祈りと許し2011年03月03日 12時22分27秒

前回書いた祈りについて、いくつかコメントをお寄せいただいた。それをふまえて、もう一度祈りについて触れてみたい。

おそらく、何をもって「祈り」というのか、「祈り」の定義がそれぞれなので、色々と誤解が生じるのではないかと思うのである。個人的な嘆願も祈りであり、コメントにも書かれていたように瞑想も祈りであり、他にも願望も祈りであり、許しも祈りであり、非常に広く言えば、結果を生み出そうとする行為すべてが「祈り」と分類できるかもしれない。

たとえば、私はここ数年、肩・腕痛を患っていて、神仏に祈る以外は、あらゆる方法を試してきた。西洋医学、漢方薬、体操、ストレッチ、食事療法、マッサージ、スピリチュアル系のヒーリング等々。それらを試すとき、私は「ストレッチ(食事療法、マッサージ、スピリチュアル系のヒーリング)が、効果があるかもしれない」と思い、効果を願いながら、ストレッチその他を試すわけであるが、そのときの私はおそらく、ストレッチ(食事療法、マッサージ、スピリチュアル系のヒーリング)に祈っているのであろう。

そういう意味では、人は生きて行為するかぎり、祈りを免れないだろうし、だから、自分はどの種類の祈りを好むのか、どの中味の祈りが好きかという個々の人の好みの問題になるのかもしれない。人は、他人が何と言おうとも、個人・全体・人類のための祈りであれ、瞑想であれ、何であれ、自分がやりたいと思うことを、やりたいようにやればいいだけというのが、あらゆることに関して私の基本的考えである――私の現在のお気に入りの祈りは、ストレッチへの祈りだ。

祈りに関していえば、聖者、覚醒者は多くの時間を祈りに捧げていると言われているし、ご紹介したJoel・Goldsmithも、人はたえず祈らなければならないと言っている。彼の提唱する祈りの一つは前回ご紹介したが、もう一つの祈りは「許し」である。

Joel・Goldsmithも含めて、キリスト教系の本には、許しなさい、許しなさい、許しなさい、敵を許しなさい、自分を迫害する者たちを、七度の七十倍(つまり、490回)許しなさいと、しつこいくらいに書かれている。イエス・キリストが磔のさいに言ったとされる、「神よ、この人たちをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのですから」という言葉は、キリスト教の許しの原型であろう。

なぜ許すことは大切なのか? その根源的理由の一つは、あらゆることは、人間的によいと判断されることも、悪いと判断されることも、「神なる私」から生まれるからだ。別の言い方をすれば、あらゆるものが「私」である。それをダグラス・ハーディングは次のように述べている。

「私である第一人称の外側にあって、私に反して働いているどんな運命も要因も、力も存在しない。第三人称としての私に起るもっともイヤな出来事であれ、実際は第一人称としての私の深い意志である。だから、私は人生に言うのだ――はい、これでOKです。そして、これこそ、真実のセラピー(治療法)である」

とはいえ、私たちが知的にそう理解しても、はやり「許しがたい」という感情や思考がときには沸くこともあるので、そのときはワークが必要である。

では、どういうワーク・方法が有効かは、人それぞれであろうが、私自身は以下のシンプルな方法が好みである。

*ダグラス・ハーディングの自分の中心(本質)を見る方法
*バイロン・ケイティの4つの質問
*ラメッシ・バルセカールの「神の意志」
*そして、愚直に許しを祈る方法

最後の方法は、どうしても思考に憑依されて、他人を責める気持ちや自分への罪悪感がかすかにでも残っているときに行う方法である。「〇〇がどんな言動をしたにしろ、自分がどんなに愚かな言動をしたにしろ、〇〇や自分に対して、一瞬でも悪意、意地悪な気持ち、罪悪感、責める気持ちをもったことをお許しください」と、許しを愚直に祈るのである。この場合の祈りの対象は、神仏かもしれないし、相手かもしれないし、自分自身かもしれない。

今はほとんどしなくなったが、以前は、子供の頃から自分が気分を害した他人の言動を全部書き出したり思い出したりして、今いった作業をやったことがある。本気でやると時間がかかるが、とても効果がある。

許すことは、誰かのためではなく、百パーセント自分のためであり、過去の重荷(たとえ一瞬前の重荷でも)を捨て、いつも身軽になって前向きに生きるためのもの、そして「神の王国」で生きる秘訣でもある。





コメント

_ 随流去 ― 2011年03月05日 20時02分00秒

補足記事ありがとうございます。しかし、今回はさらに同意できなくなりました。祈りは「好みの問題」であり、「やりたいようにやればいいだけ」なのでしょうか?祈りを、①スピリチュアルな意味での私に関する祈り、②それ以外の祈り、に分けたとき、覚者が祈っていたのは②のタイプです。①において、「別の私になろう」という祈りは、明らかに間違いです。そうではなく、「ただこのまま在ること」「何者にもなろうとしないこと」、そのような意識さえもたないことが大切であり、祈りを好みの問題といってしまっては、前の記事とも矛盾します。マハラジやラメッシのメッセージも、要するに、「ただそのままで在りなさい」ということであり、いまと違った自分になろうとしてはいけないということではなかったのではないでしょうか?しかし、「仕事がうまくいきますように」という祈りは、仕事とは私ではないし、私の行いでもない、というセンスが確立されていれば、そしてそれがダルマにかなったものであるならば、何ら問題はないと思います。だから祈りの内容こそを問うべきであり、祈りについて肯定したり否定したり、どちらでもよい、と結論づけるのは、非常にミスリーディングであると思われますが、いかがでしょうか?

_ あだち ― 2011年05月26日 19時43分00秒

失礼します。

 がんや病気というのは、この生体内の力のバランスが崩れ、
 がんやウィルスの方に力が傾いた時に発症します。 これらは
 「からだの免疫」とよばれるものです。

  これに対し「こころの免疫」があなたの体内に刻み込まれてい
 ます。「思い煩い」を喜びにかえてくれる「免疫機構」です。一刻
 も早くその「存在」に気づき「採り入れる」ことです。

  悲しみを喜びに・絶望を希望に打ち変えてくれる「メッセージ」
 をどうぞ―――

      こころを強くする「メッセージ」のご案内
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