賢者たちの考え方と表現の違い2024年05月01日 09時44分54秒

[イベント】
◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで

場所:東京都新宿


◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで


◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる

2024年5月19日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで


[お知らせ]

*Youtube新シリーズ 猿笑(さるわらい)非二元講座」

*『ハートの静寂』(ロバート・アダムス著 ナチュラルスピリット発行)電子書籍版が

発行されました。詳細はこちらはへ。



先日、ニサルガダッタ・マハラジなどのインド系の賢者と、トニー・パーソンズの教えの違いについてのご質問をいただいた。

私の理解によれば、それが真正の非二元系(ノンデュアル、アドヴァイタ)の教えであれば、古代のイエス・キリスト、仏陀から、現在の様々な賢者たちにいたるまで、本質的には、皆さん同じ真理を教えているはずである――「すべては一つであり、本質的には分離がない」

しかし、たとえば、愛を強調する新約聖書と空(くう)を強調する般若心経を読んで、両方が同じことを言っていると理解するのは、けっこう大変なことだと思う。あまりに言葉の表現が違うからだ。

そして、その言葉の表現が違い、それを様々な人たちが解釈するゆえに、時代を経るにつれて、いわゆるそれぞれの宗教はお互いに相い入れないまったく別の物となり、平和を説く宗教が皮肉にも、いつの時代でも戦争の種となっている。

私たちが現代の非二元系の賢者たちの言葉を読むときも、表面的な表現の違いではなく、彼らが共通して伝えようとしていることの本質を理解する必要がある。そして、彼らが説いている真理の本質は同じであっても、では、その真理をどうやって理解するのか(認識するのか)に関する方法論については、かなり異なっている。真理に至る方法論をすべて否定する賢者から、瞑想、グルへの帰依を強調する賢者から、またハーディングのようにグル‐弟子関係を無価値なものとして否定して、一人で手軽にできる実験を開発した賢者もいる。

彼らの言葉や考え方が多様なのは、彼ら自身の生まれつきの気質、育った環境、文化・時代、そして彼らが話しかけた人々が異なるからである。そして、そういった賢者の言葉を聴いたり、読んだりする人たちの気質、育った環境・文化も様々である。現在では、世界各国のあらゆる教えを読んだり聴いたりできるという状況にはあるが、最終的には、自分と相性のよい少数の賢者(本や言葉)を選ぶというのが、賢明なことだと思う。

それと少し話が横道にそれるが、有名な賢者の皆さんは、お互いをほとんど認めないことがよくある(笑)。私が若い頃、J.クリシュナムルティとオショー(ラジニーシ)の間の相互批判は、オショーの弟子たちとJ.クリシュナムルティの信仰者を巻き込んで、けっこうな騒動であったし、J.クリシュナムルティともう一人の有名な賢者、U.G. クリシュナムルティの間の確執も、インド系スピリチュアル業界では有名な話だった。

ダグラス・ハーディングにも、J.クリシュナムルティの教えを批判的に書いたエッセイがあり、また彼が、U.G. クリシュナムルティやラメッシ・バルセカールの教えに関して否定的なコメントをしているのを、私は読んだことがある。

つまり、有名な賢者の皆さんも、物事への好き嫌いがけっこうあったり、教えに関して頑固だったり、文化的時代的偏見だってもっている。私が非二元系の賢者の本を読むときは、彼らの個人的好き嫌い、時代的文化的偏見は、重要じゃないものとして、基本的に無視(笑)して読んでいる。

最後に、読者の皆さんには、非二元系の翻訳本をたくさん買っていただいて、改めてお礼を申し上げます。もしたくさん読みすぎて混乱している方がいれば、先ほども書いたように、相性のよいものを少数選んで、繰り返し読むことをお勧めします(その他の本は古本に出してもいいし、本棚に余裕があれば、いつか読むためにとっておいてもいいかもしれない)。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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顔がなかった子供(小学生)時代2024年05月14日 08時58分22秒

[イベント]

◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」

2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで



ダグラス・ハーディングは、人間が、世界と自分をどのように認識するかを、次の4段階に要約している。

第1 段階(幼年期)赤ん坊は世界と同じくらい広がっている。
第2段階(子供時代)自分の顔と空間の両方をもつ。
第3 段階(大人時代)完全に顔と一体化し、顔で空間をふさぐ。
第4段階(自分の本質に目覚める)他人から一人の人間として見られていることを知りつつ、目覚めた空間であることに気づく。



ここ数年、自分の人生で上記の第2段階(概ね小学生時代)と、第3段階へ移行した時期を明確に思い出している。

第2段階であった子供(小学生)時代の一番楽しい、感情的に盛り上がった思い出は、親戚の子供たち(昭和の時代は、子供が多かった)と一緒に遊んだことだった。夏休みや冬休みに、お互いの家を行き来し、海水浴にみんなで行ったり、セミやトンボを捕まえに行ったりとか、公園で鬼ごっことか、トランプ、花札、ボードゲームをみんなでやって盛り上がった。

そういった時間がなぜあんなに楽しかったかと言えば、そこに「自意識」がなかったからだ。つまり、そういうとき、私たちは自分の顔で世界をふさいでいないので、明確に世界が見えていて、ただ在るのは、場面の中に他の子供たちや大人たち、そして向こうに見ているものに対する自分の思考や感情だけだった。

もちろん、その感情の中にはときには、悲しみや怒りも不快感もあったが、「私が怒っている」とか、「私が悲しんでいる」ではなく、ただ「悲しい」、ただ「怒っている」、ただ「苦痛」、あるいは、「うれしい」、「楽しい」、「(ゲームに勝って)ヤッター」みたいな感じだった。中心に顔がないので、感情や思考は瞬間瞬間、流れては去っていくだけで、重く蓄積したりはしなかった。

そういった楽しい時代が終わりを告げるのは、中学生になり、他者からの評価が重要になり、そして、決定的に自分の顔で世界をふさいだのは、中学3年生の受験期になり、将来を考え始めたときだ。そのとき、ハーディングの上記の第3段階に入ったのだ。そのときから、もう目の前の世界はほとんど見えなくなり、関心は自分の将来と自分のことだけ、そして、それにまつわる圧倒的感情は「不安と恐れ」だった。「今、ここにいる」ことがまったくなくなり、関心はいつも、「いつかそこ」になってしまった。その第3段階の暗黒時代には、心から楽しかったという記憶がほとんどない。

そういった暗黒時代の10年目くらいに、たまたまの偶然からスピリチュアルに入門し、ようやく一筋の光が見えた感じだった。スピリチュアルを突き進んでいけば、いつかこの暗黒の壁を全部壊すことができるのではないかという希望が湧いた。最終的に、ハーディング、その他の非二元系の教えにたどり着き、ありがたいことに壁が全部崩壊し、ハーディングの言う上記の4段階を認識できるようになった。

そして、今また子供時代のような無邪気な感性が戻っている。自意識なく(=世界を自分の顔でふさがないこと=中心に人間の顔を置かないこと)世界を眺めれば、誰だって愛しいし、可笑しい。先日は、数十年ぶりに、親戚の家へ遊びに行き、数時間、なつかしい昔話に花を咲かせた。子供の頃の思い出、昭和の思い出、そんなたわいもない話をしているときは、みんなまた子供になっている。顔のない空間になって、昭和ノスタルジーを楽しんだひと時だった。


[昨年出版された本]

*ジョエル・ゴールドスミス著『静寂の雷鳴』

本体価格:2,380円+税
本文ページ数:333ページ
発行:ナチュラルスピリット



[その他の本]

『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)

目次の詳細は下記へ。

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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)


目次の詳細は下記へ

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