「公正世界仮説」2024年02月25日 09時27分39秒

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2024年3月3日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


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*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。


先日、『逃亡者』(中村文則著 幻冬舎発行)という小説を読んでいたら、「公正世界仮説」という心理学の用語が詳しく説明されていた。少し前に読んだネットの文章の中でも、「公正世界仮説」の話が書かれてあり、「公正世界仮説」という言葉(最近まで私は知らなかった)は、最近の流行の心理学の用語らしいことに気づいた。

ウキベディアの情報によれば、「公正世界仮説」は次のように定義されている。

「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

実は、こういった「公正世界仮説」的考え方は、キリスト教や仏教など伝統的宗教から、最近のスピリチュアル系の教えの中にも暗黙に含まれている。なぜなら、伝統宗教も含めてほとんどのスピリチュアル系の教えは、「カルマ」=「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」ということを教えているからだ。昨年出版されたジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』(ナチュラルスピリット発行)にも、聖書の中に出てくる「あなたが蒔いたものをあなたは刈り取る」の話が山ほど言及されている。

しかし、「公正世界仮説」に反論する人たちも非常に多くいるようで、実はその反論が興味深かったので、本日の話題に取りあげたわけだ。中村さんは『逃亡者』の中で、その反論をこう書いている。

「公正世界仮説は社会の問題を個人の問題に還元する。公正仮説的な物語が世の中に広がると、その分だけ、世界や社会を改善しようと思う人間が減る」。「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」。(以上『逃亡者』より)。だから、中村さんは、「自分は公正世界仮説的ではない小説を書きたい」、という主旨のことも書いている。

それから、ネットには、公正世界仮説的考えを信じている人から説教されたり、批判されたりして、苦痛を感じるという話がたまに出ている。たとえば、こんな感じだ。

「あなたが色々なことをうまくやれないのは、あなたの努力が足りないからだ」とか、「あなたは自分の苦しみを、親とか、子供の頃の環境とか、社会のせいにしている」とか。

私の印象では、「公正世界仮説」的な信念を強くもっている人たちは、「自分の努力のおかげで、あるいは自分のポジティブな考え方・人生観のおかげで、自分は成功した。あるいは、自分はこの世界での快適な立場を獲得することができた」と信じている人たちが多いように感じる。そういう信念をもっている人たちから見ると、多くの人たちは自分で努力もせず、他人ばかりを責めているように見え、よせばいいのに、つい批判したくなるわけだ。

「私にできたことが、なんであなたにできないの? あなただって、親や社会や家族のせいにしないで、自分で頑張れば、人生がもっとうまくいくようになるはず」みたいなことを言い、本人としては、正しいことを言って、相手を励ましているつもりになっているが、言われたほうは、非常に苦痛を感じる。

ここで対照的な二人の人(AとB)を想像してみよう。二人は30代の半ばのほぼ同年代だが、生まれ落ちた環境は真逆だ。Aは経済的に恵まれた家庭に生まれ、親は愛情深く、子供に理解があり、なんでもしたいことをさせてくれたので、Aは子供の頃から好きなことをして、今は自分の才能を生かして、高給を稼いでいる。一方Bは、父親は暴力をふるい、母親は育児放棄をするような家庭に生まれ、児童養護施設で育てられ、そこを出たあとは、真面目にずっと働いている。でも、時々精神の状態が悪くなるので、働けないときもあり、収入も多くはない。

誰が見ても、Aは圧倒的に有利な環境から人生をスタートし、Bは圧倒的に不利な環境から人生をスタートさせている。BにもAと同じく生まれつきの才能があるはずだが、自分の才能を発揮する前に、まず残酷で冷たい敵だらけのこの世界(のように見える場所)で、どうやって生き延びるかのほうがはるかに重要になる。別の言い方をすれば、「才能を発揮」などという贅沢なところまで、自分の感情やメンタルが追い付いていかないわけだ。

人が「公正世界仮説」的な信念をもつことそれ自体は個人の信念の問題なので、間違っているわけではないが、自分のその考えをもってして、人生がうまくいかなくて、生きることに苦しんでいる人達を批判したり、説教したりするのは、彼らに想像力と理解が欠如し、また自分の考えが絶対に正しく、誰にでも当てはまると考えるからだ。

もちろん、どれだけの想像力と理解力をもってしても、私たちは他人の苦しみを本当には理解できない。なぜなら、同じような体験をしていないから。それでも多少の想像力と理解力があれば、もし自分もひどい環境に生まれ落ちたら、彼らのように、自分自身や親や生育環境に対してネガティブに考えるかもしれないと思うだけの謙虚さをもつことはできる。

私の中にもかなり「公正世界仮説」的考えはあり、私は自分の苦しみを他人や社会のせいにしないことを20代の後半に決心した。なぜなら、私の場合は、社会や自分以外の人を責めるほうが苦しく、みじめに感じたからだ。ただし、上記のウキベディアの定義の中で、「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ、という部分は、私には当てはまらないし、私はそういうことを信じていない。大宇宙の絶対的摂理(神の摂理)は確信しているが、それは人間が考える正義ではない。

私たちの肉体が所属しているこの二元世界は、非常に不公平で不正義に満ちている。二元的人間社会の中では、人間の正義や公正であろうとする努力はほとんど報われないというのが、私たちが見聞している事実である――ある子供たちは恵まれた家庭環境に生まれ、何の苦労もなく、才能を発揮して、人生の成功をつかみ取る一方、ひどい家庭環境に生まれた子供たちは、その環境の束縛に長い間苦しむ。正義感の強い人たちは権力者に抹殺され、権力者はのうのうと生き延び、庶民は真面目に働き、強制的に税金を払わされる一方、政治家たちは楽に金を集め、税金逃れをして、それでも罰せられないでいる。以上の社会的事実は、日本だけでなく、先進国でも後進国でも見られることだ。そして、いつの時代でも。

中村さんは、「公正世界仮説」への反論、「公正世界仮説的な物語ばかりだと、それは人々の無意識に作用しますので、世界は改善に向かい難くなり、歴史の中で非劇が発生し続ける」と書いているが、「公正世界仮説」が流行してもしなくても、社会という場所にはいつの時代でも悲劇は起こり続けると、私はそうは思っている。

多くの人間はいつの時代も、「改革」「改善」に取りつかれている。だから、「公正世界仮説」が広まっても広まらなくても、多くの人たちは社会制度、技術を「改革」「改善」するために働き、社会は長い目で見れば、人間が考える「改革」「改善」に向かっている。少なくとも、日本という国を長い目で見たとき(数百年くらいの長い期間)、江戸時代より、明治時代よりも、現代は改善、改革されただろうか? 多くの点で、はるかに人々は快適な生活を送っている。江戸時代は、武士以外に人権はなかったが、現在では庶民にもいちおう「人権」がある。江戸時代、女性にはまったく自由がなかったが、現在は、そのときよりも女性の自由は「改善」されている。

それにもかかわらず、どんなに社会制度や技術が改善、改革されようが、社会の中で、不正義と不平等と不正は横行し、その社会の中で多くの人たちは苦しみ、悲劇は起こり続ける(最近、世界でもっとも公正で幸福な国の一つであるとされているフィンランドでは、自殺が非常に多いことを知って驚いた)。

そして、小説家はその悲劇、人々の苦しみをネタに反「公正世界仮説」的小説を書き続ける。もし小説家が、人々に楽しんで読んでもらえる小説を書きたいなら、反「公正世界仮説」的小説を書く以外にはない。なぜなら、もし小説の登場人物が、「私は自分の努力とポジティブな人生観のおかげで、人生の成功をつかんだ」というような「公正世界仮説」を信じるような人たちだけだと、小説としては非常につまらなくなるから(笑)。私は中村さんの小説のよい読者ではないけど、それでもなぜか彼の小説が気になる。だから、これからも頑張って、反「公正世界仮説」的小説を書き続けていただきたいものだ。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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久しぶりに風邪2023年12月02日 09時15分55秒

[イベント】

◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで


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2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(13)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



ここ10日ほど、風邪をひいて、今もまだ完全には抜けていないが、なんとか普通にパソコン作業ができるくらいには回復した。幸い、熱はすぐにひいたものの、咳と痰が収まらない。こんなに長引く風邪をひいたのは、どれくらいぶりか、思い出せないほどだ。

普段は、「あ、喉がちょっと痛い」と感じたとき、私の場合は、ビタミンCや甘酒を取って、暖かくして一晩眠るとたいていは喉の痛みもひく。けれど、今回は、ビタミンCや甘酒も瞑想もQEも効かず、市販の薬も効いたかどうかわからず、体を起こしているのが辛くて、だらだらと寝込んでいた。

特に今回の風邪は、夜寝る前頃に、咳と痰がひどくなり、横になるとさらに咳と痰が止まらず、咳と痰のせいで、睡眠もなかなか自然にやって来ない。私の場合、体調が非常に悪いときは、超ネガティブな思考がよく湧き起こる。

たとえば、

「これくらいの風邪で寝込むなんて、我ながら、軟弱ぶりが情けない。世間の人はこの程度の風邪は、我慢して仕事しているにちがいない」とか。

「このままスーと死ぬと楽かも」とか。

思考はどんどんネガティブにみじめになり、人生で辛かったこと、罪深いことだけがフラッシュバックされ、本当に自分が最悪最低の人間だと思え、涙まで出て来る。

そこへさらに、スーパーいじめっ子エゴみたいなものが出現して、ネチネチとスーパー弱者エゴをいじめにかかったり、マインドの中はその他普段出現しないような人格が色々出現して、言葉のバトルを繰り広げる。

人間は多重人格が普通だと思っているので、色々な人格が出て来ることには驚かないが、ただ体の具合が非常に悪いときに、(私の場合)ネガティブなマインドが元気になって、あれこれの物語を語り出すのが不思議である。自分のマインドの中で、こういう会話(物語)を聞いていると、言葉で自分をいじめることには、ある種の中毒性があり、いくらでもひどい言葉を思いつく(苦笑)。一方で、いじめられて最悪最低の自分を感じることにも、快感というものがあることがわかる。最低最悪の自分を感じると、開き直って、「最低最悪で、文句あるか!」みたいに、突然、弱者エゴが強気に言い返したりして、なんか二人のお笑い芸人のコントのようだと、自分でも可笑しくなる。今は、スーパーいじめっ子エゴもスーパー弱者エゴも消散し、普通の人格に戻ってよかった。

風邪といえば、昔、愛読していた野口整体の『風邪の効用』(野口晴哉著 全生社発行)の中に書かれていたことを思い出した。

それは、たしか、風邪は治療するものではなく、「経過」するものであり、上手に経過すれば、健康によい効果がある。また「癌や脳溢血のような病気になる人は、それを発症する前の長年、風邪をひかない傾向がある」(本当にそうかどうか、正しいかどうかは、私にはわからないが)というような話だったと思う。今回、長引く風邪をひいて、肉体が癌や脳梗塞になる確率が少しは下がったのかも(!?)……

寒さが厳しい季節になり、皆様も心身温かくしてお過ごしください。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















最後の1冊とは?2023年11月18日 10時31分53秒

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◎オンライン「非二元の探究――瞑想と実験の会」

2023年12月10日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月13日(水曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2023年12月17日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで
2023年12月21日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで

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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(12)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



今、『書楼弔堂-破曉』(京極夏彦著 集英社)という本を読んでいる。

時代背景は、明治30年代頃の話で、文明開化した東京の街にひっそりとある「書楼弔堂」という書店に縁あって来る人々と本の話である。読んでいると、明治という時代の文学的文化的雰囲気が立ち上ってくるような本である。

そして、元仏教修行僧の弔堂店主が、様々な客と、本について、文学について、人生について、文明について、あるいは仏教の悟りについてかわす会話が興味深い。特に本についての店主の考え方は、なるほどとうなるものがある。

「本は墓のようなもの」

「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます」

「本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」

「どれだけ無価値な内容が書き連ねられていたとしても、百人千人が無用と断じたとて、ただ一人の中に価値ある何かが生まれたならば、その本は無価値ではございますまい」(「臨終」より)

本とは、他人が過去に書いたもので、それはすでに死んでいて、だから、「墓」なのだ。しかし、誰かがその死んでいるものを読むとき、読むという行為によって、本は復活し、その読者独特の何かが生まれる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。

私も、『書楼弔堂-破曉』を読んだおかげで、私の中に新たに何かが湧き上がり、だから、今このような文章を書いているというわけである。

それから、無価値な本は1冊もないというのも、うなづける。確かに、個々の人にとって価値がある本とない本があるのは事実である。しかし、本は、一人でも本当に読む人がいれば、それで価値があると、私は常日頃そう思ってきた。本の価値を創造するのは、読者のほうなのである。

さて、本書の中で、本読みにとって、「最後の1冊」、つまり、「この1冊さえあれば、他の本はいらないという本とは、何か?」ということがたびたび、話題になっている。店主は、「本当は、本は1冊あればよいのです」とも言う。そして、人は最後の本に巡り会うために、本探しをする、とも。そこで私も、「自分にとっての最後の1冊とは?」と考えてみたが、答えがでない。

そして、思った。たぶん、本当に人を満足させる最後の1冊とは、物質的本ではなく、「私」という本なのだと思う。「私」という存在は物語&情報製造マシンである。毎瞬毎瞬、無の中から、物語&情報を創造(捏造?)する。そして、私たちはその物語&情報をお互いに語り合う。たぶん、私たちは、自分が語る物語&情報も、人が語る物語&情報も本当には理解しないが、それでも、お互いが語る物語&情報を聞くことで、ちょうと本を読んだときのように、また何かが自分の中に湧き起こる――共感、喜び、悲しみ、誤解、理解、反発、啓発、恐れ、不快、やる気、その他。

たとえ本を読まなくても(読めなくなっても)、人は「私」という本を読み続ける。ただ、人によって、「私」を深く読む人と表面的にしか読まない人がいるだけの違いだろう。だから、「私」さえ在れば、最後の本を探さなくてもいいし、そもそも、本さえ読まなくてもいいのだ。とはいえ……まだ、(私にとっては)本を読むことは楽しい。今年は、ものすごく久しぶりに京極夏彦さんの小説にはまって、楽しい時間を過ごしている。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)



















ゴキブリが教えてくれたこと2023年10月31日 07時48分44秒

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*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(10)まで公開中。


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



今、『Master Key to Self-Realization』 という、ニサルガダッタ・マハラジの師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの講話をまとめた本(出版時期未定。たぶん、来年)を翻訳している最中である。本書については、来年詳しく紹介する予定だが、先日翻訳していた箇所はかなり心にひっかかった。

それは、本の最終章の中で求道者の献身について書かれている箇所で、要約すれば、「求道者は、あらゆる生き物の幸福に献身すべきであり、すべての生き物との一体化を感じる境地になるまで、献身しなさい」という主旨の内容だ。人間に関しては、すべての人を同じ本質をもつものとして礼拝する。それから、蠍や蛇などの危険動物も、殺してはならず、ただ遠くからそっと眺めるだけで、放っておきなさい。それから、ロバなどの動物は適切な世話を与え、大切にする。ここまでは賢明な話で、まあ理解できる(実践できる)話に思える。

さて、(私にとっての)問題はその先だ。さらに、「母が子供にお乳をあげるときに喜びを感じるように、人は自分の体から虫が血を吸っているときに満足感を感じるようになるべき」という主旨の話が書かれてある。これは私には非常にハードルが高い、ほとんど無理ゲ―(笑)である。正直に言うと、私は虫と名の付くものが全部苦手である。もちろん憎んではいないけど、できれば、目にしたくないもの。

他の生き物たちに対するシッダラメシュヴァール・マハラジの話の肝は、「もし人が生き物に敵意や嫌悪を持たなければ、彼らは人間を攻撃することはない」、つまり、もし人がそういう意識状態であれば、蠍や蛇は人に嚙みつかず、虫は人を刺さず、ゴキブリは人を困らせないという結論のようであるが、私には経験的にまだそれを実証できない(人間に関しては、たぶんそうだとは感じているが)。

同じインドのアドヴァイタの先生でも、ラメッシ・バルセカールは一応、シッダラメシュヴァール・マハラジ→ニサルガダッタ・マハラジの系譜に入るにもかかわらず、彼は(私が記憶するかぎり)自分の教えの中で、他の生き物との一体感とか、そういうことを強調したことはなかったと思う。また、何かに対する人の好き嫌いは、その人の(自分の意志ではコントロールできない)プログラミングにもとづき、それそのものが神の意志であり、人はそれを受け入れるしかないとも、彼は教える。私はむしろこういったラメッシの考え方に共感する。

「生き物の幸福とは何か」を突き詰めて考えるとわけがわからなくなるし、果たして相手が望むこと(喜ぶ)ことをしてあげること(することをゆるすこと)が、必ずしも相手のために、そして全体のためにならないときもあるのではないかという疑問も起こる――母の介護で、日々そのジレンマに直面している。私は自分に実践できる範囲で、自分の目の前にいる生き物(人間も含む)を傷つけないようにと心がけるが、それだって、いつも成功するとはかぎらないので、自分の「有罪」を受け入れている。

虫に関して、数年前のある日、私は奇妙な体験をした。それは、私がロバート・アダムスの『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本の作業をやっていた頃のことで、「ゴキブリ、南京虫など、命に優劣をつけてはいけない」という主旨の話を彼が語っている箇所で、そのとき、「ロバート・アダムスは自宅にゴキブリを見つけたら、どうするんだろうか?」という疑問がふとわいたのだ。

すると、なんと、まるでその答えのように、夕食を食べ終わって、ふと目の前の壁を見たら、大きなゴキブリが一匹、壁に貼り付いているではないか! 自宅でゴキブリを見たのは、もう20年以上ぶりで、私は本当にびっくりして、しばらくゴキブリを眺めていた。大昔であれば、さっさと殺虫剤で殺すか、掃除機で吸い取るかしただろうが、もうそうする気も起きない。どうしたらいいかまったくわからないので、一晩そのままにして、朝になってまだそこにいたら、そのとき改めて考えることにした。

ゴキブリが突然、出現した理由を眠る前、あれこれ考え、「家の中をもっと清潔にせよ!」というメッセージかもしれないと思い、翌日は、家中の大掃除をすることにした。翌朝、そのゴキブリはどこかへ消えてしまい、私は家中を大掃除したが、ゴキブリは見つからなかった。それでも私は、ゴキブリが増殖する恐怖に負けて、ずる賢くも「ゴキブリ〇〇」をいくつか仕掛けておいた。2週間経過して、その中を見たが、一匹も入っていなかった。たぶん、あのゴキブリは私に、「虫に敵意をいだくな!平等な存在として見よ!」と教えるために、まるで無の中から(!?)出現したかのようだった。

あれから数年、幸いというか、あの日以来ゴキブリを見ていない。そしてあの日以来、私は虫に対して前よりかなりやさしい(笑)。今生の終わりまでには、自分の体に止まった蚊に、やさしく血を吸わせてあげるくらいの境地にはなれるかも……


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)














特権階級だったんだ!(苦笑)2023年10月03日 08時54分17秒

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◎オンライン「ダグラス・ハーディングの哲学と教え」

2023年10月8日(日曜日)午前9時から午前11時頃まで


*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』が発売されました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが京都でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています。(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(5)まで公開中。



文学賞に特別関心があるわけでもないし、賞をとった作品を積極的に読むわけでもないが、このあいだ芥川賞を受賞した作家、市川沙央さんのインタビューが大手新聞やネットに掲載されていたのをたまたま目にして、何回か読むこととなった。

先日ネットに出ていたインタビューでは、その受賞作品の一部も掲載され、私はそれを読んで、「私って、特権階級だったんだ!」(苦笑)とちょっと驚いた。

[私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。](『ハンチバック』より――(注)マチズモ=男性(力)優位主義 (注)ハンチバック=hunchback=脊柱後湾症)

私は明らかに、この小説の主人公が言うような、「目が見えること、本が持てること、ページをめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること――5つの健常性」を充分満たしている。人生の活動の中で、他の何よりも読書という行為に時間を使ってきて、それを「特権」だと思ってみたこともなかった。

子供の頃思ったことは、読書は、一番お金がかからず、他人も必要としない行為なので、それはどちらかといえば、お金のない、他に趣味のない、人付き合いの苦手な人が最低楽しめることなんだろうというくらいの認識で、読書している自分に優位性を感じたことなど一度もなかった。

大人になって、周囲が頑張って働く頃になっても、私は読書中心の生活を変えようともせず、ときには、「いいですね。そんな優雅な読書三昧な生活が送れて」みたいな皮肉の一つや二つも言う人も現れたが、私は一切の罪悪感を感じることもなく、「そんなにうらやましいなら、あなたもやれば」みたいに、心の中で冷たく言い返したものだった。

だから、「読書に多くの時間が割けることが、うらやましい」と思われる程度のことは多少想像できた。しかし、この小説の主人公が思うような、普通に読書することが憎しみの対象になるとは、今まで想像したこともなかった。

そして、もし普通の読書という行為が憎まれる対象になるなら、どんなことだって、普通に行われているあらゆる行為が憎しみの対象になりうるだろうし、それをちょっと想像したら、無限にリストがあがる。

二本の足で普通に歩ける「特権」が憎い。
手に茶碗をもって食べることができる「特権」が憎い。
料理を作ることができる「特権」が憎い。
外に働きに行ける「特権」が憎い。
普通に話せる「特権」が憎い。
普通に見たり、聞いたりできる「特権」が憎い。

以下、無限に続けることができる。

もしいわゆるこういった特権をもっている「普通人」が、こういう発言を聞いたら、驚いて、「ええ? そんなこと、何が特権なもんですか! 本当は、料理なんて作りたくないし、外に働きにも行きたくないですよ。手でお茶碗が持てることも、二本の足で歩けることも普通なことで、特権じゃないです!」と強い反論&反感が返ってくることだろう。

インタビューによれば、市川沙央さんご自身も難病を患い、車椅子の生活を送っているそうだ。そして彼女は、「この社会には障害者はいないことになっている」と言い、その一つの例として、金融機関のATMはまったく車椅子対応になっていない(つまり、車椅子に座った状態では、画面がよく見えないそうだ)ことを指摘していた。

金融機関のATMについてのこの指摘も初めて知ったことだ。たぶん、こういうことなのだと思う。この世の中で何かのシステムを最初に作るとき、大多数の「普通の人」が使うことを想定して作るわけで、その大多数から外れる人たちのことはほとんどかまったく想定されていない。それは意地悪とか差別というより、どちらかといえば、システムは普通仕様に作るのが一番安上がりで、時間がかからないからではないかと思う。多様な要素を組み込んだシステムを作るのは、たぶん、お金と時間がかかるのだ。

もちろん、そうすると、当然、その普通仕様のシステムから外れた少数の人たちにとっては、そのシステムは自分には合わないので、そのシステムの恩恵をほとんど受けることができず、社会の片隅で辛い思いをして生きることになる――身体的知的な障害者の人たち、在日外国人の人たち、性的少数者の人たち、学校教育システムから落ちこぼれる子供たち、その他。

今はそれでも、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの存在も、それらの当時者や支援者の人たちが自分たちの置かれた辛い状況を発言するようになり、以前よりはるかにその存在は知られるようになり、それはそれで、社会的に見れば進歩(歯がゆいほどの遅々とした進歩であるが)なのだと思う。つまり社会が、システムから外れた少数の人たちの存在を多少でも認めることができる、心の余裕、経済的余裕ができたということである。

その証拠に、経済的に貧しい国ほど、そして政治が独裁的な国ほど、その国の普通仕様のシステムから外れた少数の人たちは抑圧され、それこそ存在しないことにされ、中には、性的少数派であることが法律的処罰の対象となる国すらある。それは、そういった国には経済的そして精神的余裕がないので、多様性を認めることができないからである。

『ハンチバック』の著者の方は、「障害者がいないことになっている社会」にかなりの怒りをもっていると感じられたし、彼女だけでなく、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちが無視されていることへの怒り、悲しみの声は、今は特にネットにはたくさんでているし、大手新聞でさえとり上げることが多くなっている。

いちおう見た目普通(中身は全然、普通じゃないことが多いが)側のシンプル堂が、彼らの苦しみや悲しみを本当にはわかるはずもなく、余裕があるときにただ想像するだけだが、見た目普通側の言い訳をちょっとすれば、いわゆる普通仕様のシステムに適応している人たちだって、なんとかシステムから振り落とされないように必死で生きているだけで、ほとんどの人は様々な苦しみを抱えて生きている。

だから、多くの人たちは意地悪や差別からいわゆる少数派の人たちを無視しているわけではなく、単に心の余裕がなく、自分の問題や苦しみでいっぱいで、色々なことに気づかないだけなのだ。自分自身や自分の身近な人間が、なにかのきっかけで障害者になったとか、引きこもったとか、子供が不登校になったとか、障害のある子供が家庭に生まれたとか、そういう状況になって初めて、「ああ、普通じゃないって、こんなに大変なんだ」と、ようやくやっと気づくというわけである。

もし『ハンチバック』の主人公が、私の目の前に現れて、「のん気に好きなだけ本を読むことができる特権的立場にいるシンプル堂さんに、私の苦しみがわかりますか?」と迫って来たら、私は正直に、「わからないと思います」と答えるだろう。でも、もしそのとき私に心の余裕があれば、相手の立場にたってみることだろう。そうしたら、私も本がすごく好きなので、「本がものすごく好きで、たくさん読みたいのに、物理的制約で読めない彼女の苦しみの感情を少しは理解するだろうと思う。でも、別れたら、彼女の怒りも苦しみもまたほとんど忘れてしまうことだろう。

私たちの多くは、こんな感じで、世の中の苦しみをなるべく見ないよう、考えないようにして(そうすると、生きることがどんどん辛くなるから)、心の平安を保っている。

だから、普通仕様のシステムから外れた少数の人たちの人権活動をしている一部の人たちが、「おい、そこの鈍感な奴ら、私たちの存在、苦しみ、人権を無視するな! 私たちの存在を認めろよ!」みたいに、批判的攻撃的に出てこられたりすると、「もうこれ以上、私に世の中の苦しみを見させないで。私はもう自分の苦しみでいっぱいだから」とちょっと引いてしまう気持ちになるのは、よくありがちなことである。こういった普通の人たちの鈍感さや気づきのなさ、余裕のなさに対して、寛容や赦しを望むことは、少数者への無視・差別容認ということになるのだろうか……

さて、インタビューの中で、市川沙央さんは、「どうしたら小説家になれますか?」という質問に対して、「私には小説を書き続けるしかなかった(つまり、他にできることがなかったという意味)」と答えていた。私はその回答に非常に納得した。

もし人生で、「これしかない」、「これしかできない」、「これしか能がない」、「これしか関心がない」みたいな状況が運命的に降ってきたなら、それは誰にとっても特権(=非常に恵まれた状況・立場)なんだと思う。なぜなら、そのとき、たくさんのものから迷いながら選択しなくてもよく、ただ「これしかない」ということだけにしたがって、エネルギーを集中すればいいからだ。そしてたいてい、その結果は、私の経験から言えることは、吉となる。

シンプル堂という人間物体は、活字を読むしか本当に能がなく(他の能力は読書に付随して出てきたもの)、それはたぶんある種の「特権」であったかもしれないように、市川沙央さんの「書き続けるしかない」という状況も、ある意味では他の人がもっていない「特権」なんだと思う。そして、その特権的状況の中で、彼女は「障害者がいないことにされている」怒りと絶望を創造力へと爆発させて、そのパワーが芥川賞受賞という運命を引き寄せたと、私には感じられた――『ハンチバック』は未読なので、この小説の主人公の運命がどうなったかは知らないが。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

販売サイト


海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)




















神がいない風景2023年08月07日 10時28分55秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(16)まで公開中。


*チャンネル登録はこちら(シンプル堂)


皆様、猛暑お見舞い申し上げます。


ジョエル・ゴールドスミスの本が、ようやく今月中旬に発売されることとなった。「赦し」とか「カルマ」とか、イエス・キリストの山上の垂訓とか、テーマが「熱すぎる」(笑)と感じる方は、購入して、少し涼しくなってから、読んでもらえればうれしく思います。

今回、最後に、本書『静寂の雷鳴』の中で、私が非常に印象を受けた彼の言葉を紹介しよう。それは:

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」

その前後の部分を引用すれば:

「神のパワーはそれができるすべてをすでにやっていて、それは意識のエデン的状態の中で活動していますが、二つのパワーの世界の中では活動することができません。ですから、私たちや私たちの隣人たちがどれほど善人で道徳的で善意の人であっても、私たちも彼らも罪、死、事故、戦争を免れないのです。何度も何度も次の質問が尋ねられてきました。「もし神がいるなら、どうしてこんなことが可能なのか?」と。その答えは驚くべきものです――「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」。創世記の第2章に神はいません。原因と結果の法則――カルマの法則――である主神だけがいるのです。私たちが原因と結果の法則を超えるとき、もはや法則の下ではなく、恩寵の下、言い換えるなら、創世記の第1章の中で生きていて、そこには人間的悪も人間的善も存在しません。罪もなく、純潔もなく、ただ神だけが存在します」( 8 章 「わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい」)

ジョエル・ゴールドスミスが上記の引用で言っている「人間的風景」とは、「二つのパワー、善悪のパワーが戦っている風景」、さらにもっと具体的に言えば、私たちがマインドの中で、「私は正しく、お前は間違っている」という「私」対「あなた」の戦争をしているとき、そして、世界の一部を激しく否定している(憎んでいる)ときのことである。そういうマインド風景のときには、「そこには神はいない」。

さて、神は普遍的存在であり、どこでもいつでも誰の背後にもいるはずなのに、これはどういうことだろうか?

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」――この言葉をもっと正確に言えば、「神は存在するが、人間的風景な中では神(の恩寵)は働くことはできない」ということであろう。

つまり、神(の恩寵)は、私たちの「個人的意志=物事はこうあるべき」というような意志や「利己的欲得」があるところでは、働かないということでもある。だからこそ、ジョエル・ゴールドスミスは、たとえば、「どうか神様、私に〇〇を送ってください」というような、あるいは、「どうか神様、私たちに勝利をもたらしてください」というような嘆願的祈りは、神に届かないと言っているのである。

神様にお出ましいただくためには、私たちのほうで人間的風景から抜け出し(=物事の善悪判断を手放す)、神がいるところへ行かねばならないということであり、ここで役立つ概念は、「明け渡し」である。私的に言えば、「神様、この状況は仕方ありませんね」と常にあきらめる(笑)。長い人生の経験から言えば、(悪いと思われる)状況に抵抗しなければ、なんとかそれを切り抜ける知恵とパワー(神の恩寵)が出て来る感じ……である(神がどこにいるか確信できない方は、『存在し、存在しない、それが答えだ』(ナチュラルスピリット発行)の第14章「神を信じること」で、ダグラス・ハーディングが間違えようもなく、その場所を正確に説明しているので、参照いただければと思う)。

「神は存在するが、人間的風景の中には神はいない」


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)















誰(何)にとっての、悪(人)なのか……2023年07月26日 06時02分26秒

[お知らせ]

*ジョエル・ゴールドスミス「The Thunder of Silence」が、『静寂の雷鳴』というタイトルで、
8月中旬発売予定となりました。

本体価格:2380円+税
発行:ナチュラルスピリット


*1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(15)まで公開中。


もうすぐジョエル・ゴールドスミスの本、『静寂の雷鳴』が出版されるにあたって、またキリストの「悪(人)に抵抗するな」のメッセージの意味を考えている。世界の宗教の中で、キリスト教ほど、「悪(人)を赦せ」と強調するものはなく、それでいて、キリスト教徒たちは自分たちの師、イエス・キリストのこのメッセージを2千年間、ほとんど実行できずにいる。

悪(人)について考えるとき、それは誰(何)にとっての悪(人)なのかということを、考えてみることは、興味深いことだ。たとえば、Aさんに長年の知人のBさんという人がいるとしよう。BさんはAさんにはとても親切で、よくしてくれたので、AさんはBさんに感謝の念すらもっている。ところが、ある日、そのBさんが実は詐欺を犯して、何人かの人が被害にあったことが判明した。ここで明らかなことは、Bさんは、Aさんにとっては「悪人」ではないけれど、Bさんの詐欺の被害にあった人たちにとっては、「悪人」である、ということである。

もう一つ例をあげれば、Aさんの隣家に泥棒が入って、お金が盗まれたとしよう。その隣人にとっては、その泥棒は「悪人」であるが、Aさんは何の被害も受けていないので、Aさんにとっては、その泥棒は「悪人」ではない。だから、もしAさんにスピリチュアルな理解があれば、Aさんとしては、Bさんも隣人の家からお金を盗んだ泥棒のことも、「悪い奴」として非難したりはしないことだろう。一緒になって、非難に加担すれば、自分の世界に不必要に「悪人」を増やしてしまうことになり、またその非難はカルマ的に将来自分に戻って来る可能性すらあると、理解しているからだ。そもそも、悪(人)を非難したからといって、世の中の悪事が減るわけでもない。

ところが、Aさんの心はそれでいいとして、人間クラブの共同体としては、その態度そのものがまずいこともある。Bさんの被害者の中には、Aさんの別の知人のCさんがいて、その人がAさんのところへ来て、「Bさんは本当にひどい人で、私はこんな被害を受けた」と訴えたとしよう。Aさんが万一、「でも、Bさんは私には親切だったし、いい人だったよ」と言ったら、一緒にBさんへの非難に加担しないことで、AさんはCさんとの関係を悪くし、さらにその友人共同体全体から批判を浴びるかもしれない。

共同体全体(共同体の種類は、家族、友人・知人関係、地域社会、国、国際社会、特定の集団と様々であるが)にとって、共同して、何かを「悪」や「悪人」と認定して非難することには、共同体の結束と団結を高め、人が悪事をおこなうことを抑制する効果がある(と信じられている)ので、古代から人間が集団を作るところでは、常におこなわれてきたし、今でもおこなわれている――現在、ロシア対ウクライナの戦争において、アメリカ側の国際社会は一致してロシアを「悪」、プーチン・ロシア大統領を「悪人」と認定して非難することで、政治的結束を高めようとしている。

さらに、「悪(人)」について考察してみると、究極的に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるから、「悪」と「悪人」が存在することがわかる。先ほどの例で言えば、Bさんは、「Aさんのもの」に被害も損失も与えず、隣家の泥棒も、「Aさんのもの」に被害も損失も与えないので、Aさんにとっては、Bさんも隣家の泥棒も「悪人」ではない。もし被害がAさんにも及べば、そのときは、Aさんの世界にも悪(人)が出現することになる。

スピリチュアルにおいて、(究極的には)「善悪がない」というメッセージは、(究極的には)「個人的私」と「個人的私のもの」がないという土台にもとづくメッセージであり、逆に言えば、「個人的私」と「個人的私のもの」という概念があるかぎり、その「私」にとっては善悪は必ず存在することになる。

悪(人)を赦すことをキリスト教徒たちが2千年間、失敗し続けているのは、「自分が一個の肉体人間であり、世界とは分離している」と信じながら、ただマインドで、「敵を赦しましょう」「7×70回(490回)赦しましょう」と宣言しているからだと思う。スピリチュアルな土台が認識・理解されないかぎり、「赦すことは」耐え難いほど困難なことだろう。さらに言えば、私たちに「すべては一つである」という非二元的認識や理解があってさえも、人間マインドは、自分の意志で何かや誰かを赦すことはできない、と私はそう理解している。

であれば、悪(人)を赦すことの本質的処方箋とは何になるのだろうか? 

その処方箋としては、ジョエル・ゴールドスミスの一昨年出版された『スピリチュアル・ヒーリングの本質』(11章「一つであるという関係」p210)(ナチュラルスピリット発行)に書かれていた彼の言葉は非常に参考になるだろう。ここで彼ほどのスピリチュアルな賢者であっても、彼は「私を憎んでいる人、批判している人を私は愛することはできない」という悩みを告白し、そして、「私は自分が彼らを愛していると言うことができません。私はただそれができないのです。もし愛することがあるはずなら、あなた、神が私を通じて彼らを愛することができるその通路に、私は喜んでなります」と祈っている。つまり、人は自分の意志の力では、愛しがたいものを愛したり、赦しがたいものを赦したりはできず、ただ神への明け渡しだけが、愛や赦しを可能にするということである。

非二元系の教えでは、赦したり、愛したりするのは「人」ではない。ただ、私たちにできることは、自分の中の「赦しがたい気持ち」、「愛しがたい気持ち」に気づき、それを受容することだけである。そして、多くの場合、人は自分を一番赦していない。特に、自分が何かの被害者になって、被害や損害を受けた立場のときに、「なんで自分にこんなひどいことが起こるか?」とか、「なんで自分はこんなに愚かだったのか?」と、自分を責めてしまい、それが反転して相手をも赦せないということになる。

今回の本、『静寂の雷鳴』にも、「赦し」の話は非常に多く、赦すことの価値と意義をあらゆるところでジョエル・ゴールドスミスは強調している。その中の一つの文章を紹介しよう。

「毎日、一定の時間をとって、私たちが誰をも罪に束縛していないこと、誰の苦しみも、誰が罰せられることも望まないことを意識的に思い出すべきです。赦すとは、『もちろん、私は誰にも危害が来ることを望みません』というような決まり文句で満足する以上のことを意味しています。それはそんなに単純ではありません。それはすわって、どんな敵が現れようとも、それに直面し、理解することです。『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』
もし罪を犯した人を赦すなら、その人がまた同じ罪を犯す自由を与えることになると恐れて、罪人の罪を赦すことを躊躇する必要はありません。確かに、それはその人を自由にしますが、その自由には罪を犯したいという欲望からの自由も含まれます。誰かが本当の赦しを受け取って、それから罪を犯し続けることは不可能なのです」(15章「私たちが赦すとき」)

彼がここで、「どんな敵が現れようとも」と言っているその「敵」とは、災難、災害、犯罪、心身の病気、仕事、家庭、人間関係、経済上の問題など、私たちが「悪いこと(人)」と判断するすべてのことだ。それから逃げずに、直面し、理解し、そして、必要なら「赦し」のために祈る。さらにここに書かれている、『父よ、彼の罪を赦し、彼が見えるように、彼の目を開いてください』という祈りは、「父よ、私のを赦し、私が見えるように、私の目を開いてください」という祈りでもあると思う。なぜなら、先ほども書いたように、「彼」を赦すためには、まず「私」も赦されて、「私」の目が開かれなければならないからである。

「本当に赦すこと」は人間マインドには非常にハードルが高い「狭き道」である。それでも……「赦しの道」を行く者たちに、イエス・キリストもジョエル・ゴールドスミスも「神の恩寵」を約束している。

関連ブログ

「好き嫌いと善悪」2008年2月19日



[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)


















最近読んだ本から2023年06月11日 09時26分11秒

[ お知らせ]
1994年10月に、バーソロミューが東京でおこなったワークショップの記録を下記で公開しています
(英語と日本語通訳の音声と日本語字幕付き)。現在(1)から(8)まで公開中。


1『お金のむこうに人がいる』田内学(ダイヤモンド社)

(実は、前回のブログのタイトル、『言葉の向こうに人がいる』は、本書のタイトルから借用させてもらった)。本書は、元外資系金融のトレーダーだった人が、専門用語を使わずに、お金や経済、金融についての疑問を解き明かした本である。著者は、「自分は長年、トレーディングの仕事をしながら、お金のことをとことん考えてきた。自分の頭で考えるときに、専門用語は必要なかった。専門家が専門用語を使うときは、相手をごまかそうとするときだ」と書いている。まったくそのとおりだ。新聞やネットに出ている経済や金融の専門用語や専門的説明がわからなくても、まったく問題ではない。自分で「お金とは何か」「経済とは何か?」を考えれば、いいだけなのである。

そうはいっても、素人には、ゼロからお金や経済について考えることは難しいかもしれない。そんなときに何か考える材料が欲しいという人には、本書はピッタリである。著者は、様々な質問を通じて、お金に関する社会の常識は本当か?という問いを読者に突き付ける。本書を読み終えたときには、老後資金問題、日本国の借金問題などに、「ああ、そういうことか!」と新鮮な発見があることだろう。そして、なによりも、自分がお金のやりとりをするとき、その向こうにいる「人」を意識するようになることだろう。


2『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』(オリバー・ハックマン)東邦出版
(本書は、『ネガティブ思考こそ最高のスキル 解毒剤』というタイトルで最近復刊されたようだ)。

最近、世界的ベストセラーになっている『限りある時間の使い方』(こちらの本は未読)の著者の以前の本の邦訳本である。

本書『解毒剤―ポジティブ思考を盲信するあなたの「脳」へ』は、ジャーナリストである著者が、世界の様々なスピリチュアル、精神療法(心理学)の先生(著名なエックハㇽト・トールにも会いに行き、そのときの様子も掲載されている)を訪問し、また瞑想キャンプにも参加しながら、いわゆる「ポジティブ・シンキング」と呼ばれている考え方が何をもたらすのか、実証的に考察した本である。

最初に登場するのは、著名なポジティブ・シンキングの先生で、1万5千人もの人たちが集まるその集会の雰囲気は、あとで紹介するトランプ元大統領の集会にそっくりである。「俺たちに不可能はない!」的メッセージの連呼は、集会の参加者(信者)たちにある種の陶酔をもたらし、まあ、言葉は悪いが、「ポジティブ・シンキング馬鹿」を生み出す。

私が本書に書かれたエピソードでもっとも印象に残ったのは、目標達成についての章のヒマラヤ登山の話である。ヒマラヤ登山では、どれほど頂上に近づいても、危険が差し迫っているときには、引き返す勇気が一番大切という話である。そのルールを破って、ある登山グループが危険をかえりみず、登山を強行し、登頂には成功(目標達成に成功)したものの、そのあと遭難するという有名な事故が昔あったそうだ。

この話を読んで、私が真っ先に思い浮かんだことは、現在、マイナンバー・カードと健康保険証(そして、将来は運転免許証など)を、リスクの検証もほとんどやらずに、一本化しよう(「リスクは分散する」って、現代のリスク管理の基本ではなかったっけ?)という目標達成に躍起になっている日本政府の姿である。このプロジェクトの現在の最高トップである河野大臣は、「猪突猛進」という言葉がぴったり当てはまる人で、「なにがなんでも俺はやる抜く」的ポジティブ・シンキングの持ち主という印象がある。今でさえ、マイナンバー・カードの問題点が日々報道されているが、目標達成に執着するあまり、もっと大きな問題をばらまくことになるような感じ……

その他本書に、「目標達成をイメージする」(成功哲学では、非常に有名な方法)は、かえって、目標達成を妨害するという実験など、興味深い話が多く掲載されている。経験的にも、著者が提唱する、ネガティブ・ケイパビリティ(「否定的なことを受容する能力」くらいの意味)のほうが、はるかに心の平和に役立つだろうと私も思っている。ただ、本書も、著者のポジティブ・シンキング嫌いという偏見が多少かかっている感じもあり、それこそ「盲信」しないで、読むことをお勧めする。


3『アンダークラス』(相場英雄)小学館

ネット通販のおかげで、私たちは「できるだけ安いものをできるだけ早く」手に入れることができる消費王国の時代を謳歌している。本書は、私たちの快適な消費ライフを背後で支えているブラックな世界(階級の上の世界に所属する者たちが、階級の最底辺層=アンダークラス=世に言うブラック企業とそこで低賃金で働かざるを得ない人々を搾取する世界)を、ミステリーの形で描いた本だ。本書は、娯楽本なので、弱者に心を寄せるヒーローたちがいて、彼らは、弱者を利用し、罪に陥れようとする上層階級の人間を執拗に追い詰め、最後には真実を明らかにする。しかし、現実には、ヒーローはそうそう登場しないものだ。

本書を読んだせいばかりではないが、通販で買い物するとき、最近気分があまり晴れないときがある。だからといって、通販での買い物をやめることもできず、まあ、自分にできることは、自分がこれを手にした背後に、様々な人たちの労働があったこと=「自分が払ったお金の向こうに人がいる」ことを思い起こすことくらいだけど。


4『トランプ信者潜入一年――私の目の前で民主主義が死んだ』(横田増生)小学館

2020年のアメリカ大統領選のときに、著者はトランプ陣営の選挙スタッフとして潜入し、トランプ元大統領を熱狂的に支持するトランプ教の人たちを取材しながら、アメリカという国の現在を浮かび上がらせている。トランプ元大統領とは、1で話題にした「ポジティブ・シンキング」のまさにサンプルのような人であり、彼の中にそれこそ「ポジティブ・シンキング」の欠陥を見ることができるかもしれない。

つまり、自分の中に否定的なものを見ることを絶対的に拒否する反動で、自分の外側(自分とは意見が異なる側)を全部「敵」と認定し、「悪」として攻撃する。こんなにウソを並べたて、自分の好き嫌いを声高に叫び、他者を攻撃することを喜びとする人が、国家の最高権力者になったことも驚きだが、本書でさらに興味深いのは、トランプさんの言葉に酔いしれるいわゆるアメリカの「トランプ信者」たちの様子だ。アイドルに陶酔することで自分たちがかかえる本当の惨めさ覆い隠し、それはかつてヒットラーに心酔したドイツ国民に似ている感じがあり、アメリカもそろそろ「終わりの国」であることを印象づけている。著者は最後に、「民主主義の死」について警告しているが、アメリカの子分のように長年振る舞っている日本だって、民主主義は相当にあやうい。


5『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己)亜紀書房

人は、自分が生まれ落ちた家庭環境、そして地域環境の文化的価値観の束縛を受ける。もし私たちが一生、生まれた場所から移動しないで、その場所で生活し続けるとしたら、生涯その文化的価値観を絶対のものと考え、それ以外の生き方、価値観はないと思い込むことだろう。

私が自分の家と生まれた場所を離れて、最初にわかったことは、世の中には色々な家庭(地域)環境があり、色々な親がいて、色々な家庭がある、ということだった。そして、人は自分が生まれ落ちた家庭の価値観に相当束縛されていることにも気づいた。

それから、文化人類学という学問を学んだおかげで、私たちが当然だと思っている日本という国の文化的価値観も絶対的なものではなく、世界には無数の文化があり、それぞれの文化にはそれぞれの固有の価値観があることを知って驚いた。文化や価値観の多様性に私の目を最初に開いてくれたのが、文化人類学という学問だったのだ。

本書は、ボルネオの狩猟採集民「プナン」でフィールドワークをした人類学者が、プナンの人たちには、「ありがとう」や「ごめんなさい」という観念も、それに相当する言葉もないことに衝撃を受け、それがいったいどういうことなのか、プナンの人たちと一緒に暮らした日々を綴りながら、哲学的思索をした本である。

たとえば、プナンの人たちが著者にお金を借りに来る。でも一言の「ありがとう」もなければ、返金もまずない。また、著者から物を借りて、返ってきたときには、壊れていても、「ごめんなさい」もない。そもそも「借りる」という観念がないのだ。あるいは、著者が不在中に勝手に物をもっていく。プナンでは、物を所有するという観念がほとんどなく、もっているものはすべて必要な人に分け与えるのがよいとされている。

プナンの人たちの価値観とは、「人々が生き続けて、共同体が存続すること」というきわめてシンプルなもので、それに役立たないものは、儀式も儀礼も観念も物も所有しない。死者への敬意や愛情すらなく、人が死んだら埋めて、さっさと忘れるのがよいとされる。明日も過去もなく、「個人には何の責任もない」とか、「今、生きていること、それだけが重要」って、なんだかラメッシ・バルセカールの教えをみんなで実践しているような民族(笑)である。

もちろん、彼らの価値観も多くある文化的価値観の一つであり、絶対的価値観でもないし、日本のような社会では、「ごめんなさい」、「ありがとう」とういう言葉は、ある種の潤滑油の役割もあると思う。でも、こんなふうに人が生きている社会もあるんだということを知れば、次回人から、「ごめんなさい」、「ありがとう」を言われなくても、「ああ、プナン的か」と思って、あまり腹もたたなくなるかもしれない。


[昨年の発売された本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』
https://www.amazon.com/dp/B0BBBW2L8B/ 

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『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)












The Thunder of Silence(5)2022年12月09日 06時50分14秒

[イベント]

オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
↑上記の会は受付終了しました

2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時


イエス・キリストの教えの中でもっとも重要だとされている山上の垂訓、正直に言えば、私は今でもこのメッセージが苦手だ。

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」、「下着を取られたら、上着も与えよ」、何度読んでも、とうてい今の自分には無理無理無理!と感じる。山上の垂訓は、これはもう、スズメバチの巣を踏んで襲われたとき、「私があなた方の家を壊したのが悪かったのです。どうぞ好きなだけ、私の足を刺してもいいですよ」と微笑みながら言ったラマナ・マハルシのレベルである。

ただ、ジョエル・ゴールドスミスのおかげで、イエス・キリストがこのメッセージにこめた真意は理解できた(と思う)ので、いつかは神の恩寵によって、このメッセージの実践レベルが初級→中級→上級→超上級(イエス・キリストやラマナ・マハルシレベル)へと進化する希望はある。

ジョエル・ゴールドスミス自身も、理解のない未熟な状態で、山上の垂訓を実践してはいけない、と警告している。

そもそも、キリスト教的な「許せ、人を愛せ」という熱いメッセージそのものが私は苦手だ。だからこそ、「――せよ」という道徳的戒律を一切教えに入れない先生である、ダグラス・ハーディングやニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールが好きなのだと思う。

ダグラス・ハーディングは、他者への慈悲や愛情を人為的に育成するワークや修行はどこか不自然なところがあると考えていた。そして、他者への慈悲や愛情は、自分とは何かを見るそのヴィジョンの結果、自然に生まれるものだと強調した。

ラメッシ・バルセカールは、人が他者に慈悲や愛情を示すことができるかどうかは、その人のプログラミングと神の意志にかかっていると考えていたし、ニサルガダッタ・マハラジは自分のサットサンで宗教的戒律や道徳の話題を避けていた。

つまり、彼らの教えと考えは、「慈悲とか愛情とか許しの感情は、湧くときは湧く。湧かないときは、湧かない」、こういったものは、人の意志でコントロールできない、ということである。私にはこういった考えのほうが、自分にははるかになじむ。それにこういう教えのほうが、「自分は慈悲深い人間である」とか、「許すことができる人間である」というようなさらなるプライドをいだかずにすむ気がする。

前回紹介したロバート・アダムスは、どちらかと言えば、愛情と慈悲を積極的に育成することを勧める立場に立っている。その理由は昨年、『ハートの静寂』の紹介のときに説明したように、彼はインド系アドバイタや非二元系の教えにはまっている人たちが、知的理解に満足して、自分の快適さだけに留まる人が多いのを見てきたからだと思う。

彼の言う「慈悲と許しはカルマよりも強力である」はたぶん本当のことだ。だから自分の(悪い)カルマを解消するためにも、できるかぎり許したほうがいいし、慈悲をもったほうがいいのは確かである……そうできるときには。

長い人生の間には、思い出せば、慈悲や許しの感情をもったほうがいい状況で、そういった感情とそれにもとづく行為が、どうしても出てこなかったときがあった。たぶん、それによって悪いカルマがさらに蓄積されたかもしれないが、人はその時々の自分のレベルの「許しや慈悲」を生きるしかないし、「慈悲のない、許しのない自分」を悲しみをもって受容するしかないのだと思う。

それが現在まで「許しや慈悲」に関して、私が到達した理解である。


今回で、ジョエル・ゴールドスミスのThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)(本の実際のタイトルは変更の可能性があります)の紹介を終わりにします。本書は、モーセの教えから始まって、それがイエス・キリストの教えに生まれ変わり、さらにそれがキリスト教の教会の教えになって現代に至るまでの、ユダヤ教・キリスト教の変遷(と堕落)もとてもよく説明されていて、歴史の勉強にもなります。ぜひ多くの皆さんに読んでいただければ、うれしく思います(出版時期、タイトル、価格が決まりましたら改めてお知らせします)。


「存在する唯一の力は、神との意識的融合であり、スピリチュアルなパワーの本質を理解することにあります。私たちがその理解をもつとき、神とともにあるものは多数派になるのです」
                         The Thunder of Silence(はじめに)より



[新刊発売]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

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海外の方は、USアマゾンからもダウンロードできます。
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『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)








The Thunder of Silence(4)2022年12月02日 16時13分44秒

[イベント]

オンライン「非二元の探究―ニサルガダッタ・マハラジの教え」

2022年12月11日(日曜日)午前9時から午前11時 受付終了しました



オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2022年12月15日(木曜日)午後2時から午後4時
2022年12月18日(日曜日)午前9時から午前11時


ジョエル・ゴールドスミスはThe Thunder of Silence(静寂の雷鳴)の中で、「カルマの法則」というタイトルの章だけでなく、あらゆる箇所で折に触れて、新約聖書の言葉、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」ガラテヤ人への手紙6章7)というカルマの法則に触れている。

そして彼は、モーセがヘブライ人たちに与えた「十戒」、ユダヤ教的「カルマの法則」と、イエス・キリストによる「神の愛と恩寵」の教えの違いを歴史的背景も踏まえて、非常にていねいに説明している。

ジョエル・ゴールドスミスがカルマの法則について言っていることをまとめると:

1人間の人生には確かに「カルマの法則」がある。

2「カルマの法則」とは、神が人を罰したり、報酬を与えたりという意味ではなく、善い行為にしろ、悪い行為にしろ、自分がした行為の結果が戻って来るということである。したがって、一部のキリスト教徒たちが信じている「神が人を罰するとか、人に報酬を与える」とか、「神が復讐する」という観念は間違いである。

3「カルマの法則」は、ボールを壁に投げたら、それが自分に向かって戻って来ることに似ている。

4しかし、人は「カルマの法則」を超えて、「神の恩寵」の元に入ることができる。

5「カルマの法則」を超えるためには:
*まず、「カルマの法則」を理解し、遵守すること。
*神(神霊)に目覚めること。
*キリストのメッセージ、山上の垂訓を生きること、つまり、人も自分も許し、何事においても、批判と非難と善悪判断を控えること。

上記の2について、ジョエル・ゴールドスミスの言い方と、たとえば、インド系非二元のアドバイタ、特にラメッシ・バルセカールの表現は多少異なる感じがある。ラメッシは、「カルマの法則」も含めて、「起こることすべては神の意志」であり、それに対して、ジョエル・ゴールドスミスは、段階を踏んでいるというか、人が自分に起こったことに、善悪判断をしているかぎり、それは「カルマの法則」のレベルであり、善悪判断をしなくなれば、それは「神の恩寵」の領域に入る、みたいな感じだ。

ラメッシの言うことも、ジョエル・ゴールドスミスの言うことも、同じところへ行き着くはずであるが、表現はかなり違う印象を与える。このあたりの説明は、ラメッシのように、「すべては神の意志」とシンプルに言うほうがなんかわかりやすいし、起こったことを過去の自分の善い行為にしろ、悪い行為にしろ、結びつけるのも、なんだか面倒だし(笑)……と最近は特にそう思う。そもそもラメッシの教えには、「行為者は存在しない」わけで、だから、許す人も許される人も、許すべき行為すらなく、「許す」という観念すらない。

本日は、これ以上自分の言葉をまとめる気力がわかないので、昨年『ハートの静寂』(ナチュラルスピリット発行)の本が翻訳出版されたロバート・アダムスの別の本、『Karma &Compassion(カルマと慈悲)』から、彼がカルマについて言及していることを紹介してみよう。

[あなたはカルマの犠牲になる必要はありません。あなたの本質はどんなカルマよりも強力です。あなたの本質はこの世界の法則の支配下にはありません。(つまり、カルマは愛の行為によってバランスを取ることができるという意味です)。

あなたの本質は純粋で、それは苦しみの見かけを超越しています。カルマを理解している人が、誰かの苦しみを見るとき、「それは彼らのカルマのせいだ」とは言わないものです。彼らは慈悲をもち、助けます。そこに希望があるのです。カルマよりも強力なものが2つあります。「慈悲と許し」です。

たとえば、誰かが苦しんでいるのをあなたが見るとします。あなたはその人があまり好きではありません。でもその人の苦しみをあなたは見ます。これはすべてそのようにあらかじめ配置され、これはあなたのカルマでもあるのです。あなたはその人が苦しんでいるのを見ます。

あなたは彼らの苦しみを見て、こんなことを言うかもしれません。「私はカルマの法則を理解している。彼に起こったことは、彼が自分で作り出したのだ。私がカルマの法則を理解したことは、何と幸運なことだろうか」。そう言って、あなたはその場面から歩き去ってしまいます。

これはスピリチュアルな探求者の初心者の態度です。あなたは本当には理解していないのです。あなたは自分に起こることにしか関心がありません。だから、歩き去るのです。しかし、ある日、あなたが同じような状況に陥って、苦しんでいても、誰もあなたを気遣ってくれません。誰もあなたを助けてくれません。

おそらくあなたは「それはあなたのカルマだ」と言う宗教や家族の中にいるかもしれませんが、そこには慈悲がありません。そして、どうして誰も自分のことを気遣ってくれないのか、と疑問に思い始めるのです。ついにあなたは「あらゆる人は慈悲に値する」ことを学びます。しかし、このことは人があなたを傷つけることをゆるす、ということを意味しているわけではありません。ただあなたが物事に慈悲深く、優しく対処するという意味です。慈悲はカルマよりも強大です。

あなたはカルマの法則があると理解しています。そして、助けます。あなたは(苦しんでいる人を)助けるために、何ができるか見ます。人の苦しみを和らげるために、あなたはできるかぎりのことを
します。これが神聖であるということです。ここで2つのことが起こりました。あなたは他人のカルマを助け、そして自分自身のカルマも変えたのです]


以上の言葉は、「カルマの法則」から「神の恩寵」へを、ロバート・アダムス流にシンプルに語ったものだと、私はそう理解している。


カルマについて以前書いたブログ


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『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うためにhttps://www.amazon.com/dp/B0BC5192VC/


『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』は、過去10年ほどの間、私が主催している会で、ダグラス・ハーディングの実験、ラメッシ・バルセカール&ニサルガダッタ・マハラジについて話していることをまとめたものです

会にすでに参加されたことがある方には、重複する話がほとんどですが、会で配った資料を体系的に読むことができ、また必要な情報をネット上で即アクセスできる利点があります。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約124,000字――普通の新書版の1冊くらいの分量です)

『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』は、肉体・マインドとは、どういう性質のものなのか、それらとどう付き合ったら快適なのか、それらを理解したうえで、どう人生を生き抜いていくのか、主にスピリチュアルな探求をしている人たち向けに、私の経験を多少織り交ぜて書いています。肉体・マインドは非常に個人差のある道具なので、私の経験の多くは他の人たちにはたぶん役には立たないだろうとは思うのですが、それでも一つか二つでも何かお役に立てることがあればいいかなという希望を込めて書きました。付録に、『シンプル道日々2――2019年~2021年』)を掲載しています。(総文字数 約96,500字)