小説家になれますか?」という質問に対して、「私には小説を書き続けるしかなかった(つまり、他にできることがなかったという意味)」と答えていた。私はその回答に非常に納得した。
もし人生で、「これしかない」、「これしかできない」、「これしか能がない」、「これしか関心がない」みたいな状況が運命的に降ってきたなら、それは誰にとっても特権(=非常に恵まれた状況・立場)なんだと思う。なぜなら、そのとき、たくさんのものから迷いながら選択しなくてもよく、ただ「これしかない」ということだけにしたがって、エネルギーを集中すればいいからだ。そしてたいてい、その結果は、私の経験から言えることは、吉となる。
シンプル堂という人間物体は、活字を読むしか本当に能がなく(他の能力は読書に付随して出てきたもの)、それはたぶんある種の「特権」であったかもしれないように、市川沙央さんの「書き続けるしかない」という状況も、ある意味では他の人がもっていない「特権」なんだと思う。そして、その特権的状況の中で、彼女は「障害者がいないことにされている」怒りと絶望を創造力へと爆発させて、そのパワーが芥川賞受賞という運命を引き寄せたと、私には感じられた――『ハンチバック』は未読なので、この小説の主人公の運命がどうなったかは知らないが。
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
by シンプル堂 [読書] [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
動物園に人権はない(苦) ― 2023年09月21日 07時36分38秒
[お知らせ]
*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。
本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット
*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(4)まで公開中。
◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」
先日、母の家で、みんなで夕食後にNHKのニュースを見ていたときのことだ。その日のトップニュースは、大手タレント事務所創始者の性加害について、その事務所が記者会見を開いた話だった。J社のトップタレント二人と元社長、そして弁護士の4人が並んでいる姿を見たとき、なんか東山紀之さんが主演した『刑事7人』の一場面のようだった――しかし、展開はドラマのように颯爽というふうにはいかず、グダグダ会見だった。
そして、東山さんが、「僕も夢をあきらめて……」と言ったとき、家族全員が、「えー、東山さん、タレントやめるんだ!」と思わず声がもれた。私たち家族は、彼が主演している『大岡越前』のシリーズを飽きるほど毎日見て、「また新しいシーズンも作るのかなあ」とかそんな話をしていたからだ。私が過去10年間で一番時間的に見たドラマが、東山さんが主演したこの『大岡越前』シーズン5と6で、各エピソードは、もうこれ以上見るのが苦痛なくらい何度も何度も見たものだ。だから、新しいシーズンをちょっと待ち望んでいた。
そんなに『大岡越前』を見ている理由は、私たちがこのドラマを特に好きなわけではなくて、母が東山紀之さんの大大大ファンで、母は一人ではドラマをほとんど見ることができないので、付き合って見ているというわけだ。母はもうドラマのあらすじも何も理解できないが、自分が好きなタイプの男性がテレビに出ているときは、比較的静かに画面を眺めている(笑)
特に好きなドラマでも、好きな俳優さんでもないのに、ずっと長い間ドラマを見ていると、なんとなく親近感がわくのは不思議なものである。だから、先日のJ社の記者会見での東山さんは痛々しかった。所属の人気タレントをマスコミの攻撃の矢面に立たせ、そしてそのタレントに夢をあきらめさせるって、J社の人権無視(立場の弱い者を虐める)の姿勢は全然変わっていないじゃないかという感じである。そして、質問をしているマスコミの人たちも、相手が弱い立場に立ったとたん、たぶん、視聴者の関心を惹くという理由なのか、下司な人権無視のセクハラ的な質問を長時間ダラダラとタレントたちに浴びせたという話がネットに出ていた(私はNHKのニュースの部分しか見てないが)。
自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視――J社もそれを取り巻くマスコミも、「これからも何も変わりませんよ(=自分たちがこれからも無事存続でき、お金が儲かりさえすれば、人権なんてどうでもいい)」という印象を与えた記者会見であった。
そして、「自分よりも立場が強い者には忖度してすり寄り、自分よりも立場が弱い者は平気で虐めて、人権無視」って、J社やマスコミだけでなく、もしそこが動物園的組織であれば、日本の多くの組織、そして家庭の中にさえよく見かける風景である。いちおうは人間クラブ以上の世界に住んでいる者も、心の中では動物園に堕ちることだってある。だから、私はこの記者会見を見て、キリストの有名な言葉を思い出し、改めて自分の胸に刻んだ。
*なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目には梁(はり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。(マタイ7章3-4)(この言葉の解釈とは、「他人の欠点・罪を非難する前に、まず自分の中にある欠点・罪を見なさい」くらいか)。
ドラマの中の大岡越前(彼は実際に江戸時代に実在した人物。1667-1751)は、勇気と知恵と心の優しさ、そして公正さを合わせもつ名奉行だった(権力を持つ側で、めったにこういう人物が現実には存在しないからこそ、300年たってもまだドラマになるのだと思う)。
さてさて、東山さん、被害者の救済(確か、被害者の人たち一人一人と話し合っていくみたいな主旨のことを、彼は言ったと記憶している)とJ社の社長をまかされて、経験もないのに大丈夫なのか? たぶんうまくはいかないとは思うけど、自分が『大岡越前』シーズン6放送の前に視聴者に向けた言葉を思い出して、ダメ会社の再建に奔走する社長を頑張って「演じて」!
「感染症にしても詐欺にしても、人間が生活していく上で起きることは昔も今も大差ないんじゃないでしょうか。戦国時代の武将を描くような物語とは違い、この作品は市井の人々に寄り添うお話なので、現代の皆さんに共感していただきやすい時代劇だと思います。忠相の『大岡裁き』は、厳しさだけでなく、庶民に心を寄せる愛情を併せ持っています。さまざまな問題があるなかで、人と向き合う越前の姿を、ぜひご覧いただきたいです」(『大岡越前』シーズン6放送前の東山さんの言葉より)TVガイドhttps://www.tvguide.or.jp/news/news-1513268/)
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
チャットGPTで金儲け(!?) ― 2023年05月02日 08時56分15秒
[イベント]
[お知らせ]
「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」が完成しました。動画は(1)から(27)です。(一つの動画は15分くらいです)
「ダグラス・ハーディング1996年東京ワークショップ」が完成しました。動画は(1)から(27)です。(一つの動画は15分くらいです)
シンプル堂youtubeサイト
[新刊情報]
「バーソロミューとの旅(上)日本編」(バーソロミュー著 ナチュラルスピリット発行)
「バーソロミューの旅日記(上)日本編」が新しいタイトルで復刊されました。シンプル堂が「バーソロミューの思い出」を寄稿しています。
前回のブログで、「チャットGPTを使って金儲けする人がでるだろう」という話を書いた。最近のネットにボチボチそういう系列の記事が出てきている。
この間読んだ記事は、「チャットGPTを使って、15分で本を書き、キンドルで売って、月額数十万円から百万円を売り上げる」というような内容のもので、その記事を書いたライターさんは、新書版くらいの分量の自己啓発系の本を実際にチャットGPTを使って15分で書き上げたそうだ。
「15分で1冊を完成」、であれば、タイトルと簡単な章立てさえ企画できれば、一日に最低でも数冊、一か月に100冊も完成できる。そして、もしそれらの本がすべてキンドルでたくさん売れるとしたら、まさに「夢の錬金術!」である。
しかし、その記事を読み終わって、はたと考えたことがあった。それはもしライターさんがチャットGPTを使って、15分で本を書けるとしたら、読者が(どんな分野であれ)自分の読みたい本(文章)をチャットGPTに無料で書いてもらうこともでき、わざわざ有料でキンドル版の本を買うこともないのではないか、と。
自己啓発、健康、美容、純文学、ミステリー、スピリチュアルなど、どんな分野だって、チャットGPTはこなすであろう。
たとえば、「探偵が30代女性で、場所は北海道のどこかで、殺人件数は3件(以下、数十の条件を入れる)の東野圭吾風の新作ミステリーをお願いします」とか、「村上春樹風の新作小説で、最後に笑えるものをお願いします」とか、「『死ぬ日まで幸福でいる私流10のルール』というタイトルの自己啓発書をお願いします」とか。あるいは、有名な文豪の未完の小説の続きを書かせるとか。こんなふうに、チャットGPTに無数に自分のために本というか文章を書かせることができる。まあ、そうやって自分で遊ぶ分には、チャットGPTは充分に楽しいものだろう。
しかし、1冊の本を読むという行為=読書とは、私の考えによれば、活字という媒体を通じて、その本を書くに至った著者の想い、経験と交流・対話するということである。読まれていないときは、紙の本はただの物だし、電子書籍はただの電子データであるが、私が本を開き、読み始める瞬間に、活字の背後の著者の想い・経験と交流することになる。さてさて、チャットGPTによって書かれた本には、その想いや経験が欠落しているので、では、本の背後のどんな想いと交流することになるのだろうか? たとえば、ライターさん(この場合は、著者ではなく、本の体裁を整える編集者みたいな存在だ)の「チャットGPTに本を書かせて、金儲けしよう!」という想い(笑)だろうか……
数年前に、AIが小学6年生の知性を超えたということで、教育界に衝撃が走った話を書いたことがあるが、チャットGPTの登場でわずか数年で、AIは小学6年生からいきなり大学教授(!)になった感じだ。もはやAIとの競争時代ですらなく、人間はAI様にお仕えする召使いや助手の地位に成り下がりつつある。
2019年4月20日
AI(人工知能)との競争時代
AI(人工知能)との競争時代
[昨年の発売された本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです
会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)
『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)
by シンプル堂 [社会] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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