物事の容器であること2011年05月25日 07時45分53秒

人生の状況が非常に辛い人の話を(直接的間接的に)聴くことがある。そういった人の話を聴いているとき、私の中にも辛い感情が流れてくる。人間マシンとしては、ある種の感情的同調が起こるのは仕方のないことであるのだ。それにもかかわらず、「私の本質」は、状況や自分や相手の否定的感情に絶対的に影響を受けないという認識は、平和である。

3月、4月、地震関連の映像を見ていたときも、私の中に、圧倒的な哀しみ、無力感、その他否定的な感情が流れてきた。涙さえよく流れたものだ。普段私は決して感傷的ではないし、人間マシンとしてはどちらかといえば、かなりドライなほうだと思っている。だから、映像を見て涙がでると、自分でも本当に驚いてしまうのだ。

永遠に平和である「私の本質」を簡単に見る方法を教えてくれたダグラス・ハーディングこう言っている。「私たちの本質は、物事の容器、受容能力である」と。言ってしまえば、私たちの本質は、自分が見るあらゆる風景、認識するあらゆる感情、思考、感覚の容器であるということである。

さらにダグラス・ハーディングはこうも言っている。
「あらゆる物事は、第一人称の私(私の本質)から出てくる――現象的には第三人称の私(人間としての自分)にとってもっともイヤな出来事でさえも――第一人称の私(私の本質)の意志である」

「私の本質の意志」、それを言い換えれば、「神の意志」ということである。

さて、先日、「非常に辛い状況にいる人に対して、すべては神の意志だと言えるのですか?」というご質問をいただいた。

「非常に辛い状況にいる人に何と言うのか」――本当は人とのコミュニケーションにおいてはどんな公式もなく、その瞬間にならなければ、何を言うのか、どう行動するのかなど、誰にもわからないものである。経験から言えば、人とのコミュニケーションにおいて、「すべては神の意志」というその言葉の真意とヒーリングが通じる場面はあまりない。あるいは、「問題はあなたの心にある」と言っても、何の慰めにも、ヒーリングにもならないことがほとんどである。批判も判断もせず(批判や判断が起こるときは、それも眺めながら)、ただ平和に黙って相手の話を聴くのがベストなことが多い。

人間(マシン)の人生は、誰にとっても辛い(ことが多々ある)――仏陀は、2千5百年前にそう洞察した。しかし、同時に仏陀はどこにその究極のヒーリングがあるのかも明言した――それが般若心経のあの有名な、色不異空 空不異色、色即是空 空即是色の言葉にこめられている――数十年前この言葉からスピリチュアルな探求を始めた私は、一回りしてまたここに戻ってきている。

[イベント]

2011 年5月29日(日)午後
「私とは本当に何かを見る会」 
(東京)詳細は下記のサイトへ。
予約終了しました。

*「頭がない方法」サイト
http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/event/event.html

または

*「シンプル堂」サイト
http://www.simple-dou.com/CCP006.html


*「私たちの本質を見る実験の動画」(日本語字幕つき)
http://www.youtube.com/user/FacelessJapanFilms