顔がなかった子供(小学生)時代 ― 2024年05月14日 08時58分22秒
ダグラス・ハーディングは、人間が、世界と自分をどのように認識するかを、次の4段階に要約している。
第1 段階(幼年期)赤ん坊は世界と同じくらい広がっている。
第2段階(子供時代)自分の顔と空間の両方をもつ。
第3 段階(大人時代)完全に顔と一体化し、顔で空間をふさぐ。
第4段階(自分の本質に目覚める)他人から一人の人間として見られていることを知りつつ、目覚めた空間であることに気づく。
第2段階(子供時代)自分の顔と空間の両方をもつ。
第3 段階(大人時代)完全に顔と一体化し、顔で空間をふさぐ。
第4段階(自分の本質に目覚める)他人から一人の人間として見られていることを知りつつ、目覚めた空間であることに気づく。
ここ数年、自分の人生で上記の第2段階(概ね小学生時代)と、第3段階へ移行した時期を明確に思い出している。
第2段階であった子供(小学生)時代の一番楽しい、感情的に盛り上がった思い出は、親戚の子供たち(昭和の時代は、子供が多かった)と一緒に遊んだことだった。夏休みや冬休みに、お互いの家を行き来し、海水浴にみんなで行ったり、セミやトンボを捕まえに行ったりとか、公園で鬼ごっことか、トランプ、花札、ボードゲームをみんなでやって盛り上がった。
そういった時間がなぜあんなに楽しかったかと言えば、そこに「自意識」がなかったからだ。つまり、そういうとき、私たちは自分の顔で世界をふさいでいないので、明確に世界が見えていて、ただ在るのは、場面の中に他の子供たちや大人たち、そして向こうに見ているものに対する自分の思考や感情だけだった。
もちろん、その感情の中にはときには、悲しみや怒りも不快感もあったが、「私が怒っている」とか、「私が悲しんでいる」ではなく、ただ「悲しい」、ただ「怒っている」、ただ「苦痛」、あるいは、「うれしい」、「楽しい」、「(ゲームに勝って)ヤッター」みたいな感じだった。中心に顔がないので、感情や思考は瞬間瞬間、流れては去っていくだけで、重く蓄積したりはしなかった。
そういった楽しい時代が終わりを告げるのは、中学生になり、他者からの評価が重要になり、そして、決定的に自分の顔で世界をふさいだのは、中学3年生の受験期になり、将来を考え始めたときだ。そのとき、ハーディングの上記の第3段階に入ったのだ。そのときから、もう目の前の世界はほとんど見えなくなり、関心は自分の将来と自分のことだけ、そして、それにまつわる圧倒的感情は「不安と恐れ」だった。「今、ここにいる」ことがまったくなくなり、関心はいつも、「いつかそこ」になってしまった。その第3段階の暗黒時代には、心から楽しかったという記憶がほとんどない。
そういった暗黒時代の10年目くらいに、たまたまの偶然からスピリチュアルに入門し、ようやく一筋の光が見えた感じだった。スピリチュアルを突き進んでいけば、いつかこの暗黒の壁を全部壊すことができるのではないかという希望が湧いた。最終的に、ハーディング、その他の非二元系の教えにたどり着き、ありがたいことに壁が全部崩壊し、ハーディングの言う上記の4段階を認識できるようになった。
そして、今また子供時代のような無邪気な感性が戻っている。自意識なく(=世界を自分の顔でふさがないこと=中心に人間の顔を置かないこと)世界を眺めれば、誰だって愛しいし、可笑しい。先日は、数十年ぶりに、親戚の家へ遊びに行き、数時間、なつかしい昔話に花を咲かせた。子供の頃の思い出、昭和の思い出、そんなたわいもない話をしているときは、みんなまた子供になっている。顔のない空間になって、昭和ノスタルジーを楽しんだひと時だった。
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