欲望が邪魔2008年09月23日 09時45分40秒

先日、大リーグで8年連続200本安打という大リーグ・タイ記録を作ったあとの、イチロー選手のインタヴューのコメントが、なかなか面白かった。

彼のコメントの中で、特に「欲望が邪魔だった」という言葉と、「170本あたりから、恐れと戦うのが大変だった」という主旨の言葉が、私には印象に残っている。

「欲望が邪魔」と理解しているあたりが、さすがイチロー選手である。

彼は今回のインタヴューの中で、「欲望が邪魔」について説明はしていなかったが、たぶん次のようなことだと思う。

「200本ヒットを打ちたいという欲望」=「200本ヒットを打てないかもしれないという恐れ」

つまり、欲望があるから、恐れが生まれ、恐れが生まれると、体の自然の力・リラックス感が失われ、結果として、ヒットが出にくくなる。だからリラックスして、体に最高のパフォーマンスをさせるために、「200本打ちたい欲望=恐れ」を考えないようにするのが、大変だったということだろう、と私は勝手に解釈した。

最近は、スピリチュル系の本にも、「欲望・願望は、目標達成の最大の障害」という話がたまに書かれているが、それはなかなか、理性には理解がむずかしい。「願望しなくて、どう目標に達成するのか?」と理性は、必ず疑問に思うものだ。

その疑問を解く一つの鍵が、「欲しい」という観念である。実は、「欲しい」という観念の裏側には、「欠乏・不足」があり、「欠乏・不足」しているので、「欲しがる」というわけだ。実際、英単語の「欲しい」を表す「want」という言葉の元々の意味は、「欠乏・不足」という意味でもある。だから、私たちが、「私は――が欲しい」と思うたびに、実際は、「私は――が欠乏している」という状況を強化し続けているのである。

さらには、「want」がありすぎると、実際はたくさんもっているにもかかわらず(先進国に住んでいるほとんとの人が、みな、すでにたくさんもっている)、「欠乏している」という心理状態から解放されず、みじめで不幸なスパイラルに陥るわけである。(10年ほど前のベストセラー「神との対話」という本に、「私は――が欲しい」と思うとき、「――を欲しがる私」が創造されると書かれてあったと確か記憶している)

I want to have 200 hits.(私は200本ヒットを打ちたい=私は200本ヒットを打つことに欠乏している=200本ヒットを打ちたがる私が生まれる)

I want A.(私はAが欲しい=私はAに欠乏している=Aに欠乏している私が生まれる)

そのAを欲しがっているかぎり、私たちは、どんどんAから遠ざかってしまうという奇妙な事態となってしまうようなのである――「欲望=欠乏=恐れ」という方程式は、考えてみるにあたいすることだ。


さてでは、「願望しなくて、どう目標に達成するのか?」といえば、それは目標を欲望する代わりに、目標を達成するために必要だと自分が思うプロセスを、一つひとつくつろいで、ただやるだけのことである。イチロー選手であれば、目の前の打席でいつもと同じ平常心で打席に立つだけであり、私たちであれば、目の前のやるべきことを、一つひとつ、ただこなしていくだけである。

結果を「欲しがらず」に行動・行為すること――それが、人間の理性には最難関のチャレンジなのかもしれない。