Master Key to Self-Realization (5)2024年11月05日 10時13分57秒

[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」



*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が
発行されました。詳細はこちらはへ。



(Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)の出版スケジュールは現在、まだ未定です)


Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー) (2)の中でも少し触れたように、ニサルガダッタ・マハラジは晩年の講話で、目に見えない体(ボディ)について語らなかった。先日たまたま読んでいたラメッシ・バルセカールの文章に、その理由が書かれてあった。

それを要約すれば、「マハラジは(Master Key to Self-Realizationの中で説明されている)4つの体を一つの器官と見なし、それらとの一体化が束縛を生み出すとだけ繰り返し、個々の体の詳細にはほとんど立ち入らなかった。ニサルガダッタ・マハラジの帰依者たちの中には、彼にもっとそれらの詳細を語って欲しいと思っていた人たちもいたが、マハラジにはそうするだけの時間と気力がなかった。彼の方法はもっと直接的アプローチであった」(Explorations into the Eternalより)とある。

その直接的アプローチとは、前回説明した下記の中で、肉体から一気に、グレート‐コーザル・ボディを経て絶対へ「上る」(というか、ニサルガダッタ・マハラジの言葉では、「戻る」、ハーディングの言葉では、「落ちる」)アプローチである。

グロス・ボディ(肉体)

サトル・ボディ

コーザル・ボディ

グレート‐コーザル・ボディ

絶対

晩年のマハラジが採用した「直接的なアプローチ」、そしてもっと直接的アプローチである、ダグラス・ハーディングの方法(実験)には、当然のことながら、利点と欠点がある。直接的アプローチは、言葉や議論という横道にそれることなく、「私の本質」に目覚めることを可能にする一方、探求者たちのグロス・ボディ(肉体)、サトル・ボディ、コーザル・ボディに多くの調査されない領域を残す可能性がある。調査されない領域を残す各ボディは不安定ゆえに、日常生活で問題や障害、疑念を生み出しがちである。

直接的アプローチは例えて言えば、ヘリコプターで山の9合目まで連れていってもらい、そこから頂上を目指す感じである。この方法は、むしろ下りのほうが大変で、今度は自力で一歩一歩降りて来なければならない。上る苦労をしない分、下りでは滑ったり、転んだりする。それが今述べた日常生活での問題や障害という話である。

それに対して、本書で、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが提唱する方法は、とにかく一歩一歩、下からすべてのボディをすみからすみまで徹底的に調査する。疑念の余地がないほどの調査をする。この登山方式の欠点をあげれば、探求者が各ボディについての知識を知ることに満足したり、その知識を元に議論に耽溺したりすれば、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが本書で意図したことからまったく外れてしまう。

おそらく、そうした横道にそれないためにも、グル(師)が必要ということになり、このシュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの派では、グルへの献身と帰依、マントラ伝授と瞑想が欠かせない。そして、それらの修行とセットで、本書の学習がある。

しかし、特定のグルや教えに帰依してない人たちでも、ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールの本を読みながら、「私」とは何か? を熱心に探求している人たちには、彼らの本が充分に説明しなかった領域を理解させてくれるという意味で、本書は多いに役に立つだろうと、私はそう希望している。(次回が本書の紹介の最終回です)


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

販売サイト


*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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コメント

_ ハム ― 2024年11月10日 17時05分59秒

「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中にいて妙法を知らず」

ラメッシが本で同じようなことを言っていますが、仏教からの引用だったのですね。

以下のような文章を読みました。

『仏教僧どころか、誰もかれもが真理の真っただ中。
思考で真理を探すという馬鹿げたことをやっていることに気づいていません。

この世界が真理でなければ、真理を感得することができるでしょうか?
全てが真理なので真理を感得できます。
真理を言葉(音)や文字(形)で伝えられるというのが勘違いかもしれませんね。

この世界が真理そのものですから、真理を探す必要なんてありません。
葉が散っても真理、蛙が鳴いても真理、欠伸をしても真理、耳の垢も真理
「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中にいて妙法を知らず」「庭前の柏樹子」「香厳撃竹大悟」』

「この世界が真理そのものですから、真理を探す必要なんてありません。」という言葉で、なんだか、わかった気がしました。
私たちは、無我であり、神や自然、または仏教でいう縁起の法則の一部(またはそのもの)であるのに、悟り(真理)を求めるということは、それから分離しているという自己認識(自分が行為者、探究者であるという認識)を示しており、それが、ラメッシの言う聖なる催眠なのですね。

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