神のパワー――唯一の非パワー2011年02月06日 11時43分32秒

いつだったか、書店の店頭で本を眺めていたら、ある本の帯がちらって目に入って、その帯には、「バチカンで悪魔祓い」という文字が印刷されていた。その本は小説ではなく、バチカンの中で行われている各種宗教儀式について書かれたルポルタージュのようであった。

カトリックの総本山バチカンで、悪魔祓い――もし本当にやっているとしたらスゴイことだ。悪魔祓いをやっているとしたら、悪魔の存在とパワーを本当に信じていることになる。

キリストの教えの真髄は、神だけが唯一のリアリティでパワーで、神以外にはパワーもリアリティもないというものである。だから、悪魔祓をしたり、悪魔と戦うことそのものが無意味なのである。なぜなら、それにはパワーもリアリティもないからだ。しかし、もし人間が悪魔祓をしたり、悪魔と戦ったりすれば、その行為そのものが、リアルでなかった悪魔をリアルにし、パワーのなかった悪魔にパワーを与えることになるわけなのである。

その同じ原理が、イエス・キリストの有名な言葉、「悪に抵抗するな」(Resist no evil)にも通じる(ここでいう、「悪」とは、人間が一般的に否定的だと考える現象すべてを指す)。なぜ「悪に抵抗するな」なのかと言えば、抵抗する行為そのものが、悪をリアリティだと認識し、悪にパワーを与えてしまうからである。

抵抗することによって、善なるパワーと悪なるパワーの二元性が生まれ、人はその戦いにエネルギーを消耗してしまうのだ。

20世紀前半に活躍したキリスト教神秘家、Joel・Goldsmith(「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」などのベストセラーで日本でも有名なエックハルト・トールが宣伝していることもあって、最近アメリカではその教えが再び広まりつつあるようだ)は、神と神のパワーについて、(だいたいまとめると)次のように述べている。

* 神とはあらゆるものを在らしめている創造原理で、あらゆる存在の中に、あらゆる瞬間に神はただ「在る」。

* 神とはあらゆるものの中にいる唯一の「私」である。

*神のパワーは、病気、欠乏、敵等、人間が悪だと考えているものに「対抗」したり、それらと戦ったりするパワーではない。それはあらゆるものと対立しない非パワーである。

*神のパワーは、人間の個人的望みをかなえるパワーではないし、人間は神のパワーを使うことはできない。

* 神は、行いのよい人間には報酬を与え、行いの悪い人間には罰を与えるわけではない。

* 神を単に信じたり、神についての知識を知っても無駄である。自分の内部に神の存在を認識したときにだけ、外側に調和として神の創造が現れる。

したがって、伝統的キリスト教徒たちの人たちがよく行う

「私たち(わが国)を祝福してください」
「われらの敵を倒してください」
「私の望みをかなえてください」
「私の問題を解決してください」
「世界が平和になりますように」といった神への嘆願祈願的祈り、あるいは、
「私はこれだけ道徳的で善人だから、頑張っているから、神はその報酬をくださるはずだ」
といった観念は、すべて神の本質を誤解しているもので、実際にほとんど効果がないものだと。

もし人が神に嘆願祈願するとしたら、まず第一に神は自分から離れた遠くのどこかにいる、そしてその神のパワーが今ここでは働いていないか、神がどういうわけか「よそ見」をしているか、怠慢で、今この瞬間に私に与えるべきものを与えていないという意味になる。それはさらに言えば、神への嘆願祈願そのものによって、私たちは神のパワー、神の存在そのものを否定することになるわけである。神が神たるゆえんは、全知・全能・遍在である。あらゆる瞬間にあらゆる場所に神は存在して、すでに最大に働いているのに、自分の個人的望みをかなえるために、神に影響を与えようとしたり、もっと働けと神に命令してはいけないと、Joel・Goldsmithは繰り返して語っている。

神への嘆願・祈願が、神のパワーと存在、神の全知・全能・遍在の否定になる――これは非常に深く考えるべき点だ。嘆願・祈願することで、神以外のパワーのリアリティを認め、ゆえに、人間は善悪の二元ルールの元で生きなければならないのである。

神の王国に入る困難とは、キリスト教徒にかぎらず、人間という種は、抵抗・嘆願動物で――自分にとって気に入らないこと(それが、人間にとってのevil=悪である)に抵抗し、そうでないことを望む習性が身についているからだ――天候から、人間関係、仕事まで、ほっておくと私たちのマインドはいつも抵抗・嘆願・祈願している。また、神社仏閣でも、人々は、いつも未来のことを嘆願・祈願している。

では、人はいつ嘆願・祈願・抵抗をやめるようになるかといえば、それは嘆願・祈願・抵抗しても無駄(笑)で、嘆願・祈願・抵抗すると、かえって人生は複雑で困難になることを理解するときだ。

嘆願・祈願・抵抗をやめるとき、人は神の王国に近づく。それから、あらゆる瞬間を子供のように楽しみ、ときに驚くときも、神の王国に近づく。楽しみ、驚くときは、深刻になったり、心配したり、批判したりするときよりも、神に近い――なぜなら、神は究極の創造原理、自分の遊びを楽しんでいる子供のようなものだからだ――イエス・キリストも言っている。「幼子のようにならなければ、人は神の王国に入ることはできない」と。




コメント

_ るな ― 2011年02月07日 14時27分39秒

「神への嘆願・祈願が、神のパワーと存在、神の全知・全能・遍在の否定になる」という考えは、とても衝撃的でした。私も、クリスチャンではないですが、結構「お祈り」しますので・・。再考の必要ありですね!!

_ 随流去 ― 2011年02月28日 13時05分14秒

この記事は半分賛成、半分反対です。半分賛成とは、Tat tvam ashi が真理であることを受け入れるからです。しかし、ウパーディとしてのジーヴァの立場からすれば、祈りは一つの行為であり、行為は必ず結果を生み出します。問題は祈りの中身です。祈りの内容が自我を助長するものではなく、全体を祈るものであれば、それは拒絶すべきではないし、祈るからモークシャーから遠ざかるというものでもないと考えます。伝統的ヴェーダーンタでは、祈りとは瞑想と同じであると捉えます。すなわち、イーシュワラとともに在る、ということが祈りです。イーシュワラとは、アイアムといっても構いません。全体性のことです。私は確かに全体ですが、しかし、全知ではありません。だからこそ、祈りは意味をもちます。マハリシ、マハラジは瞑想を否定されてはいません。この記事はこのことさえ否定していると誤解を生みかねません。祈り自体を否定するのではなく、祈りの中身こそを問題にすべきではないでしょうか?

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